2011,11,05, Saturday
「……分かっていましたが、多分風邪ですね」
冷たい視線とともに呟いた一回りも年下の少女に、タカ丸は気圧されるように首を竦めた。もはや、どうして家にいるとは問わない。――それもそのはず、店を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちたタカ丸を抱き留め、閉店作業をほかのスタッフに任せ、熱と眩暈で立ち上がれないタカ丸を支えてこの家まで連れてきてくれたのは彼女なのだから。その細い体躯のどこにそんな力があるのか、と思うほど安定した力でタカ丸を支えながらこの家までやってきた兵子は、タカ丸に手洗いうがいだけきっちりさせると、上着とベルトだけを剥いでベッドへと彼を突っ込んだ。
テーブルの上に放ったらかしの薬に顔をしかめた彼女は、明らかに何かを言いたげな様子でタカ丸をねめつける。タカ丸はそれに何か言い訳しようと口を開いたが、声よりも先に咳が飛び出したせいで尚更兵子に睨みつけられた。
「保険証、どこですか?」
「財布のなか、だけど……病院、もうやってないでしょう?」
「夜間診療の病院があるはずです。調べますから、病院に行く準備をしてください」
普段は人前でいじることのない携帯を取り出しながら、兵子はタカ丸に吐き捨てる。珍しく彼の前で苛々した様子を見せる兵子に、タカ丸は瞬きをしたあとに口を開いた。
「大丈夫だよ、薬飲んで寝たら治るって……明日は仕事の途中でちゃんと病院に行くから」
「自分ひとりで立ち上がれないほど重症なのに、一晩寝ただけで治るわけないでしょう。第一、貴方の頼りにしている当の薬だって、もはや咳止め程度にしかなっていないようですが」
半分は優しさで出来ている、というお馴染みのフレーズの市販薬は、兵子の威圧感からか、急に存在を萎れさせる。今朝までは実に頼りがいのありそうだった佇まいは、もはや風前の灯のような頼りなさだ。それにタカ丸が眉を下げると、溜息をついた兵子が少しばかり穏やかな調子で口を開いた。
「……風邪を甘く見てはいけません。こじらせれば死ぬことだって充分あるんです。ましてや、風邪に似た症状の別の病気だったらどうするんですか? そういうのをちゃんと調べてもらうために病院に行くんですよ」
兵子の言葉は端々に不安が覗いている。それに彼が考えを巡らせるより早く、彼女がタカ丸を強い視線で射抜いた。
「病院見つかりましたから、タクシー呼びますよ」
「あ、じゃあ兵子ちゃんはそろそろ」
帰って、という言葉は、彼女の怒りに満ちた視線で止められる。むしろその視線で症状が悪化しそうだ。思わず再び布団に顔を隠すと、兵子は小さく溜息をついた。
「そんな状態でひとりで出歩けるわけないでしょう」
「だけど、もう遅いし。早く帰らないと終電が」
「そんなことはどうでもいいんです。どっちにしろ今晩貴方の看病をする人間が必要でしょう。それにいざとなれば野宿だってできますから」
「なっ……! だから、そういうこと言わな――ゲホッゴホッ」
妙齢の女性にあるまじき発言を咎めようとしたタカ丸であるが、その言葉は込み上げてきた咳によって阻まれる。さらに飛び出す咳に背中を丸めると、温かい手がその背中をさすった。
「ほら、そんなに咳をして。水分取って大人しくしていてください」
「誰のせいでむせたと……」
しかし、その呟きに兵子が応えることはない。彼女は常と同じテキパキとした様子でタクシーの手配をすると、水を入れたコップをタカ丸へと運んできた。そのままタカ丸の寝ているベッドに腰を下ろした兵子であるが、その様子は常にもまして大人しい。顔色もよく見れば冴えなく、タカ丸は自分の風邪を感染したかと少しばかり不安になったが、ベッドに置かれた拳が真っ白になるほど握られているのを見て、彼は少しだけ目を眇めた。
(――これは、恐怖だ)
普段はどんなに怖いものを見ても怯える様子など欠片たりとも見せない少女が、なぜか今、こうして怯えている。それにタカ丸が疑問を覚えて拳から流れるように視線を彼女の顔へと移動させると、少女はひどく張り詰めた表情で真っ直ぐ何もない空間を見つめていた。噛みしめられた唇が白くなっている。ああ、それでは噛みきってしまう、とタカ丸が思わず彼女の拳に手を触れると、弾かれたように兵子が彼を振り返った。
「どうしましたか? 水分を取りますか? それとも汗を掻いた?」
「違うよ……」
先程の感情をすぐに隠して己へと向き直る少女に、タカ丸はそれ以上何も言えなかった。――先程垣間見えた表情が嘘のように、今の彼女はいつもどおりなのだ。まるで先程の表情が自分こそが不安だったから見えたような気すらしてくる。けれど、タカ丸に触れられた手はひどく冷たく、それが兵子の緊張を伝えていた。
「――タクシー、そろそろ来る時間ですね。タカ丸さん、辛いでしょうが起きて支度してください。外で待ちましょう」
「うん……」
何かを言おうと思うものの、何を言って良いのかも分からずにタカ丸は兵子に促されるままベッドから立ち上がる。眩暈と熱でふらつく身体を持て余せば、タカ丸の上着を持ってきた兵子が彼にそれを着せながらその身体を支えてくれた。その力強さはいつもと全く変わらないのに、兵子の身体はどこか小さい。自分よりも一回りも下の少女を小さいと思うことなど当たり前のはずなのだが、その細い体躯から感じられる不安にタカ丸は思わず腕を伸ばしていた。
「――大丈夫、俺本当に大したことないんだよ。だからね、心配しないで」
「そんな風に熱でふらふらしている人の言うことなど信用できません。……ほら、行きましょう」
抱きしめた少女はタカ丸の言葉に大きく身体を震わせたが、それがどんな感情から来るものかタカ丸には分からなかった。けれど、先程より少しばかり柔らかくなった兵子の雰囲気にタカ丸は内心で胸を撫で下ろし、己を促す少女の手が少しだけ温かくなっていることに少しだけ微笑んだ。
「病院へはひとりで行けるから、兵子ちゃんはもうお家へ帰りなさい。――毎度毎度、こんな風に遅かったんじゃお母さんもお父さんも心配するでしょう」
「母はタカ丸さんのところにいると知っているから大丈夫です。父は単身赴任でいないですし」
「明日も学校でしょう」
「少し夜更かししたくらいでは大した影響もありません」
しかし、安堵したのも束の間、彼女はやはり頑固だった。もう十七の女の子が出歩くには宜しくない時間帯であるのに、彼女はタカ丸の言うことに一向に頷くことはない。それにタカ丸が思わず溜息をつくと、兵子は少しだけタカ丸の上着を強く握って、小さく小さく呟いた。
「――病院の診察をちゃんと受けて、ただの風邪だって分かったら帰りますから」
「さすがにここまでされて逃げないよ……俺どこまで信用ないの」
「そうじゃなくて……」
何かを言いかけた兵子であるが、マンションのエントランスまで出たところでタクシーが待機しているのに気づき、それ以上の言葉を発することはなかった。タカ丸を支えてタクシーへと近寄り、運転手と二、三話をしてから開いたドアにタカ丸を押し込む。その隣に自分も乗り込んだところで彼女は運転手に行き先を告げ、車を発進させた。動き出した車の振動が身体に響き、少しだけ辛い。それに気づいたのか、兵子がタカ丸の身体を己へと寄りかからせた。
「一番楽な姿勢取ってください。病院まで少しかかりますから」
「うー……ごめん」
さすがにもう見栄を張ることもできず、タカ丸はその細い身体に身を寄せる。膝枕をされるような形になったタカ丸の手を、兵子の手が握った。先程よりもずっと温かくなったそれを思わず握り返すと、優しく宥めるようにタカ丸の頭が撫でられる。自分は一回りも年上なのに、と思いながらも、タカ丸はまるで子どもにするようなその行為の優しさに引き込まれるように、まどろみのなかに身を委ねたのだった。――その頭の隅で考えるのは、今自分を支えている少女のこと。たった十七の、最近まで見ず知らずの少女がここまで自分に入れ込む理由と、そしてあまりにも歳にそぐわぬ態度や知識をタカ丸は不思議に思う。けれど、その考えはすぐにまどろみのなかに消え、タカ丸は傍らの心地よい温もりに己の身を預けたのだった。
冷たい視線とともに呟いた一回りも年下の少女に、タカ丸は気圧されるように首を竦めた。もはや、どうして家にいるとは問わない。――それもそのはず、店を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちたタカ丸を抱き留め、閉店作業をほかのスタッフに任せ、熱と眩暈で立ち上がれないタカ丸を支えてこの家まで連れてきてくれたのは彼女なのだから。その細い体躯のどこにそんな力があるのか、と思うほど安定した力でタカ丸を支えながらこの家までやってきた兵子は、タカ丸に手洗いうがいだけきっちりさせると、上着とベルトだけを剥いでベッドへと彼を突っ込んだ。
テーブルの上に放ったらかしの薬に顔をしかめた彼女は、明らかに何かを言いたげな様子でタカ丸をねめつける。タカ丸はそれに何か言い訳しようと口を開いたが、声よりも先に咳が飛び出したせいで尚更兵子に睨みつけられた。
「保険証、どこですか?」
「財布のなか、だけど……病院、もうやってないでしょう?」
「夜間診療の病院があるはずです。調べますから、病院に行く準備をしてください」
普段は人前でいじることのない携帯を取り出しながら、兵子はタカ丸に吐き捨てる。珍しく彼の前で苛々した様子を見せる兵子に、タカ丸は瞬きをしたあとに口を開いた。
「大丈夫だよ、薬飲んで寝たら治るって……明日は仕事の途中でちゃんと病院に行くから」
「自分ひとりで立ち上がれないほど重症なのに、一晩寝ただけで治るわけないでしょう。第一、貴方の頼りにしている当の薬だって、もはや咳止め程度にしかなっていないようですが」
半分は優しさで出来ている、というお馴染みのフレーズの市販薬は、兵子の威圧感からか、急に存在を萎れさせる。今朝までは実に頼りがいのありそうだった佇まいは、もはや風前の灯のような頼りなさだ。それにタカ丸が眉を下げると、溜息をついた兵子が少しばかり穏やかな調子で口を開いた。
「……風邪を甘く見てはいけません。こじらせれば死ぬことだって充分あるんです。ましてや、風邪に似た症状の別の病気だったらどうするんですか? そういうのをちゃんと調べてもらうために病院に行くんですよ」
兵子の言葉は端々に不安が覗いている。それに彼が考えを巡らせるより早く、彼女がタカ丸を強い視線で射抜いた。
「病院見つかりましたから、タクシー呼びますよ」
「あ、じゃあ兵子ちゃんはそろそろ」
帰って、という言葉は、彼女の怒りに満ちた視線で止められる。むしろその視線で症状が悪化しそうだ。思わず再び布団に顔を隠すと、兵子は小さく溜息をついた。
「そんな状態でひとりで出歩けるわけないでしょう」
「だけど、もう遅いし。早く帰らないと終電が」
「そんなことはどうでもいいんです。どっちにしろ今晩貴方の看病をする人間が必要でしょう。それにいざとなれば野宿だってできますから」
「なっ……! だから、そういうこと言わな――ゲホッゴホッ」
妙齢の女性にあるまじき発言を咎めようとしたタカ丸であるが、その言葉は込み上げてきた咳によって阻まれる。さらに飛び出す咳に背中を丸めると、温かい手がその背中をさすった。
「ほら、そんなに咳をして。水分取って大人しくしていてください」
「誰のせいでむせたと……」
しかし、その呟きに兵子が応えることはない。彼女は常と同じテキパキとした様子でタクシーの手配をすると、水を入れたコップをタカ丸へと運んできた。そのままタカ丸の寝ているベッドに腰を下ろした兵子であるが、その様子は常にもまして大人しい。顔色もよく見れば冴えなく、タカ丸は自分の風邪を感染したかと少しばかり不安になったが、ベッドに置かれた拳が真っ白になるほど握られているのを見て、彼は少しだけ目を眇めた。
(――これは、恐怖だ)
普段はどんなに怖いものを見ても怯える様子など欠片たりとも見せない少女が、なぜか今、こうして怯えている。それにタカ丸が疑問を覚えて拳から流れるように視線を彼女の顔へと移動させると、少女はひどく張り詰めた表情で真っ直ぐ何もない空間を見つめていた。噛みしめられた唇が白くなっている。ああ、それでは噛みきってしまう、とタカ丸が思わず彼女の拳に手を触れると、弾かれたように兵子が彼を振り返った。
「どうしましたか? 水分を取りますか? それとも汗を掻いた?」
「違うよ……」
先程の感情をすぐに隠して己へと向き直る少女に、タカ丸はそれ以上何も言えなかった。――先程垣間見えた表情が嘘のように、今の彼女はいつもどおりなのだ。まるで先程の表情が自分こそが不安だったから見えたような気すらしてくる。けれど、タカ丸に触れられた手はひどく冷たく、それが兵子の緊張を伝えていた。
「――タクシー、そろそろ来る時間ですね。タカ丸さん、辛いでしょうが起きて支度してください。外で待ちましょう」
「うん……」
何かを言おうと思うものの、何を言って良いのかも分からずにタカ丸は兵子に促されるままベッドから立ち上がる。眩暈と熱でふらつく身体を持て余せば、タカ丸の上着を持ってきた兵子が彼にそれを着せながらその身体を支えてくれた。その力強さはいつもと全く変わらないのに、兵子の身体はどこか小さい。自分よりも一回りも下の少女を小さいと思うことなど当たり前のはずなのだが、その細い体躯から感じられる不安にタカ丸は思わず腕を伸ばしていた。
「――大丈夫、俺本当に大したことないんだよ。だからね、心配しないで」
「そんな風に熱でふらふらしている人の言うことなど信用できません。……ほら、行きましょう」
抱きしめた少女はタカ丸の言葉に大きく身体を震わせたが、それがどんな感情から来るものかタカ丸には分からなかった。けれど、先程より少しばかり柔らかくなった兵子の雰囲気にタカ丸は内心で胸を撫で下ろし、己を促す少女の手が少しだけ温かくなっていることに少しだけ微笑んだ。
「病院へはひとりで行けるから、兵子ちゃんはもうお家へ帰りなさい。――毎度毎度、こんな風に遅かったんじゃお母さんもお父さんも心配するでしょう」
「母はタカ丸さんのところにいると知っているから大丈夫です。父は単身赴任でいないですし」
「明日も学校でしょう」
「少し夜更かししたくらいでは大した影響もありません」
しかし、安堵したのも束の間、彼女はやはり頑固だった。もう十七の女の子が出歩くには宜しくない時間帯であるのに、彼女はタカ丸の言うことに一向に頷くことはない。それにタカ丸が思わず溜息をつくと、兵子は少しだけタカ丸の上着を強く握って、小さく小さく呟いた。
「――病院の診察をちゃんと受けて、ただの風邪だって分かったら帰りますから」
「さすがにここまでされて逃げないよ……俺どこまで信用ないの」
「そうじゃなくて……」
何かを言いかけた兵子であるが、マンションのエントランスまで出たところでタクシーが待機しているのに気づき、それ以上の言葉を発することはなかった。タカ丸を支えてタクシーへと近寄り、運転手と二、三話をしてから開いたドアにタカ丸を押し込む。その隣に自分も乗り込んだところで彼女は運転手に行き先を告げ、車を発進させた。動き出した車の振動が身体に響き、少しだけ辛い。それに気づいたのか、兵子がタカ丸の身体を己へと寄りかからせた。
「一番楽な姿勢取ってください。病院まで少しかかりますから」
「うー……ごめん」
さすがにもう見栄を張ることもできず、タカ丸はその細い身体に身を寄せる。膝枕をされるような形になったタカ丸の手を、兵子の手が握った。先程よりもずっと温かくなったそれを思わず握り返すと、優しく宥めるようにタカ丸の頭が撫でられる。自分は一回りも年上なのに、と思いながらも、タカ丸はまるで子どもにするようなその行為の優しさに引き込まれるように、まどろみのなかに身を委ねたのだった。――その頭の隅で考えるのは、今自分を支えている少女のこと。たった十七の、最近まで見ず知らずの少女がここまで自分に入れ込む理由と、そしてあまりにも歳にそぐわぬ態度や知識をタカ丸は不思議に思う。けれど、その考えはすぐにまどろみのなかに消え、タカ丸は傍らの心地よい温もりに己の身を預けたのだった。
| SS::1000のお題集 | 13:11 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,17, Monday
口を挟む隙がない、というのはこういう状況をいうのだろうか、と四郎兵衛は頭のなかで考える。かれこれ四半刻は喋りつづけているだろう先輩に、彼は呆れとも感動ともつかぬ感情を覚えていた。
普段ならこの長口上を遮るはずのほかの体育委員はいない。それもそのはず、滝夜叉丸と四郎兵衛は先程から木陰で伸びている金吾のお守りとして残ったのだから。――では、残りの小平太と三之助はといえば、三之助は相変わらずの方向音痴を発揮して行方不明、小平太はそんな三之助を探して獣道を走り去っていった。
(でも、なぜ七松先輩は滝夜叉丸先輩を置いていったんだろう……)
普段ならば、金吾の世話は四郎兵衛に任せ、二人で三之助を探しに行くはずだ。しかし、今日は滝夜叉丸をこの場に残し、小平太ひとりが三之助捜索に出向いている。
(……一緒に連れていってくれたら良かったのに)
そろそろ滝夜叉丸の自慢話も聞き飽きて、四郎兵衛はげんなりと肩を落とした。そんな彼の様子には気づかぬまま、滝夜叉丸はなおも口を動かしつづける。しかし、そんな彼の雰囲気が一瞬だけ変化した。肌にピリッとした感覚が走り、四郎兵衛は周囲を見回そうとしたが、それは滝夜叉丸の手によって阻まれた。
「……というわけで、わたしは美しく、才長け、素晴らしいのだ! 分かったか、四郎兵衛?」
「いえ、あの……」
頭をがっちり固定されては、問いに答えることすらできない。けれど、傍に寄せられた滝夜叉丸の視線が何かを伝えていた。
「しかし、七松先輩はお戻りにならんな……仕方がない、先に下山するか! 四郎兵衛、準備しろ。金吾は私がおぶっていく」
「良いんですか、勝手に降りて」
四郎兵衛の問いに滝夜叉丸は呵々と笑ったあとにぐだぐだとまた話を始めた。しかし、その間にチラチラと投げられる視線に四郎兵衛はこくりと頷いた。まだぐだぐだと話しつづける滝夜叉丸の背に金吾を乗せ、襷で彼の身体を固定する手伝いをする。その間も絶えることのない話には辟易したが、とにもかくにも彼らは下山を開始したのであった。
金吾を背に負った滝夜叉丸のあとに続くが、背後が気になる。何度も視線を向けたいと思ったが、それは己の前を走る滝夜叉丸からのピリピリとした気配で止められる。仕方なく滝夜叉丸の背をじっと見つめてしばらく駆けると、突如横の薮からがさがさと音がした。すわ獣かと身構えたが、そこから顔を出したのは先程別れた体育委員長、七松小平太である。驚いて息を飲んだ四郎兵衛とは対照的に滝夜叉丸は呆れた表情で薮から出てくる小平太を見遣った。その腕にはうんざりとした顔の三之助が捕らえられており、それを見た滝夜叉丸が露骨に溜息をついた。
「なんだよ」
「相も変わらず、世話をかけおって。少しは自分の悪癖を自覚したらどうなんだ」
「悪癖だらけのあんたにだけは言われたくない」
三年と四年というだけでも仲が悪いというのに、さらにこの二人の言い合いは辛辣だ。しかし、 普段ならばもっと続くはずのやり取りは、当たり前のように小平太が滝夜叉丸と三之助に輪にした縄をかけたことで終わった。滝夜叉丸は何も問わずにその縄を引いて強度を確かめ、四郎兵衛を視線で呼び寄せる。彼は四郎兵衛を輪のなかで殿につけると、襷で自分に縛りつけた金吾の身体をさらに頭巾を外して厳重に己へと縛りつける。多少のことでは落ちないことを確認すると、滝夜叉丸は小平太に向かって頷いた。
「では」
それだけで全て理解したように小平太は同じく頷き、彼は明るく笑って滝夜叉丸たちに手を振った。それと同時に滝夜叉丸が走りだし、四郎兵衛は半ば引きずられる形で走りだすことになった。
しばらく駆けたあとに、背中に悪寒のようなものが走る。それに四郎兵衛は驚いて振り返ったが、先を行く滝夜叉丸が足を止めないために縄に引きずられる形となった。慌てて再び足を動かしながら、ちらりと視界の端に見えたものへ鳥肌を立てる。――小さく見えた小平太は、黒い忍服を着た数人の男たちと対峙していた。
「先輩……!」
「良いから、足を動かせ! ……私たちでは足手まといだ」
苦々しく吐き捨てた滝夜叉丸に、四郎兵衛は息を飲む。普段は何かと反抗する三之助ですら、今は何も言わなかった。それに四郎兵衛も唇を噛みしめると、強く地面を踏みしめる。滝夜叉丸の唇から漏れた矢羽音はまだ四郎兵衛には理解できなかったが、それが向けられたであろう人間は大きな声で「いけいけどんどーん!」と雄叫びを上げた。
「……先輩」
急いで学園に戻った体育委員会の面々は、その足で学園長の許へ訪れて曲者の存在を彼に告げた。そうして教師たちが小平太の残る裏々山へと向かったところで、四郎兵衛は未だ渋い顔をしたままの滝夜叉丸に声を掛けた。彼は先程とは打って変わって沈黙を保ち、ただ眉を上げるだけで四郎兵衛の言葉の先を促す。それに四郎兵衛は少し視線を彷徨わせたあと、小さな声で呟いた。
「いつから分かってたんですか……? その、曲者がいるって……」
「裏々山を登ったり降りたりしているとき、だな。七松先輩が先に気づかれて、それで私も気づいた。しかし、迂闊に動いて敵に悟られては、我々のほうが困る。――だから、通常通りの活動を敢えて続けていた」
では、活動のかなり最初のほうから気づいていたのだ、と四郎兵衛は驚く。それゆえに今日の活動が非常に早く切り上げられたのだ、と理解した。そして、普段なら滝夜叉丸も加わる三之助の捜索に彼が向かわなかったことにも合点する。
「……僕たちのこと、守ってくださっていたんですね」
「下級生を守るのは上級生の役目だからな。――まあ、この優秀な私にかかればお前たちを守りながら敵を迎え撃つのもできなくはないことだったが」
いつもどおりの自信ありげな言葉に四郎兵衛は脱力しつつも、ひどく安心した気分になった。ぐだぐだと続く自慢話にこんなに安堵する日が来るとは思わなかった。しかし、四郎兵衛はふとあることを思い出し、珍しく滝夜叉丸の言葉を遮って口を開いた。
「先輩、最後七松先輩に何て伝えたんですか? 矢羽音、飛ばしていらっしゃったでしょう?」
「ああ、あれか……別段大したことではない。気にする必要もないことだ」
けれど、滝夜叉丸はそれ以上は何も言わない。大したことがないなら内容を教えてくれても良いのでは、と思ったが、少しだけ気まずそうな顔をしていた滝夜叉丸があまりにも珍しかったので、彼はそれ以上追求することをやめた。――何より、滝夜叉丸が少しだけ頬を赤くしていることで内容も何となく理解できたことが大きい。これで案外心配性の滝夜叉丸にくすぐったいような気持ちを覚えながら、四郎兵衛は気づかれないように笑みを浮かべたのだった。
普段ならこの長口上を遮るはずのほかの体育委員はいない。それもそのはず、滝夜叉丸と四郎兵衛は先程から木陰で伸びている金吾のお守りとして残ったのだから。――では、残りの小平太と三之助はといえば、三之助は相変わらずの方向音痴を発揮して行方不明、小平太はそんな三之助を探して獣道を走り去っていった。
(でも、なぜ七松先輩は滝夜叉丸先輩を置いていったんだろう……)
普段ならば、金吾の世話は四郎兵衛に任せ、二人で三之助を探しに行くはずだ。しかし、今日は滝夜叉丸をこの場に残し、小平太ひとりが三之助捜索に出向いている。
(……一緒に連れていってくれたら良かったのに)
そろそろ滝夜叉丸の自慢話も聞き飽きて、四郎兵衛はげんなりと肩を落とした。そんな彼の様子には気づかぬまま、滝夜叉丸はなおも口を動かしつづける。しかし、そんな彼の雰囲気が一瞬だけ変化した。肌にピリッとした感覚が走り、四郎兵衛は周囲を見回そうとしたが、それは滝夜叉丸の手によって阻まれた。
「……というわけで、わたしは美しく、才長け、素晴らしいのだ! 分かったか、四郎兵衛?」
「いえ、あの……」
頭をがっちり固定されては、問いに答えることすらできない。けれど、傍に寄せられた滝夜叉丸の視線が何かを伝えていた。
「しかし、七松先輩はお戻りにならんな……仕方がない、先に下山するか! 四郎兵衛、準備しろ。金吾は私がおぶっていく」
「良いんですか、勝手に降りて」
四郎兵衛の問いに滝夜叉丸は呵々と笑ったあとにぐだぐだとまた話を始めた。しかし、その間にチラチラと投げられる視線に四郎兵衛はこくりと頷いた。まだぐだぐだと話しつづける滝夜叉丸の背に金吾を乗せ、襷で彼の身体を固定する手伝いをする。その間も絶えることのない話には辟易したが、とにもかくにも彼らは下山を開始したのであった。
金吾を背に負った滝夜叉丸のあとに続くが、背後が気になる。何度も視線を向けたいと思ったが、それは己の前を走る滝夜叉丸からのピリピリとした気配で止められる。仕方なく滝夜叉丸の背をじっと見つめてしばらく駆けると、突如横の薮からがさがさと音がした。すわ獣かと身構えたが、そこから顔を出したのは先程別れた体育委員長、七松小平太である。驚いて息を飲んだ四郎兵衛とは対照的に滝夜叉丸は呆れた表情で薮から出てくる小平太を見遣った。その腕にはうんざりとした顔の三之助が捕らえられており、それを見た滝夜叉丸が露骨に溜息をついた。
「なんだよ」
「相も変わらず、世話をかけおって。少しは自分の悪癖を自覚したらどうなんだ」
「悪癖だらけのあんたにだけは言われたくない」
三年と四年というだけでも仲が悪いというのに、さらにこの二人の言い合いは辛辣だ。しかし、 普段ならばもっと続くはずのやり取りは、当たり前のように小平太が滝夜叉丸と三之助に輪にした縄をかけたことで終わった。滝夜叉丸は何も問わずにその縄を引いて強度を確かめ、四郎兵衛を視線で呼び寄せる。彼は四郎兵衛を輪のなかで殿につけると、襷で自分に縛りつけた金吾の身体をさらに頭巾を外して厳重に己へと縛りつける。多少のことでは落ちないことを確認すると、滝夜叉丸は小平太に向かって頷いた。
「では」
それだけで全て理解したように小平太は同じく頷き、彼は明るく笑って滝夜叉丸たちに手を振った。それと同時に滝夜叉丸が走りだし、四郎兵衛は半ば引きずられる形で走りだすことになった。
しばらく駆けたあとに、背中に悪寒のようなものが走る。それに四郎兵衛は驚いて振り返ったが、先を行く滝夜叉丸が足を止めないために縄に引きずられる形となった。慌てて再び足を動かしながら、ちらりと視界の端に見えたものへ鳥肌を立てる。――小さく見えた小平太は、黒い忍服を着た数人の男たちと対峙していた。
「先輩……!」
「良いから、足を動かせ! ……私たちでは足手まといだ」
苦々しく吐き捨てた滝夜叉丸に、四郎兵衛は息を飲む。普段は何かと反抗する三之助ですら、今は何も言わなかった。それに四郎兵衛も唇を噛みしめると、強く地面を踏みしめる。滝夜叉丸の唇から漏れた矢羽音はまだ四郎兵衛には理解できなかったが、それが向けられたであろう人間は大きな声で「いけいけどんどーん!」と雄叫びを上げた。
「……先輩」
急いで学園に戻った体育委員会の面々は、その足で学園長の許へ訪れて曲者の存在を彼に告げた。そうして教師たちが小平太の残る裏々山へと向かったところで、四郎兵衛は未だ渋い顔をしたままの滝夜叉丸に声を掛けた。彼は先程とは打って変わって沈黙を保ち、ただ眉を上げるだけで四郎兵衛の言葉の先を促す。それに四郎兵衛は少し視線を彷徨わせたあと、小さな声で呟いた。
「いつから分かってたんですか……? その、曲者がいるって……」
「裏々山を登ったり降りたりしているとき、だな。七松先輩が先に気づかれて、それで私も気づいた。しかし、迂闊に動いて敵に悟られては、我々のほうが困る。――だから、通常通りの活動を敢えて続けていた」
では、活動のかなり最初のほうから気づいていたのだ、と四郎兵衛は驚く。それゆえに今日の活動が非常に早く切り上げられたのだ、と理解した。そして、普段なら滝夜叉丸も加わる三之助の捜索に彼が向かわなかったことにも合点する。
「……僕たちのこと、守ってくださっていたんですね」
「下級生を守るのは上級生の役目だからな。――まあ、この優秀な私にかかればお前たちを守りながら敵を迎え撃つのもできなくはないことだったが」
いつもどおりの自信ありげな言葉に四郎兵衛は脱力しつつも、ひどく安心した気分になった。ぐだぐだと続く自慢話にこんなに安堵する日が来るとは思わなかった。しかし、四郎兵衛はふとあることを思い出し、珍しく滝夜叉丸の言葉を遮って口を開いた。
「先輩、最後七松先輩に何て伝えたんですか? 矢羽音、飛ばしていらっしゃったでしょう?」
「ああ、あれか……別段大したことではない。気にする必要もないことだ」
けれど、滝夜叉丸はそれ以上は何も言わない。大したことがないなら内容を教えてくれても良いのでは、と思ったが、少しだけ気まずそうな顔をしていた滝夜叉丸があまりにも珍しかったので、彼はそれ以上追求することをやめた。――何より、滝夜叉丸が少しだけ頬を赤くしていることで内容も何となく理解できたことが大きい。これで案外心配性の滝夜叉丸にくすぐったいような気持ちを覚えながら、四郎兵衛は気づかれないように笑みを浮かべたのだった。
| SS::1000のお題集 | 19:28 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,13, Thursday
「……タカ丸さん、こういった趣味もおありなんですか。意外ですね」
兵子はベッドの下から覗く本を引き出し、その表紙をとくとくと眺めた。『月刊女王様』とどぎつい色のタイトルが踊るそれは、特集の文字の後ろにボンテージ姿の女性が男性を足蹴にして写っている。中身を確かめるべくページを繰ろうとしたら、バタバタと駆け寄ってきたタカ丸に勢いよく引ったくられた。
「何見てるの!」
「ベッドの下からはみ出していたのを拾っただけです。――しかし、意外ですね。タカ丸さんに被虐趣味があるとは。言ってくださればいくらでも苛んで差し上げるのに」
顔を真っ赤にして雑誌を遠いところへ放り投げるタカ丸に対し、兵子は顔色ひとつ変えず平然と告げた。それにタカ丸がパクパクと金魚のように唇を動かし、なおさらに顔を赤くする。それに全く男女が逆だな、と思いながら、兵子はタカ丸に一歩近づいた。それにタカ丸が一歩退き、さらに兵子が距離を詰める。壁際まで追い込んだタカ丸が怯えて喉を鳴らすのに、兵子は艶然と口の端を上げた。
「どうして逃げるんですか?」
「そっちが寄ってくるからでしょ!」
「タカ丸さんが逃げるからですよ」
兵子はそう言いながら、己の手を持ち上げて、タカ丸の頬に指で触れた。手のひらで優しく撫で、左右非対照に長い前髪に指を絡ませる。そのまま少しだけその髪を引き、兵子はその頬に唇を寄せた。両手で彼の頭を緩く引き寄せ、唇を滑らせる。普段は前髪で隠れ気味の耳へと唇を移動させると、その耳朶を甘噛みした。
「なっ、にするのっ!」
「もっと痛いほうが良かったですか?」
「違うっ! っていうかね、そういう問題じゃなくてっ! 女の子がそういうことするんじゃありませんっ!」
兵子を軽く突き飛ばして壁沿いに逃げたタカ丸は、顔どころか首筋まで真っ赤に染めて耳を押さえる。怒鳴りつける声すらも少しうわずっており、兵子はそれになおさら口の端を上げた。
「生憎と、わたしに嗜虐趣味はないもので。――感じて泣いているならそそりもしますが、苦痛に浮かんだ涙ではね」
「だから、そういう問題じゃないってばっ! 大体、女の子なんだから恥じらいとか慎みとか、そういうのをまずだね……!」
「ああ、タカ丸さん。女性に〈女性らしさ〉なるものを求めるのはセクハラに当たるそうですよ」
「えっ、そうなの? ごめん……ってそうじゃない!」
タカ丸は問題をすり替えられそうになっていることに気づき、慌てて声を張り上げた。
「だーかーらーっ! 言ってるでしょ! 女の子がそんなことしちゃ駄目っ! 俺だから良いけど、他の男にそんなことしたら即襲われるよ!? 兵子ちゃん可愛いんだから」
「ありがとうございます。でも、タカ丸さん以外にはしませんから大丈夫ですよ」
「そういう意味でもないっ! もおお……! 襲われても知らないんだからね!」
その言葉に兵子は少しだけ目を見開いたあと、艶然と笑った。しかし、先程見せた妖艶さはそこにはなく、ただ目を見張るほど美しいそれにタカ丸は一瞬目を奪われる。けれど、続いて届いた言葉に彼は言葉を失った。
「襲ってくださるのならいくらでも。――むしろ、わたしが襲いたいくらいですよ」
「……そうじゃないってばあ。大体、何で君ウチにいるの……」
「貴方についてきたからです」
「だから、そうじゃないって……」
タカ丸は何を言っても斜め上の言葉を返す兵子に何を言って良いか分からず、彼女から身体ごと顔を背けて言葉に表せない胸のわだかまりに頭を掻きむしった。――初めて会ったときからずっと押しの強い彼女に、明らかに流されている。それに強い反発を感じながらも心の底では嫌だと思っていない自分には気づかないまま、タカ丸は背後から身を寄せる兵子の体温を溜息とともに受け入れたのだった。
