2012,01,04, Wednesday
「……楽しかったあ……!」
「そうか、そりゃ良かったな」
過去の記憶を持つ者たちと引き合わされたあと、斉藤タカ丸は心底そう感じている声で呟いた。それにタカ丸の帰路と同じ方向に用があるためにその隣を歩いていた久々知兵助――現世では久々知兵だが――が相槌を打つ。その言葉こそ突き放したような無愛想さがあるが、その表情は柔らかい。その様子は全く昔と変わらず、タカ丸は何だかひどくそれに安堵した。
「来年は、滝夜叉丸君も喜八郎君も、兵助君たちと同じ高校なんだよね」
「そうだな。今日は都合がつかなくて来られなかった三木ヱ門も、ウチの高校を受けると言っていた。まあ、あの三人なら余程のことがない限り、受かるだろう」
「……そう、だよねえ」
普段ならば明るい調子で同意するであろうタカ丸の声が暗い。それに兵がタカ丸を見やれば、タカ丸はすぐに取り繕ったように笑みを浮かべる。けれど、その表情も長くは保たれず、すぐに意気消沈した様子を見せた。
「――何かあるのか?」
「あ……いや、ううん……うーん……」
煮え切らない様子で肩を落として足を止めたタカ丸に、兵子も同じく一歩先で足を止める。少し身を捻ってタカ丸を振り返れば、タカ丸は珍しくひどく眉を下げて兵を上目遣いで見た。その視線に言葉こそ出さないままで問い返すと、タカ丸は少し言葉を選ぶように視線を泳がせたあとに口を開いた。
「……いいなあ、って」
「? どういうことだ?」
「だって。滝夜叉丸君も喜八郎君も三木ヱ門君も、みんなまた一緒なんでしょう? それなのに、俺は一緒に居られないの。それってすごく、淋しいというか……勿論、美容師になるために高校行かずに専門行くって決めたのは自分なんだけど、何か、ちょっと嫌な言い方だけど、みんなずるいなあって。――ああ、ごめん、俺今すごく馬鹿なこと言ってる。兵助君、忘れて?」
いつものような笑みを浮かべるタカ丸に、兵は呆れたように溜息をついた。――いつもどおりの表情を本人は浮かべているつもりなのだろうが、全く表情を取り繕えていない。これが本当に元忍者だろうか、と兵は己の手を持ち上げた。そのままタカ丸の顔までそれを運び、その中央にある鼻を軽く摘む。兵のその行動に驚いたタカ丸は身を引いたが、兵子はそれ以上手を伸ばすことはしないままに口を開いた。
「――方法は、ないわけじゃないだろう?」
「え?」
「同じ学校に通いたいんだろう? あんた、専門学校は今年卒業するって言ってたじゃないか。……専門から高校に行くなんて聞いたことないけど、やろうと思えばできないこともないだろう。一年後輩になったとしても、あんたにその気があるならウチの高校、受験してみれば良いじゃないか。
……昔だって髪結いの修行もしながら、忍者の修行もしてたあんただ。やろうと思えば何だってできるんじゃないのか?」
兵ははっきりとタカ丸に告げる。――そう、やろうと思えば何だってできる。そう思わなければ、現代(いま)を生きてはいられない。変わってしまった己や、未だ出会わぬ人たち。それでも希望を捨てなければ、いつかは、きっと。
それはタカ丸に告げる、というよりも、自分自身に言い聞かせている言葉だった。それを自覚した兵は、前言を撤回しようと口を開きかける。しかし、それよりも先にタカ丸が兵の両手を掴んだ。
「――間に合うかな」
「いや、今のはわすれ」
「ううん、間に合わせる! 俺、やる! 一年後じゃなくて、みんなと、滝夜叉丸君たちと一緒の学年になりたい。たとえ三年間だけでも、またみんなで一緒に過ごしたいんだもん。父さんにお願いして、何とか三年間高校生やらせてもらう!」
強く兵の手を握ったタカ丸は、はっきりとそう言葉を紡いだ。その瞳は真剣で、兵は忘れろ、と言おうとした唇を止めた。握られた手のひらは熱く、タカ丸の意志をそのまま宿しているようだ。気圧されるように半歩足を下げると、タカ丸がさらに兵へと身を乗り出した。
「兵助君、お願い! 俺を高校に入学できるようにして!」
「は……? いや、あの、私に裏口の伝手はないぞ」
「裏口入学じゃなくて! 勉強! 俺、美容師の勉強は結構頑張ってるつもりだけど、高校受験の勉強はしてないから、だから、その……勉強教えてください!」
驚いてとんちんかんなことを言う兵に、タカ丸は強い調子で首を横に振る。さらに身を乗り出して彼女へ乞う瞳は真剣で、兵は思わずその顎を引いていた。
「それは……構わないが……」
「本当!? やった、兵助君どうもありがとう! 兵助君に教えてもらったら絶対大丈夫だよ! 俺頑張るから!」
勢いよく己へ抱きついたタカ丸を受け止めきれず、兵はさらに半歩後じさる。けれどタカ丸は喜びに頭がいっぱいで彼女がよろめいたことすら気づかず、さらに兵を強く強く抱きしめた。まるで子どものようなその行為に、兵は小さく溜息をつく。そして、己の身体をぎゅうぎゅうと圧迫するタカ丸の頭を手で引きはがしながら口を開いた。
「――喜ぶのはまだ早いだろう。実際に専門卒業したあとに高校へ通えるかも分からないんだし、タカ丸さんのお父上が了承してくださるかも分からない。それに、専門学校は今年卒業でも、確か美容師の国家試験があるだろう? まずは試験に受かることが第一じゃないのか? そのために専門学校へ行ったんだろう」
「う……」
「とりあえず、ゆっくり今のことを考えて、お父上にも話してみろ。――言い出しっぺは私だし、専門卒業してから高校に入れるかどうか、ちょっと調べてみるから。もし受験できるようなら、協力は惜しまないし」
「うん、兵助君ありがとう! 俺、父さんと話してみる!」
今泣いたカラスがもう笑う、と言わんばかりにタカ丸は笑み崩れた。せっかく兵が空けた距離も構わず、再び彼女の身体を抱きしめる。背骨を圧迫する力に兵は顔をしかめたが、あまりにもタカ丸が嬉しそうにしているのでもはや小言を漏らす気も失せてしまう。まるで大きな犬に懐かれているようだ、と頭の隅で思いながら、彼女は喜びで前も周囲も見えていないタカ丸の背中を宥めるように叩いた。
「そうか、そりゃ良かったな」
過去の記憶を持つ者たちと引き合わされたあと、斉藤タカ丸は心底そう感じている声で呟いた。それにタカ丸の帰路と同じ方向に用があるためにその隣を歩いていた久々知兵助――現世では久々知兵だが――が相槌を打つ。その言葉こそ突き放したような無愛想さがあるが、その表情は柔らかい。その様子は全く昔と変わらず、タカ丸は何だかひどくそれに安堵した。
「来年は、滝夜叉丸君も喜八郎君も、兵助君たちと同じ高校なんだよね」
「そうだな。今日は都合がつかなくて来られなかった三木ヱ門も、ウチの高校を受けると言っていた。まあ、あの三人なら余程のことがない限り、受かるだろう」
「……そう、だよねえ」
普段ならば明るい調子で同意するであろうタカ丸の声が暗い。それに兵がタカ丸を見やれば、タカ丸はすぐに取り繕ったように笑みを浮かべる。けれど、その表情も長くは保たれず、すぐに意気消沈した様子を見せた。
「――何かあるのか?」
「あ……いや、ううん……うーん……」
煮え切らない様子で肩を落として足を止めたタカ丸に、兵子も同じく一歩先で足を止める。少し身を捻ってタカ丸を振り返れば、タカ丸は珍しくひどく眉を下げて兵を上目遣いで見た。その視線に言葉こそ出さないままで問い返すと、タカ丸は少し言葉を選ぶように視線を泳がせたあとに口を開いた。
「……いいなあ、って」
「? どういうことだ?」
「だって。滝夜叉丸君も喜八郎君も三木ヱ門君も、みんなまた一緒なんでしょう? それなのに、俺は一緒に居られないの。それってすごく、淋しいというか……勿論、美容師になるために高校行かずに専門行くって決めたのは自分なんだけど、何か、ちょっと嫌な言い方だけど、みんなずるいなあって。――ああ、ごめん、俺今すごく馬鹿なこと言ってる。兵助君、忘れて?」
いつものような笑みを浮かべるタカ丸に、兵は呆れたように溜息をついた。――いつもどおりの表情を本人は浮かべているつもりなのだろうが、全く表情を取り繕えていない。これが本当に元忍者だろうか、と兵は己の手を持ち上げた。そのままタカ丸の顔までそれを運び、その中央にある鼻を軽く摘む。兵のその行動に驚いたタカ丸は身を引いたが、兵子はそれ以上手を伸ばすことはしないままに口を開いた。
