2009,10,08, Thursday
CP:久々知→竹谷×孫兵
NOTE:主催・緋緒様発案の江戸パロ設定をお借りしています
兵助♀の名前が「お卯乃(オカラの別名『卯の花』から)」
悲恋
「兄上、兄上」
お卯乃は先を行く兄の背を追う。
彼女が、その小さな手で抱える書物を見た兄・兵助は、ふっと小さく笑った。齢九つの子がするような快活なものではなく、水のように静かな、大人の笑みだった。
「もう読み終わったのかい?」
「はい!!……でも、分からぬことも多く、兄上に教えてもらいたくて」
妹の持つ書物は、兵助が通う藩校で昨年習得した学問が記されたものだった。ともすれば、それは武家の者であろうと女の身には必要の無いものである。けれど、好奇心旺盛な妹を兵助は咎めることはせず、こっそりとすぐには必要のない書物を貸してやっては、時折藩校で教授された学問を教えてやっていた。
「お卯乃は賢いな。分からないと言っていたが、私が少し言葉を足せばすぐに答えを出す」
「兄上のご教授が宜しいのです」
木陰に腰を下ろし、肩を並べる仲睦まじい兄妹を遠目に見る大人達は微笑ましく眺めている。
兵助とお卯乃は代々この大川藩家老職を務める久々知家の現当主・久々知義時の子ども達である。
とてもよく似た兄妹だったが、兵助は正室の子、お卯乃は義時が外に作った同じ年の腹違いの兄妹なのだった。けれどもお卯乃の母は肥立ちが悪く若くして亡くなったため、正室の元に引き取られ、兄妹仲良く暮らしていた。
「私も男に生まれたかった……兄上のように学を習い、剣術を修め、いつか主君に仕えたかった…」
不意に囁いた妹の呟きに、兵助は目を細めた。
ずっと以前から、お卯乃が今の言葉を内に秘めていたことを兄だけは知っている。お卯乃は藩校に通う武家の子弟よりも賢く、好奇心旺盛で勇気もある。男に生まれれば、さぞ将来のある若者に成長するだろうと兵助は思う。だが、生まれた時より決められし性を変えることなど不可能だ。それは無論、目の前の彼女も理解はしているだろう。
「兄上、私ね、最近同じ夢ばかりを見るの」
「どんな夢だい?」
「私は男で、忍なの」
はしゃぐ妹の言葉に、兵助には冷水を被せられたように体が震え、衝撃を受けた。
「忍者の学校というものに通っていて、友達も――」
「その者達は、お前を私と同じ【兵助】と呼んでいただろう?」
言葉を遮って言うと、お卯乃は驚いたように目を丸くして、興奮したのか頬を赤らめる。
「そう!そうなの!!どうして兄上も御存知なの!?」
「私も同じ夢を見るのだ」
お卯乃は最近だと言ったが、兵助は物心ついた頃から時折その夢を見ていた。そして【忍びの兵助】は、恐らく己の前世なのだと理解したのは夢を見始めてすぐのこと。
今の兵助よりも少し年かさの少年が青い着物をまとい、学友達と勉学に励む毎日を描いたものもあれば、闇夜に紛れて任務のために数多の人々を殺める生々しいものもある。まるで目の前の出来事のような現実味のある人殺しの夢を見れば悩むこともあったが、その現実味が逆に己自身と【忍びの兵助】と別の人格だと割り切ることもできたし、年に似合わないほどの落ち着きも持つことができたと言える。
「ならば私達は【忍びの兵助】が生まれ変わって【兵助とお卯乃】という二人の人間になったのかもしれないわ」
名案だとばかりに無邪気に笑う妹を兵助は愛おしく思ったが、『どうして一人の人間が二人の人間に生まれ変わったのか』――理由はすぐに浮かんだが、口に出すことはできない。
そしてその考えを兵助がお卯乃に伝えることは生涯無かった。
すいと爽やかな風が、お卯乃の頬を撫でる。
うっかり書類をまとめながら、舟を漕いでしまったようだと己の不覚を反省しながら再び手元を見やる。
するとどこからか歩を緩めることなく、真っすぐこの部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。障子が開いたのと同時に、
「兵助!!」
お卯乃に向かって大声で兄の名を叫ぶ男が目の前に現れる。
「もっと静かに歩けと何度言ったら分かるのだ、八左ヱ門」
呆れたように言うお卯乃も、別段気にした風もなく、むしろ自然なようだった。
お卯乃は、九つの年の夏から兄・兵助として生きていた。
