0017 私の半分は優しさで出来ている
「……分かっていましたが、多分風邪ですね」
 冷たい視線とともに呟いた一回りも年下の少女に、タカ丸は気圧されるように首を竦めた。もはや、どうして家にいるとは問わない。――それもそのはず、店を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちたタカ丸を抱き留め、閉店作業をほかのスタッフに任せ、熱と眩暈で立ち上がれないタカ丸を支えてこの家まで連れてきてくれたのは彼女なのだから。その細い体躯のどこにそんな力があるのか、と思うほど安定した力でタカ丸を支えながらこの家までやってきた兵子は、タカ丸に手洗いうがいだけきっちりさせると、上着とベルトだけを剥いでベッドへと彼を突っ込んだ。
 テーブルの上に放ったらかしの薬に顔をしかめた彼女は、明らかに何かを言いたげな様子でタカ丸をねめつける。タカ丸はそれに何か言い訳しようと口を開いたが、声よりも先に咳が飛び出したせいで尚更兵子に睨みつけられた。
「保険証、どこですか?」
「財布のなか、だけど……病院、もうやってないでしょう?」
「夜間診療の病院があるはずです。調べますから、病院に行く準備をしてください」
 普段は人前でいじることのない携帯を取り出しながら、兵子はタカ丸に吐き捨てる。珍しく彼の前で苛々した様子を見せる兵子に、タカ丸は瞬きをしたあとに口を開いた。
「大丈夫だよ、薬飲んで寝たら治るって……明日は仕事の途中でちゃんと病院に行くから」
「自分ひとりで立ち上がれないほど重症なのに、一晩寝ただけで治るわけないでしょう。第一、貴方の頼りにしている当の薬だって、もはや咳止め程度にしかなっていないようですが」
 半分は優しさで出来ている、というお馴染みのフレーズの市販薬は、兵子の威圧感からか、急に存在を萎れさせる。今朝までは実に頼りがいのありそうだった佇まいは、もはや風前の灯のような頼りなさだ。それにタカ丸が眉を下げると、溜息をついた兵子が少しばかり穏やかな調子で口を開いた。
「……風邪を甘く見てはいけません。こじらせれば死ぬことだって充分あるんです。ましてや、風邪に似た症状の別の病気だったらどうするんですか? そういうのをちゃんと調べてもらうために病院に行くんですよ」
 兵子の言葉は端々に不安が覗いている。それに彼が考えを巡らせるより早く、彼女がタカ丸を強い視線で射抜いた。
「病院見つかりましたから、タクシー呼びますよ」
「あ、じゃあ兵子ちゃんはそろそろ」
 帰って、という言葉は、彼女の怒りに満ちた視線で止められる。むしろその視線で症状が悪化しそうだ。思わず再び布団に顔を隠すと、兵子は小さく溜息をついた。
「そんな状態でひとりで出歩けるわけないでしょう」
「だけど、もう遅いし。早く帰らないと終電が」
「そんなことはどうでもいいんです。どっちにしろ今晩貴方の看病をする人間が必要でしょう。それにいざとなれば野宿だってできますから」
「なっ……! だから、そういうこと言わな――ゲホッゴホッ」
 妙齢の女性にあるまじき発言を咎めようとしたタカ丸であるが、その言葉は込み上げてきた咳によって阻まれる。さらに飛び出す咳に背中を丸めると、温かい手がその背中をさすった。
「ほら、そんなに咳をして。水分取って大人しくしていてください」
「誰のせいでむせたと……」
 しかし、その呟きに兵子が応えることはない。彼女は常と同じテキパキとした様子でタクシーの手配をすると、水を入れたコップをタカ丸へと運んできた。そのままタカ丸の寝ているベッドに腰を下ろした兵子であるが、その様子は常にもまして大人しい。顔色もよく見れば冴えなく、タカ丸は自分の風邪を感染したかと少しばかり不安になったが、ベッドに置かれた拳が真っ白になるほど握られているのを見て、彼は少しだけ目を眇めた。
(――これは、恐怖だ)
 普段はどんなに怖いものを見ても怯える様子など欠片たりとも見せない少女が、なぜか今、こうして怯えている。それにタカ丸が疑問を覚えて拳から流れるように視線を彼女の顔へと移動させると、少女はひどく張り詰めた表情で真っ直ぐ何もない空間を見つめていた。噛みしめられた唇が白くなっている。ああ、それでは噛みきってしまう、とタカ丸が思わず彼女の拳に手を触れると、弾かれたように兵子が彼を振り返った。
「どうしましたか? 水分を取りますか? それとも汗を掻いた?」
「違うよ……」
 先程の感情をすぐに隠して己へと向き直る少女に、タカ丸はそれ以上何も言えなかった。――先程垣間見えた表情が嘘のように、今の彼女はいつもどおりなのだ。まるで先程の表情が自分こそが不安だったから見えたような気すらしてくる。けれど、タカ丸に触れられた手はひどく冷たく、それが兵子の緊張を伝えていた。
「――タクシー、そろそろ来る時間ですね。タカ丸さん、辛いでしょうが起きて支度してください。外で待ちましょう」
「うん……」
 何かを言おうと思うものの、何を言って良いのかも分からずにタカ丸は兵子に促されるままベッドから立ち上がる。眩暈と熱でふらつく身体を持て余せば、タカ丸の上着を持ってきた兵子が彼にそれを着せながらその身体を支えてくれた。その力強さはいつもと全く変わらないのに、兵子の身体はどこか小さい。自分よりも一回りも下の少女を小さいと思うことなど当たり前のはずなのだが、その細い体躯から感じられる不安にタカ丸は思わず腕を伸ばしていた。
「――大丈夫、俺本当に大したことないんだよ。だからね、心配しないで」
「そんな風に熱でふらふらしている人の言うことなど信用できません。……ほら、行きましょう」
 抱きしめた少女はタカ丸の言葉に大きく身体を震わせたが、それがどんな感情から来るものかタカ丸には分からなかった。けれど、先程より少しばかり柔らかくなった兵子の雰囲気にタカ丸は内心で胸を撫で下ろし、己を促す少女の手が少しだけ温かくなっていることに少しだけ微笑んだ。
「病院へはひとりで行けるから、兵子ちゃんはもうお家へ帰りなさい。――毎度毎度、こんな風に遅かったんじゃお母さんもお父さんも心配するでしょう」
「母はタカ丸さんのところにいると知っているから大丈夫です。父は単身赴任でいないですし」
「明日も学校でしょう」
「少し夜更かししたくらいでは大した影響もありません」
 しかし、安堵したのも束の間、彼女はやはり頑固だった。もう十七の女の子が出歩くには宜しくない時間帯であるのに、彼女はタカ丸の言うことに一向に頷くことはない。それにタカ丸が思わず溜息をつくと、兵子は少しだけタカ丸の上着を強く握って、小さく小さく呟いた。
「――病院の診察をちゃんと受けて、ただの風邪だって分かったら帰りますから」
「さすがにここまでされて逃げないよ……俺どこまで信用ないの」
「そうじゃなくて……」
 何かを言いかけた兵子であるが、マンションのエントランスまで出たところでタクシーが待機しているのに気づき、それ以上の言葉を発することはなかった。タカ丸を支えてタクシーへと近寄り、運転手と二、三話をしてから開いたドアにタカ丸を押し込む。その隣に自分も乗り込んだところで彼女は運転手に行き先を告げ、車を発進させた。動き出した車の振動が身体に響き、少しだけ辛い。それに気づいたのか、兵子がタカ丸の身体を己へと寄りかからせた。
「一番楽な姿勢取ってください。病院まで少しかかりますから」
「うー……ごめん」
 さすがにもう見栄を張ることもできず、タカ丸はその細い身体に身を寄せる。膝枕をされるような形になったタカ丸の手を、兵子の手が握った。先程よりもずっと温かくなったそれを思わず握り返すと、優しく宥めるようにタカ丸の頭が撫でられる。自分は一回りも年上なのに、と思いながらも、タカ丸はまるで子どもにするようなその行為の優しさに引き込まれるように、まどろみのなかに身を委ねたのだった。――その頭の隅で考えるのは、今自分を支えている少女のこと。たった十七の、最近まで見ず知らずの少女がここまで自分に入れ込む理由と、そしてあまりにも歳にそぐわぬ態度や知識をタカ丸は不思議に思う。けれど、その考えはすぐにまどろみのなかに消え、タカ丸は傍らの心地よい温もりに己の身を預けたのだった。

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