2011,09,06, Tuesday
「はは……」
滝夜叉丸は己の喉から乾いた笑い声が漏れたのを聞いた。それはあまりにも実感がなく、彼の耳を素通りしていく。危機に際して放心するなど忍たまとして失格だ、と内なる声が頭に廻ったが、身体は言うことを聞いてはくれない。彼に今許されたことはみっともなく尻餅をついたまま後退りするだけで、しかしそれすらも背中に当たった壁が阻んだ。
「どうした、滝夜叉丸?」
「あ……はは」
それはこっちの台詞だ、という言葉は滝夜叉丸の喉の奥で潰れてしまい、舌にのることすらない。ただ引きつった笑い声だけが喉に押し出されている。そんな滝夜叉丸を不審に思ったのか、目の前で笑う男――七松小平太が彼の頭を掴んだ。容赦のない力で髪を引かれ、滝夜叉丸は苦痛に顔を歪ませる。しかしそれすらも意に介さず、小平太は滝夜叉丸に顔を寄せた。
「お前が大人しいなど、珍しいな」
「はは」
返事をしなければ、と思うものの、滝夜叉丸の喉からは笑い声しか出てこない。それは小平太が先程から発している殺気のせいなのだが、小平太はそれに気づいているのかいないのか、一向にそれを消すことがない。それどころか、獣じみた獰猛さを滲ませ、滝夜叉丸に迫ってくる。
「なあ、滝夜叉丸。私の相手をしてくれよ。猛って仕方がないんだ」
「は、はは……」
今すぐ逃げるべきだ、と本能が警鐘を鳴らす。しかし、滝夜叉丸の身体は指の先さえ動くことはなかった。
寄せられた小平太の瞳には獲物をいたぶる肉食獣のような光が宿っている。――それが何を意味するのか、四年生にもなった滝夜叉丸が分からないはずもない。
(――逃げなければ)
頭のなかで転がった言葉は虚しく潰え、瞬きをするより早く、小平太が滝夜叉丸の喉に喰らいつく。――滝夜叉丸の喉からは、もはや笑い声さえ出なかった。
滝夜叉丸は己の喉から乾いた笑い声が漏れたのを聞いた。それはあまりにも実感がなく、彼の耳を素通りしていく。危機に際して放心するなど忍たまとして失格だ、と内なる声が頭に廻ったが、身体は言うことを聞いてはくれない。彼に今許されたことはみっともなく尻餅をついたまま後退りするだけで、しかしそれすらも背中に当たった壁が阻んだ。
「どうした、滝夜叉丸?」
「あ……はは」
それはこっちの台詞だ、という言葉は滝夜叉丸の喉の奥で潰れてしまい、舌にのることすらない。ただ引きつった笑い声だけが喉に押し出されている。そんな滝夜叉丸を不審に思ったのか、目の前で笑う男――七松小平太が彼の頭を掴んだ。容赦のない力で髪を引かれ、滝夜叉丸は苦痛に顔を歪ませる。しかしそれすらも意に介さず、小平太は滝夜叉丸に顔を寄せた。
「お前が大人しいなど、珍しいな」
「はは」
返事をしなければ、と思うものの、滝夜叉丸の喉からは笑い声しか出てこない。それは小平太が先程から発している殺気のせいなのだが、小平太はそれに気づいているのかいないのか、一向にそれを消すことがない。それどころか、獣じみた獰猛さを滲ませ、滝夜叉丸に迫ってくる。
「なあ、滝夜叉丸。私の相手をしてくれよ。猛って仕方がないんだ」
「は、はは……」
今すぐ逃げるべきだ、と本能が警鐘を鳴らす。しかし、滝夜叉丸の身体は指の先さえ動くことはなかった。
寄せられた小平太の瞳には獲物をいたぶる肉食獣のような光が宿っている。――それが何を意味するのか、四年生にもなった滝夜叉丸が分からないはずもない。
(――逃げなければ)
頭のなかで転がった言葉は虚しく潰え、瞬きをするより早く、小平太が滝夜叉丸の喉に喰らいつく。――滝夜叉丸の喉からは、もはや笑い声さえ出なかった。
| SS::1000のお題集 | 12:57 | comments (x) | trackback (x) |
2011,09,05, Monday
「こ、殺してやる……!」
いつものようにアルバイトへ励んでいたきり丸は、耳に飛び込んできた物騒な言葉に顔を青くした。――もちろん、恐怖からなどではない。厄介なことになった、という焦燥からである。
それもそのはず、今日のアルバイトは有難迷惑な三人組――もとい、好意できり丸のアルバイトを手伝ってくれている六年生の潮江文次郎、中在家長次、七松小平太と一緒だからだ。忍たまの先輩としては尊敬もし、また頼りになる三人であるが、これがアルバイトとなると話は別だ。図書委員会で一緒の中在家長次はまだマシなほうだが、三人とも見事な忍者馬鹿であるため、どうにも世間一般と感覚がずれている。そのため、どうにも商売を手伝ってもらうのに支障が出るのだ。しかも、その最たる理由が彼らの喧嘩っ早さとなれば、現在のきり丸の危惧はすぐに理解できるだろう。――そして、その危惧は哀しいかな、的中してしまうのである。
「何だ何だあ!」
手伝っていた店から真っ先に飛び出してきたのは、暴れるのが大好きな七松小平太である。出てこなくて良い、ときり丸が思うより先に、続いて潮江文次郎、最後に中在家長次が表に現れた。その瞳は三者三様に輝いており、それまでの平穏――つまり、彼らにとっての退屈である――を塗り替える新しい出来事を歓迎しているように見えた。
「せ、先輩……」
「……危険だな」
顔を引きつらせたきり丸の側で、長次が小さく呟く。その視線を辿れば、若い女性が刃物を突き付けられて立ちすくんでいた。その光景にきり丸は目を見張る。
正直なところ、ただの喧嘩だと思っていたのだ。町中での喧嘩など珍しいことでもないし、気の荒い連中であれば物騒な発言のひとつや二つ、平気で飛び出してくる。しかし、目の当たりにした状況はそんな可愛らしいものではなく、きり丸は思わず傍らの長次を見上げた。
「小平太、文次郎」
「あいよ」
「分かった」
阿吽の呼吸、とでも言うのだろうか、彼らは名前を呼び合うだけで意志の疎通を果たし、あまりにも自然な動きで人ごみのなかへと溶け込んだ。その背中を見送った長次は、不安げに己を見上げるきり丸の頭を撫で、傍に落ちていた小石を拾う。その重さを確かめるように小石を握った拳を揺らすと、長次は目にも留まらぬ速さでその小石を投擲した。
それは寸分違わず男の手元へと命中し、男は手から刃物を取り落とす。それに男が動揺した一瞬の隙をついて小平太が男へと飛び掛かり、その男を地面へと組み伏せた。文次郎は恐怖で身動きができない女性を背にかばい、安全な場所へと移している。――それですべてだった。
「いやー、先輩方すごかったっすねえ! さすがは六年生!」
「はっはっはっ! そうだろう、そうだろう!」
アルバイトを終えた帰り道にきり丸が明るく言うと、上機嫌だった小平太がきり丸の背中をバシバシと叩いた。その馬鹿力にきり丸がひどく顔をしかめても、小平太は全く気にした様子がない。
一方の文次郎といえば、またも活躍の機会を得られなかったということで、こちらはひどく不機嫌だ。平常と変わらぬのは長次だけで、彼は背中の痛みに顔をしかめるきり丸の頭を撫でた。
「今日は、驚いたろう」
ぼそりと呟かれた言葉は、己を案じるもの。それにきり丸は少し驚いたあと、いつもの少し小憎たらしい笑みを浮かべて口を開いた。
「ぜーんぜんっ! だって、先輩方が一緒だったんですから!」
それを耳にした三人はそれぞれ顔を見合わせた後、手を伸ばして小さな後輩の頭をかき混ぜた。
いつものようにアルバイトへ励んでいたきり丸は、耳に飛び込んできた物騒な言葉に顔を青くした。――もちろん、恐怖からなどではない。厄介なことになった、という焦燥からである。
それもそのはず、今日のアルバイトは有難迷惑な三人組――もとい、好意できり丸のアルバイトを手伝ってくれている六年生の潮江文次郎、中在家長次、七松小平太と一緒だからだ。忍たまの先輩としては尊敬もし、また頼りになる三人であるが、これがアルバイトとなると話は別だ。図書委員会で一緒の中在家長次はまだマシなほうだが、三人とも見事な忍者馬鹿であるため、どうにも世間一般と感覚がずれている。そのため、どうにも商売を手伝ってもらうのに支障が出るのだ。しかも、その最たる理由が彼らの喧嘩っ早さとなれば、現在のきり丸の危惧はすぐに理解できるだろう。――そして、その危惧は哀しいかな、的中してしまうのである。
「何だ何だあ!」
手伝っていた店から真っ先に飛び出してきたのは、暴れるのが大好きな七松小平太である。出てこなくて良い、ときり丸が思うより先に、続いて潮江文次郎、最後に中在家長次が表に現れた。その瞳は三者三様に輝いており、それまでの平穏――つまり、彼らにとっての退屈である――を塗り替える新しい出来事を歓迎しているように見えた。
「せ、先輩……」
「……危険だな」
顔を引きつらせたきり丸の側で、長次が小さく呟く。その視線を辿れば、若い女性が刃物を突き付けられて立ちすくんでいた。その光景にきり丸は目を見張る。
正直なところ、ただの喧嘩だと思っていたのだ。町中での喧嘩など珍しいことでもないし、気の荒い連中であれば物騒な発言のひとつや二つ、平気で飛び出してくる。しかし、目の当たりにした状況はそんな可愛らしいものではなく、きり丸は思わず傍らの長次を見上げた。
「小平太、文次郎」
「あいよ」
「分かった」
阿吽の呼吸、とでも言うのだろうか、彼らは名前を呼び合うだけで意志の疎通を果たし、あまりにも自然な動きで人ごみのなかへと溶け込んだ。その背中を見送った長次は、不安げに己を見上げるきり丸の頭を撫で、傍に落ちていた小石を拾う。その重さを確かめるように小石を握った拳を揺らすと、長次は目にも留まらぬ速さでその小石を投擲した。
それは寸分違わず男の手元へと命中し、男は手から刃物を取り落とす。それに男が動揺した一瞬の隙をついて小平太が男へと飛び掛かり、その男を地面へと組み伏せた。文次郎は恐怖で身動きができない女性を背にかばい、安全な場所へと移している。――それですべてだった。
「いやー、先輩方すごかったっすねえ! さすがは六年生!」
「はっはっはっ! そうだろう、そうだろう!」
アルバイトを終えた帰り道にきり丸が明るく言うと、上機嫌だった小平太がきり丸の背中をバシバシと叩いた。その馬鹿力にきり丸がひどく顔をしかめても、小平太は全く気にした様子がない。
一方の文次郎といえば、またも活躍の機会を得られなかったということで、こちらはひどく不機嫌だ。平常と変わらぬのは長次だけで、彼は背中の痛みに顔をしかめるきり丸の頭を撫でた。
「今日は、驚いたろう」
ぼそりと呟かれた言葉は、己を案じるもの。それにきり丸は少し驚いたあと、いつもの少し小憎たらしい笑みを浮かべて口を開いた。
「ぜーんぜんっ! だって、先輩方が一緒だったんですから!」
それを耳にした三人はそれぞれ顔を見合わせた後、手を伸ばして小さな後輩の頭をかき混ぜた。
| SS::1000のお題集 | 12:21 | comments (x) | trackback (x) |
2011,09,01, Thursday
髪の手入れと称して、この男が自分を部屋に連れ込みはじめたのはいつだろうか、と兵助は髪をいじられながら考える。
(はじめは確か、勉強を教えてほしいと言われたのだったか)
斉藤タカ丸という男は、この忍術学園において特異な経歴を持つ輩だった。十五の歳までカリスマ髪結いの息子として髪結いの修業をしておきながら、その途中で己の祖父が穴丑であったことを知り、それが縁でこの忍術学園という学び舎に入ったのだ。しかも、六年と同じ歳でありながら、二つ下の四年へと編入するというおまけつき。挙句、忍者を志しながらも髪結いとしての志も捨てぬという、尚更奇矯な男である。
下級生などは六年と同い年でありながら一年よりも忍たまの経験がない、などとよくからかい混じりに言っているが、実際にそれがどんな意味を持つのか、彼らは全く理解していない。
忍術学園には一流の忍者でありながらも二年生として編入した男がおり、風魔忍術学校には自分たちよりずっと歳かさでありながらも一年として学んでいる男もいる。その前例を塗り替えての、四年への編入。――それは恐るべきことだ、と兵助は思う。もっとも、彼を深く知るようになるまでは、そんなこと思いもしなかったのだけれど。
はじめ、四年への転入生だと聞いたとき、兵助はどこかの忍術学校から編入してきたのだと思っていた。しかし、実際に委員会で活動をすれば火薬の扱いは不慣れ、足音をバタバタと立てる、など逆によくもまあ四年まで進級できたものだと感心したくらいである。しかし、忍術学園にタカ丸を狙った侵入者が入り込んだときに彼の事情を知って納得すると同時に戦慄した。忍たまどころか体術すらも訓練していないはずの人間が、一気に四年まで飛び級したのだ。それは、彼がそれだけの実力を持っているという事実を示している。けれど、それが目に見えて分からないことが、兵助には恐ろしかった。
「兵助くん」
己の首元へ腕を絡めながらも気の抜けるような声と笑顔で己を呼ぶ男を見る限り、本当にそれだけの実力があるのかとついつい訝ってしまう。が、この現状を考えれば、確かにこの男は忍者に向いているのだと思った。
たまごとはいえ忍の自分が、あっさりと間合いに入れてしまうだけの人懐こさ。間抜けにすら見える笑みは人の警戒心を弱くし、髪結いになるために学んできた技術――話術は相手の秘密を巧みに暴き出す。それを意図せずやってしまうのだから、恐ろしいにも程がある。
「何考えてたの、真剣な表情で」
「……さあ、な」
お前のこと、とはさすがに言えず、兵助は後ろから己を抱きしめる男に視線を投げた。視線が合えば、己の顔に唇を寄せてくる。敢えてそのまま受け入れれば、タカ丸はくすりと笑って頬に口づけを落とした。
「珍し、兵助くんが大人しいなんて」
「そういうお前は全くもっていつもどおりだな。――いい加減にしろ、このスケベ」
さり気なく己の懐に潜り込んだ手を掴み、兵助は小さく溜息をついた。――全く、何がどうなってこうなったのやら。警戒していたはずなのに、いつの間にか懐に取り込まれている。己を抱き寄せながら髪に指を通す男を眺めて、兵助はもう一度溜息をつく。
「そんなこと言って、兵助くんだって嫌じゃないんでしょ? じゃなきゃ、まず俺の部屋に来てくれないじゃない」
「髪の手入れがしたいって引っ張り込んだのはそっちだろ」
「だって最近は勉強見て、って言っても来てくれないから」
再び己の懐へ手を入れてきた男に溜息をつきながら、兵助は首筋に寄せられた頭に手を伸ばす。兵助にしてみれば不可思議に伸ばされている髪をぐっと掴んで、タカ丸の頭を引き寄せた。
「ちょ、いたた……もう、相変わらず乱暴なんだから」
不満げに唇を尖らせる男の唇を己から奪う。――本当に怖い男だ、と思う。色恋は三禁のひとつ。だから忍を志して研鑽していた己は、恋なんてしないと思っていた。それが今はこうだ。ここまで己を染め変えてしまった男に怒りすら覚えながらも、己の肌を辿る温かい指に全てを許す心地よさに兵助はただタカ丸に身を委ねた。
(はじめは確か、勉強を教えてほしいと言われたのだったか)
斉藤タカ丸という男は、この忍術学園において特異な経歴を持つ輩だった。十五の歳までカリスマ髪結いの息子として髪結いの修業をしておきながら、その途中で己の祖父が穴丑であったことを知り、それが縁でこの忍術学園という学び舎に入ったのだ。しかも、六年と同じ歳でありながら、二つ下の四年へと編入するというおまけつき。挙句、忍者を志しながらも髪結いとしての志も捨てぬという、尚更奇矯な男である。
下級生などは六年と同い年でありながら一年よりも忍たまの経験がない、などとよくからかい混じりに言っているが、実際にそれがどんな意味を持つのか、彼らは全く理解していない。
忍術学園には一流の忍者でありながらも二年生として編入した男がおり、風魔忍術学校には自分たちよりずっと歳かさでありながらも一年として学んでいる男もいる。その前例を塗り替えての、四年への編入。――それは恐るべきことだ、と兵助は思う。もっとも、彼を深く知るようになるまでは、そんなこと思いもしなかったのだけれど。
はじめ、四年への転入生だと聞いたとき、兵助はどこかの忍術学校から編入してきたのだと思っていた。しかし、実際に委員会で活動をすれば火薬の扱いは不慣れ、足音をバタバタと立てる、など逆によくもまあ四年まで進級できたものだと感心したくらいである。しかし、忍術学園にタカ丸を狙った侵入者が入り込んだときに彼の事情を知って納得すると同時に戦慄した。忍たまどころか体術すらも訓練していないはずの人間が、一気に四年まで飛び級したのだ。それは、彼がそれだけの実力を持っているという事実を示している。けれど、それが目に見えて分からないことが、兵助には恐ろしかった。
「兵助くん」
己の首元へ腕を絡めながらも気の抜けるような声と笑顔で己を呼ぶ男を見る限り、本当にそれだけの実力があるのかとついつい訝ってしまう。が、この現状を考えれば、確かにこの男は忍者に向いているのだと思った。
たまごとはいえ忍の自分が、あっさりと間合いに入れてしまうだけの人懐こさ。間抜けにすら見える笑みは人の警戒心を弱くし、髪結いになるために学んできた技術――話術は相手の秘密を巧みに暴き出す。それを意図せずやってしまうのだから、恐ろしいにも程がある。
「何考えてたの、真剣な表情で」
「……さあ、な」
お前のこと、とはさすがに言えず、兵助は後ろから己を抱きしめる男に視線を投げた。視線が合えば、己の顔に唇を寄せてくる。敢えてそのまま受け入れれば、タカ丸はくすりと笑って頬に口づけを落とした。
「珍し、兵助くんが大人しいなんて」
「そういうお前は全くもっていつもどおりだな。――いい加減にしろ、このスケベ」
さり気なく己の懐に潜り込んだ手を掴み、兵助は小さく溜息をついた。――全く、何がどうなってこうなったのやら。警戒していたはずなのに、いつの間にか懐に取り込まれている。己を抱き寄せながら髪に指を通す男を眺めて、兵助はもう一度溜息をつく。
「そんなこと言って、兵助くんだって嫌じゃないんでしょ? じゃなきゃ、まず俺の部屋に来てくれないじゃない」
「髪の手入れがしたいって引っ張り込んだのはそっちだろ」
「だって最近は勉強見て、って言っても来てくれないから」
再び己の懐へ手を入れてきた男に溜息をつきながら、兵助は首筋に寄せられた頭に手を伸ばす。兵助にしてみれば不可思議に伸ばされている髪をぐっと掴んで、タカ丸の頭を引き寄せた。
「ちょ、いたた……もう、相変わらず乱暴なんだから」
不満げに唇を尖らせる男の唇を己から奪う。――本当に怖い男だ、と思う。色恋は三禁のひとつ。だから忍を志して研鑽していた己は、恋なんてしないと思っていた。それが今はこうだ。ここまで己を染め変えてしまった男に怒りすら覚えながらも、己の肌を辿る温かい指に全てを許す心地よさに兵助はただタカ丸に身を委ねた。
| SS::1000のお題集 | 20:58 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,30, Tuesday
「まあ、大きなお魚!」
カメ子は今し方釣り上げられた魚を見て目を丸くした。それに気を良くしたらしい青年が笑う。
「カメちゃん、触ってみる?」
幾分砕けた物言いをされるようになったのは、こうして彼らと過ごす時間が増えたからだろうか。忙しい父の名代、とは名ばかりの幼い自分をこうして尊重し、また可愛がってくれる彼らをカメ子は大好きであった。
「よろしいのですか?」
「良いよ、はい」
差し出された魚に恐る恐る手を伸ばす。濡れた身体はカメ子の指先が触れると同時にひどくばたついた。魚が跳ねるたびに残っていた水しぶきが彼女の顔に降りかかる。咄嗟に顔を背けたものの、降り注いだ水のつぶては容赦なくカメ子をなぶった。
「わわっ、大丈夫!?」
「こらっ、何しているんだ! カメ子さん、大丈夫ですか?」
慌てて魚を引き寄せる青年の声にかぶさるように、聞き慣れた低い声が降ってくる。さらに温かく大きな手のひらが自分の身体を後ろへ引き寄せた。
「ああ、こんなに濡れてしまって……馬鹿野郎、カメ子さんに何てことをするんだ!」
目の前の青年を怒鳴りつける男――鬼蜘蛛丸に、カメ子は慌ててかぶりを振った。己を守るように抱える腕に手を添え、そうではないのだと言い募る。
「鬼蜘蛛丸さま、お怒りにならないでください。わたくしが触りたかったのです」
それは事実だ。――きらきらと日に輝く魚に、触れてみたかった。思った以上に活きが良くて驚いたが。
鬼蜘蛛丸がカメ子の言葉をどう取ったのかは分からないが、彼は深い溜息をひとつついたあとに懐から手拭いを取り出した。少ししわくちゃのそれに鬼蜘蛛丸はバツの悪そうな顔をしたが、小さく「綺麗ですから」と呟いてそれでカメ子の顔を拭った。
「これで大丈夫だと思いますが……魚なんてそう珍しいものでもないでしょうに」
「ええ、そうですわね。ですが、こうして今釣れたばかりのお魚を間近に見るのは初めてだったものですから。普段目にするのはもう売られているものばかりですもの」
カメ子のその言葉に鬼蜘蛛丸は少しだけ目を見張り、そのあとに表情を和らげた。少し考えたあとに口を開く。
「まだ、堺の港に着くまで少し時間があります。……もし宜しければ、カメ子さんも釣りをしてみますか? 私がお教えしましょう」
「まあ、本当ですの!? 嬉しい、わたくし是非やってみたいです! 鬼蜘蛛丸さま、ありがとうございます!」
鬼蜘蛛丸の言葉にカメ子の表情がパッと明るくなる。それに鬼蜘蛛丸もまた常になく柔らかな笑みを浮かべ、彼女をその膝に招いた。――それを周囲の人間が呆れた顔で見ていることに気づかないまま。
カメ子は今し方釣り上げられた魚を見て目を丸くした。それに気を良くしたらしい青年が笑う。
「カメちゃん、触ってみる?」
幾分砕けた物言いをされるようになったのは、こうして彼らと過ごす時間が増えたからだろうか。忙しい父の名代、とは名ばかりの幼い自分をこうして尊重し、また可愛がってくれる彼らをカメ子は大好きであった。
「よろしいのですか?」
「良いよ、はい」
差し出された魚に恐る恐る手を伸ばす。濡れた身体はカメ子の指先が触れると同時にひどくばたついた。魚が跳ねるたびに残っていた水しぶきが彼女の顔に降りかかる。咄嗟に顔を背けたものの、降り注いだ水のつぶては容赦なくカメ子をなぶった。
「わわっ、大丈夫!?」
「こらっ、何しているんだ! カメ子さん、大丈夫ですか?」
慌てて魚を引き寄せる青年の声にかぶさるように、聞き慣れた低い声が降ってくる。さらに温かく大きな手のひらが自分の身体を後ろへ引き寄せた。
「ああ、こんなに濡れてしまって……馬鹿野郎、カメ子さんに何てことをするんだ!」
目の前の青年を怒鳴りつける男――鬼蜘蛛丸に、カメ子は慌ててかぶりを振った。己を守るように抱える腕に手を添え、そうではないのだと言い募る。
「鬼蜘蛛丸さま、お怒りにならないでください。わたくしが触りたかったのです」
それは事実だ。――きらきらと日に輝く魚に、触れてみたかった。思った以上に活きが良くて驚いたが。
鬼蜘蛛丸がカメ子の言葉をどう取ったのかは分からないが、彼は深い溜息をひとつついたあとに懐から手拭いを取り出した。少ししわくちゃのそれに鬼蜘蛛丸はバツの悪そうな顔をしたが、小さく「綺麗ですから」と呟いてそれでカメ子の顔を拭った。
「これで大丈夫だと思いますが……魚なんてそう珍しいものでもないでしょうに」
「ええ、そうですわね。ですが、こうして今釣れたばかりのお魚を間近に見るのは初めてだったものですから。普段目にするのはもう売られているものばかりですもの」
カメ子のその言葉に鬼蜘蛛丸は少しだけ目を見張り、そのあとに表情を和らげた。少し考えたあとに口を開く。
「まだ、堺の港に着くまで少し時間があります。……もし宜しければ、カメ子さんも釣りをしてみますか? 私がお教えしましょう」
「まあ、本当ですの!? 嬉しい、わたくし是非やってみたいです! 鬼蜘蛛丸さま、ありがとうございます!」
鬼蜘蛛丸の言葉にカメ子の表情がパッと明るくなる。それに鬼蜘蛛丸もまた常になく柔らかな笑みを浮かべ、彼女をその膝に招いた。――それを周囲の人間が呆れた顔で見ていることに気づかないまま。
| SS | 06:48 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,27, Saturday
「忍術学園めぇ……!」
ドクタケ忍者隊首領稗田八宝菜が忌ま忌ましげに呟いた。この度も彼らが考えに考え抜いた計画を、一年は組の良い子たちおよび忍術学園の面々に目茶苦茶にされたのだ。せっかく用意した高価な火器も、火薬も、これで全てがパアだ。その悔しさに歯ぎしりするも、今となっては後の祭り。さらに言えば、自分たちの身すら危うい状況である。
それを見て取った八宝菜は、すぐさま傍の部下たちに声を張り上げた。
「ドクタケ忍者隊、全員退却! 今日のところは 退いてやるぞ、忍術学園の諸君!」
「退いてやるんじゃなくて、負けたんだろ?」
一年は組のなかでもとりわけ口の悪いきり丸が憎まれ口を叩いたが、それは無視する。同時に懐から取り出した煙玉に火を点け、地面へと投げつけた。導火線が尽きたそれは八宝菜の望み通りにもくもくと周囲へ白い煙を立ち込めさせ、彼らの姿を隠してくれる。その混乱に乗じて、八宝菜は部下たちとともに一目散に駆け出した。
「お頭ぁ、おれたちまた負けたんですね」
「黙れ黙れぇ! 負けたのではない、状況を立て直すために一時退却するのだ!」
「それって結局負けたってことじゃ……」
「違ぁーう! 全然違う! しかし、今はとにかく退くのだあー!」
実際の状況としては、まさしく「尻尾を巻いて逃げた」わけだが、ドクタケ忍者隊首領として、それを認めるわけにはいかない。そのため、八宝菜は泣き言を漏らす部下たちを叱咤することで、己の胸に生まれる忸怩たる気持ちに見ない振りをしたのであった。
ドクタケ忍者隊首領稗田八宝菜が忌ま忌ましげに呟いた。この度も彼らが考えに考え抜いた計画を、一年は組の良い子たちおよび忍術学園の面々に目茶苦茶にされたのだ。せっかく用意した高価な火器も、火薬も、これで全てがパアだ。その悔しさに歯ぎしりするも、今となっては後の祭り。さらに言えば、自分たちの身すら危うい状況である。
それを見て取った八宝菜は、すぐさま傍の部下たちに声を張り上げた。
「ドクタケ忍者隊、全員退却! 今日のところは 退いてやるぞ、忍術学園の諸君!」
「退いてやるんじゃなくて、負けたんだろ?」
一年は組のなかでもとりわけ口の悪いきり丸が憎まれ口を叩いたが、それは無視する。同時に懐から取り出した煙玉に火を点け、地面へと投げつけた。導火線が尽きたそれは八宝菜の望み通りにもくもくと周囲へ白い煙を立ち込めさせ、彼らの姿を隠してくれる。その混乱に乗じて、八宝菜は部下たちとともに一目散に駆け出した。
「お頭ぁ、おれたちまた負けたんですね」
「黙れ黙れぇ! 負けたのではない、状況を立て直すために一時退却するのだ!」
「それって結局負けたってことじゃ……」
「違ぁーう! 全然違う! しかし、今はとにかく退くのだあー!」
実際の状況としては、まさしく「尻尾を巻いて逃げた」わけだが、ドクタケ忍者隊首領として、それを認めるわけにはいかない。そのため、八宝菜は泣き言を漏らす部下たちを叱咤することで、己の胸に生まれる忸怩たる気持ちに見ない振りをしたのであった。
| SS::1000のお題集 | 20:51 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,26, Friday
「やり直し」
はっきりと告げられた一言に、団蔵は目の前が真っ暗になるかと思った。いや、事実たたらを踏んだのだから、真っ暗になったのだろう。それは障子の外に広がる闇と同じ色をしていて、今にも団蔵を飲み込んでしまいそうだった。
「団蔵、突っ立っていても帳簿は合わんぞ」
「……はい……」
胸に刺さる言葉だが、これはまだマシなほうだ。場合によっては、いや普段ならば「鍛練が足りん!」と怒鳴りつけられた挙句、委員全員を巻き込んで深夜であろうと構わずそろばん片手に外へ叩き出されるのだから。そうならないだけマシ。そのはずなのに、いつもよりずっと静かに告げられた一言が団蔵には堪えていた。
「団蔵」
背後から静かな声がかかる。目の前の委員長よりも幾分も穏やかなその声は、委員長に次ぐ年長者、四年ろ組の田村三木ヱ門であろう。先程まで流れるように聞こえていた珠を弾く音が聞こえなくなったことから、団蔵は三木ヱ門が手を止めて己を見つめていることに気づいた。
そうだ、早く自分の持ち場に戻って計算をやり直さなくては。そう思うものの、身体が動かない。まるで鉛を流し込まれたように全身が重く、だるかった。
「うっ……」
どうして自分はこんなに悲しくて苦しいのだろう。計算のやり直しを突き付けられるのも、深夜まで委員会活動が続くのもいつものことだ。それなのに、今自分はひどく辛い。それがなぜだか分からないことが尚更団蔵の苛立ちと苦痛を増長させ、涙となって身体の外へと溢れていた。
泣いているバヤイではない。早く自分の席に戻るんだ。――そう思うものの身体は動かず、団蔵は唯一ままになる指先で袴を握り締めた。
そこに響き渡る溜息と、帳簿が閉じられる静かな音。珠を弾く音に満ちているはずの委員会室で、それはやけに大きく響いた。
「今日は終いだ。三木ヱ門、左門と佐吉の面倒を頼む」
「委員長」
「俺はこいつだ」
急に立ち上がった文次郎に団蔵が身体を跳ねさせると、文次郎はもう一度、今度は露骨な溜息をついた。
「気づいてねえのか?」
低い声とともに落ちてくる腕に団蔵は思わず目を閉じる。しかし、降ってくるはずの拳固は、額に添えられる温かい手のひらに変わっていた。
「結構高いな……馬鹿は風邪引かないというもんだが」
話している内容は全くひどいものだが、今の団蔵にはただ額に当てられた手のひらの優しさだけしか分からなかった。ぼうっと腕を辿れば、濃い隈を目元に張りつかせた文次郎の顔に辿り着く。自分を見下ろす視線をじっと見返していると、呆れたような溜息と共に額を押された。
「三木ヱ門、後は頼んだ。――おら、行くぞ」
文次郎は後輩たちにそれぞれ声をかけていた三木ヱ門に一声かけると、それなりに重たいはずの団蔵を軽々と持ち上げ、荷物のように肩へと担ぎ上げる。それに三木ヱ門はただ軽く頷くと、「僕は寝ていない……」と繰り返し寝ぼけて呟いている左門の頭を引っぱたいて起こした。佐吉はその傍らで今にもくっつきそうな瞼を必死で持ち上げるべく、目を何度もこすっている。そんな彼らを確認すると、文次郎はもう一度大きく溜息をつき、団蔵を抱えたまま委員会室を後にした。
団蔵は熱でぼうっとする意識のなか、ゆらゆらと揺れる身体の心地よさに小さく息をついた。――身体が熱くてだるい。けれど、不思議と先程のような不安や苛立ちは感じなかった。睡眠不足も相俟って、眠気が全身に押し寄せてくる。身体の下にある温かさに目を閉じれば、すぐに眠りの波が団蔵を飲み込んでいった。そこにあるのはもはや大きな安心だけだ。吸い寄せられるように己に触れる温かさへしがみついた団蔵は、そのまま全てをその温かさに委ねて眠った。
「……寝やがったな」
己にかかる重さでそれに気づいた文次郎が、小さく呟く。抱えた小さな身体は常よりもずっと熱い。体調の変化に気づかなかった自分の不明をこってりと養護教諭と保健委員長に絞られるのだろう、と想像して、少々気が滅入ったが、今回ばかりは仕方がない、ともう一度溜息をつくことで文次郎は全てを思い切った。
はっきりと告げられた一言に、団蔵は目の前が真っ暗になるかと思った。いや、事実たたらを踏んだのだから、真っ暗になったのだろう。それは障子の外に広がる闇と同じ色をしていて、今にも団蔵を飲み込んでしまいそうだった。
「団蔵、突っ立っていても帳簿は合わんぞ」
「……はい……」
胸に刺さる言葉だが、これはまだマシなほうだ。場合によっては、いや普段ならば「鍛練が足りん!」と怒鳴りつけられた挙句、委員全員を巻き込んで深夜であろうと構わずそろばん片手に外へ叩き出されるのだから。そうならないだけマシ。そのはずなのに、いつもよりずっと静かに告げられた一言が団蔵には堪えていた。
「団蔵」
背後から静かな声がかかる。目の前の委員長よりも幾分も穏やかなその声は、委員長に次ぐ年長者、四年ろ組の田村三木ヱ門であろう。先程まで流れるように聞こえていた珠を弾く音が聞こえなくなったことから、団蔵は三木ヱ門が手を止めて己を見つめていることに気づいた。
そうだ、早く自分の持ち場に戻って計算をやり直さなくては。そう思うものの、身体が動かない。まるで鉛を流し込まれたように全身が重く、だるかった。
「うっ……」
どうして自分はこんなに悲しくて苦しいのだろう。計算のやり直しを突き付けられるのも、深夜まで委員会活動が続くのもいつものことだ。それなのに、今自分はひどく辛い。それがなぜだか分からないことが尚更団蔵の苛立ちと苦痛を増長させ、涙となって身体の外へと溢れていた。
泣いているバヤイではない。早く自分の席に戻るんだ。――そう思うものの身体は動かず、団蔵は唯一ままになる指先で袴を握り締めた。
そこに響き渡る溜息と、帳簿が閉じられる静かな音。珠を弾く音に満ちているはずの委員会室で、それはやけに大きく響いた。
「今日は終いだ。三木ヱ門、左門と佐吉の面倒を頼む」
「委員長」
「俺はこいつだ」
急に立ち上がった文次郎に団蔵が身体を跳ねさせると、文次郎はもう一度、今度は露骨な溜息をついた。
「気づいてねえのか?」
低い声とともに落ちてくる腕に団蔵は思わず目を閉じる。しかし、降ってくるはずの拳固は、額に添えられる温かい手のひらに変わっていた。
「結構高いな……馬鹿は風邪引かないというもんだが」
話している内容は全くひどいものだが、今の団蔵にはただ額に当てられた手のひらの優しさだけしか分からなかった。ぼうっと腕を辿れば、濃い隈を目元に張りつかせた文次郎の顔に辿り着く。自分を見下ろす視線をじっと見返していると、呆れたような溜息と共に額を押された。
「三木ヱ門、後は頼んだ。――おら、行くぞ」
文次郎は後輩たちにそれぞれ声をかけていた三木ヱ門に一声かけると、それなりに重たいはずの団蔵を軽々と持ち上げ、荷物のように肩へと担ぎ上げる。それに三木ヱ門はただ軽く頷くと、「僕は寝ていない……」と繰り返し寝ぼけて呟いている左門の頭を引っぱたいて起こした。佐吉はその傍らで今にもくっつきそうな瞼を必死で持ち上げるべく、目を何度もこすっている。そんな彼らを確認すると、文次郎はもう一度大きく溜息をつき、団蔵を抱えたまま委員会室を後にした。
団蔵は熱でぼうっとする意識のなか、ゆらゆらと揺れる身体の心地よさに小さく息をついた。――身体が熱くてだるい。けれど、不思議と先程のような不安や苛立ちは感じなかった。睡眠不足も相俟って、眠気が全身に押し寄せてくる。身体の下にある温かさに目を閉じれば、すぐに眠りの波が団蔵を飲み込んでいった。そこにあるのはもはや大きな安心だけだ。吸い寄せられるように己に触れる温かさへしがみついた団蔵は、そのまま全てをその温かさに委ねて眠った。
「……寝やがったな」
己にかかる重さでそれに気づいた文次郎が、小さく呟く。抱えた小さな身体は常よりもずっと熱い。体調の変化に気づかなかった自分の不明をこってりと養護教諭と保健委員長に絞られるのだろう、と想像して、少々気が滅入ったが、今回ばかりは仕方がない、ともう一度溜息をつくことで文次郎は全てを思い切った。
| SS::1000のお題集 | 21:28 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,25, Thursday
「目元アップ! 口元アップ! 髷アップ! 今日も素敵な滝夜叉丸!」
決まった、と滝夜叉丸は口の端を持ち上げた。美しく全てに才長けた己には、それに相応しい登場の仕方がある。赤い薔薇を手に屋根から降り立った滝夜叉丸は、その薔薇を天にかざしてもう一度ポーズをとった。
「……滝夜叉丸先輩……」
本来ならばここで拍手喝采が起こるはずが、聞こえたのは同じ委員会の後輩が漏らしたうんざりとした調子の呟きのみ。不審に思って彼が視線を戻せば、そこに集まっていた後輩三人はそれぞれにげんなりとした表情で滝夜叉丸を見つめていた。
「ないわ……」
ぼそりと呟いたのは一つ下の三之助だ。それに滝夜叉丸が鋭い視線を投げれば、彼は露骨に嫌な表情を作る。その生意気な態度に滝夜叉丸が物申そうとしたそのとき、傍の後輩がそれぞれ小さな悲鳴を上げた。驚いて振り返れば、地面に何やら盛り上がりが続いている。もぐらの通った跡のようなそれの原因に滝夜叉丸が気づくよりも早く、彼の目の前に大きな影と土砂が飛び込んできた。
「いけいけどんどーん!」
「ひっ……!」
鼓膜を震わす大きな声に滝夜叉丸は思わず喉を引き攣らせた。彼がそれを目視するより早く、その影は滝夜叉丸の首をその腕に抱え込む。ぐ、と強く彼の喉元を絞め上げる腕に、滝夜叉丸は思わず声を張り上げた。
「七松先輩、変な登場の仕方をしないでくださいっ!」
「何おう!? お前だって随分変な現れ方をしたではないか! それに比べて私なんて地味なものだろう! それよりも、ほら全員で塹壕を掘るぞ! いけいけどんどーん!」
滝夜叉丸の首を腕に入れたまま、小平太はさらに傍に居た金吾を片手で捕まえる。その横にいた四郎兵衛にも声をかけ、呆然とそれを見守っていた三之助にも視線を送る。それだけで彼らは今日の委員会もまた地獄であることを理解し、ただ委員長の告げる活動を遂行するために各々苦無を取り出したのだった。
決まった、と滝夜叉丸は口の端を持ち上げた。美しく全てに才長けた己には、それに相応しい登場の仕方がある。赤い薔薇を手に屋根から降り立った滝夜叉丸は、その薔薇を天にかざしてもう一度ポーズをとった。
「……滝夜叉丸先輩……」
本来ならばここで拍手喝采が起こるはずが、聞こえたのは同じ委員会の後輩が漏らしたうんざりとした調子の呟きのみ。不審に思って彼が視線を戻せば、そこに集まっていた後輩三人はそれぞれにげんなりとした表情で滝夜叉丸を見つめていた。
「ないわ……」
ぼそりと呟いたのは一つ下の三之助だ。それに滝夜叉丸が鋭い視線を投げれば、彼は露骨に嫌な表情を作る。その生意気な態度に滝夜叉丸が物申そうとしたそのとき、傍の後輩がそれぞれ小さな悲鳴を上げた。驚いて振り返れば、地面に何やら盛り上がりが続いている。もぐらの通った跡のようなそれの原因に滝夜叉丸が気づくよりも早く、彼の目の前に大きな影と土砂が飛び込んできた。
「いけいけどんどーん!」
「ひっ……!」
鼓膜を震わす大きな声に滝夜叉丸は思わず喉を引き攣らせた。彼がそれを目視するより早く、その影は滝夜叉丸の首をその腕に抱え込む。ぐ、と強く彼の喉元を絞め上げる腕に、滝夜叉丸は思わず声を張り上げた。
「七松先輩、変な登場の仕方をしないでくださいっ!」
「何おう!? お前だって随分変な現れ方をしたではないか! それに比べて私なんて地味なものだろう! それよりも、ほら全員で塹壕を掘るぞ! いけいけどんどーん!」
滝夜叉丸の首を腕に入れたまま、小平太はさらに傍に居た金吾を片手で捕まえる。その横にいた四郎兵衛にも声をかけ、呆然とそれを見守っていた三之助にも視線を送る。それだけで彼らは今日の委員会もまた地獄であることを理解し、ただ委員長の告げる活動を遂行するために各々苦無を取り出したのだった。
| SS::1000のお題集 | 22:32 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
「……このバ神崎! お前はいい加減にしろとあれほど……だから、僕が迎えに行くまで教室に残っていろと言っただろう! お前を捜して校内を走り回るこっちの身にもなれ!」
「何の話ですか、田村三木ヱ門先輩。私は生徒会室に向かっていたところなのですが」
ようやく見つけた後輩の腕を引っつかんで怒鳴りつけた三木ヱ門であるが、対する後輩――神崎 左代子(さよこ)の反応に絶句した。以前から――それこそ、彼女が忍術学園の生徒であり、神崎左門という名の少年であったときからの方向音痴は未だ健在であり、それゆえに現在では単独行動を禁じられているにもかかわらずこの発言。抑えていた怒りがふつふつと湧きあがるのを感じながら、三木ヱ門は今にも再び走り出しそうな左代子の腕を掴みなおして睨みつけた。
「お前な、自分が『決断力のある方向音痴』って自覚しているだろう。馬鹿は死ななきゃ直らないと言うが、死んでも直らないとはどういうわけだ?」
「失敬な! 今の私は『決断力のある方向音痴』改め『決断力のある女』なのです。方向音痴じゃありません」
「既に迷ってるだろうが! 今何分か分かってるか!? お前が教室を出た時刻が午後三時過ぎ、今は午後三時半だ! 因みにお前の教室から生徒会室までの距離は時間にしておよそ五分! 方向音痴でなければとっくのとうに生徒会室に辿り着いているんだよ!」
唇を尖らせる左代子に三木ヱ門は苛々と怒鳴りつけた。彼女を迎えに行けば、既に出たと同じく方向音痴の次屋三之助(こっちは相変わらずの無自覚だ)にそう告げられ、さらに富松作兵衛に何度も頭を下げられたのだ。こちらも相変わらずの妄想癖を発揮する富松を宥めすかして落ち着かせ、三木ヱ門は目撃情報を辿って校舎内を右から左へと駆け回り、そうしてようやく今彼女を発見したというわけだ。左代子が大人しく教室で待っていればこんな無駄をすることはなかったのに、と三木ヱ門は大きな溜息をつき、人の話を聞かずに駆け出そうとする左代子の腕を引いた。
昔はそれなりに力もあった左代子だが、現在の性別は女、今生でも男に生まれた三木ヱ門の力に敵うはずはない。それを承知の三木ヱ門は己の身体でよろめいた左代子を受け止めると、その腰を攫ってまるで荷物か何かのように左代子を小脇に抱えた。
「ちょっと! 何をするんですか!」
「うるさい、バ神崎! お前はもう自分の足で歩くな、面倒だから! こら、暴れるな、大人しくしろ! ほら、生徒会室に行くぞ!」
「ちょっと! セクハラですよ、田村先輩! 放してくださいー!」
「こんなときだけ現代語を駆使しおって腹立たしい! セクハラだの何だの言う暇があれば! 今すぐ校内地図を頭に叩き込み、正確な方位を掴んで、全ての教室に寄り道せずに向かえるようにしろ!」
同学年でのあだ名が「豆タンク」と聞いて、思わず納得してしまった三木ヱ門である。男としては決して大柄ではない三木ヱ門が軽々小脇に抱えられるほど、左代子の身体は小さい。そのくせ元気いっぱいに勢いよく走り出してはどこかへ消えていくこの少女にはまさに相応しい例えであろう。未だ己の脇の下で暴れている左門を抱えなおしたあと、三木ヱ門は小さく溜息をついた。
「いいか、次からは必ず教室にいるようにしろ。それならこんな風に抱えたりもせずに、ちゃんと生徒会室に連れていってやる。第一、富松にも止められたんじゃないのか? あいつ、可哀想なくらい僕に謝っていたぞ」
「作兵衛は心配性過ぎるんですよ! 私なら大丈夫なのに」
「大丈夫じゃなかっただろうが! あーもういい、時間が勿体ない! 早く生徒会室に行くぞ!」
「ちょっと、下ろしてからにしてくださいよ!」
「下ろした瞬間に走り出す気満々だろうが、お前! 良いから大人しくしていろ!」
ぎゃんぎゃん、と脇の下で暴れる左代子とやり合いながら、三木ヱ門は歩き出す。その心はまだ憤懣やるかたない気持ちでいっぱいだったが、そのすぐあとに聞こえた耳慣れた大声に彼は少しだけ慰められた。
『三之助、いい加減にしろ!』
よく通る高い声は、現世では女子に生まれた己の同輩だ。――彼女もまた、同じ委員会の方向音痴な後輩に悩まされている同士でもある。しかし、彼女は自分とは正反対に後輩が男のまま生まれ、彼女自身は女子に生まれている。その分、身体能力にも差が生まれ、後輩を捕らえるのに苦労しているらしい。最終的に縄で捕獲するまでになっている彼らの様子を見れば、同じく方向音痴のじゃじゃ馬であっても、こうして簡単に捕獲できる己のほうがまだマシのような気がするのだ。それがドングリの背比べだとは気づかぬまま、三木ヱ門は少し気分を持ちなおして未だ暴れる左代子を揺らすことで黙らせ、生徒会室へ歩き始めたのだった。
| SS::記憶の先 | 03:10 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
※Pixivにも同じものをアップしています。
「……しくじったなあ」
久々知兵子は小さく呟いてから、前髪を掻き上げた。視線を落とした先には、ヘドロにまみれた己の片足。幸い制服のスカートまでは汚れなかったものの、革靴と靴下はおじゃんだ。挙句、これではバスにも電車にも乗れない。周囲の迷惑になるだけだ。己のヘマにもう一度深い溜息をついたあと、兵子は顔を上げて息を吸い直した。
「仕方ない、か」
過ぎたことは諦めるよりほかにない。それよりもこれからを考えることがより大切だ。――それは彼女が過去の、前に生きた人生で学んだ教訓のひとつ。兵子はひとつ頭を振ると、大きく伸びをしてから前を見据えた。自宅まではまだ電車で三十分かかる距離だ。常人の足なら倍以上の時間がかかることはまず間違いない。しかし、兵子はそれに怯むことなく、軽く身体を解したあとに走り出した。
(昔はもっと荒れた道を、今以上の長い距離走っていたんだ。これくらいなんてことはない)
* * *
「……さ、さすがに甘かった、か……」
革靴のうえ、碌に鍛錬もしていない女の柔足では大した距離でも踏破できるはずもない。それに気づかず自分を過信したのは愚かだった、と兵子は肩で息をしながら足を緩めた。過去にはもっと早く、力強く動いた足が今は棒のようになっている。女に生まれたことを忌まわしいと思ったことはなかったが、このときばかりは己のひ弱な身体が恨めしかった。
「う、ごほっ……げほっ」
過剰な運動に身体が耐えきれず、喉がひりつくような咳が出る。どこかで休むべきだ、と膝に手を置きながら考えていると頭の上が翳った。
「……あの、すみません。通してもらえますか?」
「あ? あ……すみません、失礼しました」
声をかけられて、兵子は自分が今どこにいるかにようやく気づいた。小綺麗な美容院の入口をまさに兵子が塞いでいることに気づき、慌てて身体に鞭打つ。前屈みになっていたせいで顔にかかった髪の毛を頭を振って後ろに追いやったあと、兵子は初めて自分に声をかけた人物へと振り返った。――そして、固まる。
「……く、くち、せんぱ……?」
「斉藤、タカ丸……か?」
見覚えのある面差しと、懐かしい髪型。髪の色は落ち着いたダークブラウンになっていたが、そこにいたのは間違いなく彼女の知る――正確には、彼女の前世であった久々知兵助だが――ひとつ下の後輩である斉藤タカ丸、その人であった。
「どうして、こんなところに……」
「いや、溝に落ちて」
そう答えたあとに、相手が求めているのはそんな答じゃないと気づいて兵子は己に呆れた。大分動揺しているらしい、と頭の隅で分析するも、一度出してしまった言葉はもう喉へはしまえない。しかし、タカ丸はその答を否定するどころか、驚きの声を上げた。
「えええっ、あの久々知先輩が!? そんな、どうして……」
「いや、あの……飛びだした子どもが車に轢かれそうになったから、襟首掴んで引き戻したら、そのとき足を戻したところにだけ側溝の蓋がなくて」
言えば言うほど間抜けな話である。元忍者が足場を確認しないままに後退した挙句、溝に落ちるなど笑い話にすらならない。――もっとも、これが過去にひとつ上にいた先輩のひとりならば「不運」の一言で片付けられたのかもしれないが。
情けなさに思わず俯けば、異臭を放つ汚れがこびりついた足が目に入る。白い靴下は既に別の色へと染まりきっていて、兵子は尚更気が滅入った。こんな情けない姿を後輩に――それ以上に、大切な存在であった人間に晒すことになるとは。久しぶりの再会がこんな形となったことに重い溜息をついた兵子だが、そんな彼女の様子を意に介することなくタカ丸はその細い手首を掴んだ。
「先輩、ちょっとここで待っててくれる? すぐ戻るから!」
「え? あ、いや……」
兵子が答えるよりも早く、タカ丸は先程彼女が塞いでいた美容院へと消えていった。店の外観を見れば、洒落た飾り文字で店の名前が書いてある。さすがにもう「髪結い処斉藤」ではないのだな、と馬鹿みたいなことを考えていると、背後から気配を感じて振り返った。そこには声をかけようとしたのか、手を上げて口を半開きにしたタカ丸が立っている。
「びっくりした……ああ、でもそうだよね、さすが先輩。――で先輩、こっち」
「どこへ連れていくつもりだ?」
「おれん家。ここの二階が家なんだ。あ、もうお気づきだと思うけど、ここうちの美容室ね。他にも支店はあるけど、このちっちゃい店が本店なんだ。昔と同じ、祖父が開いたお店なんだけどね」
行くとも言っていないはずなのに、兵子はタカ丸に手首を取られる。話しながらも歩き出したタカ丸に引きずられるような形で店の脇にあった細い路地へと入ると、そこには少し錆びた階段が店の二階へと続いていた。
「こっちが玄関。分かりにくいよねえ」
「いや、タカ丸」
「はいはい、上がって上がって」
呼び止めようとするも、タカ丸は兵子の手首を掴んだまま階段を上がっていく。力尽くで振り払うわけにもいかずにそのままついていくと、ポケットから取り出した鍵でドアを開けたタカ丸が彼女を自宅へと押し込んだ。