「――方法は、ないわけじゃないだろう?」
「え?」
「同じ学校に通いたいんだろう? あんた、専門学校は今年卒業するって言ってたじゃないか。……専門から高校に行くなんて聞いたことないけど、やろうと思えばできないこともないだろう。一年後輩になったとしても、あんたにその気があるならウチの高校、受験してみれば良いじゃないか。
……昔だって髪結いの修行もしながら、忍者の修行もしてたあんただ。やろうと思えば何だってできるんじゃないのか?」
兵ははっきりとタカ丸に告げる。――そう、やろうと思えば何だってできる。そう思わなければ、現代(いま)を生きてはいられない。変わってしまった己や、未だ出会わぬ人たち。それでも希望を捨てなければ、いつかは、きっと。
それはタカ丸に告げる、というよりも、自分自身に言い聞かせている言葉だった。それを自覚した兵は、前言を撤回しようと口を開きかける。しかし、それよりも先にタカ丸が兵の両手を掴んだ。
「――間に合うかな」
「いや、今のはわすれ」
「ううん、間に合わせる! 俺、やる! 一年後じゃなくて、みんなと、滝夜叉丸君たちと一緒の学年になりたい。たとえ三年間だけでも、またみんなで一緒に過ごしたいんだもん。父さんにお願いして、何とか三年間高校生やらせてもらう!」
強く兵の手を握ったタカ丸は、はっきりとそう言葉を紡いだ。その瞳は真剣で、兵は忘れろ、と言おうとした唇を止めた。握られた手のひらは熱く、タカ丸の意志をそのまま宿しているようだ。気圧されるように半歩足を下げると、タカ丸がさらに兵へと身を乗り出した。
「兵助君、お願い! 俺を高校に入学できるようにして!」
「は……? いや、あの、私に裏口の伝手はないぞ」
「裏口入学じゃなくて! 勉強! 俺、美容師の勉強は結構頑張ってるつもりだけど、高校受験の勉強はしてないから、だから、その……勉強教えてください!」
驚いてとんちんかんなことを言う兵に、タカ丸は強い調子で首を横に振る。さらに身を乗り出して彼女へ乞う瞳は真剣で、兵は思わずその顎を引いていた。
「それは……構わないが……」
「本当!? やった、兵助君どうもありがとう! 兵助君に教えてもらったら絶対大丈夫だよ! 俺頑張るから!」
勢いよく己へ抱きついたタカ丸を受け止めきれず、兵はさらに半歩後じさる。けれどタカ丸は喜びに頭がいっぱいで彼女がよろめいたことすら気づかず、さらに兵を強く強く抱きしめた。まるで子どものようなその行為に、兵は小さく溜息をつく。そして、己の身体をぎゅうぎゅうと圧迫するタカ丸の頭を手で引きはがしながら口を開いた。
「――喜ぶのはまだ早いだろう。実際に専門卒業したあとに高校へ通えるかも分からないんだし、タカ丸さんのお父上が了承してくださるかも分からない。それに、専門学校は今年卒業でも、確か美容師の国家試験があるだろう? まずは試験に受かることが第一じゃないのか? そのために専門学校へ行ったんだろう」
「う……」
「とりあえず、ゆっくり今のことを考えて、お父上にも話してみろ。――言い出しっぺは私だし、専門卒業してから高校に入れるかどうか、ちょっと調べてみるから。もし受験できるようなら、協力は惜しまないし」
「うん、兵助君ありがとう! 俺、父さんと話してみる!」
今泣いたカラスがもう笑う、と言わんばかりにタカ丸は笑み崩れた。せっかく兵が空けた距離も構わず、再び彼女の身体を抱きしめる。背骨を圧迫する力に兵は顔をしかめたが、あまりにもタカ丸が嬉しそうにしているのでもはや小言を漏らす気も失せてしまう。まるで大きな犬に懐かれているようだ、と頭の隅で思いながら、彼女は喜びで前も周囲も見えていないタカ丸の背中を宥めるように叩いた。
| SS::記憶の先 | 23:31 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
「……このバ神崎! お前はいい加減にしろとあれほど……だから、僕が迎えに行くまで教室に残っていろと言っただろう! お前を捜して校内を走り回るこっちの身にもなれ!」
「何の話ですか、田村三木ヱ門先輩。私は生徒会室に向かっていたところなのですが」
ようやく見つけた後輩の腕を引っつかんで怒鳴りつけた三木ヱ門であるが、対する後輩――神崎 左代子(さよこ)の反応に絶句した。以前から――それこそ、彼女が忍術学園の生徒であり、神崎左門という名の少年であったときからの方向音痴は未だ健在であり、それゆえに現在では単独行動を禁じられているにもかかわらずこの発言。抑えていた怒りがふつふつと湧きあがるのを感じながら、三木ヱ門は今にも再び走り出しそうな左代子の腕を掴みなおして睨みつけた。
「お前な、自分が『決断力のある方向音痴』って自覚しているだろう。馬鹿は死ななきゃ直らないと言うが、死んでも直らないとはどういうわけだ?」
「失敬な! 今の私は『決断力のある方向音痴』改め『決断力のある女』なのです。方向音痴じゃありません」
「既に迷ってるだろうが! 今何分か分かってるか!? お前が教室を出た時刻が午後三時過ぎ、今は午後三時半だ! 因みにお前の教室から生徒会室までの距離は時間にしておよそ五分! 方向音痴でなければとっくのとうに生徒会室に辿り着いているんだよ!」
唇を尖らせる左代子に三木ヱ門は苛々と怒鳴りつけた。彼女を迎えに行けば、既に出たと同じく方向音痴の次屋三之助(こっちは相変わらずの無自覚だ)にそう告げられ、さらに富松作兵衛に何度も頭を下げられたのだ。こちらも相変わらずの妄想癖を発揮する富松を宥めすかして落ち着かせ、三木ヱ門は目撃情報を辿って校舎内を右から左へと駆け回り、そうしてようやく今彼女を発見したというわけだ。左代子が大人しく教室で待っていればこんな無駄をすることはなかったのに、と三木ヱ門は大きな溜息をつき、人の話を聞かずに駆け出そうとする左代子の腕を引いた。
昔はそれなりに力もあった左代子だが、現在の性別は女、今生でも男に生まれた三木ヱ門の力に敵うはずはない。それを承知の三木ヱ門は己の身体でよろめいた左代子を受け止めると、その腰を攫ってまるで荷物か何かのように左代子を小脇に抱えた。
「ちょっと! 何をするんですか!」
「うるさい、バ神崎! お前はもう自分の足で歩くな、面倒だから! こら、暴れるな、大人しくしろ! ほら、生徒会室に行くぞ!」
「ちょっと! セクハラですよ、田村先輩! 放してくださいー!」
「こんなときだけ現代語を駆使しおって腹立たしい! セクハラだの何だの言う暇があれば! 今すぐ校内地図を頭に叩き込み、正確な方位を掴んで、全ての教室に寄り道せずに向かえるようにしろ!」
同学年でのあだ名が「豆タンク」と聞いて、思わず納得してしまった三木ヱ門である。男としては決して大柄ではない三木ヱ門が軽々小脇に抱えられるほど、左代子の身体は小さい。そのくせ元気いっぱいに勢いよく走り出してはどこかへ消えていくこの少女にはまさに相応しい例えであろう。未だ己の脇の下で暴れている左門を抱えなおしたあと、三木ヱ門は小さく溜息をついた。
「いいか、次からは必ず教室にいるようにしろ。それならこんな風に抱えたりもせずに、ちゃんと生徒会室に連れていってやる。第一、富松にも止められたんじゃないのか? あいつ、可哀想なくらい僕に謝っていたぞ」
「作兵衛は心配性過ぎるんですよ! 私なら大丈夫なのに」
「大丈夫じゃなかっただろうが! あーもういい、時間が勿体ない! 早く生徒会室に行くぞ!」
「ちょっと、下ろしてからにしてくださいよ!」
「下ろした瞬間に走り出す気満々だろうが、お前! 良いから大人しくしていろ!」
ぎゃんぎゃん、と脇の下で暴れる左代子とやり合いながら、三木ヱ門は歩き出す。その心はまだ憤懣やるかたない気持ちでいっぱいだったが、そのすぐあとに聞こえた耳慣れた大声に彼は少しだけ慰められた。
『三之助、いい加減にしろ!』
よく通る高い声は、現世では女子に生まれた己の同輩だ。――彼女もまた、同じ委員会の方向音痴な後輩に悩まされている同士でもある。しかし、彼女は自分とは正反対に後輩が男のまま生まれ、彼女自身は女子に生まれている。その分、身体能力にも差が生まれ、後輩を捕らえるのに苦労しているらしい。最終的に縄で捕獲するまでになっている彼らの様子を見れば、同じく方向音痴のじゃじゃ馬であっても、こうして簡単に捕獲できる己のほうがまだマシのような気がするのだ。それがドングリの背比べだとは気づかぬまま、三木ヱ門は少し気分を持ちなおして未だ暴れる左代子を揺らすことで黙らせ、生徒会室へ歩き始めたのだった。
| SS::記憶の先 | 03:10 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
「あれ、鉢屋君」
「不破か」
廊下でばったりと出会った二人はそれぞれ異なった表情を浮かべる。不破雷は笑顔、鉢屋三郎は顔を少しだけしかめる。それに雷は少しだけ傷つきながらも、表情には出さずに続けた。
「同じ学年でも階が違うと全然会わないものだねえ」
「そうだな」
別に会いたいと思っていない、とありありと顔に浮かべる三郎に雷は苦笑した。今生の三郎は随分と素直なようだ。いや、昔は忍として己に抑制をかけていただけで、二人きりのときはとても素直に感情を見せてくれた。――そこまで考えて、失ったものの大きさを改めて噛みしめる。けれど、手のひらから滑り落ちていったものはもう戻らないのだ。
そこまで考えて、雷は目の前で少し居心地悪そうに立っている三郎の顔色が少し悪いことに気づいた。その瞬間に、己の血が引いていく。医療も室町時代から比べものにならないほど進歩した現代、滅多なことなどあるはずもないと知っていてもなお、雷は三郎の顔に手を伸ばしていた。
「ちょ、何……!?」
「――熱は、なさそうだけど……ねえ、鉢屋君体調悪くない? 何か顔色悪いんだけど」
「悪くねえよ! ちょ、離れろ!」
額で熱を測ってみるが、とりあえずは平熱のようだ。頬もそれほど熱くはない。しかし、よく確かめようと三郎の顔を覗き込もうとした瞬間、額を押し返される。何だ、と思うよりも早く、三郎の耳が真っ赤になっていることに気づいて、雷は瞬きをした。――同時に、自分の失態に気づく。
「あ……ごめんごめん、つい癖で」
「癖って……勘弁してくれよ」
過去の自分たちに距離などあってなきがもの。これくらいの接触など照れるうちにすら入らなかった。けれど、今は違うのだ。現代で先に進んでいく三郎と、いつまでもどこか室町のままでいる自分。どんどん離れていく距離に雷は動揺しつつも、三郎から一歩身を引いた。
「でも、本当に体調悪くないんだよね?」
「ないって言ってるだろ! しつこいなあ……! 光の加減の問題だろ、ほら」
何ともないと思っても不安が拭い去れず、もう一度尋ねる雷に三郎は尚更顔をしかめて一歩踏み出した。ちょうど明かりの真下に来た三郎の顔は、確かに何ともない。それに雷が思わず胸を撫で下ろすと、三郎は怪訝そうに彼女を見やって首を捻った。そのまま挨拶もそこそこに立ち去ってしまう。そんな三郎の背中を見送りながら、雷は失敗したな、と溜息をついた。
(――そりゃ、親しくもない女にあんなことされたら引くよねえ……しかも、三郎だし)
彼の性格は雷が一番よく知っている。――少なくとも、過去の彼に関しては、だが。けれど、今まで雷が記憶のあるなし関係なく出会ってきた前世からの縁のある人々を考える限り、不思議なもので大きく性格が違う人間というのはいなかった。もしかしたら、魂のようなものに人格が刻み込まれているのかもしれない。そして、それが本当ならば、人間そうそう変わることはないのだろう。
同時に自分が先程触れた熱を思い出す。握りしめた手のひらにはまだ三郎の頬の温かさが残っていた。
(――大丈夫。三郎は生きてる)
あのときに感じた体温の抜けていく感覚を思い出して、雷は身体を震わせる。もう二度と感じたくないあの恐怖。過去に見た恐ろしい光景を頭から振り払って、雷は手に残った熱を逃がさぬように強く握りしめて歩き出した。
その背中を見ている人間には気づきもしないで。
「おー、ちょいそこのお前」
「は……?」
「名前、何ていうの?」
三郎は見知らぬ男から声をかけられて顔をしかめた。――今日は厄日だ。先程は顔見知り程度でしかない女にやたらと触られ、今度は何故か上級生に絡まれる。今日の占いは最下位じゃなかったはずだ、とどうでもいいことを考えながら、三郎は近寄ってくる相手に向き直った。
「普通、名前を聞くときは先に名乗りませんか?」
「ん? ああ、そうか、そういえば俺名乗ってなかったな。二年の七松、七松小平太」
「……一年の鉢屋です」
「鉢屋何?」
「……三郎ですけど。それが何か?」
七松と名乗る男にやたらと迫られ、三郎は露骨に嫌そうな顔をする。何だこいつは、と思っている間に小平太が続ける。
「なあ、不破とお前ってどういう関係?」
「は……?」
その問いに今度こそ三郎は思考が止まった。何の話だ、と相手を見つめる。しかし、三郎の驚きなど意に介さず、小平太は唇を尖らせた。
「だって、不破が男に対してあんな風にするの初めて見たんだもん。俺がどんなにアプローチかけても全然振り向いてくれないくせに」
「いや、それは何とも思われてないからじゃ……?」
うっかり本音を口にしてしまい、三郎はしまったと唇を噛みしめた。普段ならばこんな失態はしない。――先程、雷に触れられたことが予想以上に己を動揺させていることに今更ながら気がついて、三郎は苦々しく表情を歪めた。
「じゃあ、お前は何か思われてるの?」
「そんなの、俺が知るわけないじゃありませんか」
「ふーん……」
至近距離で見つめられ、三郎は居心地の悪さに視線を逸らした。第一、この男に雷は合わない。
「あなたには黒髪で小生意気なあいつが――……っ!?」
三郎はそこまで言いかけて、己に信じられない気持ちになった。間違いなく初対面のはずなのに、どうしてそんなことを思ったのだろう。――この男の隣に居るべきは、黒髪で小生意気な存在。目の前でちらついたのは、小さな光景。小平太の傍らに立つ風で流れる美しい黒髪の持ち主。知っているはずもないのに。
「ふーん……やっぱり好きなんじゃん」
「何がですか」
「不破のこと。――そんな見え透いた嘘までついて、俺を遠ざけようとするんだから」
「嘘なんかじゃ……!」
そんなことあるわけない、と思いながらも、その根拠が見つけられない。今まで一度たりともそんなことなかったはずなのに、と三郎は唇を噛みしめる。それは確かなことなのに、それを証明する手立てがない。それがひどくもどかしく、三郎は思わず八つ当たり気味に小平太を睨みつけた。
「ま、いいや。敵は少ないに越したことないしね。お前が不破を好きじゃないってんなら、その方が良いよ。お前に振られて傷心の不破を俺が慰めるから」
「……さようですか」
三郎は何故かざわめく胸に苛立ちを感じながらも、投げやりに呟いた。――苛立つけれども、どこか確信がある。小平太の思い通りになどならないと。その根拠がまた存在しないために尚更苛々が募ったが、もはやそんなことはどうでもよい。ただ、早くこの場から立ち去りたかった。
「ま、じゃあ後は俺の邪魔だけはするなよー?」
「しませんからご安心を。じゃあ、俺はこれで」
何を妄想したのかひどく楽しげで自信に満ちた小平太にげんなりしつつ、三郎はあっさりと踵を返した。――何もかもが見当違いの人間と話をするのは消耗する。けれど、小平太の言葉が何故か耳に残って、三郎は苛立たしげに溜息をついた。
(……どうして俺が不破を好きにならなきゃならないんだ……)
あんなお節介焼き、と口の中で呟いて、三郎は苛々と前髪を掻きむしる。故に彼はまだ気づいていなかった。人に顔を触れられることが極端に嫌いな己が、彼女の手のひらだけは自然に受け入れていたことに。
| SS::記憶の先 | 02:59 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
どう考えても前世のことを書いてたら終わらない+話が先に進まないので大前提の設定を箇条書きにしてみました。
以降、『記憶の先』はこの設定を前提にして話を進めていきます。
なお、前世の記憶ですので、=死にネタです。大抵が不遇です。苦手な方はご注意ください。
続き▽
以降、『記憶の先』はこの設定を前提にして話を進めていきます。
なお、前世の記憶ですので、=死にネタです。大抵が不遇です。苦手な方はご注意ください。
続き▽
| SS::記憶の先 | 02:45 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
鉢屋三郎がその少女の存在に気付いたのは、彼女の涙を見た後のことだった。
高校に入学してしばらくして、ようやく〈高校生〉という身分にも慣れてきた頃にひとりの少女とぶつかった。顔も名前も知らぬ彼女は己の顔を見て、驚いたように目を見開いた後に大粒の涙を流す。その大きな瞳から零れる透明な涙が印象的で、鉢屋は彼女の顔が忘れられなかったのだ。
その少女を再び見たのは、それからしばらく過ぎた放課後の図書室でのこと。
あの時傍に居た友人に彼女の名前と――下らないが「図書室の天使」と呼ばれていることと、同じ図書委員であるひとつ上の先輩と付き合っているらしいということを聞いた。その時はただ「ふうん」と喉を鳴らして終わり、興味すら持たなかったはずだ。だが、三郎は何故か彼女をもう一度見てみたいような気がして、図書室へと足を運んだのだった。
(――いた)
当番なのだろう、カウンターに座って貸し出しや返却の作業をしている。穏やかな笑みを常に浮かべる少女は慕われているらしく、不思議と彼女の周りには人が絶えなかった。それでも静謐な空気が乱されないのは、彼女自身がひどく細やかに気を配っている所為と、その後ろで威圧的な空気を醸し出している青年に怯えてのことだろう。
(……あれが、彼氏の〈図書室の主〉か)
司書よりも蔵書に詳しい、と一部では評判らしい。三郎は記憶から「中在家 長次」という名前を掘り起こして目を眇める。少し離れた書架で本を選ぶ振りをしながら彼らを窺うと、確かにひどく親しい様子は見て取れた。
少女が囁き声で彼に話しかけ、男はそれに頷く。男の口元に耳を寄せた少女の表情は嫌悪も羞恥も全く感じられない、それが当たり前の様子であり、三郎は何だか面白くない気持ちになる。そんな風に感じる自分に気付かぬまま、三郎は戯れに本を一冊抜いてカウンターへと歩み寄った。
「これ、借ります」
「あ、はい、貸出です、ね……」
どうやらカウンター内で別の作業も行っているらしい。何かを書き込んでいる手元から顔を上げた少女は、三郎の存在に驚きに目を見開いた。息を飲んで、大きな目を更に丸くする。しかし、すぐに我に返ったのか、少し困ったような表情で笑った。
「そこの貸出カードに名前と学年クラス、今日の日付を書いてください」
示された先には小さな箱に積まれた紙片。三郎が言われるがままにその紙へ記入している間に、少女は裏表紙の内側に貼られた返却期限リストに新しい判を捺し、カードを抜いて小さなファイルへと入れていた。書き終わった紙を三郎が渡せば、彼女はさっと紙に目を落として何かを確認すると、先程の小さなファイルに三郎の渡した紙を一緒に入れ、最後に本を三郎の方へ押し出した。
「……ごめんね、この間は驚いたでしょう?」
「――覚えてたのか、俺のこと」
本と共に届いたのは少女の囁き声。最初に驚いてはいたのもの、その後は全く何事もなかったように作業をされたので、三郎はもうなかったことにするのかと思っていたのだ。しかし、作業を終わらせてから、と思っていたのか、三郎が本を受け取りながら小さく返すと、彼女は困ったように笑った。
「ちょっと色々な要因が重なってね、涙が出てきちゃったの。ぶつかった時も随分心配させてしまったようだったし、気にしてないと良いなとは思ってたんだけど……それを言いに行くのも何か変でしょう? 今日会えて良かった」
「あんたも、気にしてたんだ?」
「そりゃあね、突然泣いたら誰だってびっくりするでしょう。……悪いことしたなあって、思ってたから」
その言葉は柔らかく、優しい。彼女の浮かべるその表情も同じで、三郎は何だかくすぐったいような心地にさせられた。しかし、笑う少女の表情の奥には、深い悲しみが見えた。
「不破?」
「え……!?」
思わず三郎が名を呼ぶと、彼女は驚いて固まった。何かを探るように彼の顔をじっと見詰める。居心地が悪くなったのは三郎の方で、彼は困惑をそのままに少女の顔を見詰め返した。
「な、何?」
「え? あ、ごめん、その……どうして名前知ってるんだろうと思って」
「ああ、それはあの時一緒に居たダチから聞いたから」
「そっか。……そうだよね。びっくりしちゃった。
でも、お友達もよく私のこと知ってたね? 私と同じクラスの人じゃなかった気がするけど」
「あんた、有名なんだってさ」
図書室の天使、と言うのも恥ずかしい呼称を口に上らせれば、彼女は少しだけ顔をしかめた。確かに、呼ばれて嬉しいかと問われれば、普通の感性を持つ人間ならば困惑する呼称である。それは彼女も同じのようで、けれど今まで浮かべていた柔らかい笑みにどこか突き放したような光を宿して溜め息を吐いた。
「買いかぶられてるなあ」
「ふうん……」
「――不破」
小さく呟いた声にかぶさるように、男の声が届いた。三郎が視線を上げれば、彼らを咎めるように眺める長次の姿。どこか癪に障って顔をしかめる三郎だったが、目の前の少女は慌てたように小さく頭を下げて三郎に向き直った。
「ごめん、図書室は私語厳禁なんだ。――私が話しかけたから、君も怒られてしまったね。鉢屋君、悪かったね」
三郎は少女の唇から紡がれた己の名前に驚いた。何故知っているのだろう、という疑問は勿論だが、それ以上にその声が余りにも自分の耳に馴染んだことに驚愕する。三郎の驚きに気付いたのだろう、彼女は先程から繰り返し浮かべている困惑した笑みを作り、ゆっくりと口を開いた。
「知ってるよ、私も君の名前」
「何で……」
「だって――」
そこで少女は一度言葉を切った。瞳を伏せ、小さく息を吐く。その様子が余りにも切なげで、三郎は柄にもなくドキリと心臓が跳ね上がるのを感じた。伏せられた瞳が上げられ、再び三郎を射抜く。己を見詰める少女は小さく笑みを浮かべているのに、何故か泣きそうだと思った。勿論彼女は泣きだすこともなく、ゆっくりと先程三郎が借りた本のカードなどが入っている小さなファイルを示す。
「さっき、自分で書いたの忘れちゃった?」
「あ……そうか」
「うん。もし良かったら、また遊びに来て。この学校の図書室、見ての通り結構な蔵書なんだよ。きっと気に入ると思う。――あ、それと。返却期限はしっかり守ってね」
三郎は再びファイルを所定の場所へ戻す少女の白い手を眺めながら、小さく頷いた。探るようにその表情を見詰める。俯けばその瞳は影になって見えないが、その色が失望に染まったことを三郎は見逃さなかった。しかし、その理由を尋ねるほどには彼女と親しくない。どうすべきかと逡巡した三郎に気付いて、目の前の少女が顔を上げた。
大きな悲しみを瞳に隠して、彼女は笑う。――視界に戻った唇が小さく言葉を紡いだ。
「言い忘れてたけど、私は不破 雷だよ。……きちんと自己紹介してなかったから、言っておく」
「……鉢屋 三郎だ」
「知ってる。――またね、鉢屋君」
三郎は手を上げて挨拶する雷の声に送り出されて、図書室を出た。全く興味のない本が手のひらの中で存在を主張している。三郎はそれをつまらなそうに持ち上げた後、何だかひどく後味の悪い心地で今さっき出てきた図書室の入り口を振り返ったのだった。
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2011,08,12, Friday
※注:微妙に小平太→雷蔵(CP要素はなし)
「――お、不破じゃん」
「あ、七松先輩……」
不破 雷(らい)は己に駆け寄ってくる青年に苦笑を浮かべた。先の記憶はないが、人懐っこい性格は相変わらずだ。誰彼構わず愛想を振りまく様子は懐かしく、けれど同時に少し不愉快にも感じる。それはきっと己が前(さき)の彼を知っている所為だ、と雷はその不快感を胸の奥へ鎮め、己の前にやって来た男を見上げた。
「どうなさったんですか、先輩」
「いや、不破が見えたから」
「そうですか」
小平太の言葉に雷は困ったように返した。実際の言葉を聞けば、すげなく対応していると言っても良い。けれど、そうは見えないのは雷がいつも柔らかい笑みを浮かべているからだ。