兵子はベッドの下から覗く本を引き出し、その表紙をとくとくと眺めた。『月刊女王様』とどぎつい色のタイトルが踊るそれは、特集の文字の後ろにボンテージ姿の女性が男性を足蹴にして写っている。中身を確かめるべくページを繰ろうとしたら、バタバタと駆け寄ってきたタカ丸に勢いよく引ったくられた。
「何見てるの!」
「ベッドの下からはみ出していたのを拾っただけです。――しかし、意外ですね。タカ丸さんに被虐趣味があるとは。言ってくださればいくらでも苛んで差し上げるのに」
顔を真っ赤にして雑誌を遠いところへ放り投げるタカ丸に対し、兵子は顔色ひとつ変えず平然と告げた。それにタカ丸がパクパクと金魚のように唇を動かし、なおさらに顔を赤くする。それに全く男女が逆だな、と思いながら、兵子はタカ丸に一歩近づいた。それにタカ丸が一歩退き、さらに兵子が距離を詰める。壁際まで追い込んだタカ丸が怯えて喉を鳴らすのに、兵子は艶然と口の端を上げた。
「どうして逃げるんですか?」
「そっちが寄ってくるからでしょ!」
「タカ丸さんが逃げるからですよ」
兵子はそう言いながら、己の手を持ち上げて、タカ丸の頬に指で触れた。手のひらで優しく撫で、左右非対照に長い前髪に指を絡ませる。そのまま少しだけその髪を引き、兵子はその頬に唇を寄せた。両手で彼の頭を緩く引き寄せ、唇を滑らせる。普段は前髪で隠れ気味の耳へと唇を移動させると、その耳朶を甘噛みした。
「なっ、にするのっ!」
「もっと痛いほうが良かったですか?」
「違うっ! っていうかね、そういう問題じゃなくてっ! 女の子がそういうことするんじゃありませんっ!」
兵子を軽く突き飛ばして壁沿いに逃げたタカ丸は、顔どころか首筋まで真っ赤に染めて耳を押さえる。怒鳴りつける声すらも少しうわずっており、兵子はそれになおさら口の端を上げた。
「生憎と、わたしに嗜虐趣味はないもので。――感じて泣いているならそそりもしますが、苦痛に浮かんだ涙ではね」
「だから、そういう問題じゃないってばっ! 大体、女の子なんだから恥じらいとか慎みとか、そういうのをまずだね……!」
「ああ、タカ丸さん。女性に〈女性らしさ〉なるものを求めるのはセクハラに当たるそうですよ」
「えっ、そうなの? ごめん……ってそうじゃない!」
タカ丸は問題をすり替えられそうになっていることに気づき、慌てて声を張り上げた。
「だーかーらーっ! 言ってるでしょ! 女の子がそんなことしちゃ駄目っ! 俺だから良いけど、他の男にそんなことしたら即襲われるよ!? 兵子ちゃん可愛いんだから」
「ありがとうございます。でも、タカ丸さん以外にはしませんから大丈夫ですよ」
「そういう意味でもないっ! もおお……! 襲われても知らないんだからね!」
その言葉に兵子は少しだけ目を見開いたあと、艶然と笑った。しかし、先程見せた妖艶さはそこにはなく、ただ目を見張るほど美しいそれにタカ丸は一瞬目を奪われる。けれど、続いて届いた言葉に彼は言葉を失った。
「襲ってくださるのならいくらでも。――むしろ、わたしが襲いたいくらいですよ」
「……そうじゃないってばあ。大体、何で君ウチにいるの……」
「貴方についてきたからです」
「だから、そうじゃないって……」
タカ丸は何を言っても斜め上の言葉を返す兵子に何を言って良いか分からず、彼女から身体ごと顔を背けて言葉に表せない胸のわだかまりに頭を掻きむしった。――初めて会ったときからずっと押しの強い彼女に、明らかに流されている。それに強い反発を感じながらも心の底では嫌だと思っていない自分には気づかないまま、タカ丸は背後から身を寄せる兵子の体温を溜息とともに受け入れたのだった。
| SS::1000のお題集 | 19:54 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,12, Wednesday
煙草は随分前に止めたはずだったが、今ばかりは煙草でも吸わないとやっていられない。たまたま残っていた安物のライターがカチカチと音を立てる。――火が点かない。火花を散らすばかりで反応の悪いライターは、それからさらに数回試したあとにようやく彼の望みを叶えた。少し古い煙草をくわえ、その先に火を点ける。しかし、くわえた煙草の前後が逆だったことで濃厚な煙を吸って盛大にむせる羽目となり、タカ丸は苛々とそれを近くのコップに突っ込んだ。灰皿はとうに捨ててしまったためだ。らしくなく「くそっ!」と悪態をつくと、彼の動揺の原因がもぞりと隣で動いた。
「煙草は身体に悪いですよ、タカ丸さん」
「……何で一緒に寝てるの」
低く問いかければ、傍らの少女が肩を竦める。そして、タカ丸を打ちのめすように口を開いた。
「先に言っておきますが、放してくれなかったのはタカ丸さんですよ。帰ろうと思ってたのに」
「……俺、君に何したの」
嫌な予感を覚えながら、タカ丸はさらに低い声で問いかける。それに兵子は少し眉を下げて、彼の胸に手を置いた。それで自分が裸であることを無理矢理にでも意識させられ、タカ丸は先程からガンガンと響く頭の痛みがなおさら強くなった気がした。しかし、兵子はそんなタカ丸にただ溜息をつき、その手を彼から離す。手の動きを追えば滑らかな白い肌が視界に映り、タカ丸は吸い寄せられそうになる視線を無理矢理引きはがした。
そんなタカ丸に兵子はもう一度小さく溜息をつくと、寝乱れた髪を手櫛で整える。そして、少しだけ淋しそうに笑った。
「まあ、あれだけ酔えば記憶もなくなるでしょうね。
――貴方が危惧しているようなことは一切ありませんでしたよ。わたしは飽くまで酔っ払いの介抱をしたまでですから」
タカ丸はその言葉にようやく昨晩自分の美容院のスタッフと飲みに行ったことを思い出す。いろいろと丸め込まれるようにアルバイトに雇ったこの少女も、アルコール類を摂取しないという約束の下で連れていった。しかし、少し疲れていたタカ丸は盛大に酔ってしまったらしく、途中から記憶がない。年甲斐もなくやらかした失態に頭を抱えると、もう一度小さな溜息が傍らから聞こえた。
「だからあれほどもうやめておけと言ったのに」
「子どもには分からないイロイロが大人にはあるの」
「それで正体なくして子どもに世話されてたんじゃ、意味ないでしょう。――因みに一応説明しておきますが、泥酔したタカ丸さんをタクシーでここまで送って、部屋まで連れて帰ってきたあと、ベッドに運ぼうとしたら途中で貴方が戻して、服がめちゃくちゃになったために上下どちらも脱がしたんです。よく見てください、パンツはいてるでしょう」
タカ丸はその言葉に自分の下半身を見下ろし、確かにその言葉のとおりに自分が下着をはいていることに気づく。それに大きく胸を撫で下ろしたあと、ハッと我に返って兵子を睨みつけた。
「ちょっと待って! じゃあ、何で兵子ちゃんまで脱いでるの?」
「それは勿論、貴方が戻したときにわたしが貴方を前方から支えていたからです。お陰さまで、服どころか下着まで濡れましたよ」
「…………マジで?」
「こんなことで嘘をついたって仕方がないでしょう」
己の情けなさに俯いてしまったタカ丸を他所に、兵子は無言で立ち上がる。ペタペタと裸足の足音が遠ざかり、タカ丸はなおさら情けない気持ちになった。けれど、足音はしばらくしてからタカ丸の許へ戻り、熱くて柔らかい何かをその顔に押しつけた。覗き込まれるような形で顔をこすられ、タカ丸はようやくそれがホットタオルであることに気づく。驚いたタカ丸がそれに顔を上げると、呆れた顔で兵子が口を開いた。
「立てるようなら、一度うがいをしたほうが良いと思いますよ。今はまだ気づいていないようですが、口のなかも随分気持ち悪いんじゃないですか?」
「……そうする」
促されるままにベッドから這い出すと、頭痛がひどくなったような気がした。それを我慢して立ち上がるものの、ふらつく足に思わずたたらを踏む。しかし、転ぶ、と思うより早く脇から兵子が身体を支えてくれ、タカ丸は安定を取り戻す。視線よりかなり下にある頭を見下ろしながら、タカ丸はこの細い体躯のどこにこんな力があるのだろう、と己を危なげなく支える兵子を少しだけ疑問に思った。
なんとか介助なしで洗面台に辿り着いたタカ丸は、言われたとおりにうがいを繰り返す。再びベッドに戻ろうとしたときに、二人分の服がハンガーにかけられて部屋干しされていることに気づいた。しわを綺麗にのばされたそれはまだ生乾きで、着られたものではない。タカ丸は兵子の分だけ手に取ると、それを浴室のなかへと入れた。天井近くに伸びるポールへとハンガーをかけ、乾燥のボタンを押す。タカ丸が再び覚束ない足取りでベッドへと戻ろうとすると、そこに座る兵子が目に入った。
こちらに背を向けているために表情は分からないが、その体躯が類を見ないほど均整を保っていること、その肌が白く美しいことは見て取れる。惜しむべくは右肩に残る傷跡だが、彼女はそれを気にした様子もない。カーテンから漏れる朝日に照らされたその姿はまるで一幅の絵のようで、タカ丸は一瞬その光景に目を奪われた。
「タカ丸さん? 大丈夫ですか?」
「あ……うん、平気。っていうかね、兵子ちゃん。君せめて前を隠すとかしたらどうなの」
「見たければ好きなだけどうぞ?」
「いやだからそういう問題じゃなくてね……ああもう! とにかくこれ着て!」
タカ丸は自分のクローゼットからシャツを一枚取りだし、それを兵子に押しつける。それに彼女は少しだけ顔をしかめたものの、溜息をつきながらそれを大人しく着こんだ。兵子には大きすぎるそれは逆に背徳感のようなものを増させたが、これ以上裸でいられるよりかは良い。それだけで疲れ果ててベッドに倒れ込んだタカ丸に、兵子は追い打ちをかけるように呟いた。
「これが男の人が萌える、という噂の彼シャツというやつですか」
「……違うからね。そうだけど違うからね……」
「別に遠慮しなくても。わたしはいつだってタカ丸さんを受け入れる準備はできてますよ」
「俺のほうにはそんな準備ないから……っていうか、兵子ちゃん学校は?」
「今日は休むって親に連絡入れました。気分が悪いということで」
その言葉にタカ丸は深いため息をついた。彼女の母は兵子がタカ丸の家に押しかけることも、ずる休みすることも何にも思わないらしい。むしろ、彼女曰く「ようやく人間味が出てきた」と喜んでいるそうだ。それは親としてどうなのか、と常識的なことを考えながら、タカ丸は己の身体に布団をかけてくれる兵子に顔を向けた。
「……布団をかけてくれるのは大変ありがたいんだけど……どうして兵子ちゃんまで一緒に入ってるの……」
もはや疲れきって語尾を上げるだけの気力もない。しかし、対する兵子は生き生きとした様子でタカ丸の傍に身を落ち着けると、当たり前のように口を開いた。
「わたしの服、まだ乾いてませんから」
「いや、うん……そうなんだけど」
「まさかタカ丸さん……わたしにノーブラのうえ、サイズの合ってないこのシャツでひとり電車に乗れと?」
兵子の咎めるような言葉に、タカ丸はもはや返す言葉すらなかった。ただ彼女に背を向けるように寝返りを打ち、傍にある体温を意識しないように目を閉じる。けれど、兵子がその背中に寄り添うように身を寄せてくるため、タカ丸は再び彼女へと口を開いた。
「襲われたくないなら離れてくれる?」