「先輩、お風呂お風呂。足洗っちゃおう」
「は? いや、ありがたいけどいいよ。それにこのまま上がったらあんたの家を汚してしまう」
「でも、先輩ん家までまだかかるんじゃない? いくら女の子になっちゃったからって、あの先輩がバテるなんて結構な距離走ったってことでしょう?」
あっさりと全てを見透かされ、兵子は思わず渋面になった。昔は一年分自分のほうが優位であることが多かったのに、今ではまるで形勢逆転されている。けれど、タカ丸はそんな兵助を知ってか知らずか、玄関で頑なに足を止める兵子の前へと立った。
「ようやく逢えたんだもの、甘やかさせてよ……兵助」
「……っ!」
低く耳元で囁かれた言葉に兵子は息を飲む。緊張で強張る身体をタカ丸は一度包み込むように抱きしめたあと、その華奢な腰に腕を回してその身体を抱き上げた。
「うわっ、何する……!」
「廊下を汚すのが気になるんでしょう? なら、風呂場までおれが抱えていけばいいじゃない。はい、靴だけ脱いでー」
「ちょ、やめ、下ろせ馬鹿っ!」
「こらこら、暴れないでよ落とすって! 家を気遣ってくれるんでしょう、兵助くん」
荷物のように抱え上げられた兵子は思わず暴れたが、タカ丸の腕は離れない。それどころかよりきつく抱きしめられる結果となり、彼女は顔に熱が集まったような気がした。さらにタカ丸の言葉で下ろされれば床を汚すことを思い出し、渋々暴れるのをやめる。それにタカ丸が低く笑い声を立て、抱えた兵子を軽く抱えなおした。
「はい、到着! このタオルお尻に敷いてね」
「あ、ありがとう……じゃあ、悪いけど遠慮なく風呂場借りるな」
風呂場に下ろされた兵子は風呂場の入口にタオルを敷いているタカ丸に軽く頭を垂れた。しかし、彼女が汚れた靴下をいざ脱ごうとすると、タカ丸は風呂場から出て行くどころかなぜかそこへ足を踏み入れてきた。訝しげに兵子がタカ丸を眺めると、タカ丸は懐かしいへにゃりとした笑みを浮かべながらシャワーを手に取る。そしてコックを捻ると水温を調節しはじめた。
「ああ、悪いな。あとは自分で――」
「兵助くん、そこ座って?」
「あ?」
「おれがやったげる。さあさあ」
タカ丸は兵子が険しい顔で固辞するのも構わず、彼女の身体を強引に風呂場の入口へ座らせた。汚れた靴下と、まだ白さを保っている靴下をそれぞれ彼女の足から素早く取り払うと、タカ丸は困惑と羞恥で抵抗する兵子の足へシャワーを浴びせかけた。
「ひっ、やめろ馬鹿! 自分でやるから、そんなの!」
「いいから、やらせてよ。さっきも言ったでしょう? ――ようやく、逢えたんだもの。甘やかさせて。もっと一緒にいたいんだよ」
耳元で囁かれた言葉は、兵子の耳を甘く震えさせる。その調子に兵子が――兵助が弱いことを知っていて、敢えてタカ丸がそうしていることを知っている彼女は思いきり苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。けれど、それ以上抵抗することはなく、己を抱え込むように傍らで足を洗おうとする男の肩へと頭をもたれかけさせる。
「……そんなの、おれだって一緒だ」
己の足を温かい流水が浚っていく。その後に石けんを泡立てたタカ丸の手が汚れを柔らかく落とすように撫でていく。そのくすぐったさと心地よさに目を閉じながら、兵子は続ける。
「あんたが、覚えているかどうかも分からなかった。――それどころか、どこにいるのかすら。もしかしたら、もう一生逢えないのかと」
「それは、おれも一緒だよ。とくにおれはあのときも四年から編入したしね。あのなかで、多分縁は一番薄い」
その言葉で弾かれたように頭を上げた兵子に、タカ丸は苦笑する。
「だから、探すのが怖かった。……ごめんね、本当はすごく逢いたかったけど、どうしても、探しても逢えないかもしれないと思うと怖くて、怖くて、積極的に探せなかった」
――もう逢えないんだと、絶望するのが怖くてさ。そう小さく続けるタカ丸に、兵子は唇を引き結んだ。
それはまた、兵子も同じだったからだ。逢いたいと、恋しいと心の底から思っても、彼を捜して世界中を練り歩くことなどできなかった。自分に与えられた今の生活を口実に、似た姿をしている青年を視線で追うばかり。そして、その人物がタカ丸じゃないと分かった途端にいつだって絶望するのだ。
「もしかしたら、もう逢えないかもしれないと思ってた。……だから、今日逢うことができて、本当に嬉しい」
「……うん」
「本当はね、こんなこと言っちゃ不謹慎かもしれないと思うんだけどね。でも、おれ……兵助が今日、溝にはまってくれて良かった、って思う。兵助はそれをみっともないって思ってるみたいだけど、そうじゃなかったらきっと今日も兵助はいつもの通学路を使って帰ってて、きっとおれん家の前で疲れて立ち止まったりなんてしなくって、きっとおれは傍に兵助がいることも知らないままに、毎日逢いたいなあ、って馬鹿みたいに思ってるばっかりだったんじゃないかな」
「……そうだな」
兵子は再びタカ丸の肩へと頭を預ける。けれど、すぐにその肩へと目元を押しつけ、小さく身体を震わせた。
「――おれだって、あんたにずっと逢いたかった。おれのことも、昔のことも、覚えてなくても構わないから、あんたに、タカ丸にもう一度逢いたかったんだ……」
堪える暇もなく、兵子の目尻から涙が滑り落ちる。タカ丸の身体にしがみつくように腕を回し、兵子は子どものように泣いた。
「覚えててくれて良かった……っ、おれのこと、分かってくれて嬉しかった。ありがとう、タカ丸」
「それはこっちの台詞だよお……おれも、兵助がすぐに分かってくれて嬉しかった。……女の子になっていたのには、さすがにびっくりしたけど」
「うるさい。仕方ないだろう、こればかりは。おれに何とかできる問題じゃないんだから」
きつく己の身体を抱きしめる男に、兵子は小さく悪態をつく。それにタカ丸が笑って、兵子の顔がよく見えるように一度身体を離した。涙の伝う彼女の顔を両手で支え、その涙を指で拭う。そして、その額に己のそれを合わせた。
「……初めまして、おれは斉藤?丸と言います。専門学校の二年生で、来年国家試験を受けて美容師の免許を取る予定です」
「久々知、兵子。高校一年、今のところは大学に進学予定です」
「ふふ……兵子さん、っていうんだ?」
「代わり映えのしない名前で悪かったな。昔から女装のときには世話になった名前だよ」
「おれなんか名前変わってないよ? 父に何でこの名前付けたのか聞いても、ただ思いついただけとしか理由がないしね。……でも、そのお陰で分かりやすいから、おれとしては嬉しかったけどね」
まだ止まらない兵子の涙を、今度は唇で拭う。その感触にくすぐったそうな表情を浮かべる兵子に、?丸は柔らかく笑った。
「――兵助が、ううん、兵子さんが昔と違って女の子になったみたいに、おれもきっと昔とは色々違うと思うんだ。
だからね、兵子さん。改めて、これからまた末永く宜しくお願いします。……おれ、きっとあんたにもう一回、ううん、何度でも惚れてもらえるようないい男になれるよう頑張るから」
「馬鹿……もう惚れてる」
泣き笑いの表情で、兵子は顔を上げた。少しだけ?丸に顔を寄せれば、残りの距離を?丸が詰める。――数百年ぶりに重ねた唇は、昔と同じ味がした。
| SS | 03:05 | comments (x) | trackback (x) |
2011,08,12, Friday
※こへ滝死ネタ
「赤紙……?」
「ああ、来週出征する」
隣に住む小平太が、まるで隣町に行くかのような気安さで行った。それを滝子は信じられない気持ちで見つめる。
――小平太が、出征? そんなはずはない。この国の未来を守るであろう学徒は徴兵を免れていたのではなかったか? だからこそ、滝子も安心していたのに。
「だって、小平太兄さんは大学生なのに」
「もうそんなこと言ってられないんだと。……ま、選ばれてしまったものは仕方ない」
「仕方なくなんか……!」
滝子はあっさりと言い捨てた小平太に食ってかかろうとしたが、彼の目を見て言おうとしていた言葉を忘れた。――その瞳は深い悲しみを湛えている。そこで初めて、滝子は一番辛いのが小平太であることを思い出した。
「……だったら、平気な振りなんてしなきゃいいのに」
「仕方がないだろ。――行かないわけにはいかないんだから」
「徴兵試験に落ちる努力でもしたら良いんじゃないですか?」
「無理だろ。……それに、私が行かなきゃ別の誰かが行く羽目になる」
それで良いじゃないか、とは滝子も言えなかった。既に近所でも徴兵されて戻って来なかった人間が現れ始めている。特に身体の丈夫な小平太が例外となるのは土台無理な話だ。――そんなことは滝子にだって痛いほど分かっていた。
「――帰ってきたら」
「え?」
「帰ってきたら、所帯を持とう」
小平太はまるで散歩に誘うかのような気軽さで、そう呟いた。それに滝子は言葉を失い、小平太の顔をまじまじと見上げた。
「ずっと約束してたもんな。本当は卒業したら言おうと思ってたんだけど」
卒業がいつになるか分からないから、と呟いた小平太に滝子は唇を噛み締めた。――言えなくなるかもしれないから、という小平太の気持ちが透けて、滝子は思わず手を振り上げた。
パァン、と乾いた音が辺りに響く。頬を打たれた小平太は痛みに痺れる顔を押さえ、肩で息をする滝子を見つめた。彼女は顔を真っ赤にして小平太を睨みつけている。潤んだ瞳が小平太を真っ直ぐに捉え、鋭く射抜いた。
「――そんな覚悟の人間と結婚なんてできるわけないでしょう!」
「ひどいな、これでもお国のために戦いに行くのに」
「女ひとりも守れない貴方が、お国なんて守れるもんですか!」
「私がお前を怪我させたことなんてあったか?」
「そんな意味で言ってるんじゃないってこと、貴方が一番よく分かっているくせに……!」
滝子はそれ以上何も言わず、小平太を置いて立ち去った。小平太は遠ざかる細い背中を見つめ、まだ痛む頬をさすって溜息をつく。――生温い風が、ひどく気持ち悪かった。
* * *
「――じゃあ、行ってくる」
「小平太、頑張ってくるんだよ」
大勢の人間に見送られ、小平太は駅に向かって歩き出した。周囲を見回しても、そこに滝子の姿はない。――あの日から一度として、滝子は小平太の前に現れなかった。
臍を曲げると長い滝子を内心苦笑しながら、小平太はひとり歩き出す。駅までの見送りは断った。重い荷物を抱え、ひとり一本道を歩く。この丘を越えれば、もう故郷は見えなくなる。その丘の頂上で、小平太は足を止めた。
「…………こんな所に居たのか」
丘の上に生えている木の陰に、長い黒髪が風になびいていた。その髪の持ち主は小平太の言葉に何も言わず、振り返りもしない。それにまだ彼女が臍を曲げていることを気付かされ、小平太は苦笑しながらその木へ歩み寄った。
「見送りに来てくれたんじゃないのか?」
「――忘れ物です」
滝子は小平太の顔を見ないまま、手に握ったものを小平太に突き出す。それは小さな巾着袋で、手作りのお守りのようだった。それに小平太は少し驚き、けれど大切に受け取って胸元にしまった。
「帰ってくる。そしたら、ちゃんと白無垢着せてやる。それも似合ってるけど、花嫁さんは白だろ」
小平太は一張羅の友禅を着ている滝子の袖を引きながら、囁く。それにも滝子は顔を向けない。意地を張る滝子に小平太は笑い、その顔を両手で挟んで引き寄せた。
「だから、それまで他の男に浮気するなよ。まあ、私より良い男なんてそう居ないから大丈夫だろうけど」
頬に触れる手には涙が零れていく。そんな滝子を小平太は抱き寄せて、その背中を優しく撫でた。
「必ず、帰るよ。だから、待っててくれる?」
「――私は引く手数多なんです。早く帰ってこなければ、小平太兄さんなんて忘れて別の人と結婚します。それで小平太兄さんが地団駄踏んで歯ぎしりするほど幸せになってやりますからね」
「それは困るな」
泣きながら呟く滝子に、小平太は低く笑った。抱きしめた細い身体の温もりが、己を留める縁だった。――地獄へ行っても、必ず戻ってくるための。
「じゃあ、行くな。身体に気をつけて。おばさんたちにも宜しく」
離しがたい温もりを断腸の思いで引き離し、小平太は傍らに置いていた荷物を再び抱えた。滝子は何も言わない。零れる涙を堪えようとして、唇を噛みしめていたからだ。そんな彼女の頭を一度撫でて、小平太は再び歩き出す。
「――小平太兄さん!」
しかし、少し進んだところで声をかけられ、小平太は振り返った。そこには堪えきれなかった涙をぽろぽろ零しながら己を見やる滝子が、大きく手を振っていた。
「必ず、帰ってきてください! 私のところに! そうでなければ、貴方のことなんて嫌いになりますからね!」
「……分かってる! 行ってくるぞ!」
小平太はどこまでも意地っ張りな滝子に笑み零し、同じく大きく手を振った。そして、今度はもう振り返らずに歩いて行く。その小平太の背中が見えなくなるまで、滝子はずっと手を振り続ける。――そして、彼が見えなくなった瞬間に、地面へと泣き崩れたのだった。
* * *
一九四五年八月、運命の日が訪れる。
滝子が住んでいる地域にも空襲は相次ぎ、空襲警報が鳴れば防空壕へと飛び込む日々が続いていた。お互いに手と手を取り合い、恐ろしい戦闘機の轟音や攻撃音に耐える。ラジオやあちこちから流れてくる戦況はどこか白々しささえ感じて、滝子は周囲のように日本の優位を信じることができなかった。
(――小平太兄さんはどうなっただろうか)
便りがないのは元気な証拠、と己を無理矢理納得させる。けれど、八月の半ばに入ったある日の夜のこと、滝子の前に小平太が現れた。
『よう、元気か?』
「見ての通りですよ。貴方こそ、大丈夫なんですか?」
『……約束、守れなくなった。悪いな』
「え……?」
小平太は滝子の問いには答えず、ただ苦く笑った。それに嫌な予感ばかりが胸に迫り、滝子は彼の顔を凝視する。
『でも、もうすぐ戦争は終わる。――終わらせていくから、生きろよ』
「小平太兄さん、どういう――」
『もう時間だ、行かないと。……約束、守れなくてごめんな。元気で』
嫌だ、と手を伸ばしても、小平太には届かなかった。小平太の背中はあの時と同じく遠ざかり、見えなくなっていく。それを追っていきたいと思うのに、滝子の身体は動かなかった。
「待って、小平太兄さん……っ!」
滝子は手を伸ばしたところで、目を覚ました。小平太など居るはずもない。自宅の布団の上なのだから。――けれど、彼が確かにここに来たことを知り、滝子は唇を噛みしめた。
布団から起き上がり、日めくりカレンダーを見る。八月十五日の朝を迎えていた。朝から回覧板が渡され、正午にラジオを聞くようにと指示をしている。何があるのか、と思いながらもラジオの前で待機していると、凄まじいノイズと共に後の世に言う『玉音放送』が流れた。
(……戦争は、終わったのだ……)
小平太が夢で言っていた通り、戦争は終わったのだ。――そして、彼はもう帰ってこない。
* * *
……終戦から幾許かの時間が過ぎた頃、小平太の遺骨が届けられた。少しの遺品も彼の戦友が届けてくれ、その中には滝子の渡したお守りも含まれていた。彼は小平太がそのお守りを常に肌身離さず持っていたこと、決して誰にも触らせなかったことを教えてくれた。滝子は、役に立たなかったお守りを投げ捨てようとして、ふっとその中が気になり手を止めた。
どうして、開く気になったのだろう。ただ何となくそんな気になって、滝子は己の作ったお守りの中を開けた。中には紙に包んだ滝子の陰毛が入っているだけのはずだった。――けれど、その中に別の紙が入っている。それを開くと、小平太の手で何かを書き付けてあった。
『滝子さんへ 愛しています。幸せに生きてください。 七松小平太』
鉛筆書きの、本当に小さな一言。普段の小平太からは到底想像できないほどに丁寧な文字で、それは書かれていた。その小さな紙切れで、滝子は心の奥底で小平太が帰ってくるのではないか、という希望を捨てた。――小平太は、死んだのだ。もう二度と、滝子の許へは帰ってこない。遠い遠い、別の世界へ行ってしまったのだ。
「……嘘つき……! 必ず帰ってくるって、約束したじゃないですか……!」
小さな紙切れを抱いて、滝子は泣いた。そんな彼女の黒髪を、生温くて優しい風が一度だけ揺らして消えた。
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