小平太は常に穏やかな――彼女の先輩であり、己の幼馴染でもある中在家 長次によく似た性質の彼女をひどく気に入っていた。何より、彼女は小平太の好みど真ん中なのだ。穏やかでおっとりとした性格に、適度に肉のついた柔らかそうな身体。スレンダーとは言えないが、女らしくメリハリの利いた身体付きは小平太の一番好むところである。故に何度かアプローチも掛けているのだが、他の女子とは違い、彼女は一向に小平太へ打ち解けようとはしてくれなかった。
「相変わらず冷たいねえ」
「そんなことは。どなたにも同じ対応をしていると思いますけれど」
「同じ対応じゃ嫌なの。ね、不破は別に付き合ってる奴居ないんだろ? 俺なんてどう? 決して損はさせないからさ」
しかし、小平太の熱心な言葉にも彼女は薄く笑うばかり。しかし、先程の笑みとは違い、その瞳は決して笑っていなかった。
「……生憎と、損得勘定で恋愛をするほど、器用に生まれ付かなかったものですから。それに――それに、先輩には、もっとお似合いの女性がいらっしゃるはずですよ」
「またそうやって逃げる」
「逃げてなど。事実を申し上げているだけです」
雷の脳裏には、彼と前の世で仲睦まじく並んでいたひとりの女性の姿がある。
既に再会している彼女に、今の状況など伝えられるわけがない。小平太と再会したことも雷は伝えきれなかった。余りにも辛く悲しい事実を、知らせたくなかったのだ。
雷の前の伴侶にも記憶がなかったように、小平太にもまた前の記憶はない。その事実を知った時、雷は「そんなまさか」と思ったものだ。あんなに愛し合っていた二人の絆が簡単に切れるはずもない、と。
けれど、長次に尋ねればやはりその「まさか」で、雷は己を慕ってくれる後輩に何と言えば良いのか分からなかった。しかも、記憶のない当人がただ性格と身体付きが好みだという理由だけで己にアプローチを掛けているなど、誰が伝えられよう。馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。何度殴り付けて目を覚ませと怒鳴り付けたかったことか、と雷はこっそり溜め息を吐いた。
しかし、そんなことを考えている間にも小平太は雷に迫っていたらしく、彼女の肩を抱いてにこにこと笑っていた。
(――あんなに愛し合っていたのに。これは、私の罪だろうか)
前の世で、雷はひとつだけ彼に対して罪を犯した。もし、その罪さえなければ、彼は記憶があって、今頃愛しい女性と寄り添い合っていたのだろうか。
そんな考えを頭から振り払い、雷は己の肩に乗る手をやんわりと払った。同時に彼の目を真っ直ぐに見詰めて、言葉に力を乗せて告げる。
「私の、相手は――貴方ではありません」
失礼します、と続けて雷はその場を離れた。正直なところ、もう耐えられなかったのだ。
はじめに絡まれた時、長次に堪えてくれと頼まれなければその場で引っ叩いていただろう。それほどまでに彼の行動は雷にとって許せないものだった。まるで無用の想いを向けられているからではない、覚えていないと言っても、〈彼女〉の存在を蔑ろにするような小平太の行動に腹が据えかねていたのだ。
(――それに、私にも)
自分が使う校舎に戻ってくれば、同じクラスの竹谷に用事があったのだろう、普段は階の違う自分たちの教室まで現れることはない鉢屋 三郎の姿があった。雷は彼に声を掛けることはせず、ただ目を伏せて波立つ感情を抑えると、どこかつまらなそうな表情で席に座っている久々知 兵(へい)の傍へ歩み寄った。
「遅かったな。また迷ってたのか?」
「ん、そんなところ」
「――お前は相変わらず、嘘を吐くのが下手だな」
「そう? ……でも、騙された振りをしておいてよ。辛くなるから」
「……あの人もなあ……覚えてさえいりゃ、あんなことは絶対しないんだろうが」
「仕方ないなんて言わないでね、兵にも怒っちゃいそうだから」
兵の前の椅子を引き、雷は冷ややかに笑う。彼女は常こそ穏やかだが、一度その逆鱗に触れるとその怒りは凄まじい。こと三郎と滝夜叉丸――平 滝に関しては、彼女にとって地雷原にも等しかった。
久々知は知っている。平 滝夜叉丸が不破 雷蔵を支えるためにどれだけ尽力したか。そして、彼女を生かすために何をしたのかも。だからこそ、彼女が今の世でも滝に入れ込むのは仕方がないと思っている。
(――記憶がない方が良いのか、悪いのか)
自分は記憶があるが故に随分と迷い、揺れた。けれど、彼女らの相手は二人とも今は〈ただの人〉である。そして、そのために彼女たちはずっと苦しみ続けている。
(……自分の相手が忘れてることは、二人とも「仕方ない」って言う癖になあ)
久々知は自分のことより誰かのために怒る彼女たちの性質にどこか呆れたように笑みを向け、せめて良い方向へ皆の関係が向かえば良いと思った。
「――お、不破じゃん」
「あ、七松先輩……」
不破 雷(らい)は己に駆け寄ってくる青年に苦笑を浮かべた。先の記憶はないが、人懐っこい性格は相変わらずだ。誰彼構わず愛想を振りまく様子は懐かしく、けれど同時に少し不愉快にも感じる。それはきっと己が前(さき)の彼を知っている所為だ、と雷はその不快感を胸の奥へ鎮め、己の前にやって来た男を見上げた。
「どうなさったんですか、先輩」
「いや、不破が見えたから」
「そうですか」
小平太の言葉に雷は困ったように返した。実際の言葉を聞けば、すげなく対応していると言っても良い。けれど、そうは見えないのは雷がいつも柔らかい笑みを浮かべているからだ。
小平太は常に穏やかな――彼女の先輩であり、己の幼馴染でもある中在家 長次によく似た性質の彼女をひどく気に入っていた。何より、彼女は小平太の好みど真ん中なのだ。穏やかでおっとりとした性格に、適度に肉のついた柔らかそうな身体。スレンダーとは言えないが、女らしくメリハリの利いた身体付きは小平太の一番好むところである。故に何度かアプローチも掛けているのだが、他の女子とは違い、彼女は一向に小平太へ打ち解けようとはしてくれなかった。
「相変わらず冷たいねえ」
「そんなことは。どなたにも同じ対応をしていると思いますけれど」
「同じ対応じゃ嫌なの。ね、不破は別に付き合ってる奴居ないんだろ? 俺なんてどう? 決して損はさせないからさ」
しかし、小平太の熱心な言葉にも彼女は薄く笑うばかり。しかし、先程の笑みとは違い、その瞳は決して笑っていなかった。
「……生憎と、損得勘定で恋愛をするほど、器用に生まれ付かなかったものですから。それに――それに、先輩には、もっとお似合いの女性がいらっしゃるはずですよ」
「またそうやって逃げる」
「逃げてなど。事実を申し上げているだけです」
雷の脳裏には、彼と前の世で仲睦まじく並んでいたひとりの女性の姿がある。
既に再会している彼女に、今の状況など伝えられるわけがない。小平太と再会したことも雷は伝えきれなかった。余りにも辛く悲しい事実を、知らせたくなかったのだ。
雷の前の伴侶にも記憶がなかったように、小平太にもまた前の記憶はない。その事実を知った時、雷は「そんなまさか」と思ったものだ。あんなに愛し合っていた二人の絆が簡単に切れるはずもない、と。
けれど、長次に尋ねればやはりその「まさか」で、雷は己を慕ってくれる後輩に何と言えば良いのか分からなかった。しかも、記憶のない当人がただ性格と身体付きが好みだという理由だけで己にアプローチを掛けているなど、誰が伝えられよう。馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。何度殴り付けて目を覚ませと怒鳴り付けたかったことか、と雷はこっそり溜め息を吐いた。
しかし、そんなことを考えている間にも小平太は雷に迫っていたらしく、彼女の肩を抱いてにこにこと笑っていた。
(――あんなに愛し合っていたのに。これは、私の罪だろうか)
前の世で、雷はひとつだけ彼に対して罪を犯した。もし、その罪さえなければ、彼は記憶があって、今頃愛しい女性と寄り添い合っていたのだろうか。
そんな考えを頭から振り払い、雷は己の肩に乗る手をやんわりと払った。同時に彼の目を真っ直ぐに見詰めて、言葉に力を乗せて告げる。
「私の、相手は――貴方ではありません」
失礼します、と続けて雷はその場を離れた。正直なところ、もう耐えられなかったのだ。
