2011,08,12, Friday
※こへ滝死ネタ
「赤紙……?」
「ああ、来週出征する」
隣に住む小平太が、まるで隣町に行くかのような気安さで行った。それを滝子は信じられない気持ちで見つめる。
――小平太が、出征? そんなはずはない。この国の未来を守るであろう学徒は徴兵を免れていたのではなかったか? だからこそ、滝子も安心していたのに。
「だって、小平太兄さんは大学生なのに」
「もうそんなこと言ってられないんだと。……ま、選ばれてしまったものは仕方ない」
「仕方なくなんか……!」
滝子はあっさりと言い捨てた小平太に食ってかかろうとしたが、彼の目を見て言おうとしていた言葉を忘れた。――その瞳は深い悲しみを湛えている。そこで初めて、滝子は一番辛いのが小平太であることを思い出した。
「……だったら、平気な振りなんてしなきゃいいのに」
「仕方がないだろ。――行かないわけにはいかないんだから」
「徴兵試験に落ちる努力でもしたら良いんじゃないですか?」
「無理だろ。……それに、私が行かなきゃ別の誰かが行く羽目になる」
それで良いじゃないか、とは滝子も言えなかった。既に近所でも徴兵されて戻って来なかった人間が現れ始めている。特に身体の丈夫な小平太が例外となるのは土台無理な話だ。――そんなことは滝子にだって痛いほど分かっていた。
「――帰ってきたら」
「え?」
「帰ってきたら、所帯を持とう」
小平太はまるで散歩に誘うかのような気軽さで、そう呟いた。それに滝子は言葉を失い、小平太の顔をまじまじと見上げた。
「ずっと約束してたもんな。本当は卒業したら言おうと思ってたんだけど」
卒業がいつになるか分からないから、と呟いた小平太に滝子は唇を噛み締めた。――言えなくなるかもしれないから、という小平太の気持ちが透けて、滝子は思わず手を振り上げた。
パァン、と乾いた音が辺りに響く。頬を打たれた小平太は痛みに痺れる顔を押さえ、肩で息をする滝子を見つめた。彼女は顔を真っ赤にして小平太を睨みつけている。潤んだ瞳が小平太を真っ直ぐに捉え、鋭く射抜いた。
「――そんな覚悟の人間と結婚なんてできるわけないでしょう!」
「ひどいな、これでもお国のために戦いに行くのに」
「女ひとりも守れない貴方が、お国なんて守れるもんですか!」
「私がお前を怪我させたことなんてあったか?」
「そんな意味で言ってるんじゃないってこと、貴方が一番よく分かっているくせに……!」
滝子はそれ以上何も言わず、小平太を置いて立ち去った。小平太は遠ざかる細い背中を見つめ、まだ痛む頬をさすって溜息をつく。――生温い風が、ひどく気持ち悪かった。
* * *
「――じゃあ、行ってくる」
「小平太、頑張ってくるんだよ」
大勢の人間に見送られ、小平太は駅に向かって歩き出した。周囲を見回しても、そこに滝子の姿はない。――あの日から一度として、滝子は小平太の前に現れなかった。
臍を曲げると長い滝子を内心苦笑しながら、小平太はひとり歩き出す。駅までの見送りは断った。重い荷物を抱え、ひとり一本道を歩く。この丘を越えれば、もう故郷は見えなくなる。その丘の頂上で、小平太は足を止めた。
「…………こんな所に居たのか」
丘の上に生えている木の陰に、長い黒髪が風になびいていた。その髪の持ち主は小平太の言葉に何も言わず、振り返りもしない。それにまだ彼女が臍を曲げていることを気付かされ、小平太は苦笑しながらその木へ歩み寄った。
「見送りに来てくれたんじゃないのか?」
「――忘れ物です」
滝子は小平太の顔を見ないまま、手に握ったものを小平太に突き出す。それは小さな巾着袋で、手作りのお守りのようだった。それに小平太は少し驚き、けれど大切に受け取って胸元にしまった。
「帰ってくる。そしたら、ちゃんと白無垢着せてやる。それも似合ってるけど、花嫁さんは白だろ」
小平太は一張羅の友禅を着ている滝子の袖を引きながら、囁く。それにも滝子は顔を向けない。意地を張る滝子に小平太は笑い、その顔を両手で挟んで引き寄せた。
「だから、それまで他の男に浮気するなよ。まあ、私より良い男なんてそう居ないから大丈夫だろうけど」
頬に触れる手には涙が零れていく。そんな滝子を小平太は抱き寄せて、その背中を優しく撫でた。
「必ず、帰るよ。だから、待っててくれる?」
「――私は引く手数多なんです。早く帰ってこなければ、小平太兄さんなんて忘れて別の人と結婚します。それで小平太兄さんが地団駄踏んで歯ぎしりするほど幸せになってやりますからね」
「それは困るな」
泣きながら呟く滝子に、小平太は低く笑った。抱きしめた細い身体の温もりが、己を留める縁だった。――地獄へ行っても、必ず戻ってくるための。
「じゃあ、行くな。身体に気をつけて。おばさんたちにも宜しく」
離しがたい温もりを断腸の思いで引き離し、小平太は傍らに置いていた荷物を再び抱えた。滝子は何も言わない。零れる涙を堪えようとして、唇を噛みしめていたからだ。そんな彼女の頭を一度撫でて、小平太は再び歩き出す。
「――小平太兄さん!」
しかし、少し進んだところで声をかけられ、小平太は振り返った。そこには堪えきれなかった涙をぽろぽろ零しながら己を見やる滝子が、大きく手を振っていた。
「必ず、帰ってきてください! 私のところに! そうでなければ、貴方のことなんて嫌いになりますからね!」
「……分かってる! 行ってくるぞ!」
小平太はどこまでも意地っ張りな滝子に笑み零し、同じく大きく手を振った。そして、今度はもう振り返らずに歩いて行く。その小平太の背中が見えなくなるまで、滝子はずっと手を振り続ける。――そして、彼が見えなくなった瞬間に、地面へと泣き崩れたのだった。
* * *
一九四五年八月、運命の日が訪れる。
滝子が住んでいる地域にも空襲は相次ぎ、空襲警報が鳴れば防空壕へと飛び込む日々が続いていた。お互いに手と手を取り合い、恐ろしい戦闘機の轟音や攻撃音に耐える。ラジオやあちこちから流れてくる戦況はどこか白々しささえ感じて、滝子は周囲のように日本の優位を信じることができなかった。
(――小平太兄さんはどうなっただろうか)
便りがないのは元気な証拠、と己を無理矢理納得させる。けれど、八月の半ばに入ったある日の夜のこと、滝子の前に小平太が現れた。
『よう、元気か?』
「見ての通りですよ。貴方こそ、大丈夫なんですか?」
『……約束、守れなくなった。悪いな』
「え……?」
小平太は滝子の問いには答えず、ただ苦く笑った。それに嫌な予感ばかりが胸に迫り、滝子は彼の顔を凝視する。
『でも、もうすぐ戦争は終わる。――終わらせていくから、生きろよ』
「小平太兄さん、どういう――」
『もう時間だ、行かないと。……約束、守れなくてごめんな。元気で』
嫌だ、と手を伸ばしても、小平太には届かなかった。小平太の背中はあの時と同じく遠ざかり、見えなくなっていく。それを追っていきたいと思うのに、滝子の身体は動かなかった。
「待って、小平太兄さん……っ!」
滝子は手を伸ばしたところで、目を覚ました。小平太など居るはずもない。自宅の布団の上なのだから。――けれど、彼が確かにここに来たことを知り、滝子は唇を噛みしめた。
布団から起き上がり、日めくりカレンダーを見る。八月十五日の朝を迎えていた。朝から回覧板が渡され、正午にラジオを聞くようにと指示をしている。何があるのか、と思いながらもラジオの前で待機していると、凄まじいノイズと共に後の世に言う『玉音放送』が流れた。
(……戦争は、終わったのだ……)
小平太が夢で言っていた通り、戦争は終わったのだ。――そして、彼はもう帰ってこない。
* * *
……終戦から幾許かの時間が過ぎた頃、小平太の遺骨が届けられた。少しの遺品も彼の戦友が届けてくれ、その中には滝子の渡したお守りも含まれていた。彼は小平太がそのお守りを常に肌身離さず持っていたこと、決して誰にも触らせなかったことを教えてくれた。滝子は、役に立たなかったお守りを投げ捨てようとして、ふっとその中が気になり手を止めた。
どうして、開く気になったのだろう。ただ何となくそんな気になって、滝子は己の作ったお守りの中を開けた。中には紙に包んだ滝子の陰毛が入っているだけのはずだった。――けれど、その中に別の紙が入っている。それを開くと、小平太の手で何かを書き付けてあった。
『滝子さんへ 愛しています。幸せに生きてください。 七松小平太』
鉛筆書きの、本当に小さな一言。普段の小平太からは到底想像できないほどに丁寧な文字で、それは書かれていた。その小さな紙切れで、滝子は心の奥底で小平太が帰ってくるのではないか、という希望を捨てた。――小平太は、死んだのだ。もう二度と、滝子の許へは帰ってこない。遠い遠い、別の世界へ行ってしまったのだ。
「……嘘つき……! 必ず帰ってくるって、約束したじゃないですか……!」
小さな紙切れを抱いて、滝子は泣いた。そんな彼女の黒髪を、生温くて優しい風が一度だけ揺らして消えた。
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