2011,12,28, Wednesday
随分と疲れた顔をしている、と無言でそろばんを弾く最上級生を見ながら三木ヱ門は思った。しかし、きっとそれは自分も同じだろう。もう何日寝ていないのだろうかと指折り数えようとして、虚しくなってやめた。そんな時間があるならば、一行でも多く帳簿の計算を進めるべきだ。――とくに、自分以外の下級生が沈没した今は尚更。
今の自分を鏡で見たくない、と三木ヱ門はそろばんを弾きながら溜息をついた。きっと仕事も生き甲斐も失ったうらぶれた中年のような顔をしているのだろう。学園のアイドルであるはずの自分が何ということだろう。しかし、そうは言っても目の前の帳簿計算が終わらない限り、三木ヱ門はアイドルとしての輝きなど取り戻せそうにない。次第に霞む視界を目に力を込めてやり過ごしながら、三木ヱ門は親の敵のように見えてきた帳簿に再び意識を向けたのだった。
今の自分を鏡で見たくない、と三木ヱ門はそろばんを弾きながら溜息をついた。きっと仕事も生き甲斐も失ったうらぶれた中年のような顔をしているのだろう。学園のアイドルであるはずの自分が何ということだろう。しかし、そうは言っても目の前の帳簿計算が終わらない限り、三木ヱ門はアイドルとしての輝きなど取り戻せそうにない。次第に霞む視界を目に力を込めてやり過ごしながら、三木ヱ門は親の敵のように見えてきた帳簿に再び意識を向けたのだった。
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2011,12,14, Wednesday
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2011,12,13, Tuesday
「母上!」
一年の金吾にそう呼ばれ、滝夜叉丸は大きな目をさらに丸くした。
低学年のころにうっかり先生や食堂のおばちゃんをそう呼んでしまうことがあるのは知っている。けれど、自分がその対象になるとは思っていなかった滝夜叉丸は、どう反応すべきか困惑して眉を下げた。第一、どうして自分がそう呼ばれるのかが理解できず、口数の多い彼にしては珍しく一瞬言葉を切る。そんな滝夜叉丸の反応に金吾は己が何を言ったかに気づき、魚のように口を開け閉めしたあと、真っ赤になって俯いてしまった。
――誰かの世話を焼くのは慣れていた。家ではどちらかと言えば世話を焼かれる側であるが、一年の頃から同室の喜八郎は少々日常生活が頼りなく、隣で見ていられずに手を出しはじめたのがそのはじまりかもしれない。さらに所属した体育委員会は自分より二つも年上のくせに滝夜叉丸よりもずっと落ち着きのない先輩が待っていた。そのうえ、翌年入学した後輩は無自覚方向音痴ときたものだ。いけどんですべてを解決しようとする小平太に後輩を任せることなどとてもできず、いつの間にか滝夜叉丸が三之助も何くれとなく面倒を見るようになった。
何かと暴走しがちな小平太を抑え、気づけば道なき道へと進む三之助を引き戻し……と立ち回っていた滝夜叉丸であるので、さらに翌年入学した後輩の面倒を見るように先輩から仰せつかるのも無理はない。滝夜叉丸自身も己の優秀さから考えて、他人の面倒を見てやることについて何ら異論もなく、いつの間にか口うるさい先輩という立場になっていた。
それならば仕方がないのかもしれない。それに、今にも泣き出しそうな顔で俯いている金吾にこれ以上何か言うことはためらわれ、滝夜叉丸は動揺を押し隠して口を開いた。
「――まあ、呼び間違えるのも仕方がない! 見目麗しく才長け、面倒見も良いこの私を一年生が母のように慕うというのも道理なのだから! 金吾、構わんぞ! 好きに私を母と呼ぶが良い!」
くるりと身を翻し、滝夜叉丸は金吾の顎を持ち上げた。それに金吾は思惑通り涙を引っ込め、苦い顔で己を見上げる。後ろで三之助が「あんな母ちゃん嫌だよ」と失礼なことを呟いたので、戦輪を打って黙らせた。――相変わらず、先輩を敬うことを知らない奴である。
もう一度自信ありげに微笑めば、金吾は今度こそ渋い顔で黙り込む。そこにはもはや滝夜叉丸を間違って母と呼んだ羞恥は微塵もなく、滝夜叉丸は内心胸を撫で下ろした。
一年の金吾にそう呼ばれ、滝夜叉丸は大きな目をさらに丸くした。
低学年のころにうっかり先生や食堂のおばちゃんをそう呼んでしまうことがあるのは知っている。けれど、自分がその対象になるとは思っていなかった滝夜叉丸は、どう反応すべきか困惑して眉を下げた。第一、どうして自分がそう呼ばれるのかが理解できず、口数の多い彼にしては珍しく一瞬言葉を切る。そんな滝夜叉丸の反応に金吾は己が何を言ったかに気づき、魚のように口を開け閉めしたあと、真っ赤になって俯いてしまった。
――誰かの世話を焼くのは慣れていた。家ではどちらかと言えば世話を焼かれる側であるが、一年の頃から同室の喜八郎は少々日常生活が頼りなく、隣で見ていられずに手を出しはじめたのがそのはじまりかもしれない。さらに所属した体育委員会は自分より二つも年上のくせに滝夜叉丸よりもずっと落ち着きのない先輩が待っていた。そのうえ、翌年入学した後輩は無自覚方向音痴ときたものだ。いけどんですべてを解決しようとする小平太に後輩を任せることなどとてもできず、いつの間にか滝夜叉丸が三之助も何くれとなく面倒を見るようになった。
何かと暴走しがちな小平太を抑え、気づけば道なき道へと進む三之助を引き戻し……と立ち回っていた滝夜叉丸であるので、さらに翌年入学した後輩の面倒を見るように先輩から仰せつかるのも無理はない。滝夜叉丸自身も己の優秀さから考えて、他人の面倒を見てやることについて何ら異論もなく、いつの間にか口うるさい先輩という立場になっていた。
それならば仕方がないのかもしれない。それに、今にも泣き出しそうな顔で俯いている金吾にこれ以上何か言うことはためらわれ、滝夜叉丸は動揺を押し隠して口を開いた。
「――まあ、呼び間違えるのも仕方がない! 見目麗しく才長け、面倒見も良いこの私を一年生が母のように慕うというのも道理なのだから! 金吾、構わんぞ! 好きに私を母と呼ぶが良い!」
くるりと身を翻し、滝夜叉丸は金吾の顎を持ち上げた。それに金吾は思惑通り涙を引っ込め、苦い顔で己を見上げる。後ろで三之助が「あんな母ちゃん嫌だよ」と失礼なことを呟いたので、戦輪を打って黙らせた。――相変わらず、先輩を敬うことを知らない奴である。
もう一度自信ありげに微笑めば、金吾は今度こそ渋い顔で黙り込む。そこにはもはや滝夜叉丸を間違って母と呼んだ羞恥は微塵もなく、滝夜叉丸は内心胸を撫で下ろした。
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2011,12,07, Wednesday
「暑い」
小さく呟いた喜八郎に、滝夜叉丸は眉をひそめた。――そんなことは言われずとも分かっている。しかし、夏である以上はどうにもならないのが現状だ。
だらしなく床に伸びて再び「暑い」と呟いた喜八郎に、滝夜叉丸はもはや反応もしなかった。ただ溜息をついて、時折前髪を揺らす生温い風に身を任せる。せめてもう少し風があれば、と思ったところで己の頭上すれすれに風切り音が走った。咄嗟に首を竦めると、頭巾を掠めて踏み鋤の先端が横一文字に過ぎていく。己の頭を潰しかけたその行為に抗議しようと振り返れば、ひどく苛立った顔の喜八郎がさらに鋤で中空をないだところだった。
「こンのアホ八郎! 私のこの美しい顔を潰す気か!」
「蚊がいる」
「はあ?」
「蚊だよ、蚊。さっきから耳元をブンブンと」
そう言いながら、喜八郎はもう一度鋤を振り回す。その先を視線で辿れば、確かに小さな虫がせわしなく飛び回っていた。
「ふん、そんなもの私の戦輪で……」
滝夜叉丸は懐から取り出した戦輪を構え、指先から弧を描いてそれを飛ばす。けれど、危険を察知したのか何なのか、その小さな羽虫は滝夜叉丸の放った戦輪の刃からするりと抜け出し、再び音を立てて部屋中を飛び交った。さらに何度か試してみても結果は同じ。
それに痺れを切らしたのか、喜八郎は鋤を振り回しながら部屋を出ていこうとする。滝夜叉丸がその背にどこへ行くのかと声をかけると、彼は苛々と吐き捨てるように言葉を落とした。
「保健室。蚊遣火もらいに行ってくる」
「なるほどな。それなら、私は隣近所に話をしてくる」
蚊遣火は煙で燻すことで蚊を追い払うものだが、傍にいる人間も同じく燻されるという短所がある。この忍たま長屋で焚けば、当然ながら自分たち以外にも影響が出るだろう。それに何より、この暑いなかで勝手に火など焚けば、たちまち周囲から苦情が来るに決まっている。
それでも堪えがたい蚊の存在に、彼らは周囲を巻き込んでの徹底抗戦を決意したのだった。
小さく呟いた喜八郎に、滝夜叉丸は眉をひそめた。――そんなことは言われずとも分かっている。しかし、夏である以上はどうにもならないのが現状だ。