はじめに絡まれた時、長次に堪えてくれと頼まれなければその場で引っ叩いていただろう。それほどまでに彼の行動は雷にとって許せないものだった。まるで無用の想いを向けられているからではない、覚えていないと言っても、〈彼女〉の存在を蔑ろにするような小平太の行動に腹が据えかねていたのだ。
(――それに、私にも)
自分が使う校舎に戻ってくれば、同じクラスの竹谷に用事があったのだろう、普段は階の違う自分たちの教室まで現れることはない鉢屋 三郎の姿があった。雷は彼に声を掛けることはせず、ただ目を伏せて波立つ感情を抑えると、どこかつまらなそうな表情で席に座っている久々知 兵(へい)の傍へ歩み寄った。
「遅かったな。また迷ってたのか?」
「ん、そんなところ」
「――お前は相変わらず、嘘を吐くのが下手だな」
「そう? ……でも、騙された振りをしておいてよ。辛くなるから」
「……あの人もなあ……覚えてさえいりゃ、あんなことは絶対しないんだろうが」
「仕方ないなんて言わないでね、兵にも怒っちゃいそうだから」
兵の前の椅子を引き、雷は冷ややかに笑う。彼女は常こそ穏やかだが、一度その逆鱗に触れるとその怒りは凄まじい。こと三郎と滝夜叉丸――平 滝に関しては、彼女にとって地雷原にも等しかった。
久々知は知っている。平 滝夜叉丸が不破 雷蔵を支えるためにどれだけ尽力したか。そして、彼女を生かすために何をしたのかも。だからこそ、彼女が今の世でも滝に入れ込むのは仕方がないと思っている。
(――記憶がない方が良いのか、悪いのか)
自分は記憶があるが故に随分と迷い、揺れた。けれど、彼女らの相手は二人とも今は〈ただの人〉である。そして、そのために彼女たちはずっと苦しみ続けている。
(……自分の相手が忘れてることは、二人とも「仕方ない」って言う癖になあ)
久々知は自分のことより誰かのために怒る彼女たちの性質にどこか呆れたように笑みを向け、せめて良い方向へ皆の関係が向かえば良いと思った。
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2011,08,12, Friday
「ね、文次ろ――じゃなくて、文子(あやこ)と仙蔵は幼馴染なんでしょ? やっぱり私と留さんみたいに、生まれた時から一緒だったの?」
放課後、誰も居なくなった教室で口火を切ったのは善法寺 伊緒(いお)――先の世では善法寺 伊作と名乗っていた少女である。その隣には幼馴染であり、先の世では同じく六年同室として彼女と過ごした食満 留三郎がおり、彼は興味深そうに眉を上げた。更にその隣で本を読んでいる中在家 長次も気になるのか、ちらりと視線を二人に向ける。彼らの間で唯一記憶のない七松 小平太は、今日も帰りの学活が終わった瞬間に部活へと飛び出して行ったのでここにはいない。そして、今の彼らにはその方が好都合だった。
文子は伊緒の問いに肩を竦め、仙蔵を見遣る。彼はその問いに答える気がないのか、ちらりと視線を文子へ向けると窓の外へと視線を逸らした。仕方がないので溜め息ひとつで文子は伊緒たちに向き直り、口を開く。
「俺たちは三歳の時に新しくできた一軒家のほら、何て言うんだ、三、四件まとまって作られてるようなああいうやつ、あれにお互いの家が引っ越して隣同士になったんだ。同い年の子ども連れて隣の家の奥さんが挨拶に来たってんで出たら、仙蔵なんだもんな」
ありゃ驚いたぞ、と呟きながら、文子は笑う。あの時はまだ三つで今と昔の区別もついていないくらいだったが、仙蔵の顔を見てすぐに彼だと分かった。あれはある意味においては運命的な出会いだったのだろう。――素直に喜ぶには余りにも癪に障るものであるが。
「私だって驚いたに決まっておろう。何せ、見飽きた顔が幼子になってまたあるんだからな」
仙蔵は文子に合わせるように呟いたが、その話をするには余り気が向かないらしく、しきりに視線を外へ向けていた。それに気付いた伊緒が指摘すると、今度は文子が堪え切れない、とばかりに吹き出した。肩を震わせて笑う文子に仙蔵が珍しく嫌そうな顔で彼女を小突く。勿論、その反応に食い付かない伊緒と留三郎ではない、彼らは文子に興味津津といった様子で水を向けた。
「いやあ、あの時は驚いた。――こいつ、俺が女に生まれたこと信じられなかったみてえでさ、スカート穿いてんにも関わらず、まず最初にしたことが挨拶でも再会を喜ぶでもなくて、股間触って性別確かめることだもんな」
仙蔵が親にあんなに怒られてるの見たの、あれが最初で最後だった、と付け加えた文子は、にやにやと珍しくからかいに満ちた視線を仙蔵に向けた。普段は彼女が遊ばれる側であるのだが、今だけは正反対だ。本来ならば仙蔵がまずその立ち位置を許さないのだが、このことだけは彼に分が悪く、仙蔵は幾分か子どもっぽく髪の毛を揺らして視線を逸らした。その二人の様子にそれが真実だと分かり、伊緒と留三郎は耐えきれないという風に吹き出して笑い転げる。唯一、長次だけが「分からないでもない」と呟いた。
「何だ長次、お前俺が女に見えねえってのか」
「そうじゃない。……だけど、確かめたい気持ちは分かる。前と同じかどうか」
それは、幼馴染の記憶がなかった長次の言葉だからこそ深く聞こえた。彼は多分、何度も小平太に確かめたかっただろう。けれど、確かめようとしても届かなかった。それを知っている四人は、彼の言葉に何も言えなかった。
「――仕方があるまい。私だって文次郎が女に生まれるとは思わなかったんだ。私が女に生まれるならまだ分からんでもないが、まさか文次郎が女になるとは……」
「まあ、確かになあ。俺も途中で『あれ? 俺なんで女なんだろうな』とは思ったし。伊緒――伊作はなかったか、そういうの。違和感ってのも何か違えんだけどさ、ちょっと引っかかる、みたいな」
伊緒と留三郎はその言葉にちらりとお互いを見かわした。それは彼らだけが知る秘密だが、今更明かすこともなかろう、と視線で応じ合う。伊緒は文子の問いにただ曖昧に笑い、「私はそうでもなかったよ」とだけ告げた。
「そうか。まあ、伊作はちょっと女っぽいところあったもんな。優男と言うか。――あ、けなしてるわけじゃないからな。
まあ、逆に言って、あれだけ男くさかった俺が女に生まれたことの方が不思議なんだけどよ。つーか、何で他の奴らは皆男で生まれてんのに、俺と伊緒だけ女になっちまったんだろうな?」
「さあ……神様の思し召し、ってやつじゃない? 私たちの場合は、神様って言うよりも仏様かもしれないけど」
「違いねえ」
文子の言葉に伊緒が応え、更に留三郎が応じた。文子はその答えにただ頭を掻き、溜め息を吐く。そして立ち上がると、まだふてた様子の仙蔵に声をかけた。
「おい仙蔵、もう帰ろうぜ。そろそろ買い物いかねえと」
「ああ、そうか、もうそんな時間か」
くるりと仙蔵の方へ向いた瞬間になびいた文子の髪は、以前と比べて長く柔らかい。後姿を見るにつけても、文子が女であることは疑いようもなかった。その背中を見ていた伊緒と留三郎は、細い背中に昔見た大きな背中を重ねて眼を細める。けれど、不思議と今の文子と文次郎を重ねても違和感はもう起こらず、いつでもピンと伸びた背筋だけが彼女を彼たらしめていた。
「何、今日は文子がご飯作るの?」
「家も仙蔵ん家も親居ねえんだよ。だから、二人で飯作って食っとけだと」
「へえ、大変だあ」
「ああ、面倒臭えったらありゃしねえ。――じゃ、悪いが、俺たちは先帰るわ。長次、あんまりしょげてんなよ」
ひとりだけ、一番縁深かった人間の記憶が失われていた長次に軽く声をかけ、文子は荷物を持って歩き出す。その背中を追って仙蔵も同じく歩き出し、いかにも仲睦まじい様子で二つの背中は遠ざかって行った。
「……仙蔵じゃなくて、文子が女で良かったのかもねえ」
「ん? 何で」
その背中を見送った後、しんと静まり返った教室に伊緒の声が響く。それに応えるように留三郎が視線を向けると、伊緒は困ったように笑った。
「だって、どう考えたって仙蔵が女だったら、あの二人かち合うでしょ。文子が女の子になった分、ちょっとだけ性格が優しくなってるから、上手く釣り合いが取れてる気がする。仙蔵が仙子だったら、多分文次は尻に敷かれてたね。今だって亭主関白っぽいけどさ」
「あー……まあ、確かになあ」
「……仙蔵を、受け入れられる状態になっただけだろう」