同じ夢を見ると話していた兄は、あの夏の終わりに病を得て、呆気無く彼岸に向かった。元より体も丈夫な方ではなかったのだが、余りにも早い一生を継母と共に嘆くのも束の間、父・義時の命により、久々知兵助として生きることを定められた。
男になりたいと思ってはいたけれど、最初は自分の存在を殺して生きる意味が分からなかった。
今考えれば、同じ夏に大川藩主も亡くなり、世継はお卯乃と同じ年だと言う。そして大川の城では、保守派と改革派の争いが続いており、改革派の筆頭である久々知家の世継が死んだとなれば、保守派の者達の勢いづかせては非常に不味かった筈だ。
理解できなければ泣いて拒むこともできたに違いない。だがお卯乃はできなかった。
妹姫と共に病を得て、生き残った兄を母の実家で療養させると内外に広め、その間に兄が藩校で学んでいたことや武士としての心構えを徹底的に指導された。一年後、住み慣れた家に戻って来たのは、お卯乃という人間ではなく【久々知兵助】という少年であった。
正しい選択であったのか、間違いだったのかはお卯乃には――いや、兵助には未だ分からない。だが、既に時間は進み、同僚達は自分を【久々知兵助】だと思っている。無論、眼の前の男もその一人だ。
男の名は竹谷八左ヱ門――生まれは下士の家柄の三男だったが、幼い頃に侍頭の木下鉄丸に見出され、養子になったという経緯がある。藩主からの覚えもめでたく、また明るく陽気な八左ヱ門は城の人気者。兵助も絶大な信頼を置く一方で、自分と張り合うことのできる数少ない人間の一人だと好敵手としても見ていた。
「――三郎の奴、一体いつになったら戻ってくるんだか」
藩主・鉢屋三郎の名を呼び捨てにするのにもいい加減慣れたものだ。
三郎は前藩主の庶子だったため、御生母共に母子二人で城下で暮らしていたのだが、嫡子の二人が死んだので城へ呼ばれたのだった。八左ヱ門は三郎の友人であり、その時に木下に引き立てられたのである。だからこうして気の置けない人間の前では、昔の癖で藩主の名を呼び捨てにするのだった。
「さて……だが今朝方、三郎様から父上の元に『もうじき帰る』という文は届いたそうだ」
今、三郎は国を出ている。
近年、これまで大川藩を取り巻いていた保守派と改革派との争いが激化し、保守派を推す三郎の叔父が、三郎を亡き者にしようとしたのだ。改革派は秘密裏に三郎を匿い、彼の影武者を立てた。そうして機を伺い、藩主自らが先頭を切って保守派を一網打尽にしたのだった。
しかし、ようやく藩に平和になったと思った途端、三郎は城内が事件の始末をする隙を見て単身旅にでてしまったのだ。重臣達は慌てて兵助と八左ヱ門を迎えにやったのだが、本人に帰る意思はなく、このまま影武者を立て続け、その間に自分は世の中を見ると言って、城を出たきり一年が過ぎようとしていた。
「『もうじき』という辺りが三郎様らしい…」
「アイツはいつもそうだ」
風の吹くまま、気の向くままに庶民に扮して旅を続ける我等が主君。
決して政(まつりごと)を疎かにすることはないが、勝手気ままに生きる今の姿の方が彼らしい生き方なのかもしれない。それを彼に強いるのは前藩主の遺言と兵助の父・義時なのだと思うと兵助は罪悪感が沸き起こる。
三郎の帰りを心待ちにする気持ちの傍らに、兵助の心には憂鬱が在る。
俯けば頬に影を落とすほどに長く豊かな兵助の睫毛が揺れる。それを彼の動揺と気づいた八左ヱ門は眉をひそめた。
「また何かあったのか?」
気付かれたかと、口の端を持ち上げて皮肉げに兵助は笑う。
「また縁談の話が来た」
「……」
縁談が来た、ということは一見喜ばしいことのように思える。
けれども兵助にとっては意味が違う。勿論、性別を偽っている以上、女の身で女を娶ることなど出来ない。だが、兵助の皮肉げな表情になるのも、八左ヱ門が渋面を作るのも違う意味がある。
「くだらねぇ噂だ――兵助が三郎の夜伽なんかしてる訳ねぇのに」
大川の城には密やかに二人の仲を疑う噂が流れていた。
三郎は元服してから幾ばくも経つのだが、未だに妻を持たない。重臣の娘や親類の娘などとの縁談もあったのだが、彼は頑としてそれを拒んだ。
