こへ滝ホラー


「はっ……はっ……はっ……!」
 己の吐息がこんなにもうるさく感じたことはない、と滝夜叉丸は走りながら思った。どんなに厳しい山道を駆け上がった時も、どんなに息が苦しくなっても、滝夜叉丸が己の動作を煩わしく――恐ろしく感じたことはない。跳ねる心臓の音ですら、今の滝夜叉丸には恐怖を煽るものでしかなかった。聞こえるはずはないと思っていても、万が一この音が相手に伝わってしまったら、と思えば彼は恐ろしさで凍りつくような気持ちになる。とにかく学園へ、安全な場所へ戻らなければ、とそればかり考えながら滝夜叉丸は走っていた。
 夜の闇が恐ろしいと感じるなど忍としては失格だ。――滝夜叉丸自身もつい先程まで平気だった。怯える下級生たちを笑いもした。けれど、今は駄目だ。身を隠す闇は周囲も隠してしまう。己の周囲が分からないことが滝夜叉丸にとっての苦痛だった。
(早く、早く、早く……!)
 長屋に戻ってさえしまえば誰かしら居るはずだ。部屋に戻れば同室の喜八郎が居るはずだし、そうでなくても四年長屋に三木ヱ門かタカ丸が居るはず。恐怖に発狂しそうな気分になりながら、滝夜叉丸は必死で足を動かしていた。ぬかるむ土を踏んだ所為で跳ねる泥も、それによって立つ音も今の滝夜叉丸には恐ろしい。この音が恐怖の源を引き寄せるのではないかと這い上るような恐怖に足が止まりそうになるが、足を止めれば最後だということも分かっていたので、滝夜叉丸は音を消すよりも距離を稼ぐことを優先してひたすらに走り抜けた。
 山道を抜ければ学園の明かりが見える。橙の優しい色に滝夜叉丸の心がようやく緩んだ。後もう少しで学園の敷地内に入ることができる、そう思うだけで恐怖に打ち勝てる気がした。小松田の差し出す入門表にすぐ名前を書けるように懐の矢立てを探しながら速度を更に上げる。玄関の小さな扉に飛びついて、滝夜叉丸はようやく安堵の息を吐いた。
(これでもう大丈夫)
 身体を曲げて息を整えながら、滝夜叉丸はどっと安堵に脱力した自分を認める。だが、もう緊張しなくても良いのだ。ここは安全なのだから。
 己の脇から差し出された入門表に矢立てから筆を出し、滝夜叉丸は署名しようとする。しかし、入門表を受け取りながら、それを差し出した人間を見た瞬間に滝夜叉丸は声にならない悲鳴を上げた。
「――おかえり、滝夜叉丸。遅かったね」
「ど、どうして……せんぱい」
 己が山で逃れた男が、そこに居た。手渡された出門表が地に落ちる。途中まで書かれた名前の一角が伸びて紙を走っていることが彼の動揺を証明していた。滝夜叉丸は恐怖に持っていた筆すら取り落として、一歩後退りする。しかし、彼が身を翻すより早く、小平太の大きな手が滝夜叉丸の腕を捉えた。
「どうして逃げるの?」
「……っ!」
 なんてことはない問いのはずなのに、その言葉に滝夜叉丸は全身が竦むのを感じた。全力で逃げ出さなければならないはずなのに、身体がもう動かない。そんな滝夜叉丸を嘲笑うかのように小平太の腕が彼の身体に巻き付き、滝夜叉丸は小平太に抱き寄せられた。
「――さあ、行こうか。夜は長いよ」
「や、せんぱい……いやです……っ! はなしてくださ……っ!」
「どうしてそんなに怖がっているの? 大丈夫、怖いことはしないよ。この前もそうだったろう?」
 滝夜叉丸は小平太に囁かれたその言葉に、心の奥底に封じ込めていた記憶が流れ出すのを感じた。余りの恐ろしさになかったことにした記憶が、彼の中を支配する。叫び出したいのに喉すら震えないほど身体を強張らせた滝夜叉丸は、身を縮めて恐怖に身構えた。
 そんな彼を小平太は優しく抱き上げ、抵抗できないのを良いことに静かにどこかへ連れて行った。――その日の晩、滝夜叉丸が部屋に戻ることはなかったという。


 ※状況などは一切考慮せずに書いたから、何があったのかは分からない。

| SS | 02:43 | comments (x) | trackback (x) |

  
CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<   08 - 2025   >>
OTHERS
POWERED BY
POWERED BY
ぶろぐん
SKIN BY
ブログンサポート

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル