2011,08,12, Friday
「あれ、鉢屋君」
「不破か」
廊下でばったりと出会った二人はそれぞれ異なった表情を浮かべる。不破雷は笑顔、鉢屋三郎は顔を少しだけしかめる。それに雷は少しだけ傷つきながらも、表情には出さずに続けた。
「同じ学年でも階が違うと全然会わないものだねえ」
「そうだな」
別に会いたいと思っていない、とありありと顔に浮かべる三郎に雷は苦笑した。今生の三郎は随分と素直なようだ。いや、昔は忍として己に抑制をかけていただけで、二人きりのときはとても素直に感情を見せてくれた。――そこまで考えて、失ったものの大きさを改めて噛みしめる。けれど、手のひらから滑り落ちていったものはもう戻らないのだ。
そこまで考えて、雷は目の前で少し居心地悪そうに立っている三郎の顔色が少し悪いことに気づいた。その瞬間に、己の血が引いていく。医療も室町時代から比べものにならないほど進歩した現代、滅多なことなどあるはずもないと知っていてもなお、雷は三郎の顔に手を伸ばしていた。
「ちょ、何……!?」
「――熱は、なさそうだけど……ねえ、鉢屋君体調悪くない? 何か顔色悪いんだけど」
「悪くねえよ! ちょ、離れろ!」
額で熱を測ってみるが、とりあえずは平熱のようだ。頬もそれほど熱くはない。しかし、よく確かめようと三郎の顔を覗き込もうとした瞬間、額を押し返される。何だ、と思うよりも早く、三郎の耳が真っ赤になっていることに気づいて、雷は瞬きをした。――同時に、自分の失態に気づく。
「あ……ごめんごめん、つい癖で」
「癖って……勘弁してくれよ」
過去の自分たちに距離などあってなきがもの。これくらいの接触など照れるうちにすら入らなかった。けれど、今は違うのだ。現代で先に進んでいく三郎と、いつまでもどこか室町のままでいる自分。どんどん離れていく距離に雷は動揺しつつも、三郎から一歩身を引いた。
「でも、本当に体調悪くないんだよね?」
「ないって言ってるだろ! しつこいなあ……! 光の加減の問題だろ、ほら」
何ともないと思っても不安が拭い去れず、もう一度尋ねる雷に三郎は尚更顔をしかめて一歩踏み出した。ちょうど明かりの真下に来た三郎の顔は、確かに何ともない。それに雷が思わず胸を撫で下ろすと、三郎は怪訝そうに彼女を見やって首を捻った。そのまま挨拶もそこそこに立ち去ってしまう。そんな三郎の背中を見送りながら、雷は失敗したな、と溜息をついた。
(――そりゃ、親しくもない女にあんなことされたら引くよねえ……しかも、三郎だし)
彼の性格は雷が一番よく知っている。――少なくとも、過去の彼に関しては、だが。けれど、今まで雷が記憶のあるなし関係なく出会ってきた前世からの縁のある人々を考える限り、不思議なもので大きく性格が違う人間というのはいなかった。もしかしたら、魂のようなものに人格が刻み込まれているのかもしれない。そして、それが本当ならば、人間そうそう変わることはないのだろう。
同時に自分が先程触れた熱を思い出す。握りしめた手のひらにはまだ三郎の頬の温かさが残っていた。
(――大丈夫。三郎は生きてる)
あのときに感じた体温の抜けていく感覚を思い出して、雷は身体を震わせる。もう二度と感じたくないあの恐怖。過去に見た恐ろしい光景を頭から振り払って、雷は手に残った熱を逃がさぬように強く握りしめて歩き出した。
その背中を見ている人間には気づきもしないで。
「おー、ちょいそこのお前」
「は……?」
「名前、何ていうの?」
三郎は見知らぬ男から声をかけられて顔をしかめた。――今日は厄日だ。先程は顔見知り程度でしかない女にやたらと触られ、今度は何故か上級生に絡まれる。今日の占いは最下位じゃなかったはずだ、とどうでもいいことを考えながら、三郎は近寄ってくる相手に向き直った。
「普通、名前を聞くときは先に名乗りませんか?」
「ん? ああ、そうか、そういえば俺名乗ってなかったな。二年の七松、七松小平太」
「……一年の鉢屋です」
「鉢屋何?」
「……三郎ですけど。それが何か?」
七松と名乗る男にやたらと迫られ、三郎は露骨に嫌そうな顔をする。何だこいつは、と思っている間に小平太が続ける。
「なあ、不破とお前ってどういう関係?」
「は……?」
その問いに今度こそ三郎は思考が止まった。何の話だ、と相手を見つめる。しかし、三郎の驚きなど意に介さず、小平太は唇を尖らせた。
「だって、不破が男に対してあんな風にするの初めて見たんだもん。俺がどんなにアプローチかけても全然振り向いてくれないくせに」
「いや、それは何とも思われてないからじゃ……?」
うっかり本音を口にしてしまい、三郎はしまったと唇を噛みしめた。普段ならばこんな失態はしない。――先程、雷に触れられたことが予想以上に己を動揺させていることに今更ながら気がついて、三郎は苦々しく表情を歪めた。
「じゃあ、お前は何か思われてるの?」
「そんなの、俺が知るわけないじゃありませんか」
「ふーん……」
至近距離で見つめられ、三郎は居心地の悪さに視線を逸らした。第一、この男に雷は合わない。
「あなたには黒髪で小生意気なあいつが――……っ!?」
三郎はそこまで言いかけて、己に信じられない気持ちになった。間違いなく初対面のはずなのに、どうしてそんなことを思ったのだろう。――この男の隣に居るべきは、黒髪で小生意気な存在。目の前でちらついたのは、小さな光景。小平太の傍らに立つ風で流れる美しい黒髪の持ち主。知っているはずもないのに。
「ふーん……やっぱり好きなんじゃん」
「何がですか」
「不破のこと。――そんな見え透いた嘘までついて、俺を遠ざけようとするんだから」
「嘘なんかじゃ……!」
そんなことあるわけない、と思いながらも、その根拠が見つけられない。今まで一度たりともそんなことなかったはずなのに、と三郎は唇を噛みしめる。それは確かなことなのに、それを証明する手立てがない。それがひどくもどかしく、三郎は思わず八つ当たり気味に小平太を睨みつけた。
「ま、いいや。敵は少ないに越したことないしね。お前が不破を好きじゃないってんなら、その方が良いよ。お前に振られて傷心の不破を俺が慰めるから」
「……さようですか」
三郎は何故かざわめく胸に苛立ちを感じながらも、投げやりに呟いた。――苛立つけれども、どこか確信がある。小平太の思い通りになどならないと。その根拠がまた存在しないために尚更苛々が募ったが、もはやそんなことはどうでもよい。ただ、早くこの場から立ち去りたかった。
「ま、じゃあ後は俺の邪魔だけはするなよー?」
「しませんからご安心を。じゃあ、俺はこれで」
何を妄想したのかひどく楽しげで自信に満ちた小平太にげんなりしつつ、三郎はあっさりと踵を返した。――何もかもが見当違いの人間と話をするのは消耗する。けれど、小平太の言葉が何故か耳に残って、三郎は苛立たしげに溜息をついた。
(……どうして俺が不破を好きにならなきゃならないんだ……)
あんなお節介焼き、と口の中で呟いて、三郎は苛々と前髪を掻きむしる。故に彼はまだ気づいていなかった。人に顔を触れられることが極端に嫌いな己が、彼女の手のひらだけは自然に受け入れていたことに。
| SS::記憶の先 | 02:59 | comments (x) | trackback (x) |
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