2012,06,27, Wednesday
竹孫カラオケ会でゴールデンボンバーの「また君に番号を聞けなかった」が竹谷ソングだと聞いて、妄想してみた。
最近、我々の竹谷観は「ヘタレ」で一致している。
「……今日もメアド、聞けなかった……」
小さな背中を見送った竹谷八左ヱ門は、バスの座席に深く身体を預けながら溜息混じりに呟いた。閉じられた携帯を開けば、赤外線送受信の準備が整えられた画面が浮かび上がる。しかし、結局その機能を発揮することはないまま、今日も短い逢瀬は終わってしまった。そのことにがっくりと肩を落としながら、八左ヱ門は耳に届いた停留所の名前にのろのろと降車ボタンを押す。車内に響いた合図のブザーが己の不甲斐なさをより一層感じさせ、八左ヱ門はもう一度深い深い溜息を吐き出した。
――その少女の顔を覚えたのは半年以上前のこと、そして実際に言葉を交わしたのはそのさらに数ヶ月後の強い雨の日だった。
その当時の八左ヱ門がその子について知っているのは、胸に付けられた名札から「伊賀崎」という名字であること。そして、鞄には小さなヘビのぬいぐるみが付けてあって、垣間見た携帯のストラップもどこで手に入れたものか、小さなヘビの根付。何より、彼女がとても美しい顔をしていることだけであった。
彼女の存在に気づいたのは、鞄に付けられたヘビのぬいぐるみが珍しかったからだ。可愛くデフォルメしてあるといえども、ヘビを好まぬ女子は多い。鞄に付けるぬいぐるみとして選ぶなら、普通ならクマやウサギなど、もっと可愛らしい動物であろう。だからこそ、彼女は敢えてヘビ――どう考えてもそこいらに流通しているとは思えない――を選んだのだと八左ヱ門は理解した。そして、鞄から視線を持ち上げて見つけたその少女の美しさに、ただただ目を奪われたのだ。
真っ白な肌に緩やかに落ちる栗色の髪。まるで精巧に出来た西洋人形のように、完成された美がそこにあった。――そう、まさに一目惚れ。八左ヱ門は視線だけでなく、心すら一瞬で奪われてしまった。そして、その日からヘビのぬいぐるみを見つけるたびに、こっそりと少女に視線を送る日々が始まったのである。
その一方的な関係が変化したのは、ある強い雨の日のこと。その日は夕方から突然強い雨が降り出した。朝がかんかん照りの晴天であっただけに、八左ヱ門も偶然学校に以前置き忘れて以来、持ち帰ることを忘れていた傘がなければ、その被害に遭っていたことであろう。その幸いに強く感謝しながらバス停まで歩いてくると、その後ろから水を蹴る激しい足音が聞こえてきた。おもむろに振り返れば、そこにあったのは雨に打たれてずぶ濡れとなった「伊賀崎」の姿。それに思わず目を瞬かせた八左ヱ門は、その制服が雨に打たれたためにその下に隠された素肌と下着を写していることに気づいてすぐに視線を逸らした。顔中に血が上るのを感じる。けれど、すぐに自分の傘を打つ雨音で我に返った八左ヱ門は一度強く傘を握りしめたあと、その腕を勢いよく後ろへと突き出した。
「……あの?」
「びしょ濡れだと、風邪引きますよ! この傘でかいし、良かったら入ってください!」
突然差しかけられた傘に驚き、戸惑いの声を上げる少女を見ないようにしながら返事をした。その声が若干上擦り気味であったのには気づかない振りをする。八左ヱ門は空いていたもう片方の手で肩に提げた鞄のなかを探ると、ぐちゃぐちゃになったジャージの上を取り出した。
「これも着てください! その……えっと、そのままじゃ風邪引きますから!」
さすがに肌が透けているとは言いづらく、八左ヱ門は無理矢理こじつけてそのジャージを同じく少女に突き出す。それにさらに戸惑った雰囲気を肌で感じ、八左ヱ門は慌ててさらに言葉を継いだ。
「あっ、あの、ぐちゃぐちゃですけど今日は着てないんで汚れてないです! だから着ても大丈夫! のはずですから……多分」