聞くともなしに二人の話を聞いていた長次が、小さく囁いた。その言葉に二人が視線を向けると、彼は本から視線を上げて口を開く。
「文次郎は、何だかんだ言って仙蔵に甘い。アレが女になったことで、上手くお互いの位置が決まった、それだけだろう」
「甘いって言うか……まあ、そうなのかなあ。でも、仙蔵だって何だかんだ言って、今の文子には甘いよね。ま、結局はお似合いってことなのかな。六年一緒に過ごして、その後も相棒だったんだもんね。お互い気心知れてるって点では、今居る他の誰よりも近い存在だしね」
その中の誰ひとりとして二人が伴侶となることを疑っていないところは不思議だが、そう思わせる空気が今の二人にはあった。甘くもなく辛くもなく、ただお互いが傍に居ることが当たり前であるとする、そんな空気が。
そんな二人の間柄に、伊緒と留三郎が視線を交わし合う。その二人の会話をただひとり聞いていた長次は、それはお前ら二人も一緒である、という突っ込みを心の中でひっそりと落とした。
| SS::記憶の先 | 02:27 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
「はい」
「……あの、久々知先輩、ですか?」
久々知 兵(へい)は突然携帯を震わせた見慣れぬ番号に一度顔をしかめ、その後にあることを思い出して通話を始めた。数秒沈黙を返す相手に悪戯か? と苛立ちを覚えたものの、その後におずおずと問いかける声にその怒りを鎮める。
「斉藤 タカ丸か、早かったな」
「あ、良かった……掛ける時も本当に先輩に繋がるかどうか不安で、本当にドキドキしてたんだあ……! ああ、本当に夢じゃなくて良かったあ」
「大げさだな、お前は。――つっても、その様子だとお前の傍には誰も居ないんだな」
兵は携帯電話の向こうで大きく息を吐く(この様子だと実際に胸を撫で下ろしているだろう)タカ丸に苦笑し、その後に小さく呟く。それにタカ丸が困ったように笑い声を立てた。
「うん、淋しかった。――前の記憶があっても、それを共有してくれる人が誰も居ないんだもん。父さんは全然覚えてないし、周りにも誰も居ないしでさ。だから、今日先輩たちと会えて、本当に嬉しかったんだあ」
「そうか……。じゃあ、今度他の奴らとも引き合わせてやるよ。――滝……平 滝夜叉丸や綾部 喜八郎、田村 三木ヱ門は覚えているんだろう? それから一学年下だった三之助や左門たちも。中には記憶がない奴も居るが、大体近い年齢の奴らは揃って来たんだ」
「え!? 滝夜叉丸や三木ヱ門たちも居るの!?」
耳に響くような大声を聞いて兵は一度携帯電話を耳から離したが、その興奮の理由も分かるので怒らずに話を続ける。
「ああ。生憎と藤内と竹谷には記憶がなかったが……他の人間は大体覚えているよ。ただ、俺も含め、性別が入れ替わってるやつも多いけどな」
兵はそう言いながら己の身体を見下ろした。以前の鍛え抜かれた体躯とは違い、ふっくらと丸みを帯びている。それに嫌悪も違和感も覚えてはいないが、周囲はそうも思えないらしく、時折困惑されもした。――そう言えば、この男だけは驚いても態度は変わらなかったな、と兵は何となくタカ丸らしさを感じて笑った。
「え、女の子になってる子が居るってこと?」
「だな。えーと、今女なのは分かってるだけでも、滝夜叉丸、喜八郎、雷、俺、孫兵、左門、伊助、四郎兵衛、金吾、きり丸……ってとこか。ひとつ上だった立花先輩方にはお会いしていないから、どうなっているのかはよく分からない」
「うっひゃあああ……結構性別が逆転してるんだあ。じゃあ、逆に俺みたいに前と同じに生まれてきた方が珍しいのかな?」
「さあ、そうでもないだろ。どっちかと言うと、記憶がある方が珍しいんじゃないか?」
「ああー、それもそうだね!」
タカ丸が同意する声を聞いて、兵は暢気なのか大物なのかと判断に困った。けれど、この能天気さは昔からだ。生まれ変わっても余り変わり映えのしない男に呆れつつ、どこか安堵した兵は柔らかい声で続けた。
「この番号、登録してしまって良いだろ? 後で私のアドレスにメールアドレスを送ってくれ。滝たちと連絡を付けて、早いうちに場を設けるから」
「本当!? 有り難う、先輩! 俺、すっごい楽しみにしてる! 先輩、大好き!」
「アホ。――じゃあ、そろそろ切るな。何かあったらメールで連絡するから、早めにアドレス寄越せよ」
「分かった! すぐに送るね! ……じゃあ、先輩またね。おやすみなさい」
「ああ、お休み。また今度な」
「……うん、また今度!」
兵は分かりやすい奴だ、と思いながら通話を切った。――繋がりを消したくなかったのだろう。今まで孤独だった、という話を聞けば、それも頷ける。かと言って、その情にほだされて通話をずるずると続ければ、学生の身には大き過ぎる携帯電話の使用料という結果がついてきてしまうのだ。さほど懐が温かくない兵は「許せ、斉藤」と呟きながら、携帯電話を枕元へ放り投げた。
(明日の通学中に滝たちと連絡を取ろう。あいつは動きが速いから、すぐに他の人間を集めてくれるはずだ。記憶のない藤内と竹谷は省くにしても、それなりに人間は集まりそうだな……)
きっと喜ぶだろう、と兵は今日の昼に見たあの変わらない笑顔を思い浮かべて、表情を幾分か緩めた。彼にとっては馴染み深い後輩だ、年上ということで扱いづらいこともあったが、性格があの通りである所為か、前も何とか上手くやっていけていた。
(――会えて良かった)
兵は素直にそう思い、明日の準備をするべく重い腰を上げたのだった。
| SS::記憶の先 | 02:26 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
「――有り難うございました、またお願いしますね」
斉藤 タカ丸は美容室を出て行く客を笑顔で見送った。自分の家が経営する美容室が評判になって長いことになるが、息子とは言え下っ端のタカ丸が許されるのはまだほんの僅かなこと。専門学校に通いながら家業の手伝いをするのは既に慣れっこだが、〈昔〉の記憶があると少しばかりうんざりする気持ちにもなる。特に、自分で既に独り立ちした記憶があるのだから、尚更。
それでもこの世に生まれてから十数年にしかならぬ自分である、そんな記憶を振りかざしたところで意味がない。第一、自分の父ですら息子に「前世の記憶がある」ということに半信半疑なわけだから、他の人間など推して知るべし、である。
(――せめて、誰か他の人に会えたら良かったんだけど)
胸中で溜め息を吐くも、彼とて自分がいかにおかしいことを言っているかは分かっている。例え、過去の友人たちに似ている人間を見つけたとしても、それは彼らではないのだ。自分だけが覚えていることに寂しさを感じながらも、タカ丸は新しい人生を生きる決意を固めていた。――はず、だったのだが。
「……嘘っ!」
街の雑踏に見覚えのある横顔を見つけて、彼は仕事も放り出して思わず駆け出していた。普段は賑やかだとしか感じない人ごみも今は邪魔くさく感じる。とにかく人を押し分け掻き分け、彼は道端を行くひとりの人物の腕を取った。
「久々知先輩っ!」
「へっ!? ……ああっ!? おま、お前、斉藤、斉藤 タカ丸かあっ!?」
掴んだ腕を引き寄せると、自分の目元ほどにある小さな頭が振り返った。初めは不審げだった瞳が驚きに見開かれる。その瞳に浮かぶ光は見知らぬ誰かを警戒するものではなく、よく見知った人間を見つけた時のものだった。
「嘘、本当に久々知先輩だあ! やったあ、すげえ嬉しい! 俺ね、俺だけだと思ってた! 本当に本当に本当に久々知先輩なんだあ! やったー!」
驚いて不躾に自分を指差す(もっとも、普段ならこの人物もこんなことは決してしないだろう)久々知をタカ丸は喜びの余り抱き締めた。その時、初めて違和感に気付く。髪の長さや雰囲気は自分が記憶するそのままなのだが、身体の細さや柔らかさ、肌や髪から薫る甘い香りが彼に久々知の変化を教えていた。
「ちょ、放せよ、斉藤!」
「……あれ、嘘、ちょっと待って! ……先輩、女の子、なの? もしかして」
「もしかしなくてもそうだよ、悪かったな女に生まれてて! 因みに隣に居る雷蔵も女に生まれてるからな」
