2011,08,12, Friday
鉢屋三郎がその少女の存在に気付いたのは、彼女の涙を見た後のことだった。
高校に入学してしばらくして、ようやく〈高校生〉という身分にも慣れてきた頃にひとりの少女とぶつかった。顔も名前も知らぬ彼女は己の顔を見て、驚いたように目を見開いた後に大粒の涙を流す。その大きな瞳から零れる透明な涙が印象的で、鉢屋は彼女の顔が忘れられなかったのだ。
その少女を再び見たのは、それからしばらく過ぎた放課後の図書室でのこと。
あの時傍に居た友人に彼女の名前と――下らないが「図書室の天使」と呼ばれていることと、同じ図書委員であるひとつ上の先輩と付き合っているらしいということを聞いた。その時はただ「ふうん」と喉を鳴らして終わり、興味すら持たなかったはずだ。だが、三郎は何故か彼女をもう一度見てみたいような気がして、図書室へと足を運んだのだった。
(――いた)
当番なのだろう、カウンターに座って貸し出しや返却の作業をしている。穏やかな笑みを常に浮かべる少女は慕われているらしく、不思議と彼女の周りには人が絶えなかった。それでも静謐な空気が乱されないのは、彼女自身がひどく細やかに気を配っている所為と、その後ろで威圧的な空気を醸し出している青年に怯えてのことだろう。
(……あれが、彼氏の〈図書室の主〉か)
司書よりも蔵書に詳しい、と一部では評判らしい。三郎は記憶から「中在家 長次」という名前を掘り起こして目を眇める。少し離れた書架で本を選ぶ振りをしながら彼らを窺うと、確かにひどく親しい様子は見て取れた。
少女が囁き声で彼に話しかけ、男はそれに頷く。男の口元に耳を寄せた少女の表情は嫌悪も羞恥も全く感じられない、それが当たり前の様子であり、三郎は何だか面白くない気持ちになる。そんな風に感じる自分に気付かぬまま、三郎は戯れに本を一冊抜いてカウンターへと歩み寄った。
「これ、借ります」
「あ、はい、貸出です、ね……」
どうやらカウンター内で別の作業も行っているらしい。何かを書き込んでいる手元から顔を上げた少女は、三郎の存在に驚きに目を見開いた。息を飲んで、大きな目を更に丸くする。しかし、すぐに我に返ったのか、少し困ったような表情で笑った。
「そこの貸出カードに名前と学年クラス、今日の日付を書いてください」
示された先には小さな箱に積まれた紙片。三郎が言われるがままにその紙へ記入している間に、少女は裏表紙の内側に貼られた返却期限リストに新しい判を捺し、カードを抜いて小さなファイルへと入れていた。書き終わった紙を三郎が渡せば、彼女はさっと紙に目を落として何かを確認すると、先程の小さなファイルに三郎の渡した紙を一緒に入れ、最後に本を三郎の方へ押し出した。
「……ごめんね、この間は驚いたでしょう?」
「――覚えてたのか、俺のこと」
本と共に届いたのは少女の囁き声。最初に驚いてはいたのもの、その後は全く何事もなかったように作業をされたので、三郎はもうなかったことにするのかと思っていたのだ。しかし、作業を終わらせてから、と思っていたのか、三郎が本を受け取りながら小さく返すと、彼女は困ったように笑った。
「ちょっと色々な要因が重なってね、涙が出てきちゃったの。ぶつかった時も随分心配させてしまったようだったし、気にしてないと良いなとは思ってたんだけど……それを言いに行くのも何か変でしょう? 今日会えて良かった」
「あんたも、気にしてたんだ?」
「そりゃあね、突然泣いたら誰だってびっくりするでしょう。……悪いことしたなあって、思ってたから」
その言葉は柔らかく、優しい。彼女の浮かべるその表情も同じで、三郎は何だかくすぐったいような心地にさせられた。しかし、笑う少女の表情の奥には、深い悲しみが見えた。
「不破?」
「え……!?」
思わず三郎が名を呼ぶと、彼女は驚いて固まった。何かを探るように彼の顔をじっと見詰める。居心地が悪くなったのは三郎の方で、彼は困惑をそのままに少女の顔を見詰め返した。
「な、何?」
「え? あ、ごめん、その……どうして名前知ってるんだろうと思って」
「ああ、それはあの時一緒に居たダチから聞いたから」
「そっか。……そうだよね。びっくりしちゃった。
でも、お友達もよく私のこと知ってたね? 私と同じクラスの人じゃなかった気がするけど」
「あんた、有名なんだってさ」
図書室の天使、と言うのも恥ずかしい呼称を口に上らせれば、彼女は少しだけ顔をしかめた。確かに、呼ばれて嬉しいかと問われれば、普通の感性を持つ人間ならば困惑する呼称である。それは彼女も同じのようで、けれど今まで浮かべていた柔らかい笑みにどこか突き放したような光を宿して溜め息を吐いた。
「買いかぶられてるなあ」
「ふうん……」
「――不破」
小さく呟いた声にかぶさるように、男の声が届いた。三郎が視線を上げれば、彼らを咎めるように眺める長次の姿。どこか癪に障って顔をしかめる三郎だったが、目の前の少女は慌てたように小さく頭を下げて三郎に向き直った。
「ごめん、図書室は私語厳禁なんだ。――私が話しかけたから、君も怒られてしまったね。鉢屋君、悪かったね」
三郎は少女の唇から紡がれた己の名前に驚いた。何故知っているのだろう、という疑問は勿論だが、それ以上にその声が余りにも自分の耳に馴染んだことに驚愕する。三郎の驚きに気付いたのだろう、彼女は先程から繰り返し浮かべている困惑した笑みを作り、ゆっくりと口を開いた。
「知ってるよ、私も君の名前」
「何で……」
「だって――」
そこで少女は一度言葉を切った。瞳を伏せ、小さく息を吐く。その様子が余りにも切なげで、三郎は柄にもなくドキリと心臓が跳ね上がるのを感じた。伏せられた瞳が上げられ、再び三郎を射抜く。己を見詰める少女は小さく笑みを浮かべているのに、何故か泣きそうだと思った。勿論彼女は泣きだすこともなく、ゆっくりと先程三郎が借りた本のカードなどが入っている小さなファイルを示す。
「さっき、自分で書いたの忘れちゃった?」
「あ……そうか」
「うん。もし良かったら、また遊びに来て。この学校の図書室、見ての通り結構な蔵書なんだよ。きっと気に入ると思う。――あ、それと。返却期限はしっかり守ってね」
三郎は再びファイルを所定の場所へ戻す少女の白い手を眺めながら、小さく頷いた。探るようにその表情を見詰める。俯けばその瞳は影になって見えないが、その色が失望に染まったことを三郎は見逃さなかった。しかし、その理由を尋ねるほどには彼女と親しくない。どうすべきかと逡巡した三郎に気付いて、目の前の少女が顔を上げた。
大きな悲しみを瞳に隠して、彼女は笑う。――視界に戻った唇が小さく言葉を紡いだ。
「言い忘れてたけど、私は不破 雷だよ。……きちんと自己紹介してなかったから、言っておく」
「……鉢屋 三郎だ」
「知ってる。――またね、鉢屋君」
三郎は手を上げて挨拶する雷の声に送り出されて、図書室を出た。全く興味のない本が手のひらの中で存在を主張している。三郎はそれをつまらなそうに持ち上げた後、何だかひどく後味の悪い心地で今さっき出てきた図書室の入り口を振り返ったのだった。
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