力一杯否定したあとに、つい弱気になって語尾が小さくなる。そのやりとりを見ていた少女の後ろに並んでいた老婆がひそひそと少女に何かを囁いた。それから一拍置いて、少女がそっと八左ヱ門の差し出したジャージを受け取る。ありがとうございます、と細く伝えられた言葉のあと、衣擦れの音が八左ヱ門の耳に届いた。さらに一拍置いて、少女が八左ヱ門に少し歩み寄る。傘を差しだしている八左ヱ門の手をそっと押し返しながら、彼女はさらに八左ヱ門の傍へその身を滑らせた。
「あなたが濡れています」
「お、おれは、頑丈ですから! ちょっとくらい濡れても全然平気です!」
「でも、申し訳ありませんから。……お心遣い、ありがとうございます――竹谷さん」
いつも硬い表情をしていた「伊賀崎」がふわりと笑った。そして、己の名を呼ぶ。それに驚いて八左ヱ門が「伊賀崎」の顔を凝視すると、少女は自分が着ているジャージの胸元を指さした。そこには規定通りに刺繍された八左ヱ門の名字がある。それで自分の名が分かったのか、と納得する竹谷に、「伊賀崎」が少しだけおかしそうに再び表情を緩めた。それに釣られるように、八左ヱ門も何となくへらりと笑う。そのときに待ちわびたバスが到着し、運転手のアナウンスとドアが開く機械音が耳に届いた。
(――あのとき咄嗟にジャージ貸したら、その次の日に洗濯して持ってきてくれたんだよなあ)
降車駅でジャージを返そうとした少女を強引に押しとどめ、また今度で構わないからと彼女を帰宅させたのは自分。傘も一緒に貸そうとしたら固辞されたのも懐かしい思い出だ。
すると、その翌日に八左ヱ門がバス停へ向かうと、いつもは時折遠目でしか見られない少女の姿があった。バス停のある道路の脇で佇んでいた少女は、八左ヱ門の姿を認めると真っ直ぐに歩み寄ってくる。それに八左ヱ門が驚いて足を止めると、少女は八左ヱ門の前で深々と頭を下げたあとに八左ヱ門が見たこともないメーカー(あとでとあるブランドの袋であると知った)の袋を差し出した。
「昨日は本当にありがとうございました。こちら、お返しします」
「あ、いや、別に大したことはしていないんで……」
「とんでもない。とても助かりました。本当にありがとうございました」
差し出された袋を受け取りながらまごつく八左ヱ門に、少女が真面目な表情を少し崩した。それに釣られるように八左ヱ門が表情を崩すと、彼女はさらに表情を緩めてからゆっくりと口を開いた。
「申し遅れました。わたし、大川女子中学三年の伊賀崎真子と申します」
「あっ、あ、えっと、おれ、ぼくは忍高の二年で竹谷八左ヱ門です。いろいろご丁寧にどうも」
訳の分からない返答をする八左ヱ門に、真子がおかしそうに笑い声を立てる。それに八左ヱ門が己の失敗をごまかすように笑うと、真子は普段よりずっと優しい表情を浮かべながら言葉を紡いだ。
「おかしな方ですね、あなたは」
「そう、ですかね? ハハ」
「ええ、そうです」
その日から、八左ヱ門と真子はバス停で顔を合わすと会釈をし合い、時折列で隣り合えば軽く会話を交わすようになった。――そうして、現在に至るのである。
「……もう話すようになって大分経つのに、なあ」
自室に戻った八左ヱ門は、自分のベッドに転がりながら何度目かの深い溜息をついた。
彼女と話をするようになってから、随分と関係は深まった気がする。ずっと分からなかった下の名前や、やっぱり爬虫類が好きなこと。それだけでなく、毒を持つ虫もまた好んでいることも知った。動物全般が好きな八左ヱ門とはよく話も合い、今では同じバスに乗るときは必ず隣に座るほどだ。学校と学年が違うこともあり、バスの時間が同じになることはそう多くない。だからこそ、連絡先を聞いておかなければ、何かの拍子で会うことが叶わなくなってしまうかもしれないのだ。そう考えればなおさら連絡先を聞きたい気持ちがこみ上げるが、喉元まで出かかったそれを舌に乗せられないのは「もし拒否されたら」という不安が喉を締めつけるからだ。
さり気なく聞けば良い。いつも話題にしている動物のことにでもかこつけて、バスの時間以外に伝えなければならない事柄を作れば良い。そうは分かっていても、実際真子と話している間に舞い上がってしまって、ついつい話題を誘導するどころか、連絡先を聞くことすら忘れてしまう。もしくは、覚えていてもきっかけが掴めないままにずるずると会話をしてしまい、結局聞けずじまいで真子の背中を見送ってしまうのだ。つい愚痴めいたものを漏らした友人には、揃って呆れられた。自分でもそう思う。別に何てことはない。知りたいという理由だけで尋ねたとしても良いのだろう。自分よりその手のことに慣れた人間などは、出会ったその日に連絡先に尋ねるらしい。
――けれど、もしそれを尋ねて拒否されたら? いや、拒否されるだけならばまだ良い。そのことをきっかけに再び疎遠になってしまったらと考えはじめたが最後、八左ヱ門はたったそれだけの行為ですら尻込みしてしまうようになった。
「……全く、情けねえなあ俺」
――高校生にもなって、女の子からメアドひとつ聞き出せないとは。
枕に顔を押しつけてもう一度深い溜息をつくと、八左ヱ門はぐるぐると堂々巡りする思考から逃げだそうと強く強く瞼を下ろした。
「――え?」
「ですから、友人から動物園の無料優待券を2枚もらったんです。その子は期間内に行けないみたいで、爬虫類館が大きいところだからって、わたしに。ここ、この間竹谷先輩もお話していらしたところなので、もし良ければご一緒できないかと思って。もしかして、ご都合お悪いですか?」
「そんなことない! 大丈夫! 万難を排して行く!」
引っ込められそうになったチケットを、真子の手ごと掴んで引き留める。その勢いに真子は驚いて身を引き、それで八左ヱ門は初めて自分が何をしているかに気づいて慌てて身体を離した。
「わ、悪い、つい……」
「そんなに行きたかったんですか、動物園? なら、ちょうど良かったですね」
「あ、ああ」
「それで、日程などについてご相談したいので、連絡先、教えていただけませんか?」
真子が鞄から携帯を取り出す。何度か見た小さなヘビの根付が、八左ヱ門の目の前で小さく揺れた。それに八左ヱ門は慌てて自分の携帯を取り出し、何度も繰り返した赤外線送受信の画面を立ち上げた。
「せっ、赤外線送る! 受けられるか?」
「分かりました。今準備しますね」
真子の細い指が携帯を操作する。しばらくして「どうぞ」と差し出された携帯に、八左ヱ門は震える手で赤外線の送信ボタンを押した。すぐに「送信しました」と表示され、無事に真子の携帯へ八左ヱ門のプロフィールが送信できたことを伝えた。すぐあとに真子が再度携帯を操作し、八左ヱ門を見上げる。
「では、今度はこちらからお送りしますね」
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ! 今準備する!」
八左ヱ門は大慌てで送受信画面に戻り、今度は受信を選択する。受信準備ができたことを真子に伝えると、彼女は軽く頷いてから八左ヱ門の携帯へ己の携帯を近づけた。直後に八左ヱ門の携帯がアドレスを一件受信したことを伝え、八左ヱ門が急いでアドレス帳を確認すると、そこに渇望していた真子の連絡先が登録されていた。
「あ、そろそろわたし降りないと。では、また後ほどご連絡差し上げますね」
「ああ、あ、いや、俺からするよ! ま、またあとでな!」
「はい。――お待ちしてますね」
にこりと笑みを残して真子はいつものバス停へと足を踏み出した。再び走り出すバスの窓から見える八左ヱ門に軽く手を振って、真子は歩き出す。その姿を置き去りにする景色を食い入るように見つめたあと、八左ヱ門は大きなガッツポーズを取った。大声で叫び出したい気持ちを必死で堪える。携帯を操作して、もう一度アドレス帳を呼び出した。そこには今まで喉から手が出るほど欲しかった連絡先が登録されている。電話番号とアドレス、そして名前だけの情報しか入っていないそれをいつまでも見つめながら、八左ヱ門はこみ上げる喜びに緩む顔を抑えられなかったのだった。
最近、我々の竹谷観は「ヘタレ」で一致している。
「……今日もメアド、聞けなかった……」
小さな背中を見送った竹谷八左ヱ門は、バスの座席に深く身体を預けながら溜息混じりに呟いた。閉じられた携帯を開けば、赤外線送受信の準備が整えられた画面が浮かび上がる。しかし、結局その機能を発揮することはないまま、今日も短い逢瀬は終わってしまった。そのことにがっくりと肩を落としながら、八左ヱ門は耳に届いた停留所の名前にのろのろと降車ボタンを押す。車内に響いた合図のブザーが己の不甲斐なさをより一層感じさせ、八左ヱ門はもう一度深い深い溜息を吐き出した。
――その少女の顔を覚えたのは半年以上前のこと、そして実際に言葉を交わしたのはそのさらに数ヶ月後の強い雨の日だった。
その当時の八左ヱ門がその子について知っているのは、胸に付けられた名札から「伊賀崎」という名字であること。そして、鞄には小さなヘビのぬいぐるみが付けてあって、垣間見た携帯のストラップもどこで手に入れたものか、小さなヘビの根付。何より、彼女がとても美しい顔をしていることだけであった。
彼女の存在に気づいたのは、鞄に付けられたヘビのぬいぐるみが珍しかったからだ。可愛くデフォルメしてあるといえども、ヘビを好まぬ女子は多い。鞄に付けるぬいぐるみとして選ぶなら、普通ならクマやウサギなど、もっと可愛らしい動物であろう。だからこそ、彼女は敢えてヘビ――どう考えてもそこいらに流通しているとは思えない――を選んだのだと八左ヱ門は理解した。そして、鞄から視線を持ち上げて見つけたその少女の美しさに、ただただ目を奪われたのだ。
真っ白な肌に緩やかに落ちる栗色の髪。まるで精巧に出来た西洋人形のように、完成された美がそこにあった。――そう、まさに一目惚れ。八左ヱ門は視線だけでなく、心すら一瞬で奪われてしまった。そして、その日からヘビのぬいぐるみを見つけるたびに、こっそりと少女に視線を送る日々が始まったのである。
その一方的な関係が変化したのは、ある強い雨の日のこと。その日は夕方から突然強い雨が降り出した。朝がかんかん照りの晴天であっただけに、八左ヱ門も偶然学校に以前置き忘れて以来、持ち帰ることを忘れていた傘がなければ、その被害に遭っていたことであろう。その幸いに強く感謝しながらバス停まで歩いてくると、その後ろから水を蹴る激しい足音が聞こえてきた。おもむろに振り返れば、そこにあったのは雨に打たれてずぶ濡れとなった「伊賀崎」の姿。それに思わず目を瞬かせた八左ヱ門は、その制服が雨に打たれたためにその下に隠された素肌と下着を写していることに気づいてすぐに視線を逸らした。顔中に血が上るのを感じる。けれど、すぐに自分の傘を打つ雨音で我に返った八左ヱ門は一度強く傘を握りしめたあと、その腕を勢いよく後ろへと突き出した。
「……あの?」
「びしょ濡れだと、風邪引きますよ! この傘でかいし、良かったら入ってください!」
突然差しかけられた傘に驚き、戸惑いの声を上げる少女を見ないようにしながら返事をした。その声が若干上擦り気味であったのには気づかない振りをする。八左ヱ門は空いていたもう片方の手で肩に提げた鞄のなかを探ると、ぐちゃぐちゃになったジャージの上を取り出した。
「これも着てください! その……えっと、そのままじゃ風邪引きますから!」
さすがに肌が透けているとは言いづらく、八左ヱ門は無理矢理こじつけてそのジャージを同じく少女に突き出す。それにさらに戸惑った雰囲気を肌で感じ、八左ヱ門は慌ててさらに言葉を継いだ。
「あっ、あの、ぐちゃぐちゃですけど今日は着てないんで汚れてないです! だから着ても大丈夫! のはずですから……多分」