「むしろ襲っていただきたいくらいですが。――でも、どちらにせよ今日は無理でしょう。その体調じゃ、勃たないでしょうから」
「だから! そういう発言はやめなさいと何度言ったら……! もう、女の子でしょう! おじさん怒るよ!?」
「はいはい、分かりました。――ほら、二日酔いで頭痛いんでしょう? 怒鳴ったら頭に響きますよ」
「誰が怒鳴らせてるの……!」
「はいはい、私ですごめんなさい。さ、もう寝ましょう。何なら子守歌くらい歌って差し上げますよ」
「いらない!」
子どものように布団を頭まですっぽりかぶってふて寝してしまったタカ丸に、兵子は少しだけ笑みを漏らす。しばらくして聞こえた小さな寝息に、彼女はひどく優しい顔で布団の塊を撫でた。力が緩んだところを見計らって布団を引き寄せ、自分もそのなかに入りこむ。心音が伝わるほどの距離までその身を寄り添わせると、兵子は伝わる温もりに泣きたくなるような感情を味わった。この鼓動も、体温も、もう消えることはない。それだけのことが幸せだった。
「――全部見せるから、もう一回俺に惚れてよ」
良いところも、悪いところも全部。そう呟いて、兵子はタカ丸の頬に触れる。指に絡む髪の毛を弄びながら、彼女は穏やかな時間に目を細めた。
正直なところ、久々知兵子として生まれる前の経験と知識を生かせば、タカ丸を己の虜にすることなど容易い。けれど、それでは意味がないのだ。取り繕ったことで手に入れた愛情など、兵子にとっては何の価値もない。欲しいのはそんなものではなく、タカ丸の全てなのだから。
生まれる前に生きた記憶に刻みつけられた目の前の男の記憶を辿りながら、兵子は小さく息をつく。――そう、偽りなど意味がない。過去の自分がありのまま彼に受け入れられ、愛されたように、今もまたそれが欲しいのだから。
けれど、今はまだ欲張るまい、と兵子はタカ丸の頬に当てた手を離した。その代わりにもう少しだけタカ丸へと近づくと、彼女は途切れることなく伝わるその温もりに寄り添いながらその瞼を下ろす。とろりとした暗闇が兵子を包み、眠りへと誘っていく。その心地よさに溺れるように、兵子はその暗闇へと沈んでいった。
以前に日記で書いた、30歳タカ丸と17歳久々知の転生パロ。タカ丸は記憶なし、兵子は記憶あり。
本当は昨日書き上がっていたのですが、セッションエラーで\(^o^)/ 最初に書いた奴が肉食系で良かったのになあ……と思いつつ、とりあえず書き直してUP。タカくくだけど肉食系女子な久々知にたじたじになっているタカ丸さんも美味しいです。
「煙草は身体に悪いですよ、タカ丸さん」
「……何で一緒に寝てるの」
低く問いかければ、傍らの少女が肩を竦める。そして、タカ丸を打ちのめすように口を開いた。
「先に言っておきますが、放してくれなかったのはタカ丸さんですよ。帰ろうと思ってたのに」
「……俺、君に何したの」
嫌な予感を覚えながら、タカ丸はさらに低い声で問いかける。それに兵子は少し眉を下げて、彼の胸に手を置いた。それで自分が裸であることを無理矢理にでも意識させられ、タカ丸は先程からガンガンと響く頭の痛みがなおさら強くなった気がした。しかし、兵子はそんなタカ丸にただ溜息をつき、その手を彼から離す。手の動きを追えば滑らかな白い肌が視界に映り、タカ丸は吸い寄せられそうになる視線を無理矢理引きはがした。
そんなタカ丸に兵子はもう一度小さく溜息をつくと、寝乱れた髪を手櫛で整える。そして、少しだけ淋しそうに笑った。
「まあ、あれだけ酔えば記憶もなくなるでしょうね。
――貴方が危惧しているようなことは一切ありませんでしたよ。わたしは飽くまで酔っ払いの介抱をしたまでですから」
タカ丸はその言葉にようやく昨晩自分の美容院のスタッフと飲みに行ったことを思い出す。いろいろと丸め込まれるようにアルバイトに雇ったこの少女も、アルコール類を摂取しないという約束の下で連れていった。しかし、少し疲れていたタカ丸は盛大に酔ってしまったらしく、途中から記憶がない。年甲斐もなくやらかした失態に頭を抱えると、もう一度小さな溜息が傍らから聞こえた。
「だからあれほどもうやめておけと言ったのに」
「子どもには分からないイロイロが大人にはあるの」
「それで正体なくして子どもに世話されてたんじゃ、意味ないでしょう。――因みに一応説明しておきますが、泥酔したタカ丸さんをタクシーでここまで送って、部屋まで連れて帰ってきたあと、ベッドに運ぼうとしたら途中で貴方が戻して、服がめちゃくちゃになったために上下どちらも脱がしたんです。よく見てください、パンツはいてるでしょう」
タカ丸はその言葉に自分の下半身を見下ろし、確かにその言葉のとおりに自分が下着をはいていることに気づく。それに大きく胸を撫で下ろしたあと、ハッと我に返って兵子を睨みつけた。
「ちょっと待って! じゃあ、何で兵子ちゃんまで脱いでるの?」
「それは勿論、貴方が戻したときにわたしが貴方を前方から支えていたからです。お陰さまで、服どころか下着まで濡れましたよ」
「…………マジで?」
「こんなことで嘘をついたって仕方がないでしょう」
己の情けなさに俯いてしまったタカ丸を他所に、兵子は無言で立ち上がる。ペタペタと裸足の足音が遠ざかり、タカ丸はなおさら情けない気持ちになった。けれど、足音はしばらくしてからタカ丸の許へ戻り、熱くて柔らかい何かをその顔に押しつけた。覗き込まれるような形で顔をこすられ、タカ丸はようやくそれがホットタオルであることに気づく。驚いたタカ丸がそれに顔を上げると、呆れた顔で兵子が口を開いた。
「立てるようなら、一度うがいをしたほうが良いと思いますよ。今はまだ気づいていないようですが、口のなかも随分気持ち悪いんじゃないですか?」
「……そうする」
促されるままにベッドから這い出すと、頭痛がひどくなったような気がした。それを我慢して立ち上がるものの、ふらつく足に思わずたたらを踏む。しかし、転ぶ、と思うより早く脇から兵子が身体を支えてくれ、タカ丸は安定を取り戻す。視線よりかなり下にある頭を見下ろしながら、タカ丸はこの細い体躯のどこにこんな力があるのだろう、と己を危なげなく支える兵子を少しだけ疑問に思った。
なんとか介助なしで洗面台に辿り着いたタカ丸は、言われたとおりにうがいを繰り返す。再びベッドに戻ろうとしたときに、二人分の服がハンガーにかけられて部屋干しされていることに気づいた。しわを綺麗にのばされたそれはまだ生乾きで、着られたものではない。タカ丸は兵子の分だけ手に取ると、それを浴室のなかへと入れた。天井近くに伸びるポールへとハンガーをかけ、乾燥のボタンを押す。タカ丸が再び覚束ない足取りでベッドへと戻ろうとすると、そこに座る兵子が目に入った。
こちらに背を向けているために表情は分からないが、その体躯が類を見ないほど均整を保っていること、その肌が白く美しいことは見て取れる。惜しむべくは右肩に残る傷跡だが、彼女はそれを気にした様子もない。カーテンから漏れる朝日に照らされたその姿はまるで一幅の絵のようで、タカ丸は一瞬その光景に目を奪われた。
「タカ丸さん? 大丈夫ですか?」
「あ……うん、平気。っていうかね、兵子ちゃん。君せめて前を隠すとかしたらどうなの」
「見たければ好きなだけどうぞ?」
「いやだからそういう問題じゃなくてね……ああもう! とにかくこれ着て!」
タカ丸は自分のクローゼットからシャツを一枚取りだし、それを兵子に押しつける。それに彼女は少しだけ顔をしかめたものの、溜息をつきながらそれを大人しく着こんだ。兵子には大きすぎるそれは逆に背徳感のようなものを増させたが、これ以上裸でいられるよりかは良い。それだけで疲れ果ててベッドに倒れ込んだタカ丸に、兵子は追い打ちをかけるように呟いた。
「これが男の人が萌える、という噂の彼シャツというやつですか」
「……違うからね。そうだけど違うからね……」
「別に遠慮しなくても。わたしはいつだってタカ丸さんを受け入れる準備はできてますよ」
「俺のほうにはそんな準備ないから……っていうか、兵子ちゃん学校は?」
「今日は休むって親に連絡入れました。気分が悪いということで」
その言葉にタカ丸は深いため息をついた。彼女の母は兵子がタカ丸の家に押しかけることも、ずる休みすることも何にも思わないらしい。むしろ、彼女曰く「ようやく人間味が出てきた」と喜んでいるそうだ。それは親としてどうなのか、と常識的なことを考えながら、タカ丸は己の身体に布団をかけてくれる兵子に顔を向けた。
「……布団をかけてくれるのは大変ありがたいんだけど……どうして兵子ちゃんまで一緒に入ってるの……」
もはや疲れきって語尾を上げるだけの気力もない。しかし、対する兵子は生き生きとした様子でタカ丸の傍に身を落ち着けると、当たり前のように口を開いた。
「わたしの服、まだ乾いてませんから」
「いや、うん……そうなんだけど」
「まさかタカ丸さん……わたしにノーブラのうえ、サイズの合ってないこのシャツでひとり電車に乗れと?」
兵子の咎めるような言葉に、タカ丸はもはや返す言葉すらなかった。ただ彼女に背を向けるように寝返りを打ち、傍にある体温を意識しないように目を閉じる。けれど、兵子がその背中に寄り添うように身を寄せてくるため、タカ丸は再び彼女へと口を開いた。
「襲われたくないなら離れてくれる?」
「むしろ襲っていただきたいくらいですが。――でも、どちらにせよ今日は無理でしょう。その体調じゃ、勃たないでしょうから」
「だから! そういう発言はやめなさいと何度言ったら……! もう、女の子でしょう! おじさん怒るよ!?」
「はいはい、分かりました。――ほら、二日酔いで頭痛いんでしょう? 怒鳴ったら頭に響きますよ」
「誰が怒鳴らせてるの……!」
「はいはい、私ですごめんなさい。さ、もう寝ましょう。何なら子守歌くらい歌って差し上げますよ」
「いらない!」
子どものように布団を頭まですっぽりかぶってふて寝してしまったタカ丸に、兵子は少しだけ笑みを漏らす。しばらくして聞こえた小さな寝息に、彼女はひどく優しい顔で布団の塊を撫でた。力が緩んだところを見計らって布団を引き寄せ、自分もそのなかに入りこむ。心音が伝わるほどの距離までその身を寄り添わせると、兵子は伝わる温もりに泣きたくなるような感情を味わった。この鼓動も、体温も、もう消えることはない。それだけのことが幸せだった。
「――全部見せるから、もう一回俺に惚れてよ」
良いところも、悪いところも全部。そう呟いて、兵子はタカ丸の頬に触れる。指に絡む髪の毛を弄びながら、彼女は穏やかな時間に目を細めた。
正直なところ、久々知兵子として生まれる前の経験と知識を生かせば、タカ丸を己の虜にすることなど容易い。けれど、それでは意味がないのだ。取り繕ったことで手に入れた愛情など、兵子にとっては何の価値もない。欲しいのはそんなものではなく、タカ丸の全てなのだから。
生まれる前に生きた記憶に刻みつけられた目の前の男の記憶を辿りながら、兵子は小さく息をつく。――そう、偽りなど意味がない。過去の自分がありのまま彼に受け入れられ、愛されたように、今もまたそれが欲しいのだから。
けれど、今はまだ欲張るまい、と兵子はタカ丸の頬に当てた手を離した。その代わりにもう少しだけタカ丸へと近づくと、彼女は途切れることなく伝わるその温もりに寄り添いながらその瞼を下ろす。とろりとした暗闇が兵子を包み、眠りへと誘っていく。その心地よさに溺れるように、兵子はその暗闇へと沈んでいった。
以前に日記で書いた、30歳タカ丸と17歳久々知の転生パロ。タカ丸は記憶なし、兵子は記憶あり。
本当は昨日書き上がっていたのですが、セッションエラーで\(^o^)/ 最初に書いた奴が肉食系で良かったのになあ……と思いつつ、とりあえず書き直してUP。タカくくだけど肉食系女子な久々知にたじたじになっているタカ丸さんも美味しいです。
| SS::1000のお題集 | 12:36 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,11, Tuesday
「世のなかには、酔えば酔うほど強くなる武道家がいるらしいですぞ、土井先生」
「何を馬鹿なことをおっしゃるんですか、山田先生。そんなの、あるわけないでしょう」
「いや、それがどうも本当らしい。松千代先生が唐土の本でそんな武道家の話を読んだとか」
半助は伝蔵のその発言に少しばかり眉をひそめた。常識的に考えるならばそんなことはありえない。けれど、それがただの噂話ではなく、二年生の教科担当である松千代万から出たというなら話は別だ。極度の恥ずかしがり屋という欠点はあるものの、図書委員会の顧問でもある彼は世間の情勢に詳しく、慎重であるためにもたらす情報も正確だ。――つまり、彼がそう言うのならば、本当にそういう武道家がいるのだろう。
しかし、その存在に半助はなおさら大きく顔をしかめた。伝蔵を見れば、彼もまた険しい顔で溜息をついている。二人は揃って顔を見合わせ、小さく首を振り合った。
「生徒たちには内緒ですな」
「全くです。
――酒、欲、色。子どもたちには今まで忍者の三禁として教えてきたのに、そんな特殊な武道に傾倒されては困りますからね」
「誰もが酒に強いわけでもありませんしな。第一、酒に寄って敵に勝てたところで忍働きに役立つことはない。忍の本分は飽くまで忍び、影として動くこと。敵と面と向かって戦うなど、忍の策としては下の下と言わざるを得ない」
伝蔵の発言に半助は深く頷いた。忍の道を教える彼らにとって、忍術とは科学。そして、人の為すものである。――下手に奇天烈な技術を耳に入れて、本分に身が入らなくなることは避けたかった。それは伝蔵としても同じ思いのようで、彼らはもう一度顔を見合わせると、揃って小さな溜息をついた。
「何を馬鹿なことをおっしゃるんですか、山田先生。そんなの、あるわけないでしょう」
「いや、それがどうも本当らしい。松千代先生が唐土の本でそんな武道家の話を読んだとか」
半助は伝蔵のその発言に少しばかり眉をひそめた。常識的に考えるならばそんなことはありえない。けれど、それがただの噂話ではなく、二年生の教科担当である松千代万から出たというなら話は別だ。極度の恥ずかしがり屋という欠点はあるものの、図書委員会の顧問でもある彼は世間の情勢に詳しく、慎重であるためにもたらす情報も正確だ。――つまり、彼がそう言うのならば、本当にそういう武道家がいるのだろう。
しかし、その存在に半助はなおさら大きく顔をしかめた。伝蔵を見れば、彼もまた険しい顔で溜息をついている。二人は揃って顔を見合わせ、小さく首を振り合った。
「生徒たちには内緒ですな」
「全くです。
――酒、欲、色。子どもたちには今まで忍者の三禁として教えてきたのに、そんな特殊な武道に傾倒されては困りますからね」
「誰もが酒に強いわけでもありませんしな。第一、酒に寄って敵に勝てたところで忍働きに役立つことはない。忍の本分は飽くまで忍び、影として動くこと。敵と面と向かって戦うなど、忍の策としては下の下と言わざるを得ない」
伝蔵の発言に半助は深く頷いた。忍の道を教える彼らにとって、忍術とは科学。そして、人の為すものである。――下手に奇天烈な技術を耳に入れて、本分に身が入らなくなることは避けたかった。それは伝蔵としても同じ思いのようで、彼らはもう一度顔を見合わせると、揃って小さな溜息をついた。
| SS::1000のお題集 | 12:43 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,05, Wednesday
「いってえ……七松先輩、容赦なさすぎだろ……」
「潮江先輩もだよ……あー青痣できてる。何か、兵助と鉢屋は平然としてるよね、立花先輩と中在家先輩だっけ? 羨ましい」
ボロボロになった身体を気力だけで風呂まで運んだ五人は、五年の集合場所としてお決まりとなった三郎と雷蔵の部屋まで引きずり、部屋の戸を後ろ手に閉めた瞬間、それぞれ床へと崩れ落ちた。しかし、床にぺったりと頬をつける八左ヱ門、勘右衛門、雷蔵に対し、兵助と三郎は座り込みはしたものの、まだ体勢を保っている。それに勘右衛門が唇を尖らせると、彼ら二人は揃って顔をしかめた。
「そんなわけないだろ。さんざっぱら遊ばれたんだから。……もう立花先輩の私的使用の火薬、絶対融通しない」
「すぐに無言の圧力に負けるくせに」
「うるさい。三郎だって中在家先輩に散々振り回されていたくせに」
茶々を入れる三郎を睨みつけた兵助は、不機嫌なまま三郎へと吐き捨てる。その発言に三郎は明らかにムッとした表情を浮かべ、二人の間に険悪な空気が流れた。
「あーあーやめやめ! それでなくても疲れてんだから、これ以上疲れさせんな!」
その間に割って入ったのは八左ヱ門だ。彼は手に掴んだ何かを二人の間に差し入れ、その注意を逸らす。しかし、その手にあるものを見た三郎が柳眉を跳ね上げ、目の前に突き出された八左ヱ門の手首を掴んだ。
「これは私の秘蔵の酒じゃないか……どっから出してきた」
「あ、僕が出した。もう飲まなきゃやってられないでしょ?」
「雷蔵!?」
三郎は雷蔵の言葉に泣きそうな声を上げた。普段から顔を借りている手前、三郎は雷蔵に強く出られない。雷蔵もそれをよく分かっているため、もう一本隠してあった三郎の酒を既に開けて勘右衛門と飲みはじめている。それを目の当たりにした三郎はがっくりと肩を落とし、口のなかで泣き言ともつかぬ愚痴をこぼした。
「あ、良い酒だな。さすがは三郎」
対する兵助は勘右衛門から回されたお猪口に八左ヱ門の手から奪った酒を注ぎ、ひとり先に楽しんでいる。それを見た三郎は力尽きたように八左ヱ門の手首を放し、深い深い溜息をついたあとに引き寄せたお猪口を八左ヱ門に突き出した。
「こうなったらトコトンまで飲んでやる! さあ、八左ヱ門注げ!」
「ほらよ。あ、雷蔵、肴は?」
「あー今はおまんじゅうしかない。勘右衛門たち何かある?」
「部屋に戻れば豆腐がある」
「豆腐以外で!」
「あとは炒り豆くらいかなあ……兵助、取ってくる?」
「そうしよう」
八左ヱ門の拒否を意に介した様子もなく、勘右衛門に促されるまま兵助は立ち上がる。無視される形となった八左ヱ門はムッとした顔をしたが、酒が喉を通ると機嫌を直し、彼らをにこにこと見送った。――しかし、彼らは知らない。このときが最も幸せで穏やかな時間であったことを。
しばらく後にその部屋の戸を開けたのが先程出て行った二人よりも六人ばかり多かったことから、彼らの平穏な時間は一瞬にして崩れ去ったのである。
「潮江先輩もだよ……あー青痣できてる。何か、兵助と鉢屋は平然としてるよね、立花先輩と中在家先輩だっけ? 羨ましい」
ボロボロになった身体を気力だけで風呂まで運んだ五人は、五年の集合場所としてお決まりとなった三郎と雷蔵の部屋まで引きずり、部屋の戸を後ろ手に閉めた瞬間、それぞれ床へと崩れ落ちた。しかし、床にぺったりと頬をつける八左ヱ門、勘右衛門、雷蔵に対し、兵助と三郎は座り込みはしたものの、まだ体勢を保っている。それに勘右衛門が唇を尖らせると、彼ら二人は揃って顔をしかめた。
「そんなわけないだろ。さんざっぱら遊ばれたんだから。……もう立花先輩の私的使用の火薬、絶対融通しない」
「すぐに無言の圧力に負けるくせに」
「うるさい。三郎だって中在家先輩に散々振り回されていたくせに」
茶々を入れる三郎を睨みつけた兵助は、不機嫌なまま三郎へと吐き捨てる。その発言に三郎は明らかにムッとした表情を浮かべ、二人の間に険悪な空気が流れた。
「あーあーやめやめ! それでなくても疲れてんだから、これ以上疲れさせんな!」
その間に割って入ったのは八左ヱ門だ。彼は手に掴んだ何かを二人の間に差し入れ、その注意を逸らす。しかし、その手にあるものを見た三郎が柳眉を跳ね上げ、目の前に突き出された八左ヱ門の手首を掴んだ。
「これは私の秘蔵の酒じゃないか……どっから出してきた」
「あ、僕が出した。もう飲まなきゃやってられないでしょ?」
「雷蔵!?」
三郎は雷蔵の言葉に泣きそうな声を上げた。普段から顔を借りている手前、三郎は雷蔵に強く出られない。雷蔵もそれをよく分かっているため、もう一本隠してあった三郎の酒を既に開けて勘右衛門と飲みはじめている。それを目の当たりにした三郎はがっくりと肩を落とし、口のなかで泣き言ともつかぬ愚痴をこぼした。
「あ、良い酒だな。さすがは三郎」
対する兵助は勘右衛門から回されたお猪口に八左ヱ門の手から奪った酒を注ぎ、ひとり先に楽しんでいる。それを見た三郎は力尽きたように八左ヱ門の手首を放し、深い深い溜息をついたあとに引き寄せたお猪口を八左ヱ門に突き出した。
「こうなったらトコトンまで飲んでやる! さあ、八左ヱ門注げ!」
「ほらよ。あ、雷蔵、肴は?」
「あー今はおまんじゅうしかない。勘右衛門たち何かある?」
「部屋に戻れば豆腐がある」
「豆腐以外で!」
「あとは炒り豆くらいかなあ……兵助、取ってくる?」
「そうしよう」
八左ヱ門の拒否を意に介した様子もなく、勘右衛門に促されるまま兵助は立ち上がる。無視される形となった八左ヱ門はムッとした顔をしたが、酒が喉を通ると機嫌を直し、彼らをにこにこと見送った。――しかし、彼らは知らない。このときが最も幸せで穏やかな時間であったことを。
しばらく後にその部屋の戸を開けたのが先程出て行った二人よりも六人ばかり多かったことから、彼らの平穏な時間は一瞬にして崩れ去ったのである。
| SS::1000のお題集 | 12:34 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,03, Monday
「よし! 今日は裏々々々々々々山まで登ったり下りたりしたあと、みんなでバレーボールしよう!」
委員会開始早々に告げられた言葉に、平滝夜叉丸以下体育委員会の面々は揃って顔を引きつらせた。それもそのはず、今委員長が告げた言葉にいくつ「裏」が入っていただろうか。しかも、登ったり下りたり、と簡単に言うが、実際に行く道は平坦どころか獣道も良いところなのである。委員のなかで誰よりも早く我に返った滝夜叉丸は、背後で始める前から魂を飛ばしている下級生二人に気づき、精一杯の険しい表情で目の前の青年へと口を開いた。
