巡り、廻る

※Pixivにも同じものをアップしています。



「……しくじったなあ」
 久々知兵子は小さく呟いてから、前髪を掻き上げた。視線を落とした先には、ヘドロにまみれた己の片足。幸い制服のスカートまでは汚れなかったものの、革靴と靴下はおじゃんだ。挙句、これではバスにも電車にも乗れない。周囲の迷惑になるだけだ。己のヘマにもう一度深い溜息をついたあと、兵子は顔を上げて息を吸い直した。
「仕方ない、か」
 過ぎたことは諦めるよりほかにない。それよりもこれからを考えることがより大切だ。――それは彼女が過去の、前に生きた人生で学んだ教訓のひとつ。兵子はひとつ頭を振ると、大きく伸びをしてから前を見据えた。自宅まではまだ電車で三十分かかる距離だ。常人の足なら倍以上の時間がかかることはまず間違いない。しかし、兵子はそれに怯むことなく、軽く身体を解したあとに走り出した。
(昔はもっと荒れた道を、今以上の長い距離走っていたんだ。これくらいなんてことはない)



* * *



「……さ、さすがに甘かった、か……」
 革靴のうえ、碌に鍛錬もしていない女の柔足では大した距離でも踏破できるはずもない。それに気づかず自分を過信したのは愚かだった、と兵子は肩で息をしながら足を緩めた。過去にはもっと早く、力強く動いた足が今は棒のようになっている。女に生まれたことを忌まわしいと思ったことはなかったが、このときばかりは己のひ弱な身体が恨めしかった。
「う、ごほっ……げほっ」
 過剰な運動に身体が耐えきれず、喉がひりつくような咳が出る。どこかで休むべきだ、と膝に手を置きながら考えていると頭の上が翳った。
「……あの、すみません。通してもらえますか?」
「あ? あ……すみません、失礼しました」
 声をかけられて、兵子は自分が今どこにいるかにようやく気づいた。小綺麗な美容院の入口をまさに兵子が塞いでいることに気づき、慌てて身体に鞭打つ。前屈みになっていたせいで顔にかかった髪の毛を頭を振って後ろに追いやったあと、兵子は初めて自分に声をかけた人物へと振り返った。――そして、固まる。
「……く、くち、せんぱ……?」
「斉藤、タカ丸……か?」
 見覚えのある面差しと、懐かしい髪型。髪の色は落ち着いたダークブラウンになっていたが、そこにいたのは間違いなく彼女の知る――正確には、彼女の前世であった久々知兵助だが――ひとつ下の後輩である斉藤タカ丸、その人であった。
「どうして、こんなところに……」
「いや、溝に落ちて」
 そう答えたあとに、相手が求めているのはそんな答じゃないと気づいて兵子は己に呆れた。大分動揺しているらしい、と頭の隅で分析するも、一度出してしまった言葉はもう喉へはしまえない。しかし、タカ丸はその答を否定するどころか、驚きの声を上げた。
「えええっ、あの久々知先輩が!? そんな、どうして……」
「いや、あの……飛びだした子どもが車に轢かれそうになったから、襟首掴んで引き戻したら、そのとき足を戻したところにだけ側溝の蓋がなくて」
 言えば言うほど間抜けな話である。元忍者が足場を確認しないままに後退した挙句、溝に落ちるなど笑い話にすらならない。――もっとも、これが過去にひとつ上にいた先輩のひとりならば「不運」の一言で片付けられたのかもしれないが。
 情けなさに思わず俯けば、異臭を放つ汚れがこびりついた足が目に入る。白い靴下は既に別の色へと染まりきっていて、兵子は尚更気が滅入った。こんな情けない姿を後輩に――それ以上に、大切な存在であった人間に晒すことになるとは。久しぶりの再会がこんな形となったことに重い溜息をついた兵子だが、そんな彼女の様子を意に介することなくタカ丸はその細い手首を掴んだ。
「先輩、ちょっとここで待っててくれる? すぐ戻るから!」
「え? あ、いや……」
 兵子が答えるよりも早く、タカ丸は先程彼女が塞いでいた美容院へと消えていった。店の外観を見れば、洒落た飾り文字で店の名前が書いてある。さすがにもう「髪結い処斉藤」ではないのだな、と馬鹿みたいなことを考えていると、背後から気配を感じて振り返った。そこには声をかけようとしたのか、手を上げて口を半開きにしたタカ丸が立っている。