だらしなく床に伸びて再び「暑い」と呟いた喜八郎に、滝夜叉丸はもはや反応もしなかった。ただ溜息をついて、時折前髪を揺らす生温い風に身を任せる。せめてもう少し風があれば、と思ったところで己の頭上すれすれに風切り音が走った。咄嗟に首を竦めると、頭巾を掠めて踏み鋤の先端が横一文字に過ぎていく。己の頭を潰しかけたその行為に抗議しようと振り返れば、ひどく苛立った顔の喜八郎がさらに鋤で中空をないだところだった。
「こンのアホ八郎! 私のこの美しい顔を潰す気か!」
「蚊がいる」
「はあ?」
「蚊だよ、蚊。さっきから耳元をブンブンと」
そう言いながら、喜八郎はもう一度鋤を振り回す。その先を視線で辿れば、確かに小さな虫がせわしなく飛び回っていた。
「ふん、そんなもの私の戦輪で……」
滝夜叉丸は懐から取り出した戦輪を構え、指先から弧を描いてそれを飛ばす。けれど、危険を察知したのか何なのか、その小さな羽虫は滝夜叉丸の放った戦輪の刃からするりと抜け出し、再び音を立てて部屋中を飛び交った。さらに何度か試してみても結果は同じ。
それに痺れを切らしたのか、喜八郎は鋤を振り回しながら部屋を出ていこうとする。滝夜叉丸がその背にどこへ行くのかと声をかけると、彼は苛々と吐き捨てるように言葉を落とした。
「保健室。蚊遣火もらいに行ってくる」
「なるほどな。それなら、私は隣近所に話をしてくる」
蚊遣火は煙で燻すことで蚊を追い払うものだが、傍にいる人間も同じく燻されるという短所がある。この忍たま長屋で焚けば、当然ながら自分たち以外にも影響が出るだろう。それに何より、この暑いなかで勝手に火など焚けば、たちまち周囲から苦情が来るに決まっている。
それでも堪えがたい蚊の存在に、彼らは周囲を巻き込んでの徹底抗戦を決意したのだった。
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2011,11,21, Monday
――いっそ首輪をつけたい。そう思ったのは冷たい床に押し倒されたあとだった。
古い床板は二人分の重みで少し軋む。それでも痛みが些少なのは、忍たまたちが刺などで怪我をしないよう、きちんと手入れをされているからだろう。用具委員と吉野先生、小松田さんに感謝しなければ、とどうでもよいことを考えていると、喉笛に食いつかれた。
一瞬、息が止まる。しかし、感じたのは固い歯が皮膚を食い破る痛みではなく、首筋を這う濡れた舌の熱さだった。
「余裕だな、滝夜叉丸」
「まさか。恐ろしくて声も出ませんよ」
「出ているじゃないか」
掛け合いを楽しむ小平太の顔は穏やかだが、その目は爛々と獲物を狙って光っている。今にも舌なめずりしそうな様子に、滝夜叉丸は小さく溜息をついた。
この男を飼い馴らすことができたらどれだけ楽だろうか。首輪をつけて鎖でつないで、己の命に忠実に従う獣。その考えは滝夜叉丸にとってひどく甘美に思えたが、同時にとてもつまらないものに思えた。
(――馴れないからこそ、美しいのだ)
誰にも、自分にも馴れない孤高の獣。手なづけられる程度の強さなど意味がない。常に喉笛へ食いつかれるような緊張感を覚えるような、そんな獰猛な獣でなければ。
「今度は何を考えている?」
「……貴方のことを」
滝夜叉丸は己に覆いかぶさる男の頬に手を伸ばした。それを小平太は拒まない。けれど、柔らかな手のひらに擦り寄りもしない。ただ熱を秘めた瞳を滝夜叉丸に向けるだけだ。それに滝夜叉丸はただ口の端を上げ、己を喰らい尽くそうとする男にその身体を明け渡した。
古い床板は二人分の重みで少し軋む。それでも痛みが些少なのは、忍たまたちが刺などで怪我をしないよう、きちんと手入れをされているからだろう。用具委員と吉野先生、小松田さんに感謝しなければ、とどうでもよいことを考えていると、喉笛に食いつかれた。
一瞬、息が止まる。しかし、感じたのは固い歯が皮膚を食い破る痛みではなく、首筋を這う濡れた舌の熱さだった。
「余裕だな、滝夜叉丸」
「まさか。恐ろしくて声も出ませんよ」
「出ているじゃないか」
掛け合いを楽しむ小平太の顔は穏やかだが、その目は爛々と獲物を狙って光っている。今にも舌なめずりしそうな様子に、滝夜叉丸は小さく溜息をついた。
この男を飼い馴らすことができたらどれだけ楽だろうか。首輪をつけて鎖でつないで、己の命に忠実に従う獣。その考えは滝夜叉丸にとってひどく甘美に思えたが、同時にとてもつまらないものに思えた。
(――馴れないからこそ、美しいのだ)
誰にも、自分にも馴れない孤高の獣。手なづけられる程度の強さなど意味がない。常に喉笛へ食いつかれるような緊張感を覚えるような、そんな獰猛な獣でなければ。
「今度は何を考えている?」
「……貴方のことを」
滝夜叉丸は己に覆いかぶさる男の頬に手を伸ばした。それを小平太は拒まない。けれど、柔らかな手のひらに擦り寄りもしない。ただ熱を秘めた瞳を滝夜叉丸に向けるだけだ。それに滝夜叉丸はただ口の端を上げ、己を喰らい尽くそうとする男にその身体を明け渡した。
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2011,11,19, Saturday
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2011,11,05, Saturday
「……分かっていましたが、多分風邪ですね」
冷たい視線とともに呟いた一回りも年下の少女に、タカ丸は気圧されるように首を竦めた。もはや、どうして家にいるとは問わない。――それもそのはず、店を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちたタカ丸を抱き留め、閉店作業をほかのスタッフに任せ、熱と眩暈で立ち上がれないタカ丸を支えてこの家まで連れてきてくれたのは彼女なのだから。その細い体躯のどこにそんな力があるのか、と思うほど安定した力でタカ丸を支えながらこの家までやってきた兵子は、タカ丸に手洗いうがいだけきっちりさせると、上着とベルトだけを剥いでベッドへと彼を突っ込んだ。
テーブルの上に放ったらかしの薬に顔をしかめた彼女は、明らかに何かを言いたげな様子でタカ丸をねめつける。タカ丸はそれに何か言い訳しようと口を開いたが、声よりも先に咳が飛び出したせいで尚更兵子に睨みつけられた。
「保険証、どこですか?」
「財布のなか、だけど……病院、もうやってないでしょう?」
「夜間診療の病院があるはずです。調べますから、病院に行く準備をしてください」
普段は人前でいじることのない携帯を取り出しながら、兵子はタカ丸に吐き捨てる。珍しく彼の前で苛々した様子を見せる兵子に、タカ丸は瞬きをしたあとに口を開いた。
「大丈夫だよ、薬飲んで寝たら治るって……明日は仕事の途中でちゃんと病院に行くから」
「自分ひとりで立ち上がれないほど重症なのに、一晩寝ただけで治るわけないでしょう。第一、貴方の頼りにしている当の薬だって、もはや咳止め程度にしかなっていないようですが」
半分は優しさで出来ている、というお馴染みのフレーズの市販薬は、兵子の威圧感からか、急に存在を萎れさせる。今朝までは実に頼りがいのありそうだった佇まいは、もはや風前の灯のような頼りなさだ。それにタカ丸が眉を下げると、溜息をついた兵子が少しばかり穏やかな調子で口を開いた。
「……風邪を甘く見てはいけません。こじらせれば死ぬことだって充分あるんです。ましてや、風邪に似た症状の別の病気だったらどうするんですか? そういうのをちゃんと調べてもらうために病院に行くんですよ」
兵子の言葉は端々に不安が覗いている。それに彼が考えを巡らせるより早く、彼女がタカ丸を強い視線で射抜いた。
「病院見つかりましたから、タクシー呼びますよ」
「あ、じゃあ兵子ちゃんはそろそろ」
帰って、という言葉は、彼女の怒りに満ちた視線で止められる。むしろその視線で症状が悪化しそうだ。思わず再び布団に顔を隠すと、兵子は小さく溜息をついた。
「そんな状態でひとりで出歩けるわけないでしょう」
「だけど、もう遅いし。早く帰らないと終電が」
「そんなことはどうでもいいんです。どっちにしろ今晩貴方の看病をする人間が必要でしょう。それにいざとなれば野宿だってできますから」
「なっ……! だから、そういうこと言わな――ゲホッゴホッ」
妙齢の女性にあるまじき発言を咎めようとしたタカ丸であるが、その言葉は込み上げてきた咳によって阻まれる。さらに飛び出す咳に背中を丸めると、温かい手がその背中をさすった。
「ほら、そんなに咳をして。水分取って大人しくしていてください」
「誰のせいでむせたと……」
しかし、その呟きに兵子が応えることはない。彼女は常と同じテキパキとした様子でタクシーの手配をすると、水を入れたコップをタカ丸へと運んできた。そのままタカ丸の寝ているベッドに腰を下ろした兵子であるが、その様子は常にもまして大人しい。顔色もよく見れば冴えなく、タカ丸は自分の風邪を感染したかと少しばかり不安になったが、ベッドに置かれた拳が真っ白になるほど握られているのを見て、彼は少しだけ目を眇めた。
(――これは、恐怖だ)
普段はどんなに怖いものを見ても怯える様子など欠片たりとも見せない少女が、なぜか今、こうして怯えている。それにタカ丸が疑問を覚えて拳から流れるように視線を彼女の顔へと移動させると、少女はひどく張り詰めた表情で真っ直ぐ何もない空間を見つめていた。噛みしめられた唇が白くなっている。ああ、それでは噛みきってしまう、とタカ丸が思わず彼女の拳に手を触れると、弾かれたように兵子が彼を振り返った。
「どうしましたか? 水分を取りますか? それとも汗を掻いた?」
「違うよ……」
先程の感情をすぐに隠して己へと向き直る少女に、タカ丸はそれ以上何も言えなかった。――先程垣間見えた表情が嘘のように、今の彼女はいつもどおりなのだ。まるで先程の表情が自分こそが不安だったから見えたような気すらしてくる。けれど、タカ丸に触れられた手はひどく冷たく、それが兵子の緊張を伝えていた。
「――タクシー、そろそろ来る時間ですね。タカ丸さん、辛いでしょうが起きて支度してください。外で待ちましょう」
「うん……」
何かを言おうと思うものの、何を言って良いのかも分からずにタカ丸は兵子に促されるままベッドから立ち上がる。眩暈と熱でふらつく身体を持て余せば、タカ丸の上着を持ってきた兵子が彼にそれを着せながらその身体を支えてくれた。その力強さはいつもと全く変わらないのに、兵子の身体はどこか小さい。自分よりも一回りも下の少女を小さいと思うことなど当たり前のはずなのだが、その細い体躯から感じられる不安にタカ丸は思わず腕を伸ばしていた。
「――大丈夫、俺本当に大したことないんだよ。だからね、心配しないで」
「そんな風に熱でふらふらしている人の言うことなど信用できません。……ほら、行きましょう」
抱きしめた少女はタカ丸の言葉に大きく身体を震わせたが、それがどんな感情から来るものかタカ丸には分からなかった。けれど、先程より少しばかり柔らかくなった兵子の雰囲気にタカ丸は内心で胸を撫で下ろし、己を促す少女の手が少しだけ温かくなっていることに少しだけ微笑んだ。
「病院へはひとりで行けるから、兵子ちゃんはもうお家へ帰りなさい。――毎度毎度、こんな風に遅かったんじゃお母さんもお父さんも心配するでしょう」
「母はタカ丸さんのところにいると知っているから大丈夫です。父は単身赴任でいないですし」
「明日も学校でしょう」
「少し夜更かししたくらいでは大した影響もありません」
しかし、安堵したのも束の間、彼女はやはり頑固だった。もう十七の女の子が出歩くには宜しくない時間帯であるのに、彼女はタカ丸の言うことに一向に頷くことはない。それにタカ丸が思わず溜息をつくと、兵子は少しだけタカ丸の上着を強く握って、小さく小さく呟いた。
「――病院の診察をちゃんと受けて、ただの風邪だって分かったら帰りますから」
「さすがにここまでされて逃げないよ……俺どこまで信用ないの」
「そうじゃなくて……」
何かを言いかけた兵子であるが、マンションのエントランスまで出たところでタクシーが待機しているのに気づき、それ以上の言葉を発することはなかった。タカ丸を支えてタクシーへと近寄り、運転手と二、三話をしてから開いたドアにタカ丸を押し込む。その隣に自分も乗り込んだところで彼女は運転手に行き先を告げ、車を発進させた。動き出した車の振動が身体に響き、少しだけ辛い。それに気づいたのか、兵子がタカ丸の身体を己へと寄りかからせた。
「一番楽な姿勢取ってください。病院まで少しかかりますから」
「うー……ごめん」
さすがにもう見栄を張ることもできず、タカ丸はその細い身体に身を寄せる。膝枕をされるような形になったタカ丸の手を、兵子の手が握った。先程よりもずっと温かくなったそれを思わず握り返すと、優しく宥めるようにタカ丸の頭が撫でられる。自分は一回りも年上なのに、と思いながらも、タカ丸はまるで子どもにするようなその行為の優しさに引き込まれるように、まどろみのなかに身を委ねたのだった。――その頭の隅で考えるのは、今自分を支えている少女のこと。たった十七の、最近まで見ず知らずの少女がここまで自分に入れ込む理由と、そしてあまりにも歳にそぐわぬ態度や知識をタカ丸は不思議に思う。けれど、その考えはすぐにまどろみのなかに消え、タカ丸は傍らの心地よい温もりに己の身を預けたのだった。
冷たい視線とともに呟いた一回りも年下の少女に、タカ丸は気圧されるように首を竦めた。もはや、どうして家にいるとは問わない。――それもそのはず、店を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちたタカ丸を抱き留め、閉店作業をほかのスタッフに任せ、熱と眩暈で立ち上がれないタカ丸を支えてこの家まで連れてきてくれたのは彼女なのだから。その細い体躯のどこにそんな力があるのか、と思うほど安定した力でタカ丸を支えながらこの家までやってきた兵子は、タカ丸に手洗いうがいだけきっちりさせると、上着とベルトだけを剥いでベッドへと彼を突っ込んだ。
テーブルの上に放ったらかしの薬に顔をしかめた彼女は、明らかに何かを言いたげな様子でタカ丸をねめつける。タカ丸はそれに何か言い訳しようと口を開いたが、声よりも先に咳が飛び出したせいで尚更兵子に睨みつけられた。
「保険証、どこですか?」
「財布のなか、だけど……病院、もうやってないでしょう?」
「夜間診療の病院があるはずです。調べますから、病院に行く準備をしてください」
普段は人前でいじることのない携帯を取り出しながら、兵子はタカ丸に吐き捨てる。珍しく彼の前で苛々した様子を見せる兵子に、タカ丸は瞬きをしたあとに口を開いた。
「大丈夫だよ、薬飲んで寝たら治るって……明日は仕事の途中でちゃんと病院に行くから」
「自分ひとりで立ち上がれないほど重症なのに、一晩寝ただけで治るわけないでしょう。第一、貴方の頼りにしている当の薬だって、もはや咳止め程度にしかなっていないようですが」
半分は優しさで出来ている、というお馴染みのフレーズの市販薬は、兵子の威圧感からか、急に存在を萎れさせる。今朝までは実に頼りがいのありそうだった佇まいは、もはや風前の灯のような頼りなさだ。それにタカ丸が眉を下げると、溜息をついた兵子が少しばかり穏やかな調子で口を開いた。
「……風邪を甘く見てはいけません。こじらせれば死ぬことだって充分あるんです。ましてや、風邪に似た症状の別の病気だったらどうするんですか? そういうのをちゃんと調べてもらうために病院に行くんですよ」
兵子の言葉は端々に不安が覗いている。それに彼が考えを巡らせるより早く、彼女がタカ丸を強い視線で射抜いた。
「病院見つかりましたから、タクシー呼びますよ」
「あ、じゃあ兵子ちゃんはそろそろ」
帰って、という言葉は、彼女の怒りに満ちた視線で止められる。むしろその視線で症状が悪化しそうだ。思わず再び布団に顔を隠すと、兵子は小さく溜息をついた。
「そんな状態でひとりで出歩けるわけないでしょう」
「だけど、もう遅いし。早く帰らないと終電が」
「そんなことはどうでもいいんです。どっちにしろ今晩貴方の看病をする人間が必要でしょう。それにいざとなれば野宿だってできますから」
「なっ……! だから、そういうこと言わな――ゲホッゴホッ」
妙齢の女性にあるまじき発言を咎めようとしたタカ丸であるが、その言葉は込み上げてきた咳によって阻まれる。さらに飛び出す咳に背中を丸めると、温かい手がその背中をさすった。
「ほら、そんなに咳をして。水分取って大人しくしていてください」
「誰のせいでむせたと……」
しかし、その呟きに兵子が応えることはない。彼女は常と同じテキパキとした様子でタクシーの手配をすると、水を入れたコップをタカ丸へと運んできた。そのままタカ丸の寝ているベッドに腰を下ろした兵子であるが、その様子は常にもまして大人しい。顔色もよく見れば冴えなく、タカ丸は自分の風邪を感染したかと少しばかり不安になったが、ベッドに置かれた拳が真っ白になるほど握られているのを見て、彼は少しだけ目を眇めた。
(――これは、恐怖だ)
普段はどんなに怖いものを見ても怯える様子など欠片たりとも見せない少女が、なぜか今、こうして怯えている。それにタカ丸が疑問を覚えて拳から流れるように視線を彼女の顔へと移動させると、少女はひどく張り詰めた表情で真っ直ぐ何もない空間を見つめていた。噛みしめられた唇が白くなっている。ああ、それでは噛みきってしまう、とタカ丸が思わず彼女の拳に手を触れると、弾かれたように兵子が彼を振り返った。