衆道の気があるのではと勘繰った一部の家臣達が、三郎の傍に侍る久々知兵助に目をつけた。兵助は家老職の家に生まれ、学に秀で、剣術も城下の道場で師範代も務めるという文武両道。加えて女のように美しい顔立ちに、所作の隅々にまで凛々しさが漂う、ただそれだけを理由に、悪意のある噂を立てたのだ。
三郎が結婚しないのは、兵助や八左ヱ門と学問の話をしたり、お忍びで城下に出ることの方が楽しかったのもそうだが、何より愛の無い結婚を嫌っていた。三郎の父と義理の母は冷めきった間柄であったし、生母とて三郎が生まれてすぐに疎遠になり、城から迎えに来るまでは、養育費だけを渡され捨て置かれたようなものだった。
彼はそうなりたくなかったに違いない。だから彼の旅は、一生を添い遂げたいと思える者を探しに出たのだと兵助は誰に言う訳でも無かったが、一人勝手に思っていた。
「所詮、噂は噂だ。気になどしていないが、煩わしい」
「だが、このまま三郎も結婚しないままって訳にはいかないだろ……」
このままでは危急の事態が起こった場合、御家断絶ということも考えられる。だから兵助に結婚をさせて引き離せば、三郎が結婚するのではないかという主君を思ってのことという理由もあった。
それに藩主が未婚の手前、どうしてか結婚をし辛い雰囲気があった。町奉行の土井半助などは兵助達よりも十も年上であったが未だに独身でいる。彼だけでなく、婚期を逃している者は数多い。
「それにしても結婚か……俺には縁の無い話だな」
「何だ、好いた女の一人や二人いないのか?兵助なら選び放題だろう」
「八左ヱ門、俺を遊び人か何かと勘違いしていないか?」
じっと兵助に睨まれて、八左ヱ門は笑う。
だが事実、兵助は武家の女達だけでなく、町娘達も憧れる若者なのだ。単純に遠目に見るだけの者もいれば、彼に見初められたいと心から願う者も少なくないだろう。
「八左ヱ門こそ、そういう人はいないのか?」
仕返しをしてやったつもりだったが、八左ヱ門は笑うだけで何も言わなかった。
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兵助♀の名前が「お卯乃(オカラの別名『卯の花』から)」
悲恋
「兄上、兄上」
お卯乃は先を行く兄の背を追う。
彼女が、その小さな手で抱える書物を見た兄・兵助は、ふっと小さく笑った。齢九つの子がするような快活なものではなく、水のように静かな、大人の笑みだった。
「もう読み終わったのかい?」
「はい!!……でも、分からぬことも多く、兄上に教えてもらいたくて」
妹の持つ書物は、兵助が通う藩校で昨年習得した学問が記されたものだった。ともすれば、それは武家の者であろうと女の身には必要の無いものである。けれど、好奇心旺盛な妹を兵助は咎めることはせず、こっそりとすぐには必要のない書物を貸してやっては、時折藩校で教授された学問を教えてやっていた。
「お卯乃は賢いな。分からないと言っていたが、私が少し言葉を足せばすぐに答えを出す」
「兄上のご教授が宜しいのです」
木陰に腰を下ろし、肩を並べる仲睦まじい兄妹を遠目に見る大人達は微笑ましく眺めている。
兵助とお卯乃は代々この大川藩家老職を務める久々知家の現当主・久々知義時の子ども達である。
とてもよく似た兄妹だったが、兵助は正室の子、お卯乃は義時が外に作った同じ年の腹違いの兄妹なのだった。けれどもお卯乃の母は肥立ちが悪く若くして亡くなったため、正室の元に引き取られ、兄妹仲良く暮らしていた。
「私も男に生まれたかった……兄上のように学を習い、剣術を修め、いつか主君に仕えたかった…」
不意に囁いた妹の呟きに、兵助は目を細めた。
ずっと以前から、お卯乃が今の言葉を内に秘めていたことを兄だけは知っている。お卯乃は藩校に通う武家の子弟よりも賢く、好奇心旺盛で勇気もある。男に生まれれば、さぞ将来のある若者に成長するだろうと兵助は思う。だが、生まれた時より決められし性を変えることなど不可能だ。それは無論、目の前の彼女も理解はしているだろう。
「兄上、私ね、最近同じ夢ばかりを見るの」
「どんな夢だい?」
「私は男で、忍なの」
はしゃぐ妹の言葉に、兵助には冷水を被せられたように体が震え、衝撃を受けた。
「忍者の学校というものに通っていて、友達も――」