力一杯否定したあとに、つい弱気になって語尾が小さくなる。そのやりとりを見ていた少女の後ろに並んでいた老婆がひそひそと少女に何かを囁いた。それから一拍置いて、少女がそっと八左ヱ門の差し出したジャージを受け取る。ありがとうございます、と細く伝えられた言葉のあと、衣擦れの音が八左ヱ門の耳に届いた。さらに一拍置いて、少女が八左ヱ門に少し歩み寄る。傘を差しだしている八左ヱ門の手をそっと押し返しながら、彼女はさらに八左ヱ門の傍へその身を滑らせた。
「あなたが濡れています」
「お、おれは、頑丈ですから! ちょっとくらい濡れても全然平気です!」
「でも、申し訳ありませんから。……お心遣い、ありがとうございます――竹谷さん」
いつも硬い表情をしていた「伊賀崎」がふわりと笑った。そして、己の名を呼ぶ。それに驚いて八左ヱ門が「伊賀崎」の顔を凝視すると、少女は自分が着ているジャージの胸元を指さした。そこには規定通りに刺繍された八左ヱ門の名字がある。それで自分の名が分かったのか、と納得する竹谷に、「伊賀崎」が少しだけおかしそうに再び表情を緩めた。それに釣られるように、八左ヱ門も何となくへらりと笑う。そのときに待ちわびたバスが到着し、運転手のアナウンスとドアが開く機械音が耳に届いた。
(――あのとき咄嗟にジャージ貸したら、その次の日に洗濯して持ってきてくれたんだよなあ)
降車駅でジャージを返そうとした少女を強引に押しとどめ、また今度で構わないからと彼女を帰宅させたのは自分。傘も一緒に貸そうとしたら固辞されたのも懐かしい思い出だ。
すると、その翌日に八左ヱ門がバス停へ向かうと、いつもは時折遠目でしか見られない少女の姿があった。バス停のある道路の脇で佇んでいた少女は、八左ヱ門の姿を認めると真っ直ぐに歩み寄ってくる。それに八左ヱ門が驚いて足を止めると、少女は八左ヱ門の前で深々と頭を下げたあとに八左ヱ門が見たこともないメーカー(あとでとあるブランドの袋であると知った)の袋を差し出した。
「昨日は本当にありがとうございました。こちら、お返しします」
「あ、いや、別に大したことはしていないんで……」
「とんでもない。とても助かりました。本当にありがとうございました」
差し出された袋を受け取りながらまごつく八左ヱ門に、少女が真面目な表情を少し崩した。それに釣られるように八左ヱ門が表情を崩すと、彼女はさらに表情を緩めてからゆっくりと口を開いた。
「申し遅れました。わたし、大川女子中学三年の伊賀崎真子と申します」
「あっ、あ、えっと、おれ、ぼくは忍高の二年で竹谷八左ヱ門です。いろいろご丁寧にどうも」
訳の分からない返答をする八左ヱ門に、真子がおかしそうに笑い声を立てる。それに八左ヱ門が己の失敗をごまかすように笑うと、真子は普段よりずっと優しい表情を浮かべながら言葉を紡いだ。
「おかしな方ですね、あなたは」
「そう、ですかね? ハハ」
「ええ、そうです」
その日から、八左ヱ門と真子はバス停で顔を合わすと会釈をし合い、時折列で隣り合えば軽く会話を交わすようになった。――そうして、現在に至るのである。
「……もう話すようになって大分経つのに、なあ」
自室に戻った八左ヱ門は、自分のベッドに転がりながら何度目かの深い溜息をついた。
彼女と話をするようになってから、随分と関係は深まった気がする。ずっと分からなかった下の名前や、やっぱり爬虫類が好きなこと。それだけでなく、毒を持つ虫もまた好んでいることも知った。動物全般が好きな八左ヱ門とはよく話も合い、今では同じバスに乗るときは必ず隣に座るほどだ。学校と学年が違うこともあり、バスの時間が同じになることはそう多くない。だからこそ、連絡先を聞いておかなければ、何かの拍子で会うことが叶わなくなってしまうかもしれないのだ。そう考えればなおさら連絡先を聞きたい気持ちがこみ上げるが、喉元まで出かかったそれを舌に乗せられないのは「もし拒否されたら」という不安が喉を締めつけるからだ。
さり気なく聞けば良い。いつも話題にしている動物のことにでもかこつけて、バスの時間以外に伝えなければならない事柄を作れば良い。そうは分かっていても、実際真子と話している間に舞い上がってしまって、ついつい話題を誘導するどころか、連絡先を聞くことすら忘れてしまう。もしくは、覚えていてもきっかけが掴めないままにずるずると会話をしてしまい、結局聞けずじまいで真子の背中を見送ってしまうのだ。つい愚痴めいたものを漏らした友人には、揃って呆れられた。自分でもそう思う。別に何てことはない。知りたいという理由だけで尋ねたとしても良いのだろう。自分よりその手のことに慣れた人間などは、出会ったその日に連絡先に尋ねるらしい。
――けれど、もしそれを尋ねて拒否されたら? いや、拒否されるだけならばまだ良い。そのことをきっかけに再び疎遠になってしまったらと考えはじめたが最後、八左ヱ門はたったそれだけの行為ですら尻込みしてしまうようになった。
「……全く、情けねえなあ俺」
――高校生にもなって、女の子からメアドひとつ聞き出せないとは。
枕に顔を押しつけてもう一度深い溜息をつくと、八左ヱ門はぐるぐると堂々巡りする思考から逃げだそうと強く強く瞼を下ろした。
「――え?」
「ですから、友人から動物園の無料優待券を2枚もらったんです。その子は期間内に行けないみたいで、爬虫類館が大きいところだからって、わたしに。ここ、この間竹谷先輩もお話していらしたところなので、もし良ければご一緒できないかと思って。もしかして、ご都合お悪いですか?」
「そんなことない! 大丈夫! 万難を排して行く!」
引っ込められそうになったチケットを、真子の手ごと掴んで引き留める。その勢いに真子は驚いて身を引き、それで八左ヱ門は初めて自分が何をしているかに気づいて慌てて身体を離した。
「わ、悪い、つい……」
「そんなに行きたかったんですか、動物園? なら、ちょうど良かったですね」
「あ、ああ」
「それで、日程などについてご相談したいので、連絡先、教えていただけませんか?」
真子が鞄から携帯を取り出す。何度か見た小さなヘビの根付が、八左ヱ門の目の前で小さく揺れた。それに八左ヱ門は慌てて自分の携帯を取り出し、何度も繰り返した赤外線送受信の画面を立ち上げた。
「せっ、赤外線送る! 受けられるか?」
「分かりました。今準備しますね」
真子の細い指が携帯を操作する。しばらくして「どうぞ」と差し出された携帯に、八左ヱ門は震える手で赤外線の送信ボタンを押した。すぐに「送信しました」と表示され、無事に真子の携帯へ八左ヱ門のプロフィールが送信できたことを伝えた。すぐあとに真子が再度携帯を操作し、八左ヱ門を見上げる。
「では、今度はこちらからお送りしますね」
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ! 今準備する!」
八左ヱ門は大慌てで送受信画面に戻り、今度は受信を選択する。受信準備ができたことを真子に伝えると、彼女は軽く頷いてから八左ヱ門の携帯へ己の携帯を近づけた。直後に八左ヱ門の携帯がアドレスを一件受信したことを伝え、八左ヱ門が急いでアドレス帳を確認すると、そこに渇望していた真子の連絡先が登録されていた。
「あ、そろそろわたし降りないと。では、また後ほどご連絡差し上げますね」
「ああ、あ、いや、俺からするよ! ま、またあとでな!」
「はい。――お待ちしてますね」
にこりと笑みを残して真子はいつものバス停へと足を踏み出した。再び走り出すバスの窓から見える八左ヱ門に軽く手を振って、真子は歩き出す。その姿を置き去りにする景色を食い入るように見つめたあと、八左ヱ門は大きなガッツポーズを取った。大声で叫び出したい気持ちを必死で堪える。携帯を操作して、もう一度アドレス帳を呼び出した。そこには今まで喉から手が出るほど欲しかった連絡先が登録されている。電話番号とアドレス、そして名前だけの情報しか入っていないそれをいつまでも見つめながら、八左ヱ門はこみ上げる喜びに緩む顔を抑えられなかったのだった。
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