0018 催眠術
『平行線』より、その後の二人。
※妊娠描写など注意。








 慣れ、というのは催眠術に似ている。繰り返す毎日がいつの間にか当たり前になり、はじめに覚えた違和感も流水に角が取れる石のように丸くなり、感じなくなっていく。そんなことを滝子が考えるのは今まさにその慣れを思い出したからで、彼女はいつの間にか馴染んだ生活に小さく溜息をついた。
「……下らない」
 テレビに映るのは、海外に遠征中の夫の姿だ。噂によると力のあるバレーボール選手というだけでなく、男性としても人気なのだそうだ。
(知らぬが仏、とはこのことか)
 結婚した自分が言うのも何だが、彼女の夫――七松小平太ほど厄介な男もいない。欲しいものは力ずくでも奪い取り、やりたいことは全て押し通す。男というよりも人としてどうかと思うことばかりである。それがただバレーボールが強いというだけで評価されるのだから、世の人々の目は節穴なのだろう。
 自分がその男と結婚しているという事実を棚に上げ、滝子はもう一度小さく溜息をつく。無意識に手を当てた腹部は一目見て分かるほどに大きく、彼女が妊娠していることを教えていた。
「馬鹿馬鹿しい」
 己の胸にわだかまる不可解な感情に苛立ち、滝子はテレビを消して吐き捨てた。見たくもない顔を毎日見なければならないだけでもストレスなのだ。その原因が幸いにもしばらく目の前から消えていたのだから、わざわざ自分からストレスに晒されに行く必要はない。
 リモコンをテーブルの上に置いた滝子は、椅子から立ち上がった。家事も終わった以上、リビングにずっといる必要もない。妊娠して疲れやすくなってもいるのだから、もう休もう、と彼女は自分に言い聞かせ、寝室へと足を向けた。
 暗い寝室に足を踏み入れ、滝子は小さく溜息をついた。そこにはキングサイズのベッドが据えられており、普段はそこに二人で寝ている。その端に腰を下ろし、滝子はもう何度目かになる溜息をついた。
「……疲れた」
 いけない、と思いつつも、そのまま身体を横に倒す。瞼を落とせば、すぐに闇が迫ってくる。このまま眠っては身体を冷やすと思いながらも、もはや身体が動かない。
 普段ならば、人一倍口うるさい小平太に併せて家事をこなしてもこんなに疲れることはないのに、どうにも調子が出ない。妊娠して体調を崩しやすくなったせいか、とも思ったが、ひとりの身体ではなくなった時点で体調管理には人一倍気をつけているし、目立った体調の変化はない。ただ、ひどく気が重いだけだ。そして、彼女はその理由を実は理解していた。
(――認めたくない)
 普段ならば隣にある熱がない、というだけで精神的に変化を来している自分を、彼女はずっと見ない振りをしている。けれど、それももう限界だ。
「……馬鹿馬鹿しい」
 そう思っても、感情が理性でどうにかなるわけではない。普段ならば嫌だと思っても傍にある熱が、そこにない。それは滝子にとって思っていた以上に堪えたらしく、逢えない時間が長ければ長いだけ、ひどく心がざわついた。
 昔は顔を見るだけで虫酸が走るような相手だった。何度も蹂躙され、心も身体も屈服させられかけたこともある。けれど、その関係に馴染んでしまえば――嫌うほどに意識している自分に気づいてしまえば、あとは一直線に堕ちていくだけ。過去、あれだけ小平太といがみ合っていた自分が今その男の妻だなんて、きっと高校時代の自分が知ったら軽蔑するだろう。けれど、もう自分の気持ちに目をつぶるのも限界だった。
「……さみしい」
 今だって決して優しいとは言えないけれども、それでも己に触れる手は温かいことを知っている。普段は手荒なくらいの手つきが、膨らんだ腹部に触るときはひどく優しいことも。
(――結局、惚れたほうが負けってことか)
 小平太が戻るまであと数日ある。今日放送されている試合は昨日行われたものの録画で、小平太自身は今日はオフ。明日の飛行機で戻ってくると聞いている。明日の夕方にはきっと帰ってくるだろう。それを心待ちにしている自分がひどくおかしく思えて、滝子は笑う。けれど、その目尻からは滑るように涙が零れ、それは次第に小さな嗚咽へと変わった。
 こんな風に弱くなっているのは、妊娠して情緒不安定になっているせいだ。だから、小平太がいなくて淋しいだなんて思うのも、そのせいに違いない。
 認めようと思いながらもまだ抵抗してしまう自分の心に呆れすら感じながら、滝子はさらに深い闇へと沈んでいく。身体の感覚がなくなり、考えの全てが溶けていく。伝う涙の温かさに何かが混じった気がしたが、それが何かを理解することはできないまま、滝子はさらに深い眠りへと落ちていった。



「……全く、どこまでも強情な奴だ」
 小平太は大きなベッドの端で丸まっている滝子の涙を指で拭うと、その身体を抱え上げて布団へと押し込んだ。涙の痕がまだ残る顔は、小平太にとって見慣れないもの。妻が見せた珍しい姿に、小平太は一抹の仄暗い喜びを感じて口の端を上げた。
「まあ、そうでなくては困るけど」
 手に入れるには随分苦労した女だ。――頭が良く、見目麗しく、勘も良い。初めにちょっかいをかけたときはただ生意気だとばかり思っていたのが、今では他の男を視界に入れさせるのすら不快に思うほどの己の変わりように小平太は自嘲する。外巻きに形作られた前髪を優しく払えば、眉間に寄せられていたしわが少しだけ緩む。その表情に満足して、小平太はゆっくりと立ち上がった。
 本来ならばまだ海外にいるはずの小平太が、この場に戻ってきたのには訳がある。と言っても、予定を繰り上げて日本に戻ってきただけではあるのだが。
 最後の試合が終わり、反省会まで済ませたあとにせっかく海外に来たのだから、と選手全員に一日自由行動が許されるのはいつものことだ。ただ、小平太は妊娠中の妻が心配である、ということで監督に許しをもらい、先に帰国を許されたのだ。もっとも、その理由は口実なのであるが。
 小平太は実力の高い選手として注目されている分、マスコミからの取材も殺到する。しかし、彼自身はいちいち外面を取り繕わなければならないそれが一等嫌いで、それを回避するため、というのがその理由である。しかし、滝子のこのような姿を見られたことは彼にとって思いがけない僥倖であった。
「ま、それだけじゃないけどね」
 布団もかぶらずに寝るなんて普段の滝子からすれば有り得ないが、それすらできないほどに今は弱っている。彼女が身ごもっている子どもを大切に思っていることは本当なので、母子ともに危険にさらされるような状況を回避できたことも彼にとっては幸運だった。小平太はそっと眠っている滝子の頬に口づけを落とすと、自分も寝る支度を調えるべく寝室を後にした。

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