「その者達は、お前を私と同じ【兵助】と呼んでいただろう?」
言葉を遮って言うと、お卯乃は驚いたように目を丸くして、興奮したのか頬を赤らめる。
「そう!そうなの!!どうして兄上も御存知なの!?」
「私も同じ夢を見るのだ」
お卯乃は最近だと言ったが、兵助は物心ついた頃から時折その夢を見ていた。そして【忍びの兵助】は、恐らく己の前世なのだと理解したのは夢を見始めてすぐのこと。
今の兵助よりも少し年かさの少年が青い着物をまとい、学友達と勉学に励む毎日を描いたものもあれば、闇夜に紛れて任務のために数多の人々を殺める生々しいものもある。まるで目の前の出来事のような現実味のある人殺しの夢を見れば悩むこともあったが、その現実味が逆に己自身と【忍びの兵助】と別の人格だと割り切ることもできたし、年に似合わないほどの落ち着きも持つことができたと言える。
「ならば私達は【忍びの兵助】が生まれ変わって【兵助とお卯乃】という二人の人間になったのかもしれないわ」
名案だとばかりに無邪気に笑う妹を兵助は愛おしく思ったが、『どうして一人の人間が二人の人間に生まれ変わったのか』――理由はすぐに浮かんだが、口に出すことはできない。
そしてその考えを兵助がお卯乃に伝えることは生涯無かった。
すいと爽やかな風が、お卯乃の頬を撫でる。
うっかり書類をまとめながら、舟を漕いでしまったようだと己の不覚を反省しながら再び手元を見やる。
するとどこからか歩を緩めることなく、真っすぐこの部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。障子が開いたのと同時に、
「兵助!!」
お卯乃に向かって大声で兄の名を叫ぶ男が目の前に現れる。
「もっと静かに歩けと何度言ったら分かるのだ、八左ヱ門」
呆れたように言うお卯乃も、別段気にした風もなく、むしろ自然なようだった。
お卯乃は、九つの年の夏から兄・兵助として生きていた。
同じ夢を見ると話していた兄は、あの夏の終わりに病を得て、呆気無く彼岸に向かった。元より体も丈夫な方ではなかったのだが、余りにも早い一生を継母と共に嘆くのも束の間、父・義時の命により、久々知兵助として生きることを定められた。
男になりたいと思ってはいたけれど、最初は自分の存在を殺して生きる意味が分からなかった。
今考えれば、同じ夏に大川藩主も亡くなり、世継はお卯乃と同じ年だと言う。そして大川の城では、保守派と改革派の争いが続いており、改革派の筆頭である久々知家の世継が死んだとなれば、保守派の者達の勢いづかせては非常に不味かった筈だ。
理解できなければ泣いて拒むこともできたに違いない。だがお卯乃はできなかった。
妹姫と共に病を得て、生き残った兄を母の実家で療養させると内外に広め、その間に兄が藩校で学んでいたことや武士としての心構えを徹底的に指導された。一年後、住み慣れた家に戻って来たのは、お卯乃という人間ではなく【久々知兵助】という少年であった。
正しい選択であったのか、間違いだったのかはお卯乃には――いや、兵助には未だ分からない。だが、既に時間は進み、同僚達は自分を【久々知兵助】だと思っている。無論、眼の前の男もその一人だ。
男の名は竹谷八左ヱ門――生まれは下士の家柄の三男だったが、幼い頃に侍頭の木下鉄丸に見出され、養子になったという経緯がある。藩主からの覚えもめでたく、また明るく陽気な八左ヱ門は城の人気者。兵助も絶大な信頼を置く一方で、自分と張り合うことのできる数少ない人間の一人だと好敵手としても見ていた。
「――三郎の奴、一体いつになったら戻ってくるんだか」
藩主・鉢屋三郎の名を呼び捨てにするのにもいい加減慣れたものだ。
三郎は前藩主の庶子だったため、御生母共に母子二人で城下で暮らしていたのだが、嫡子の二人が死んだので城へ呼ばれたのだった。八左ヱ門は三郎の友人であり、その時に木下に引き立てられたのである。だからこうして気の置けない人間の前では、昔の癖で藩主の名を呼び捨てにするのだった。
「さて……だが今朝方、三郎様から父上の元に『もうじき帰る』という文は届いたそうだ」
今、三郎は国を出ている。