「どうしましたか? 水分を取りますか? それとも汗を掻いた?」
「違うよ……」
先程の感情をすぐに隠して己へと向き直る少女に、タカ丸はそれ以上何も言えなかった。――先程垣間見えた表情が嘘のように、今の彼女はいつもどおりなのだ。まるで先程の表情が自分こそが不安だったから見えたような気すらしてくる。けれど、タカ丸に触れられた手はひどく冷たく、それが兵子の緊張を伝えていた。
「――タクシー、そろそろ来る時間ですね。タカ丸さん、辛いでしょうが起きて支度してください。外で待ちましょう」
「うん……」
何かを言おうと思うものの、何を言って良いのかも分からずにタカ丸は兵子に促されるままベッドから立ち上がる。眩暈と熱でふらつく身体を持て余せば、タカ丸の上着を持ってきた兵子が彼にそれを着せながらその身体を支えてくれた。その力強さはいつもと全く変わらないのに、兵子の身体はどこか小さい。自分よりも一回りも下の少女を小さいと思うことなど当たり前のはずなのだが、その細い体躯から感じられる不安にタカ丸は思わず腕を伸ばしていた。
「――大丈夫、俺本当に大したことないんだよ。だからね、心配しないで」
「そんな風に熱でふらふらしている人の言うことなど信用できません。……ほら、行きましょう」
抱きしめた少女はタカ丸の言葉に大きく身体を震わせたが、それがどんな感情から来るものかタカ丸には分からなかった。けれど、先程より少しばかり柔らかくなった兵子の雰囲気にタカ丸は内心で胸を撫で下ろし、己を促す少女の手が少しだけ温かくなっていることに少しだけ微笑んだ。
「病院へはひとりで行けるから、兵子ちゃんはもうお家へ帰りなさい。――毎度毎度、こんな風に遅かったんじゃお母さんもお父さんも心配するでしょう」
「母はタカ丸さんのところにいると知っているから大丈夫です。父は単身赴任でいないですし」
「明日も学校でしょう」
「少し夜更かししたくらいでは大した影響もありません」
しかし、安堵したのも束の間、彼女はやはり頑固だった。もう十七の女の子が出歩くには宜しくない時間帯であるのに、彼女はタカ丸の言うことに一向に頷くことはない。それにタカ丸が思わず溜息をつくと、兵子は少しだけタカ丸の上着を強く握って、小さく小さく呟いた。
「――病院の診察をちゃんと受けて、ただの風邪だって分かったら帰りますから」
「さすがにここまでされて逃げないよ……俺どこまで信用ないの」
「そうじゃなくて……」
何かを言いかけた兵子であるが、マンションのエントランスまで出たところでタクシーが待機しているのに気づき、それ以上の言葉を発することはなかった。タカ丸を支えてタクシーへと近寄り、運転手と二、三話をしてから開いたドアにタカ丸を押し込む。その隣に自分も乗り込んだところで彼女は運転手に行き先を告げ、車を発進させた。動き出した車の振動が身体に響き、少しだけ辛い。それに気づいたのか、兵子がタカ丸の身体を己へと寄りかからせた。
「一番楽な姿勢取ってください。病院まで少しかかりますから」
「うー……ごめん」
さすがにもう見栄を張ることもできず、タカ丸はその細い身体に身を寄せる。膝枕をされるような形になったタカ丸の手を、兵子の手が握った。先程よりもずっと温かくなったそれを思わず握り返すと、優しく宥めるようにタカ丸の頭が撫でられる。自分は一回りも年上なのに、と思いながらも、タカ丸はまるで子どもにするようなその行為の優しさに引き込まれるように、まどろみのなかに身を委ねたのだった。――その頭の隅で考えるのは、今自分を支えている少女のこと。たった十七の、最近まで見ず知らずの少女がここまで自分に入れ込む理由と、そしてあまりにも歳にそぐわぬ態度や知識をタカ丸は不思議に思う。けれど、その考えはすぐにまどろみのなかに消え、タカ丸は傍らの心地よい温もりに己の身を預けたのだった。
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2011,10,17, Monday
口を挟む隙がない、というのはこういう状況をいうのだろうか、と四郎兵衛は頭のなかで考える。かれこれ四半刻は喋りつづけているだろう先輩に、彼は呆れとも感動ともつかぬ感情を覚えていた。
普段ならこの長口上を遮るはずのほかの体育委員はいない。それもそのはず、滝夜叉丸と四郎兵衛は先程から木陰で伸びている金吾のお守りとして残ったのだから。――では、残りの小平太と三之助はといえば、三之助は相変わらずの方向音痴を発揮して行方不明、小平太はそんな三之助を探して獣道を走り去っていった。
(でも、なぜ七松先輩は滝夜叉丸先輩を置いていったんだろう……)
普段ならば、金吾の世話は四郎兵衛に任せ、二人で三之助を探しに行くはずだ。しかし、今日は滝夜叉丸をこの場に残し、小平太ひとりが三之助捜索に出向いている。
(……一緒に連れていってくれたら良かったのに)
そろそろ滝夜叉丸の自慢話も聞き飽きて、四郎兵衛はげんなりと肩を落とした。そんな彼の様子には気づかぬまま、滝夜叉丸はなおも口を動かしつづける。しかし、そんな彼の雰囲気が一瞬だけ変化した。肌にピリッとした感覚が走り、四郎兵衛は周囲を見回そうとしたが、それは滝夜叉丸の手によって阻まれた。
「……というわけで、わたしは美しく、才長け、素晴らしいのだ! 分かったか、四郎兵衛?」
「いえ、あの……」
頭をがっちり固定されては、問いに答えることすらできない。けれど、傍に寄せられた滝夜叉丸の視線が何かを伝えていた。
「しかし、七松先輩はお戻りにならんな……仕方がない、先に下山するか! 四郎兵衛、準備しろ。金吾は私がおぶっていく」
「良いんですか、勝手に降りて」
四郎兵衛の問いに滝夜叉丸は呵々と笑ったあとにぐだぐだとまた話を始めた。しかし、その間にチラチラと投げられる視線に四郎兵衛はこくりと頷いた。まだぐだぐだと話しつづける滝夜叉丸の背に金吾を乗せ、襷で彼の身体を固定する手伝いをする。その間も絶えることのない話には辟易したが、とにもかくにも彼らは下山を開始したのであった。
金吾を背に負った滝夜叉丸のあとに続くが、背後が気になる。何度も視線を向けたいと思ったが、それは己の前を走る滝夜叉丸からのピリピリとした気配で止められる。仕方なく滝夜叉丸の背をじっと見つめてしばらく駆けると、突如横の薮からがさがさと音がした。すわ獣かと身構えたが、そこから顔を出したのは先程別れた体育委員長、七松小平太である。驚いて息を飲んだ四郎兵衛とは対照的に滝夜叉丸は呆れた表情で薮から出てくる小平太を見遣った。その腕にはうんざりとした顔の三之助が捕らえられており、それを見た滝夜叉丸が露骨に溜息をついた。
「なんだよ」
「相も変わらず、世話をかけおって。少しは自分の悪癖を自覚したらどうなんだ」
「悪癖だらけのあんたにだけは言われたくない」
三年と四年というだけでも仲が悪いというのに、さらにこの二人の言い合いは辛辣だ。しかし、 普段ならばもっと続くはずのやり取りは、当たり前のように小平太が滝夜叉丸と三之助に輪にした縄をかけたことで終わった。滝夜叉丸は何も問わずにその縄を引いて強度を確かめ、四郎兵衛を視線で呼び寄せる。彼は四郎兵衛を輪のなかで殿につけると、襷で自分に縛りつけた金吾の身体をさらに頭巾を外して厳重に己へと縛りつける。多少のことでは落ちないことを確認すると、滝夜叉丸は小平太に向かって頷いた。
「では」
それだけで全て理解したように小平太は同じく頷き、彼は明るく笑って滝夜叉丸たちに手を振った。それと同時に滝夜叉丸が走りだし、四郎兵衛は半ば引きずられる形で走りだすことになった。
しばらく駆けたあとに、背中に悪寒のようなものが走る。それに四郎兵衛は驚いて振り返ったが、先を行く滝夜叉丸が足を止めないために縄に引きずられる形となった。慌てて再び足を動かしながら、ちらりと視界の端に見えたものへ鳥肌を立てる。――小さく見えた小平太は、黒い忍服を着た数人の男たちと対峙していた。
「先輩……!」
「良いから、足を動かせ! ……私たちでは足手まといだ」
苦々しく吐き捨てた滝夜叉丸に、四郎兵衛は息を飲む。普段は何かと反抗する三之助ですら、今は何も言わなかった。それに四郎兵衛も唇を噛みしめると、強く地面を踏みしめる。滝夜叉丸の唇から漏れた矢羽音はまだ四郎兵衛には理解できなかったが、それが向けられたであろう人間は大きな声で「いけいけどんどーん!」と雄叫びを上げた。
「……先輩」
急いで学園に戻った体育委員会の面々は、その足で学園長の許へ訪れて曲者の存在を彼に告げた。そうして教師たちが小平太の残る裏々山へと向かったところで、四郎兵衛は未だ渋い顔をしたままの滝夜叉丸に声を掛けた。彼は先程とは打って変わって沈黙を保ち、ただ眉を上げるだけで四郎兵衛の言葉の先を促す。それに四郎兵衛は少し視線を彷徨わせたあと、小さな声で呟いた。