「な、七松先輩! いくらなんでも無茶苦茶すぎます!」
「何が?」
しかし、返ってきた言葉は彼の危惧など気づいてすらいないもので、滝夜叉丸は思わず絶句した。――しかも、これが本気なのだから性質が悪い。
「何が、って……」
「ほら、早く準備しろ! 出発するぞ!」
追い撃ちをかけるように告げられた言葉に、滝夜叉丸は今度こそ絶句する。どうしたら、と別の切り口を求めて周囲を見遣れば、ひとつ下の後輩が下級生二人の魂を鼻から戻していた。その瞳には既に諦念が浮かんでおり、滝夜叉丸はそれ以上もう何も言うことができなくなる。魂を戻された下級生たちも委員長の様子を見て抵抗は無駄だと悟ったらしく、暗い顔で走る準備をしはじめた。けれど、その背中があまりにも悲痛であったため、滝夜叉丸はせめてもの抵抗として口を開いた。
「七松先輩……登ったり下りたりは一回までにしましょう」
「何で?」
「……バレーボールもなさりたいのでしょう? 裏々々々々々々山まで何度も登ったり下りたりしたら、すぐ夕飯の時間になってしまいますよ」
これは事実だ。それ以前に、裏々々々々々々山まで往復する時間があるかどうかも怪しい。勿論、小平太と滝夜叉丸だけならば彼の望みを叶えることもできよう。しかし、ここには無自覚方向音痴の三之助にまだ体力のない四郎兵衛、金吾がいるのだ。彼らのことを考慮すれば、どうしたって時間は有り余るほどに必要になる。
「……さすがに仕方がないかあ」
さすがの小平太も下級生の体力については把握しているらしい。とにもかくにも何とか下級生たちを屍にしないで済みそうなことに滝夜叉丸は胸を撫で下ろしながら、それでも地獄の入口となるであろう忍術学園の校門を見て深い溜息をついたのであった。
委員会開始早々に告げられた言葉に、平滝夜叉丸以下体育委員会の面々は揃って顔を引きつらせた。それもそのはず、今委員長が告げた言葉にいくつ「裏」が入っていただろうか。しかも、登ったり下りたり、と簡単に言うが、実際に行く道は平坦どころか獣道も良いところなのである。委員のなかで誰よりも早く我に返った滝夜叉丸は、背後で始める前から魂を飛ばしている下級生二人に気づき、精一杯の険しい表情で目の前の青年へと口を開いた。
「な、七松先輩! いくらなんでも無茶苦茶すぎます!」
「何が?」
しかし、返ってきた言葉は彼の危惧など気づいてすらいないもので、滝夜叉丸は思わず絶句した。――しかも、これが本気なのだから性質が悪い。
「何が、って……」
「ほら、早く準備しろ! 出発するぞ!」
追い撃ちをかけるように告げられた言葉に、滝夜叉丸は今度こそ絶句する。どうしたら、と別の切り口を求めて周囲を見遣れば、ひとつ下の後輩が下級生二人の魂を鼻から戻していた。その瞳には既に諦念が浮かんでおり、滝夜叉丸はそれ以上もう何も言うことができなくなる。魂を戻された下級生たちも委員長の様子を見て抵抗は無駄だと悟ったらしく、暗い顔で走る準備をしはじめた。けれど、その背中があまりにも悲痛であったため、滝夜叉丸はせめてもの抵抗として口を開いた。
「七松先輩……登ったり下りたりは一回までにしましょう」
「何で?」
「……バレーボールもなさりたいのでしょう? 裏々々々々々々山まで何度も登ったり下りたりしたら、すぐ夕飯の時間になってしまいますよ」
これは事実だ。それ以前に、裏々々々々々々山まで往復する時間があるかどうかも怪しい。勿論、小平太と滝夜叉丸だけならば彼の望みを叶えることもできよう。しかし、ここには無自覚方向音痴の三之助にまだ体力のない四郎兵衛、金吾がいるのだ。彼らのことを考慮すれば、どうしたって時間は有り余るほどに必要になる。
「……さすがに仕方がないかあ」
さすがの小平太も下級生の体力については把握しているらしい。とにもかくにも何とか下級生たちを屍にしないで済みそうなことに滝夜叉丸は胸を撫で下ろしながら、それでも地獄の入口となるであろう忍術学園の校門を見て深い溜息をついたのであった。
| SS::1000のお題集 | 19:59 | comments (x) | trackback (x) |
2011,09,30, Friday
「合わない」
目の前に揃った帳簿を眺め、会計委員長潮江文次郎は低い声を吐き出した。息を詰めて彼の計算を見守っていた会計委員たちは、その言葉に揃って泣き出しそうな顔をする。それもそのはず、すでに計算は三回目、時刻も亥の刻を過ぎたところだからだ。もうずっと合わない帳簿と戦いつづけて早数刻、もはや心身ともに限界が訪れていた。
「……もう一回だ」
「潮江先輩、しかし」
唸るように呟いた文次郎に、三木ヱ門が小さく声を上げる。帳簿とそろばんに落としていた視線をちらりと上げれば、精根尽き果てた下級生たちが目に入った。
「左門、佐吉、団蔵! 起きんか! やり直しだ!」
文次郎は三木ヱ門の意見を無視し、よく通る声で下級生たちの名を呼ぶ。一年の二人はそれに弾かれたように姿勢を正したが、三年の左門はぼんやりと中空を見ながら小さく呟いた。
「ぼくはねていない……」
「寝てるよ」
溜息とともに三木ヱ門が同じく呟いた。さすがに四年の彼はまだしっかりした意識を保っているようだが、顔には明らかに疲れが見える。それに文次郎はお決まりの台詞を言おうとしたが、あることに気づいて声の調子を落とした。
「三木ヱ門、団蔵の机の下に落ちている紙を拾ってくれないか?」
「えっ……? ああ、これですか。って、団蔵! こらお前……!」
「ふぇ?」
「ふぇ? じゃない! お前これ……帳簿じゃないか!」
「ええーっ!?」
文次郎の予想どおり、落ちていた紙は帳簿の一部であったらしい。道理で計算が合わないはずだ、と文次郎は深い溜息をついた。
「何度計算しても帳簿が合わないと思ったら……そりゃ一枚分抜けてたら合わないはずだよ!」
文次郎の次に年長である三木ヱ門には、先程までの計算し直しの三回の間に随分負担がかかっている。それを思えば責める口ぶりになっても仕方がないであろう。
しかし、文次郎はさらに言い募ろうとする三木ヱ門を制し、残った一枚の帳簿を手招いた。
「それを足してさっきの帳簿と合わせて、帳尻が合えば今日は仕舞いだ」
「やったー!」
文次郎の言葉に一年生二人がそれぞれ歓声を上げる。しかし、計算が合わないために三度も計算させられた三木ヱ門としては怒りが収まらないらしく、少しばかり険しい表情で団蔵をねめつけた。
「う……すみませんでした……」
「三木ヱ門、そろばんを持て」
「え?」
「お前も計算だ。俺がこっちを計算するから、お前はこの帳簿の合計をもう一度出してくれ」
文次郎は三木ヱ門を呼ぶと、目の前に詰んであった帳簿数冊を手渡した。何度も計算しているとはいえ、この最後の詰めで計算が合わないという事態にだけは陥りたくない。その考えは三木ヱ門にも伝わったようで、彼は一変して表情を引き締めると、自分の席へ戻り帳簿とそろばんを揃えた。
パチパチ、とそろばんの珠を弾く音と紙を繰る音だけが部屋に響く。息を詰めて二人を見つめる下級生たちの唾を飲む音すら大きく聞こえそうだ。それに一年生二人がなおさら身を固くしたとき、文次郎の手が止まった。
「三木ヱ門、そっちは」
「終わりました。お願いします」
「…………よし、間違いないな。あとはこれを」
文次郎は再度帳簿を確認し、最後に残った一枚分の計算を合わせた。――パチパチ、とそろばんを弾く。数度弾いて動きを止めた文次郎は、固唾を飲んで見守る下級生たちを見やって大きく口を開いた。
「全て合った。――これで委員会を終了する」
「や、やったあああああっ!」
「ふおっ!?」
三木ヱ門と一年生たちが揃って歓声を上げる。その声に今まで目を開けたまま寝ていた左門も覚醒した。それを横目に見やりながら、文次郎は自分の前に積み上がった帳簿類を全て揃えて片付け、特製の十キロそろばんを懐へしまい込んだ。
「では、解散!」
文次郎の一声で、委員たちは各々長屋へと戻っていく。それを見送った文次郎は、小さく息をついてから立ち上がった。――計算が合わないのは、また誰かが計算間違いをしているのかと思ったが、まさか帳簿が一枚足りないせいだったとは。全く予想だにしなかった事態に文次郎は頭を掻く。同時に、二回目の計算と三回目の計算の値が同じだったことに小さく口の端を上げた。
(――少しはやるようになった、ってことか)
これまでは三度計算し直しても合わなかった計算が、二度でぴたりと合うようになった事実に文次郎は笑う。いつの間にか随分と成長していた彼らに少しの頼もしさを感じながら、彼もまた委員会室を離れたのだった。
目の前に揃った帳簿を眺め、会計委員長潮江文次郎は低い声を吐き出した。息を詰めて彼の計算を見守っていた会計委員たちは、その言葉に揃って泣き出しそうな顔をする。それもそのはず、すでに計算は三回目、時刻も亥の刻を過ぎたところだからだ。もうずっと合わない帳簿と戦いつづけて早数刻、もはや心身ともに限界が訪れていた。
「……もう一回だ」
「潮江先輩、しかし」
唸るように呟いた文次郎に、三木ヱ門が小さく声を上げる。帳簿とそろばんに落としていた視線をちらりと上げれば、精根尽き果てた下級生たちが目に入った。
「左門、佐吉、団蔵! 起きんか! やり直しだ!」
文次郎は三木ヱ門の意見を無視し、よく通る声で下級生たちの名を呼ぶ。一年の二人はそれに弾かれたように姿勢を正したが、三年の左門はぼんやりと中空を見ながら小さく呟いた。
「ぼくはねていない……」
「寝てるよ」
溜息とともに三木ヱ門が同じく呟いた。さすがに四年の彼はまだしっかりした意識を保っているようだが、顔には明らかに疲れが見える。それに文次郎はお決まりの台詞を言おうとしたが、あることに気づいて声の調子を落とした。
「三木ヱ門、団蔵の机の下に落ちている紙を拾ってくれないか?」
「えっ……? ああ、これですか。って、団蔵! こらお前……!」
「ふぇ?」
「ふぇ? じゃない! お前これ……帳簿じゃないか!」
「ええーっ!?」
文次郎の予想どおり、落ちていた紙は帳簿の一部であったらしい。道理で計算が合わないはずだ、と文次郎は深い溜息をついた。
「何度計算しても帳簿が合わないと思ったら……そりゃ一枚分抜けてたら合わないはずだよ!」
文次郎の次に年長である三木ヱ門には、先程までの計算し直しの三回の間に随分負担がかかっている。それを思えば責める口ぶりになっても仕方がないであろう。
しかし、文次郎はさらに言い募ろうとする三木ヱ門を制し、残った一枚の帳簿を手招いた。
「それを足してさっきの帳簿と合わせて、帳尻が合えば今日は仕舞いだ」
「やったー!」
文次郎の言葉に一年生二人がそれぞれ歓声を上げる。しかし、計算が合わないために三度も計算させられた三木ヱ門としては怒りが収まらないらしく、少しばかり険しい表情で団蔵をねめつけた。
「う……すみませんでした……」
「三木ヱ門、そろばんを持て」
「え?」
「お前も計算だ。俺がこっちを計算するから、お前はこの帳簿の合計をもう一度出してくれ」
文次郎は三木ヱ門を呼ぶと、目の前に詰んであった帳簿数冊を手渡した。何度も計算しているとはいえ、この最後の詰めで計算が合わないという事態にだけは陥りたくない。その考えは三木ヱ門にも伝わったようで、彼は一変して表情を引き締めると、自分の席へ戻り帳簿とそろばんを揃えた。