「びっくりした……ああ、でもそうだよね、さすが先輩。――で先輩、こっち」
「どこへ連れていくつもりだ?」
「おれん家。ここの二階が家なんだ。あ、もうお気づきだと思うけど、ここうちの美容室ね。他にも支店はあるけど、このちっちゃい店が本店なんだ。昔と同じ、祖父が開いたお店なんだけどね」
 行くとも言っていないはずなのに、兵子はタカ丸に手首を取られる。話しながらも歩き出したタカ丸に引きずられるような形で店の脇にあった細い路地へと入ると、そこには少し錆びた階段が店の二階へと続いていた。
「こっちが玄関。分かりにくいよねえ」
「いや、タカ丸」
「はいはい、上がって上がって」
 呼び止めようとするも、タカ丸は兵子の手首を掴んだまま階段を上がっていく。力尽くで振り払うわけにもいかずにそのままついていくと、ポケットから取り出した鍵でドアを開けたタカ丸が彼女を自宅へと押し込んだ。
「先輩、お風呂お風呂。足洗っちゃおう」
「は? いや、ありがたいけどいいよ。それにこのまま上がったらあんたの家を汚してしまう」
「でも、先輩ん家までまだかかるんじゃない? いくら女の子になっちゃったからって、あの先輩がバテるなんて結構な距離走ったってことでしょう?」
 あっさりと全てを見透かされ、兵子は思わず渋面になった。昔は一年分自分のほうが優位であることが多かったのに、今ではまるで形勢逆転されている。けれど、タカ丸はそんな兵助を知ってか知らずか、玄関で頑なに足を止める兵子の前へと立った。
「ようやく逢えたんだもの、甘やかさせてよ……兵助」
「……っ!」
 低く耳元で囁かれた言葉に兵子は息を飲む。緊張で強張る身体をタカ丸は一度包み込むように抱きしめたあと、その華奢な腰に腕を回してその身体を抱き上げた。
「うわっ、何する……!」
「廊下を汚すのが気になるんでしょう? なら、風呂場までおれが抱えていけばいいじゃない。はい、靴だけ脱いでー」
「ちょ、やめ、下ろせ馬鹿っ!」
「こらこら、暴れないでよ落とすって! 家を気遣ってくれるんでしょう、兵助くん」
 荷物のように抱え上げられた兵子は思わず暴れたが、タカ丸の腕は離れない。それどころかよりきつく抱きしめられる結果となり、彼女は顔に熱が集まったような気がした。さらにタカ丸の言葉で下ろされれば床を汚すことを思い出し、渋々暴れるのをやめる。それにタカ丸が低く笑い声を立て、抱えた兵子を軽く抱えなおした。
「はい、到着! このタオルお尻に敷いてね」
「あ、ありがとう……じゃあ、悪いけど遠慮なく風呂場借りるな」
 風呂場に下ろされた兵子は風呂場の入口にタオルを敷いているタカ丸に軽く頭を垂れた。しかし、彼女が汚れた靴下をいざ脱ごうとすると、タカ丸は風呂場から出て行くどころかなぜかそこへ足を踏み入れてきた。訝しげに兵子がタカ丸を眺めると、タカ丸は懐かしいへにゃりとした笑みを浮かべながらシャワーを手に取る。そしてコックを捻ると水温を調節しはじめた。
「ああ、悪いな。あとは自分で――」
「兵助くん、そこ座って?」
「あ?」
「おれがやったげる。さあさあ」
 タカ丸は兵子が険しい顔で固辞するのも構わず、彼女の身体を強引に風呂場の入口へ座らせた。汚れた靴下と、まだ白さを保っている靴下をそれぞれ彼女の足から素早く取り払うと、タカ丸は困惑と羞恥で抵抗する兵子の足へシャワーを浴びせかけた。
「ひっ、やめろ馬鹿! 自分でやるから、そんなの!」
「いいから、やらせてよ。さっきも言ったでしょう? ――ようやく、逢えたんだもの。甘やかさせて。もっと一緒にいたいんだよ」
 耳元で囁かれた言葉は、兵子の耳を甘く震えさせる。その調子に兵子が――兵助が弱いことを知っていて、敢えてタカ丸がそうしていることを知っている彼女は思いきり苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。けれど、それ以上抵抗することはなく、己を抱え込むように傍らで足を洗おうとする男の肩へと頭をもたれかけさせる。
「……そんなの、おれだって一緒だ」