「いつから分かってたんですか……? その、曲者がいるって……」
「裏々山を登ったり降りたりしているとき、だな。七松先輩が先に気づかれて、それで私も気づいた。しかし、迂闊に動いて敵に悟られては、我々のほうが困る。――だから、通常通りの活動を敢えて続けていた」
では、活動のかなり最初のほうから気づいていたのだ、と四郎兵衛は驚く。それゆえに今日の活動が非常に早く切り上げられたのだ、と理解した。そして、普段なら滝夜叉丸も加わる三之助の捜索に彼が向かわなかったことにも合点する。
「……僕たちのこと、守ってくださっていたんですね」
「下級生を守るのは上級生の役目だからな。――まあ、この優秀な私にかかればお前たちを守りながら敵を迎え撃つのもできなくはないことだったが」
いつもどおりの自信ありげな言葉に四郎兵衛は脱力しつつも、ひどく安心した気分になった。ぐだぐだと続く自慢話にこんなに安堵する日が来るとは思わなかった。しかし、四郎兵衛はふとあることを思い出し、珍しく滝夜叉丸の言葉を遮って口を開いた。
「先輩、最後七松先輩に何て伝えたんですか? 矢羽音、飛ばしていらっしゃったでしょう?」
「ああ、あれか……別段大したことではない。気にする必要もないことだ」
けれど、滝夜叉丸はそれ以上は何も言わない。大したことがないなら内容を教えてくれても良いのでは、と思ったが、少しだけ気まずそうな顔をしていた滝夜叉丸があまりにも珍しかったので、彼はそれ以上追求することをやめた。――何より、滝夜叉丸が少しだけ頬を赤くしていることで内容も何となく理解できたことが大きい。これで案外心配性の滝夜叉丸にくすぐったいような気持ちを覚えながら、四郎兵衛は気づかれないように笑みを浮かべたのだった。
普段ならこの長口上を遮るはずのほかの体育委員はいない。それもそのはず、滝夜叉丸と四郎兵衛は先程から木陰で伸びている金吾のお守りとして残ったのだから。――では、残りの小平太と三之助はといえば、三之助は相変わらずの方向音痴を発揮して行方不明、小平太はそんな三之助を探して獣道を走り去っていった。
(でも、なぜ七松先輩は滝夜叉丸先輩を置いていったんだろう……)
普段ならば、金吾の世話は四郎兵衛に任せ、二人で三之助を探しに行くはずだ。しかし、今日は滝夜叉丸をこの場に残し、小平太ひとりが三之助捜索に出向いている。
(……一緒に連れていってくれたら良かったのに)
そろそろ滝夜叉丸の自慢話も聞き飽きて、四郎兵衛はげんなりと肩を落とした。そんな彼の様子には気づかぬまま、滝夜叉丸はなおも口を動かしつづける。しかし、そんな彼の雰囲気が一瞬だけ変化した。肌にピリッとした感覚が走り、四郎兵衛は周囲を見回そうとしたが、それは滝夜叉丸の手によって阻まれた。
「……というわけで、わたしは美しく、才長け、素晴らしいのだ! 分かったか、四郎兵衛?」
「いえ、あの……」
頭をがっちり固定されては、問いに答えることすらできない。けれど、傍に寄せられた滝夜叉丸の視線が何かを伝えていた。
「しかし、七松先輩はお戻りにならんな……仕方がない、先に下山するか! 四郎兵衛、準備しろ。金吾は私がおぶっていく」
「良いんですか、勝手に降りて」
四郎兵衛の問いに滝夜叉丸は呵々と笑ったあとにぐだぐだとまた話を始めた。しかし、その間にチラチラと投げられる視線に四郎兵衛はこくりと頷いた。まだぐだぐだと話しつづける滝夜叉丸の背に金吾を乗せ、襷で彼の身体を固定する手伝いをする。その間も絶えることのない話には辟易したが、とにもかくにも彼らは下山を開始したのであった。
金吾を背に負った滝夜叉丸のあとに続くが、背後が気になる。何度も視線を向けたいと思ったが、それは己の前を走る滝夜叉丸からのピリピリとした気配で止められる。仕方なく滝夜叉丸の背をじっと見つめてしばらく駆けると、突如横の薮からがさがさと音がした。すわ獣かと身構えたが、そこから顔を出したのは先程別れた体育委員長、七松小平太である。驚いて息を飲んだ四郎兵衛とは対照的に滝夜叉丸は呆れた表情で薮から出てくる小平太を見遣った。その腕にはうんざりとした顔の三之助が捕らえられており、それを見た滝夜叉丸が露骨に溜息をついた。
「なんだよ」
「相も変わらず、世話をかけおって。少しは自分の悪癖を自覚したらどうなんだ」
「悪癖だらけのあんたにだけは言われたくない」
三年と四年というだけでも仲が悪いというのに、さらにこの二人の言い合いは辛辣だ。しかし、 普段ならばもっと続くはずのやり取りは、当たり前のように小平太が滝夜叉丸と三之助に輪にした縄をかけたことで終わった。滝夜叉丸は何も問わずにその縄を引いて強度を確かめ、四郎兵衛を視線で呼び寄せる。彼は四郎兵衛を輪のなかで殿につけると、襷で自分に縛りつけた金吾の身体をさらに頭巾を外して厳重に己へと縛りつける。多少のことでは落ちないことを確認すると、滝夜叉丸は小平太に向かって頷いた。
「では」
それだけで全て理解したように小平太は同じく頷き、彼は明るく笑って滝夜叉丸たちに手を振った。それと同時に滝夜叉丸が走りだし、四郎兵衛は半ば引きずられる形で走りだすことになった。
しばらく駆けたあとに、背中に悪寒のようなものが走る。それに四郎兵衛は驚いて振り返ったが、先を行く滝夜叉丸が足を止めないために縄に引きずられる形となった。慌てて再び足を動かしながら、ちらりと視界の端に見えたものへ鳥肌を立てる。――小さく見えた小平太は、黒い忍服を着た数人の男たちと対峙していた。
「先輩……!」
「良いから、足を動かせ! ……私たちでは足手まといだ」
苦々しく吐き捨てた滝夜叉丸に、四郎兵衛は息を飲む。普段は何かと反抗する三之助ですら、今は何も言わなかった。それに四郎兵衛も唇を噛みしめると、強く地面を踏みしめる。滝夜叉丸の唇から漏れた矢羽音はまだ四郎兵衛には理解できなかったが、それが向けられたであろう人間は大きな声で「いけいけどんどーん!」と雄叫びを上げた。
「……先輩」
急いで学園に戻った体育委員会の面々は、その足で学園長の許へ訪れて曲者の存在を彼に告げた。そうして教師たちが小平太の残る裏々山へと向かったところで、四郎兵衛は未だ渋い顔をしたままの滝夜叉丸に声を掛けた。彼は先程とは打って変わって沈黙を保ち、ただ眉を上げるだけで四郎兵衛の言葉の先を促す。それに四郎兵衛は少し視線を彷徨わせたあと、小さな声で呟いた。
「いつから分かってたんですか……? その、曲者がいるって……」
「裏々山を登ったり降りたりしているとき、だな。七松先輩が先に気づかれて、それで私も気づいた。しかし、迂闊に動いて敵に悟られては、我々のほうが困る。――だから、通常通りの活動を敢えて続けていた」
では、活動のかなり最初のほうから気づいていたのだ、と四郎兵衛は驚く。それゆえに今日の活動が非常に早く切り上げられたのだ、と理解した。そして、普段なら滝夜叉丸も加わる三之助の捜索に彼が向かわなかったことにも合点する。
「……僕たちのこと、守ってくださっていたんですね」
「下級生を守るのは上級生の役目だからな。――まあ、この優秀な私にかかればお前たちを守りながら敵を迎え撃つのもできなくはないことだったが」
いつもどおりの自信ありげな言葉に四郎兵衛は脱力しつつも、ひどく安心した気分になった。ぐだぐだと続く自慢話にこんなに安堵する日が来るとは思わなかった。しかし、四郎兵衛はふとあることを思い出し、珍しく滝夜叉丸の言葉を遮って口を開いた。
「先輩、最後七松先輩に何て伝えたんですか? 矢羽音、飛ばしていらっしゃったでしょう?」
「ああ、あれか……別段大したことではない。気にする必要もないことだ」
けれど、滝夜叉丸はそれ以上は何も言わない。大したことがないなら内容を教えてくれても良いのでは、と思ったが、少しだけ気まずそうな顔をしていた滝夜叉丸があまりにも珍しかったので、彼はそれ以上追求することをやめた。――何より、滝夜叉丸が少しだけ頬を赤くしていることで内容も何となく理解できたことが大きい。これで案外心配性の滝夜叉丸にくすぐったいような気持ちを覚えながら、四郎兵衛は気づかれないように笑みを浮かべたのだった。
| SS::1000のお題集 | 19:28 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,13, Thursday
「……タカ丸さん、こういった趣味もおありなんですか。意外ですね」
兵子はベッドの下から覗く本を引き出し、その表紙をとくとくと眺めた。『月刊女王様』とどぎつい色のタイトルが踊るそれは、特集の文字の後ろにボンテージ姿の女性が男性を足蹴にして写っている。中身を確かめるべくページを繰ろうとしたら、バタバタと駆け寄ってきたタカ丸に勢いよく引ったくられた。
「何見てるの!」
「ベッドの下からはみ出していたのを拾っただけです。――しかし、意外ですね。タカ丸さんに被虐趣味があるとは。言ってくださればいくらでも苛んで差し上げるのに」
顔を真っ赤にして雑誌を遠いところへ放り投げるタカ丸に対し、兵子は顔色ひとつ変えず平然と告げた。それにタカ丸がパクパクと金魚のように唇を動かし、なおさらに顔を赤くする。それに全く男女が逆だな、と思いながら、兵子はタカ丸に一歩近づいた。それにタカ丸が一歩退き、さらに兵子が距離を詰める。壁際まで追い込んだタカ丸が怯えて喉を鳴らすのに、兵子は艶然と口の端を上げた。
「どうして逃げるんですか?」
「そっちが寄ってくるからでしょ!」
「タカ丸さんが逃げるからですよ」
兵子はそう言いながら、己の手を持ち上げて、タカ丸の頬に指で触れた。手のひらで優しく撫で、左右非対照に長い前髪に指を絡ませる。そのまま少しだけその髪を引き、兵子はその頬に唇を寄せた。両手で彼の頭を緩く引き寄せ、唇を滑らせる。普段は前髪で隠れ気味の耳へと唇を移動させると、その耳朶を甘噛みした。
「なっ、にするのっ!」
「もっと痛いほうが良かったですか?」
「違うっ! っていうかね、そういう問題じゃなくてっ! 女の子がそういうことするんじゃありませんっ!」
兵子を軽く突き飛ばして壁沿いに逃げたタカ丸は、顔どころか首筋まで真っ赤に染めて耳を押さえる。怒鳴りつける声すらも少しうわずっており、兵子はそれになおさら口の端を上げた。
「生憎と、わたしに嗜虐趣味はないもので。――感じて泣いているならそそりもしますが、苦痛に浮かんだ涙ではね」
「だから、そういう問題じゃないってばっ! 大体、女の子なんだから恥じらいとか慎みとか、そういうのをまずだね……!」
「ああ、タカ丸さん。女性に〈女性らしさ〉なるものを求めるのはセクハラに当たるそうですよ」
「えっ、そうなの? ごめん……ってそうじゃない!」
タカ丸は問題をすり替えられそうになっていることに気づき、慌てて声を張り上げた。
「だーかーらーっ! 言ってるでしょ! 女の子がそんなことしちゃ駄目っ! 俺だから良いけど、他の男にそんなことしたら即襲われるよ!? 兵子ちゃん可愛いんだから」
「ありがとうございます。でも、タカ丸さん以外にはしませんから大丈夫ですよ」
「そういう意味でもないっ! もおお……! 襲われても知らないんだからね!」
その言葉に兵子は少しだけ目を見開いたあと、艶然と笑った。しかし、先程見せた妖艶さはそこにはなく、ただ目を見張るほど美しいそれにタカ丸は一瞬目を奪われる。けれど、続いて届いた言葉に彼は言葉を失った。
「襲ってくださるのならいくらでも。――むしろ、わたしが襲いたいくらいですよ」
「……そうじゃないってばあ。大体、何で君ウチにいるの……」
「貴方についてきたからです」
「だから、そうじゃないって……」
タカ丸は何を言っても斜め上の言葉を返す兵子に何を言って良いか分からず、彼女から身体ごと顔を背けて言葉に表せない胸のわだかまりに頭を掻きむしった。――初めて会ったときからずっと押しの強い彼女に、明らかに流されている。それに強い反発を感じながらも心の底では嫌だと思っていない自分には気づかないまま、タカ丸は背後から身を寄せる兵子の体温を溜息とともに受け入れたのだった。
兵子はベッドの下から覗く本を引き出し、その表紙をとくとくと眺めた。『月刊女王様』とどぎつい色のタイトルが踊るそれは、特集の文字の後ろにボンテージ姿の女性が男性を足蹴にして写っている。中身を確かめるべくページを繰ろうとしたら、バタバタと駆け寄ってきたタカ丸に勢いよく引ったくられた。
「何見てるの!」
「ベッドの下からはみ出していたのを拾っただけです。――しかし、意外ですね。タカ丸さんに被虐趣味があるとは。言ってくださればいくらでも苛んで差し上げるのに」
顔を真っ赤にして雑誌を遠いところへ放り投げるタカ丸に対し、兵子は顔色ひとつ変えず平然と告げた。それにタカ丸がパクパクと金魚のように唇を動かし、なおさらに顔を赤くする。それに全く男女が逆だな、と思いながら、兵子はタカ丸に一歩近づいた。それにタカ丸が一歩退き、さらに兵子が距離を詰める。壁際まで追い込んだタカ丸が怯えて喉を鳴らすのに、兵子は艶然と口の端を上げた。
「どうして逃げるんですか?」
「そっちが寄ってくるからでしょ!」
「タカ丸さんが逃げるからですよ」
兵子はそう言いながら、己の手を持ち上げて、タカ丸の頬に指で触れた。手のひらで優しく撫で、左右非対照に長い前髪に指を絡ませる。そのまま少しだけその髪を引き、兵子はその頬に唇を寄せた。両手で彼の頭を緩く引き寄せ、唇を滑らせる。普段は前髪で隠れ気味の耳へと唇を移動させると、その耳朶を甘噛みした。
「なっ、にするのっ!」
「もっと痛いほうが良かったですか?」
「違うっ! っていうかね、そういう問題じゃなくてっ! 女の子がそういうことするんじゃありませんっ!」
兵子を軽く突き飛ばして壁沿いに逃げたタカ丸は、顔どころか首筋まで真っ赤に染めて耳を押さえる。怒鳴りつける声すらも少しうわずっており、兵子はそれになおさら口の端を上げた。
「生憎と、わたしに嗜虐趣味はないもので。――感じて泣いているならそそりもしますが、苦痛に浮かんだ涙ではね」
「だから、そういう問題じゃないってばっ! 大体、女の子なんだから恥じらいとか慎みとか、そういうのをまずだね……!」
「ああ、タカ丸さん。女性に〈女性らしさ〉なるものを求めるのはセクハラに当たるそうですよ」
「えっ、そうなの? ごめん……ってそうじゃない!」
タカ丸は問題をすり替えられそうになっていることに気づき、慌てて声を張り上げた。
「だーかーらーっ! 言ってるでしょ! 女の子がそんなことしちゃ駄目っ! 俺だから良いけど、他の男にそんなことしたら即襲われるよ!? 兵子ちゃん可愛いんだから」
「ありがとうございます。でも、タカ丸さん以外にはしませんから大丈夫ですよ」
「そういう意味でもないっ! もおお……! 襲われても知らないんだからね!」
その言葉に兵子は少しだけ目を見開いたあと、艶然と笑った。しかし、先程見せた妖艶さはそこにはなく、ただ目を見張るほど美しいそれにタカ丸は一瞬目を奪われる。けれど、続いて届いた言葉に彼は言葉を失った。
「襲ってくださるのならいくらでも。――むしろ、わたしが襲いたいくらいですよ」
「……そうじゃないってばあ。大体、何で君ウチにいるの……」
「貴方についてきたからです」
「だから、そうじゃないって……」
タカ丸は何を言っても斜め上の言葉を返す兵子に何を言って良いか分からず、彼女から身体ごと顔を背けて言葉に表せない胸のわだかまりに頭を掻きむしった。――初めて会ったときからずっと押しの強い彼女に、明らかに流されている。それに強い反発を感じながらも心の底では嫌だと思っていない自分には気づかないまま、タカ丸は背後から身を寄せる兵子の体温を溜息とともに受け入れたのだった。
| SS::1000のお題集 | 19:54 | comments (x) | trackback (x) |
2011,10,12, Wednesday
煙草は随分前に止めたはずだったが、今ばかりは煙草でも吸わないとやっていられない。たまたま残っていた安物のライターがカチカチと音を立てる。――火が点かない。火花を散らすばかりで反応の悪いライターは、それからさらに数回試したあとにようやく彼の望みを叶えた。少し古い煙草をくわえ、その先に火を点ける。しかし、くわえた煙草の前後が逆だったことで濃厚な煙を吸って盛大にむせる羽目となり、タカ丸は苛々とそれを近くのコップに突っ込んだ。灰皿はとうに捨ててしまったためだ。らしくなく「くそっ!」と悪態をつくと、彼の動揺の原因がもぞりと隣で動いた。
「煙草は身体に悪いですよ、タカ丸さん」
「……何で一緒に寝てるの」
低く問いかければ、傍らの少女が肩を竦める。そして、タカ丸を打ちのめすように口を開いた。
「先に言っておきますが、放してくれなかったのはタカ丸さんですよ。帰ろうと思ってたのに」
「……俺、君に何したの」
嫌な予感を覚えながら、タカ丸はさらに低い声で問いかける。それに兵子は少し眉を下げて、彼の胸に手を置いた。それで自分が裸であることを無理矢理にでも意識させられ、タカ丸は先程からガンガンと響く頭の痛みがなおさら強くなった気がした。しかし、兵子はそんなタカ丸にただ溜息をつき、その手を彼から離す。手の動きを追えば滑らかな白い肌が視界に映り、タカ丸は吸い寄せられそうになる視線を無理矢理引きはがした。
そんなタカ丸に兵子はもう一度小さく溜息をつくと、寝乱れた髪を手櫛で整える。そして、少しだけ淋しそうに笑った。
「まあ、あれだけ酔えば記憶もなくなるでしょうね。
――貴方が危惧しているようなことは一切ありませんでしたよ。わたしは飽くまで酔っ払いの介抱をしたまでですから」