近年、これまで大川藩を取り巻いていた保守派と改革派との争いが激化し、保守派を推す三郎の叔父が、三郎を亡き者にしようとしたのだ。改革派は秘密裏に三郎を匿い、彼の影武者を立てた。そうして機を伺い、藩主自らが先頭を切って保守派を一網打尽にしたのだった。
しかし、ようやく藩に平和になったと思った途端、三郎は城内が事件の始末をする隙を見て単身旅にでてしまったのだ。重臣達は慌てて兵助と八左ヱ門を迎えにやったのだが、本人に帰る意思はなく、このまま影武者を立て続け、その間に自分は世の中を見ると言って、城を出たきり一年が過ぎようとしていた。
「『もうじき』という辺りが三郎様らしい…」
「アイツはいつもそうだ」
風の吹くまま、気の向くままに庶民に扮して旅を続ける我等が主君。
決して政(まつりごと)を疎かにすることはないが、勝手気ままに生きる今の姿の方が彼らしい生き方なのかもしれない。それを彼に強いるのは前藩主の遺言と兵助の父・義時なのだと思うと兵助は罪悪感が沸き起こる。
三郎の帰りを心待ちにする気持ちの傍らに、兵助の心には憂鬱が在る。
俯けば頬に影を落とすほどに長く豊かな兵助の睫毛が揺れる。それを彼の動揺と気づいた八左ヱ門は眉をひそめた。
「また何かあったのか?」
気付かれたかと、口の端を持ち上げて皮肉げに兵助は笑う。
「また縁談の話が来た」
「……」
縁談が来た、ということは一見喜ばしいことのように思える。
けれども兵助にとっては意味が違う。勿論、性別を偽っている以上、女の身で女を娶ることなど出来ない。だが、兵助の皮肉げな表情になるのも、八左ヱ門が渋面を作るのも違う意味がある。
「くだらねぇ噂だ――兵助が三郎の夜伽なんかしてる訳ねぇのに」
大川の城には密やかに二人の仲を疑う噂が流れていた。
三郎は元服してから幾ばくも経つのだが、未だに妻を持たない。重臣の娘や親類の娘などとの縁談もあったのだが、彼は頑としてそれを拒んだ。
衆道の気があるのではと勘繰った一部の家臣達が、三郎の傍に侍る久々知兵助に目をつけた。兵助は家老職の家に生まれ、学に秀で、剣術も城下の道場で師範代も務めるという文武両道。加えて女のように美しい顔立ちに、所作の隅々にまで凛々しさが漂う、ただそれだけを理由に、悪意のある噂を立てたのだ。
三郎が結婚しないのは、兵助や八左ヱ門と学問の話をしたり、お忍びで城下に出ることの方が楽しかったのもそうだが、何より愛の無い結婚を嫌っていた。三郎の父と義理の母は冷めきった間柄であったし、生母とて三郎が生まれてすぐに疎遠になり、城から迎えに来るまでは、養育費だけを渡され捨て置かれたようなものだった。
彼はそうなりたくなかったに違いない。だから彼の旅は、一生を添い遂げたいと思える者を探しに出たのだと兵助は誰に言う訳でも無かったが、一人勝手に思っていた。
「所詮、噂は噂だ。気になどしていないが、煩わしい」
「だが、このまま三郎も結婚しないままって訳にはいかないだろ……」
このままでは危急の事態が起こった場合、御家断絶ということも考えられる。だから兵助に結婚をさせて引き離せば、三郎が結婚するのではないかという主君を思ってのことという理由もあった。
それに藩主が未婚の手前、どうしてか結婚をし辛い雰囲気があった。町奉行の土井半助などは兵助達よりも十も年上であったが未だに独身でいる。彼だけでなく、婚期を逃している者は数多い。
「それにしても結婚か……俺には縁の無い話だな」
「何だ、好いた女の一人や二人いないのか?兵助なら選び放題だろう」
「八左ヱ門、俺を遊び人か何かと勘違いしていないか?」
じっと兵助に睨まれて、八左ヱ門は笑う。
だが事実、兵助は武家の女達だけでなく、町娘達も憧れる若者なのだ。単純に遠目に見るだけの者もいれば、彼に見初められたいと心から願う者も少なくないだろう。
「八左ヱ門こそ、そういう人はいないのか?」
仕返しをしてやったつもりだったが、八左ヱ門は笑うだけで何も言わなかった。
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| 結夏 | 18:03 | comments (x) | trackback (x) |
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