 己の足を温かい流水が浚っていく。その後に石けんを泡立てたタカ丸の手が汚れを柔らかく落とすように撫でていく。そのくすぐったさと心地よさに目を閉じながら、兵子は続ける。
「あんたが、覚えているかどうかも分からなかった。――それどころか、どこにいるのかすら。もしかしたら、もう一生逢えないのかと」
「それは、おれも一緒だよ。とくにおれはあのときも四年から編入したしね。あのなかで、多分縁は一番薄い」
 その言葉で弾かれたように頭を上げた兵子に、タカ丸は苦笑する。
「だから、探すのが怖かった。……ごめんね、本当はすごく逢いたかったけど、どうしても、探しても逢えないかもしれないと思うと怖くて、怖くて、積極的に探せなかった」
 ――もう逢えないんだと、絶望するのが怖くてさ。そう小さく続けるタカ丸に、兵子は唇を引き結んだ。
 それはまた、兵子も同じだったからだ。逢いたいと、恋しいと心の底から思っても、彼を捜して世界中を練り歩くことなどできなかった。自分に与えられた今の生活を口実に、似た姿をしている青年を視線で追うばかり。そして、その人物がタカ丸じゃないと分かった途端にいつだって絶望するのだ。
「もしかしたら、もう逢えないかもしれないと思ってた。……だから、今日逢うことができて、本当に嬉しい」
「……うん」
「本当はね、こんなこと言っちゃ不謹慎かもしれないと思うんだけどね。でも、おれ……兵助が今日、溝にはまってくれて良かった、って思う。兵助はそれをみっともないって思ってるみたいだけど、そうじゃなかったらきっと今日も兵助はいつもの通学路を使って帰ってて、きっとおれん家の前で疲れて立ち止まったりなんてしなくって、きっとおれは傍に兵助がいることも知らないままに、毎日逢いたいなあ、って馬鹿みたいに思ってるばっかりだったんじゃないかな」
「……そうだな」
 兵子は再びタカ丸の肩へと頭を預ける。けれど、すぐにその肩へと目元を押しつけ、小さく身体を震わせた。
「――おれだって、あんたにずっと逢いたかった。おれのことも、昔のことも、覚えてなくても構わないから、あんたに、タカ丸にもう一度逢いたかったんだ……」
 堪える暇もなく、兵子の目尻から涙が滑り落ちる。タカ丸の身体にしがみつくように腕を回し、兵子は子どものように泣いた。
「覚えててくれて良かった……っ、おれのこと、分かってくれて嬉しかった。ありがとう、タカ丸」
「それはこっちの台詞だよお……おれも、兵助がすぐに分かってくれて嬉しかった。……女の子になっていたのには、さすがにびっくりしたけど」
「うるさい。仕方ないだろう、こればかりは。おれに何とかできる問題じゃないんだから」
 きつく己の身体を抱きしめる男に、兵子は小さく悪態をつく。それにタカ丸が笑って、兵子の顔がよく見えるように一度身体を離した。涙の伝う彼女の顔を両手で支え、その涙を指で拭う。そして、その額に己のそれを合わせた。
「……初めまして、おれは斉藤?丸と言います。専門学校の二年生で、来年国家試験を受けて美容師の免許を取る予定です」
「久々知、兵子。高校一年、今のところは大学に進学予定です」
「ふふ……兵子さん、っていうんだ?」
「代わり映えのしない名前で悪かったな。昔から女装のときには世話になった名前だよ」
「おれなんか名前変わってないよ? 父に何でこの名前付けたのか聞いても、ただ思いついただけとしか理由がないしね。……でも、そのお陰で分かりやすいから、おれとしては嬉しかったけどね」
 まだ止まらない兵子の涙を、今度は唇で拭う。その感触にくすぐったそうな表情を浮かべる兵子に、?丸は柔らかく笑った。
「――兵助が、ううん、兵子さんが昔と違って女の子になったみたいに、おれもきっと昔とは色々違うと思うんだ。
 だからね、兵子さん。改めて、これからまた末永く宜しくお願いします。……おれ、きっとあんたにもう一回、ううん、何度でも惚れてもらえるようないい男になれるよう頑張るから」
「馬鹿……もう惚れてる」
 泣き笑いの表情で、兵子は顔を上げた。少しだけ?丸に顔を寄せれば、残りの距離を?丸が詰める。――数百年ぶりに重ねた唇は、昔と同じ味がした。


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