タカ丸はその言葉にようやく昨晩自分の美容院のスタッフと飲みに行ったことを思い出す。いろいろと丸め込まれるようにアルバイトに雇ったこの少女も、アルコール類を摂取しないという約束の下で連れていった。しかし、少し疲れていたタカ丸は盛大に酔ってしまったらしく、途中から記憶がない。年甲斐もなくやらかした失態に頭を抱えると、もう一度小さな溜息が傍らから聞こえた。
「だからあれほどもうやめておけと言ったのに」
「子どもには分からないイロイロが大人にはあるの」
「それで正体なくして子どもに世話されてたんじゃ、意味ないでしょう。――因みに一応説明しておきますが、泥酔したタカ丸さんをタクシーでここまで送って、部屋まで連れて帰ってきたあと、ベッドに運ぼうとしたら途中で貴方が戻して、服がめちゃくちゃになったために上下どちらも脱がしたんです。よく見てください、パンツはいてるでしょう」
タカ丸はその言葉に自分の下半身を見下ろし、確かにその言葉のとおりに自分が下着をはいていることに気づく。それに大きく胸を撫で下ろしたあと、ハッと我に返って兵子を睨みつけた。
「ちょっと待って! じゃあ、何で兵子ちゃんまで脱いでるの?」
「それは勿論、貴方が戻したときにわたしが貴方を前方から支えていたからです。お陰さまで、服どころか下着まで濡れましたよ」
「…………マジで?」
「こんなことで嘘をついたって仕方がないでしょう」
己の情けなさに俯いてしまったタカ丸を他所に、兵子は無言で立ち上がる。ペタペタと裸足の足音が遠ざかり、タカ丸はなおさら情けない気持ちになった。けれど、足音はしばらくしてからタカ丸の許へ戻り、熱くて柔らかい何かをその顔に押しつけた。覗き込まれるような形で顔をこすられ、タカ丸はようやくそれがホットタオルであることに気づく。驚いたタカ丸がそれに顔を上げると、呆れた顔で兵子が口を開いた。
「立てるようなら、一度うがいをしたほうが良いと思いますよ。今はまだ気づいていないようですが、口のなかも随分気持ち悪いんじゃないですか?」
「……そうする」
促されるままにベッドから這い出すと、頭痛がひどくなったような気がした。それを我慢して立ち上がるものの、ふらつく足に思わずたたらを踏む。しかし、転ぶ、と思うより早く脇から兵子が身体を支えてくれ、タカ丸は安定を取り戻す。視線よりかなり下にある頭を見下ろしながら、タカ丸はこの細い体躯のどこにこんな力があるのだろう、と己を危なげなく支える兵子を少しだけ疑問に思った。
なんとか介助なしで洗面台に辿り着いたタカ丸は、言われたとおりにうがいを繰り返す。再びベッドに戻ろうとしたときに、二人分の服がハンガーにかけられて部屋干しされていることに気づいた。しわを綺麗にのばされたそれはまだ生乾きで、着られたものではない。タカ丸は兵子の分だけ手に取ると、それを浴室のなかへと入れた。天井近くに伸びるポールへとハンガーをかけ、乾燥のボタンを押す。タカ丸が再び覚束ない足取りでベッドへと戻ろうとすると、そこに座る兵子が目に入った。
こちらに背を向けているために表情は分からないが、その体躯が類を見ないほど均整を保っていること、その肌が白く美しいことは見て取れる。惜しむべくは右肩に残る傷跡だが、彼女はそれを気にした様子もない。カーテンから漏れる朝日に照らされたその姿はまるで一幅の絵のようで、タカ丸は一瞬その光景に目を奪われた。
「タカ丸さん? 大丈夫ですか?」
「あ……うん、平気。っていうかね、兵子ちゃん。君せめて前を隠すとかしたらどうなの」
「見たければ好きなだけどうぞ?」
「いやだからそういう問題じゃなくてね……ああもう! とにかくこれ着て!」
タカ丸は自分のクローゼットからシャツを一枚取りだし、それを兵子に押しつける。それに彼女は少しだけ顔をしかめたものの、溜息をつきながらそれを大人しく着こんだ。兵子には大きすぎるそれは逆に背徳感のようなものを増させたが、これ以上裸でいられるよりかは良い。それだけで疲れ果ててベッドに倒れ込んだタカ丸に、兵子は追い打ちをかけるように呟いた。
「これが男の人が萌える、という噂の彼シャツというやつですか」
「……違うからね。そうだけど違うからね……」
「別に遠慮しなくても。わたしはいつだってタカ丸さんを受け入れる準備はできてますよ」
「俺のほうにはそんな準備ないから……っていうか、兵子ちゃん学校は?」
「今日は休むって親に連絡入れました。気分が悪いということで」
その言葉にタカ丸は深いため息をついた。彼女の母は兵子がタカ丸の家に押しかけることも、ずる休みすることも何にも思わないらしい。むしろ、彼女曰く「ようやく人間味が出てきた」と喜んでいるそうだ。それは親としてどうなのか、と常識的なことを考えながら、タカ丸は己の身体に布団をかけてくれる兵子に顔を向けた。
「……布団をかけてくれるのは大変ありがたいんだけど……どうして兵子ちゃんまで一緒に入ってるの……」
もはや疲れきって語尾を上げるだけの気力もない。しかし、対する兵子は生き生きとした様子でタカ丸の傍に身を落ち着けると、当たり前のように口を開いた。
「わたしの服、まだ乾いてませんから」
「いや、うん……そうなんだけど」
「まさかタカ丸さん……わたしにノーブラのうえ、サイズの合ってないこのシャツでひとり電車に乗れと?」
兵子の咎めるような言葉に、タカ丸はもはや返す言葉すらなかった。ただ彼女に背を向けるように寝返りを打ち、傍にある体温を意識しないように目を閉じる。けれど、兵子がその背中に寄り添うように身を寄せてくるため、タカ丸は再び彼女へと口を開いた。
「襲われたくないなら離れてくれる?」
「むしろ襲っていただきたいくらいですが。――でも、どちらにせよ今日は無理でしょう。その体調じゃ、勃たないでしょうから」
「だから! そういう発言はやめなさいと何度言ったら……! もう、女の子でしょう! おじさん怒るよ!?」
「はいはい、分かりました。――ほら、二日酔いで頭痛いんでしょう? 怒鳴ったら頭に響きますよ」
「誰が怒鳴らせてるの……!」
「はいはい、私ですごめんなさい。さ、もう寝ましょう。何なら子守歌くらい歌って差し上げますよ」
「いらない!」
子どものように布団を頭まですっぽりかぶってふて寝してしまったタカ丸に、兵子は少しだけ笑みを漏らす。しばらくして聞こえた小さな寝息に、彼女はひどく優しい顔で布団の塊を撫でた。力が緩んだところを見計らって布団を引き寄せ、自分もそのなかに入りこむ。心音が伝わるほどの距離までその身を寄り添わせると、兵子は伝わる温もりに泣きたくなるような感情を味わった。この鼓動も、体温も、もう消えることはない。それだけのことが幸せだった。
「――全部見せるから、もう一回俺に惚れてよ」
良いところも、悪いところも全部。そう呟いて、兵子はタカ丸の頬に触れる。指に絡む髪の毛を弄びながら、彼女は穏やかな時間に目を細めた。
正直なところ、久々知兵子として生まれる前の経験と知識を生かせば、タカ丸を己の虜にすることなど容易い。けれど、それでは意味がないのだ。取り繕ったことで手に入れた愛情など、兵子にとっては何の価値もない。欲しいのはそんなものではなく、タカ丸の全てなのだから。
生まれる前に生きた記憶に刻みつけられた目の前の男の記憶を辿りながら、兵子は小さく息をつく。――そう、偽りなど意味がない。過去の自分がありのまま彼に受け入れられ、愛されたように、今もまたそれが欲しいのだから。
けれど、今はまだ欲張るまい、と兵子はタカ丸の頬に当てた手を離した。その代わりにもう少しだけタカ丸へと近づくと、彼女は途切れることなく伝わるその温もりに寄り添いながらその瞼を下ろす。とろりとした暗闇が兵子を包み、眠りへと誘っていく。その心地よさに溺れるように、兵子はその暗闇へと沈んでいった。
以前に日記で書いた、30歳タカ丸と17歳久々知の転生パロ。タカ丸は記憶なし、兵子は記憶あり。
本当は昨日書き上がっていたのですが、セッションエラーで\(^o^)/ 最初に書いた奴が肉食系で良かったのになあ……と思いつつ、とりあえず書き直してUP。タカくくだけど肉食系女子な久々知にたじたじになっているタカ丸さんも美味しいです。
「煙草は身体に悪いですよ、タカ丸さん」
「……何で一緒に寝てるの」
低く問いかければ、傍らの少女が肩を竦める。そして、タカ丸を打ちのめすように口を開いた。
「先に言っておきますが、放してくれなかったのはタカ丸さんですよ。帰ろうと思ってたのに」
「……俺、君に何したの」
嫌な予感を覚えながら、タカ丸はさらに低い声で問いかける。それに兵子は少し眉を下げて、彼の胸に手を置いた。それで自分が裸であることを無理矢理にでも意識させられ、タカ丸は先程からガンガンと響く頭の痛みがなおさら強くなった気がした。しかし、兵子はそんなタカ丸にただ溜息をつき、その手を彼から離す。手の動きを追えば滑らかな白い肌が視界に映り、タカ丸は吸い寄せられそうになる視線を無理矢理引きはがした。
そんなタカ丸に兵子はもう一度小さく溜息をつくと、寝乱れた髪を手櫛で整える。そして、少しだけ淋しそうに笑った。
「まあ、あれだけ酔えば記憶もなくなるでしょうね。
――貴方が危惧しているようなことは一切ありませんでしたよ。わたしは飽くまで酔っ払いの介抱をしたまでですから」
タカ丸はその言葉にようやく昨晩自分の美容院のスタッフと飲みに行ったことを思い出す。いろいろと丸め込まれるようにアルバイトに雇ったこの少女も、アルコール類を摂取しないという約束の下で連れていった。しかし、少し疲れていたタカ丸は盛大に酔ってしまったらしく、途中から記憶がない。年甲斐もなくやらかした失態に頭を抱えると、もう一度小さな溜息が傍らから聞こえた。
「だからあれほどもうやめておけと言ったのに」
「子どもには分からないイロイロが大人にはあるの」
「それで正体なくして子どもに世話されてたんじゃ、意味ないでしょう。――因みに一応説明しておきますが、泥酔したタカ丸さんをタクシーでここまで送って、部屋まで連れて帰ってきたあと、ベッドに運ぼうとしたら途中で貴方が戻して、服がめちゃくちゃになったために上下どちらも脱がしたんです。よく見てください、パンツはいてるでしょう」
タカ丸はその言葉に自分の下半身を見下ろし、確かにその言葉のとおりに自分が下着をはいていることに気づく。それに大きく胸を撫で下ろしたあと、ハッと我に返って兵子を睨みつけた。
「ちょっと待って! じゃあ、何で兵子ちゃんまで脱いでるの?」
「それは勿論、貴方が戻したときにわたしが貴方を前方から支えていたからです。お陰さまで、服どころか下着まで濡れましたよ」
「…………マジで?」
「こんなことで嘘をついたって仕方がないでしょう」
己の情けなさに俯いてしまったタカ丸を他所に、兵子は無言で立ち上がる。ペタペタと裸足の足音が遠ざかり、タカ丸はなおさら情けない気持ちになった。けれど、足音はしばらくしてからタカ丸の許へ戻り、熱くて柔らかい何かをその顔に押しつけた。覗き込まれるような形で顔をこすられ、タカ丸はようやくそれがホットタオルであることに気づく。驚いたタカ丸がそれに顔を上げると、呆れた顔で兵子が口を開いた。
「立てるようなら、一度うがいをしたほうが良いと思いますよ。今はまだ気づいていないようですが、口のなかも随分気持ち悪いんじゃないですか?」
「……そうする」
促されるままにベッドから這い出すと、頭痛がひどくなったような気がした。それを我慢して立ち上がるものの、ふらつく足に思わずたたらを踏む。しかし、転ぶ、と思うより早く脇から兵子が身体を支えてくれ、タカ丸は安定を取り戻す。視線よりかなり下にある頭を見下ろしながら、タカ丸はこの細い体躯のどこにこんな力があるのだろう、と己を危なげなく支える兵子を少しだけ疑問に思った。
なんとか介助なしで洗面台に辿り着いたタカ丸は、言われたとおりにうがいを繰り返す。再びベッドに戻ろうとしたときに、二人分の服がハンガーにかけられて部屋干しされていることに気づいた。しわを綺麗にのばされたそれはまだ生乾きで、着られたものではない。タカ丸は兵子の分だけ手に取ると、それを浴室のなかへと入れた。天井近くに伸びるポールへとハンガーをかけ、乾燥のボタンを押す。タカ丸が再び覚束ない足取りでベッドへと戻ろうとすると、そこに座る兵子が目に入った。
こちらに背を向けているために表情は分からないが、その体躯が類を見ないほど均整を保っていること、その肌が白く美しいことは見て取れる。惜しむべくは右肩に残る傷跡だが、彼女はそれを気にした様子もない。カーテンから漏れる朝日に照らされたその姿はまるで一幅の絵のようで、タカ丸は一瞬その光景に目を奪われた。
「タカ丸さん? 大丈夫ですか?」
「あ……うん、平気。っていうかね、兵子ちゃん。君せめて前を隠すとかしたらどうなの」
「見たければ好きなだけどうぞ?」
「いやだからそういう問題じゃなくてね……ああもう! とにかくこれ着て!」
タカ丸は自分のクローゼットからシャツを一枚取りだし、それを兵子に押しつける。それに彼女は少しだけ顔をしかめたものの、溜息をつきながらそれを大人しく着こんだ。兵子には大きすぎるそれは逆に背徳感のようなものを増させたが、これ以上裸でいられるよりかは良い。それだけで疲れ果ててベッドに倒れ込んだタカ丸に、兵子は追い打ちをかけるように呟いた。
「これが男の人が萌える、という噂の彼シャツというやつですか」
「……違うからね。そうだけど違うからね……」
「別に遠慮しなくても。わたしはいつだってタカ丸さんを受け入れる準備はできてますよ」
「俺のほうにはそんな準備ないから……っていうか、兵子ちゃん学校は?」
「今日は休むって親に連絡入れました。気分が悪いということで」
その言葉にタカ丸は深いため息をついた。彼女の母は兵子がタカ丸の家に押しかけることも、ずる休みすることも何にも思わないらしい。むしろ、彼女曰く「ようやく人間味が出てきた」と喜んでいるそうだ。それは親としてどうなのか、と常識的なことを考えながら、タカ丸は己の身体に布団をかけてくれる兵子に顔を向けた。
「……布団をかけてくれるのは大変ありがたいんだけど……どうして兵子ちゃんまで一緒に入ってるの……」
もはや疲れきって語尾を上げるだけの気力もない。しかし、対する兵子は生き生きとした様子でタカ丸の傍に身を落ち着けると、当たり前のように口を開いた。
「わたしの服、まだ乾いてませんから」
「いや、うん……そうなんだけど」
「まさかタカ丸さん……わたしにノーブラのうえ、サイズの合ってないこのシャツでひとり電車に乗れと?」
兵子の咎めるような言葉に、タカ丸はもはや返す言葉すらなかった。ただ彼女に背を向けるように寝返りを打ち、傍にある体温を意識しないように目を閉じる。けれど、兵子がその背中に寄り添うように身を寄せてくるため、タカ丸は再び彼女へと口を開いた。
「襲われたくないなら離れてくれる?」
「むしろ襲っていただきたいくらいですが。――でも、どちらにせよ今日は無理でしょう。その体調じゃ、勃たないでしょうから」
「だから! そういう発言はやめなさいと何度言ったら……! もう、女の子でしょう! おじさん怒るよ!?」
「はいはい、分かりました。――ほら、二日酔いで頭痛いんでしょう? 怒鳴ったら頭に響きますよ」
「誰が怒鳴らせてるの……!」
「はいはい、私ですごめんなさい。さ、もう寝ましょう。何なら子守歌くらい歌って差し上げますよ」
「いらない!」
子どものように布団を頭まですっぽりかぶってふて寝してしまったタカ丸に、兵子は少しだけ笑みを漏らす。しばらくして聞こえた小さな寝息に、彼女はひどく優しい顔で布団の塊を撫でた。力が緩んだところを見計らって布団を引き寄せ、自分もそのなかに入りこむ。心音が伝わるほどの距離までその身を寄り添わせると、兵子は伝わる温もりに泣きたくなるような感情を味わった。この鼓動も、体温も、もう消えることはない。それだけのことが幸せだった。
「――全部見せるから、もう一回俺に惚れてよ」
良いところも、悪いところも全部。そう呟いて、兵子はタカ丸の頬に触れる。指に絡む髪の毛を弄びながら、彼女は穏やかな時間に目を細めた。
正直なところ、久々知兵子として生まれる前の経験と知識を生かせば、タカ丸を己の虜にすることなど容易い。けれど、それでは意味がないのだ。取り繕ったことで手に入れた愛情など、兵子にとっては何の価値もない。欲しいのはそんなものではなく、タカ丸の全てなのだから。
生まれる前に生きた記憶に刻みつけられた目の前の男の記憶を辿りながら、兵子は小さく息をつく。――そう、偽りなど意味がない。過去の自分がありのまま彼に受け入れられ、愛されたように、今もまたそれが欲しいのだから。
けれど、今はまだ欲張るまい、と兵子はタカ丸の頬に当てた手を離した。その代わりにもう少しだけタカ丸へと近づくと、彼女は途切れることなく伝わるその温もりに寄り添いながらその瞼を下ろす。とろりとした暗闇が兵子を包み、眠りへと誘っていく。その心地よさに溺れるように、兵子はその暗闇へと沈んでいった。
以前に日記で書いた、30歳タカ丸と17歳久々知の転生パロ。タカ丸は記憶なし、兵子は記憶あり。
本当は昨日書き上がっていたのですが、セッションエラーで\(^o^)/ 最初に書いた奴が肉食系で良かったのになあ……と思いつつ、とりあえず書き直してUP。タカくくだけど肉食系女子な久々知にたじたじになっているタカ丸さんも美味しいです。
| SS::1000のお題集 | 12:36 | comments (x) | trackback (x) |
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