抱き付いたタカ丸を力ずくで引き離しつつ、久々知 兵助――現在の久々知 兵(へい)は、自分の傍らで苦笑を洩らしている不破 雷(らい)を示した。タカ丸が視線を向けると、同じく室町時代の面影を残しつつも、見事に〈女の子〉として立っている不破 雷蔵の姿が。軽く手を挙げる彼女に、タカ丸は驚きで目を見開いた。
「お久し振りですね、と申し上げるべきでしょうか。お会いできて嬉しいですよ、タカ丸さん」
「雷蔵君……も、覚えてるんだ! うわあ、本当に嬉しいよ! 久し振り! 本当に久し振り!」
「今は不破 雷と言います。兵助は久々知 兵。――ところでタカ丸さん、あちらでお怒りなのはお父君なのでは? 物凄い目でこちらを睨んでいらっしゃいますけど……」
感極まって雷の手を掴んで上下に振り回すタカ丸に、雷は苦笑で応えた。ついでに彼の背中に鋭い視線を向け続ける男を示し、彼の興奮を冷ましてやる。その効果は覿面(てきめん)で、タカ丸は一瞬にして顔から血の気を失せさせた。
「あ、しまった、仕事の途中だったんだ……! ああ、でもどうしよう、先輩たちと折角会えたのに!」
おろおろと父と兵たちを見るタカ丸に兵が深い溜め息を吐いた。彼女は手慣れた手付きで携帯電話を取り出し、タカ丸につき付けた。
「これ、私の携帯なんだけど。斉藤、お前の会社どこ? 持ってるんだろ?」
「持ってる! 同じです! あ、えっとじゃあ」
「赤外線送るから受信しろ。仕事終わったら連絡くれ」
「え、あ、うん、分かった。あ、でも俺の連絡先も……」
ぽちぽちと赤外線の送信操作を行う兵につられて、タカ丸も己の携帯をポケットから取り出す。赤外線を受信してから、彼は同じ操作を繰り返そうとした。けれど、それを兵が止める。
「仕事中なんだろ、仕事に戻れよ。これで私にはいつでも連絡が付くんだから、後でメールでもくれれば良いさ。――生まれ変わっても髪結いやってるなんて、本当に好きなんだろ? 仕事はきっちりしろよな。私は連絡待ってるからさ」
「先輩……! する、必ず夜にするからっ! 先輩、待っててねっ!」
「りょーかい。ほれ、とっとと仕事に戻れよ。私も雷と買い物の途中なんだ、もう行くぞ」
「絶対するから! またね、先輩!」
「はいはい」
子どものように兵の連絡先が入った携帯を抱えて、タカ丸は遠ざかって行く彼女の背中へ声を張り上げて手を振った。後ろからはとうとう痺れを切らして自分に歩み寄る父の姿。それでもタカ丸は雑踏に消えていく小さな背中から目を離すことができなかった。
「……凄い偶然だね、びっくりしちゃった。あんなこともあるんだねえ」
「本当だよ。突然腕掴まれた時は何事かと思った。あいつじゃなけりゃふっ飛ばしてたな」
掴まれた腕をさする兵に雷がくつりと笑った。その笑みは普段と変わらぬ穏やかなもので、本当にタカ丸と再会できたことを喜んでいるようだ。それに兵は少しだけの罪悪感を押し隠して、溜め息を吐く。
「あいつ、室町から全然変わってなかったな。……あれで今も私より年上だったら、どうしよう」
「外見からすると年上じゃないかなあ。背も高かったし。昔も高い方だったけど、やっぱり今の時代だと本当に長身が映えるよねえ。昔も今も端正な顔立ちだしさ、この顔立ちとしては羨ましいくらい」
「雷は雷の良さがあるから良いんだよ。――早く、会えると良いな」
「うん。でも、兵にも会えたし、タカ丸さんにも会えた。少しずつ再会できているんだもの、そのうちきっと逢えるよ。大丈夫だから、心配しないで」
「……うん、だな。第一、あの雷蔵大好きな雷蔵馬鹿が、会いに来ないわけないもんな。きっと、あいつも血眼になってお前のこと捜してんだろうな」
「さあ、どうかなあ。……でも、そうだと良いな」
雷蔵の透明な笑みに、兵助は口が滑ったと己を悔やむ。こういう時、己の考えの足りなさが嫌になった。一度生まれ変わっても、こういう少し不器用なところは直らないらしい。性別まで変えたのだから、こういったところも直してくれたら良いのに、と兵は見たこともない神に恨み事を述べた。
そんな兵の考えなどお見通しのようで、雷はくすくすと笑みを零す。少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女は「えい」と兵の腕へ己の腕を組んだ。そして、とびきりの笑みで彼女へ告げる。
「買い物、付き合ってくれるんでしょう? 迷っちゃうから、兵がちゃんとアドバイスしてよね!」
「――そのために付き合わせたんだろ? この私が雷にぴったりのを選んでやるよ」
「頼りにしてます、兵ちゃん」
二人で顔を突き合わせて笑って、兵と雷は再び歩き出す。その様子は本当に仲の良い女の子同士であり、過去に血腥(ちなまぐさ)い時代を生き抜いてきた記憶があるなどとは露ほども感じさせなかった。
| SS::記憶の先 | 02:25 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
不破 雷(らい)は親友で、先の世ではとても大切な戦友でもあった久々知 兵(へい)と一緒に廊下を歩いていた。学園に居た時と違い、この世ではクラスも一緒の大親友だ。いつの間にか不破と久々知はセットの扱いを受けている。そのことにまるで先の世の自分と鉢屋 三郎を思い出し、雷は自分の大切な人がどこに居るのかと気付かれぬように溜め息を吐いた。
兵やタカ丸、滝や喜代(きよ)には出会ったが、肝心の三郎にだけはまだ出会えていない。この際、自分と対にならなくても良いから、ただ無事で生まれていてほしい、という気持ちだけが雷にはあった。――あんな別れを、経験した後では尚更。
もう一度だけで良い、逢いたい。そんなことを考えながら、雷は廊下を歩いていた。そのことに考えが行き過ぎていた所為だろうか、普段ではやらない大ポカをやらかしてしまう。人にぶつかったのだ。挙句、手に持っていた荷物をばらまくというおまけ付きだ。元忍でありながらなさけない、と思いつつ、雷は廊下に散らばったものを拾い上げようと慌てて屈みながら、相手に謝ろうと顔を上げた。
「――さぶ、ろう……?」
「え?」
室町時代の友人たちは皆前世の面影を持って生まれてきた。それは雷も兵も一緒で(だからこそお互いが分かったのだが)、当然それは鉢屋 三郎にも当てはまる。しかし、彼の場合は素顔を誰にも――たったひとり、恋人であった雷蔵以外――見せていなかったのだ。だから、雷の顔とは全く違うその顔を見て、反応をしたのは雷だけだった。
思わず口から零れ落ちた名前に、相手が怪訝そうに顔を上げる。訝しそうに自分を見つめて瞬きをする様子はまさしく鉢屋 三郎そのもので、雷は込み上げてくる涙を堪えることができなかった。
「え、ちょっと!? 俺、そんなに強くぶつかったか? それとも、どっか悪いとこ……?」
「あ…………あ、いえ、ごめんなさい。何でもないの。何でもないの……貴方の所為じゃないから。ごめんなさい。ただ、涙が止まらなくって……」
しかし、雷はそこで気付く。彼に自分の記憶が――先の世の記憶がないことを。それに悲しさを覚えながらも、雷は彼が今無事に目の前に居る事実を神へと感謝した。ぽろぽろと零れる涙を拭って、無理やり笑みを作る。傍らに居た兵がまじまじと三郎の顔を眺めた後、雷が立つのを支えてくれた。
「これ、あんたのだろ?」
「あ、ごめんなさい。拾ってくれて有り難う。――有り難う」
静かに涙を流しながら、雷は差し出されたノートを受け取る。それに三郎はひどく怪訝そうな顔で彼女を見つめていたが、一度首を傾げると彼女を置いて去って行った。その背中を眺めながら、兵は小さく呟く。
「あれ、本当に三郎なのか? だって、あいつ記憶……それに、あんまりにも雷に冷たすぎないか?」
「ううん、間違いないよ。三郎。――兵助、良かった。三郎、生きてた。無事に生きて、今ここに居たよ。ああ、神様有り難うございます」
雷は三郎に手渡されたノートを抱えて、ほろほろと涙を流した。兵もまた記憶がない人間が居ることは知っていたが、あの三郎が彼女の記憶を失うなんて、考えられない。それゆえにどこか猜疑を抱えたままに、彼女は遠ざかっていく三郎の背中を目を細めて見つめた。
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