パチパチ、とそろばんの珠を弾く音と紙を繰る音だけが部屋に響く。息を詰めて二人を見つめる下級生たちの唾を飲む音すら大きく聞こえそうだ。それに一年生二人がなおさら身を固くしたとき、文次郎の手が止まった。
「三木ヱ門、そっちは」
「終わりました。お願いします」
「…………よし、間違いないな。あとはこれを」
文次郎は再度帳簿を確認し、最後に残った一枚分の計算を合わせた。――パチパチ、とそろばんを弾く。数度弾いて動きを止めた文次郎は、固唾を飲んで見守る下級生たちを見やって大きく口を開いた。
「全て合った。――これで委員会を終了する」
「や、やったあああああっ!」
「ふおっ!?」
三木ヱ門と一年生たちが揃って歓声を上げる。その声に今まで目を開けたまま寝ていた左門も覚醒した。それを横目に見やりながら、文次郎は自分の前に積み上がった帳簿類を全て揃えて片付け、特製の十キロそろばんを懐へしまい込んだ。
「では、解散!」
文次郎の一声で、委員たちは各々長屋へと戻っていく。それを見送った文次郎は、小さく息をついてから立ち上がった。――計算が合わないのは、また誰かが計算間違いをしているのかと思ったが、まさか帳簿が一枚足りないせいだったとは。全く予想だにしなかった事態に文次郎は頭を掻く。同時に、二回目の計算と三回目の計算の値が同じだったことに小さく口の端を上げた。
(――少しはやるようになった、ってことか)
これまでは三度計算し直しても合わなかった計算が、二度でぴたりと合うようになった事実に文次郎は笑う。いつの間にか随分と成長していた彼らに少しの頼もしさを感じながら、彼もまた委員会室を離れたのだった。
| SS::1000のお題集 | 20:18 | comments (x) | trackback (x) |
2011,09,29, Thursday
パタパタと軽い足音を立てて生徒が部屋までやってくる。それに顔を上げた土井半助は、視界に入った生徒が手に持っているものを見た瞬間に顔をしかめた。――もはや見慣れたとすら言っても良いそれは、ある人物から自分へと宛てられた矢文である。しかし、その内容があまりにも好ましくなかったため、半助は差し出されたそれをめちゃくちゃにして投げ捨ててやりたい衝動に駆られた。
「土井先生」
「諸泉尊奈門さんからです」
「お返事を門の前で待ってらっしゃいます」
三人組が口々に告げる内容に頭が痛くなる思いがした。
「追い返しなさい」
「土井先生〜俺たちがプロ忍に敵うと思ってるんですかあ?」
半助の言葉に生意気な口を利くのはきり丸だ。それに半助は露骨に嫌な顔をしたが、きり丸が言うことも道理である。
「……行くしかないのか」
半助が小さく呟くと、キリキリと胃の痛みが生じはじめる。やらなければならないことは山ほどあるのに、こういった雑事に時間を取られては作業が遅れている。ただでさえ学園長の突然の思いつきや一年は組の良い子たちが巻き込まれるトラブルに授業時間が大幅に削られているのだ。その遅れを取り戻すためには、いかに効率よく授業を進めるかが重要であるのに、その準備のために使えるはずの限りある時間を削られ、半助は深い溜息をついた。
「やっと来たか、土井半助! 私に恐れをなして逃げ出したのかと思ったぞ」
「諸泉くん、私は忙しいんだが……」
いつものとおりに指定された場所へ行くと、既にやる気十分の尊奈門が立っていた。それに半助は小さくぼやくが、溜息とともに吐き出されたそれは一切合財無視される。ひとり盛り上がりはじめる尊奈門に、半助はまた深い溜息をついた。
「文房具を武器にすることは認めないからな!」
「……はいはい」
もはやお決まりとなった台詞に惰性で答え、半助は軽く身構える。真っ直ぐに尊奈門を見れば、あれこれ策を練っているのはすぐに分かった。
(……着眼点は悪くないんだが、如何せん未熟なんだよなあ)
視線の動きやちょっとした仕草から、何を狙っているのか丸分かりである。半助は己に向かってくる尊奈門を軽くいなすと、その脳天に手刀を入れた。
「いっ……!」
「これで一本。もう良いだろう、私は忙しいんだ」
「なん、だと……! もっと真面目にやれ、土井半助!」
「真面目も真面目、大真面目なんだけどね。――大体、今のが真剣だったら間違いなく頭割られてるんだぞ。分かったら今日は帰った帰った! さっきから言っているけどね、私は忙しいんだ」
いつもならもう少し構ってやるところだが、今日は本当に忙しいのだ。半助は己を射殺さんばかりに睨みつける尊奈門を片手で追い払う仕草をすると、自分たちの〈決闘ごっこ〉を見物していた三人組を促して学園のなかへと戻っていく。
――最後に残された尊奈門はといえば、相変わらず自分と半助の間に隔たる大きな実力差に悔しさを噛みしめ、怒りの雄叫びを上げたのであった。
「土井先生」
「諸泉尊奈門さんからです」
「お返事を門の前で待ってらっしゃいます」
三人組が口々に告げる内容に頭が痛くなる思いがした。
「追い返しなさい」
「土井先生〜俺たちがプロ忍に敵うと思ってるんですかあ?」
半助の言葉に生意気な口を利くのはきり丸だ。それに半助は露骨に嫌な顔をしたが、きり丸が言うことも道理である。
「……行くしかないのか」
半助が小さく呟くと、キリキリと胃の痛みが生じはじめる。やらなければならないことは山ほどあるのに、こういった雑事に時間を取られては作業が遅れている。ただでさえ学園長の突然の思いつきや一年は組の良い子たちが巻き込まれるトラブルに授業時間が大幅に削られているのだ。その遅れを取り戻すためには、いかに効率よく授業を進めるかが重要であるのに、その準備のために使えるはずの限りある時間を削られ、半助は深い溜息をついた。
「やっと来たか、土井半助! 私に恐れをなして逃げ出したのかと思ったぞ」
「諸泉くん、私は忙しいんだが……」
いつものとおりに指定された場所へ行くと、既にやる気十分の尊奈門が立っていた。それに半助は小さくぼやくが、溜息とともに吐き出されたそれは一切合財無視される。ひとり盛り上がりはじめる尊奈門に、半助はまた深い溜息をついた。
「文房具を武器にすることは認めないからな!」
「……はいはい」
もはやお決まりとなった台詞に惰性で答え、半助は軽く身構える。真っ直ぐに尊奈門を見れば、あれこれ策を練っているのはすぐに分かった。
(……着眼点は悪くないんだが、如何せん未熟なんだよなあ)
視線の動きやちょっとした仕草から、何を狙っているのか丸分かりである。半助は己に向かってくる尊奈門を軽くいなすと、その脳天に手刀を入れた。
「いっ……!」
「これで一本。もう良いだろう、私は忙しいんだ」
「なん、だと……! もっと真面目にやれ、土井半助!」
「真面目も真面目、大真面目なんだけどね。――大体、今のが真剣だったら間違いなく頭割られてるんだぞ。分かったら今日は帰った帰った! さっきから言っているけどね、私は忙しいんだ」
いつもならもう少し構ってやるところだが、今日は本当に忙しいのだ。半助は己を射殺さんばかりに睨みつける尊奈門を片手で追い払う仕草をすると、自分たちの〈決闘ごっこ〉を見物していた三人組を促して学園のなかへと戻っていく。
――最後に残された尊奈門はといえば、相変わらず自分と半助の間に隔たる大きな実力差に悔しさを噛みしめ、怒りの雄叫びを上げたのであった。
| SS::1000のお題集 | 22:15 | comments (x) | trackback (x) |
2011,09,16, Friday
あ、と思ったときには遅かった。止めるよりも早く、その唇が己の黒髪に寄せられる。たった一房に寄せられた唇の感覚は自覚できるはずもないのに、髪を伝って脳の奥深くまで染み込むような心地がした。それに顔が熱くなるのを感じる。表情が硬いのが己の常だとあちこちで言われたものだが、今この瞬間にこそそれが発揮されればいいのに、と兵助は思った。――こんなふうに表情を崩しては、いくら忍たま経験が少ないこの男であっても、兵助の心情を理解してしまうであろう。
「兵助くん」
どこか舌足らずな口調ははじめこそ苛々させられたものだが、今は聞き慣れたせいか、むしろ心地好くすら感じる。それに兵助が思わず顔をしかめると、未だに彼の目の前で髪を捉えたままのタカ丸が兵助の視線をその視線で搦め捕った。
「――あなたが好きです」
何かを言わなくては、そう思うものの、普段ならばいくらでも湧いて出る言葉が出てこない。まるで唖のように黙ってしまった兵助へ、タカ丸は少し身を寄せる。後ろに退がろうとした兵助だが、それは未だ捉えられたままの髪が許してはくれなかった。
「タカ丸、さん」
唯一喉からこぼれ落ちたのは、今己を追い詰めている男の名前。それに問い返すように、男が眉を上げた。けれど、兵助の唇から漏れるのは微かな吐息ばかり。――応えられるわけがない。どんなに想い合ったとしても、自分たちの未来は明るくない。忍という立場にしても、同性という事実にしても、いずれは道を分かつときが来る。それならば、つかの間の幸福など知らないほうがいい。
喉の代わりに瞳を使って、兵助は相手にその思いを伝える。しかし、タカ丸は兵助のその視線を瞼を落とすことで遮り、未だ動けぬ兵助の唇に己のそれを寄せた。
それは兵助の瞳よりもさらに雄弁にタカ丸の想いを伝えてくる。その甘さに兵助はもはや抗うことすらできず、ただ己の瞼を下ろした。
「兵助くん」
どこか舌足らずな口調ははじめこそ苛々させられたものだが、今は聞き慣れたせいか、むしろ心地好くすら感じる。それに兵助が思わず顔をしかめると、未だに彼の目の前で髪を捉えたままのタカ丸が兵助の視線をその視線で搦め捕った。
「――あなたが好きです」
何かを言わなくては、そう思うものの、普段ならばいくらでも湧いて出る言葉が出てこない。まるで唖のように黙ってしまった兵助へ、タカ丸は少し身を寄せる。後ろに退がろうとした兵助だが、それは未だ捉えられたままの髪が許してはくれなかった。
「タカ丸、さん」
唯一喉からこぼれ落ちたのは、今己を追い詰めている男の名前。それに問い返すように、男が眉を上げた。けれど、兵助の唇から漏れるのは微かな吐息ばかり。――応えられるわけがない。どんなに想い合ったとしても、自分たちの未来は明るくない。忍という立場にしても、同性という事実にしても、いずれは道を分かつときが来る。それならば、つかの間の幸福など知らないほうがいい。
喉の代わりに瞳を使って、兵助は相手にその思いを伝える。しかし、タカ丸は兵助のその視線を瞼を落とすことで遮り、未だ動けぬ兵助の唇に己のそれを寄せた。
それは兵助の瞳よりもさらに雄弁にタカ丸の想いを伝えてくる。その甘さに兵助はもはや抗うことすらできず、ただ己の瞼を下ろした。
| SS::1000のお題集 | 21:40 | comments (x) | trackback (x) |
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