2009,09,03, Thursday
CP : こへ滝
NOTE : 藤原実方伝説
・通説を覆す解釈
・悲恋・死にネタ
時は平安――貴族階級が最も栄えた時代。
貴族達は歌を詠み、楽を奏で、王朝文化華やかなりし頃。彼と出逢ったのは、そんな時代だった。
滝子の父は、貴族の中でも名門中の名門・藤原一門の小一条家に仕える家司であった。
家司とは律令制度の下、官位が三位以上の貴族の家政一般を執り行う役職を持つ者を指す。
父は主君であった今は亡き大納言の片腕として尽力し、母は滝子の弟を生んだ後に生まれた御子の乳母となり、弟は乳母子として今も主に仕えている。そんな家族の姿を見て育った滝子も、一途に主に仕えた。
彼女の主の名は小平太。
故大納言の甥であったが、彼の両親が早くに亡くなったので大納言の家へと引き取られていた。小平太に仕えるのは、彼の初めての文を運んだ時から少し経った後だったが、女童として邸で働いていた滝子は故大納言の御子達といる姿を見て、よく知っていた。
小平太はとても活発で、地下人の子供のように泥まみれになっても気にせず遊び回る御子だった。武芸を好み、故大納言が師を宛がったが、その無尽蔵な体力と腕力に師が逃げ帰るほど、というのは強ち(あながち)嘘ではない。あの野性児が、『風流才子』、『色好みの貴公子』と呼ばれるようになるとは、滝子さえ信じられなかった。
「どうしたんだ?滝夜叉丸」
頭上から降って来た声に、ぎくりと背筋を正す。
「……右近中将様」
「お前までそう呼ぶのか?」
この頃の小平太は右近衛府の次官の任に就いていた。役職名で呼ぶのが普通なのだが、彼は身近な者達からそう呼ばれるのを厭う。何でも、コロコロと変わる役職名で呼ばれては、覚えていられないなどとのたまうのだ。
「ならば私のことも、幼少名で呼ばないでくださいませ」
「えーッ!!」
『滝夜叉丸』というのは滝子が幼少名であるが、成人の儀である裳着を済ませた今は滝子と名を改めている。もちろん忌み名を避けるこの時代、専ら呼ばれるのは女房名ではあるが。小平太は出会った頃と同じ名で呼び続けているので、お返しに役職名で呼ぶんでやるのだが、小平太は面白がるばかりで咎めはしない。
「久し振りに会いに来たっていうのに、つれないんだから」
「口煩い女房がいなくて、さぞ清々しているかと思っていましたが?」
現在、滝子は小平太の邸を出て、宮中に出仕していた。
しっかり者と評判の滝子だが、案外夢見がちな性分でもある。彼女の今一番の興味は後宮で暮らす妃達のサロン――国中から集められた才媛とそれに魅かれる若き公達が惜しみなく才を発揮させる場所。主の小平太に不満があるわけではないけれど、輝かしくも華々しい様子を垣間見れることができたらと、常々思っていたのだ。
そんな時、転機が訪れた。
先頃、小平太の従妹姫が東宮へと入内された。小平太は滝子の願いを叶えてやろうと短期間だけ女御付きの女房の一人として参内させたのだった。
「宣耀殿での暮らしにも慣れたか?」
宣耀殿とは後宮の殿舎の一つで、従妹姫の住まう殿舎である。四代前の帝に仕えた叔母のように深い寵愛を得られるようにと、叔母の住んでいた宣耀殿を賜ったのだった。
「えぇ、女御様や他の女房達も良くしてくださいますから…」
帝の寵愛を一身に受け、今を時めく中宮のサロンも魅力的だが、宣耀殿女御の元に集った女房達も中々の実力者達なのだ。
女童の頃から女御に仕えていた喜子の詠む歌は奔放であり、時に艶めいて面白いし、反対に藤子の歌は初心な様子が可愛らしい。そして東宮に仕える三木は漢詩も嗜むようで、時折交わす会話などは酷く興味をそそられる。
にこにことそれは楽しそうに滝子が語るものだから、自然と小平太も笑みが零れた。
滝子を貸し出してから、お付きの牛飼い童の金吾や四郎兵衛は、どこかつまらなそうにしている。そろそろ戻ってこさせようかとと、様子を見に来たのだが、普段から真面目に邸を切り盛りしてくれる滝子の好きにさせてやろうと思い直した。
「さて、では女御の元に挨拶にでも伺おうか」
「まぁ!女御様に挨拶も無しに、こちらにいらしていたんですか!!」
呆れて物が言えないと小平太を嗜める滝子だったが、彼が女御を避けていることも知っていた。
小平太は小一条家の傍系とはいえ、一門の中で最も将来を見込まれている公達である。故大納言の御子達も彼には及ばない。いずれは叔父の後を継ぎ、女御を、引いては東宮を支えるべき立場にあるのだ。小一条家を背負うのは小平太。それが分らない彼ではないだろう。
先を歩く小平太の背を眺めながら、滝子は思う――彼の秘めたる想いを。
宣耀殿女御は、どこまでも広がる射干玉(ぬばたま)の御髪に、天女の如き美貌を持つ佳人。生まれた時から、国母にと望まれ、賢く聡明な彼女は、もはや手の届かぬ人。その顔とて御簾に隔てられる彼女こそ、小平太が初めて恋の歌を贈った相手。
「……邸の皆は息災ですか?」
まだ二月と離れてはいないのに、さも主に振り回される童達が心配だと言わんばかりに言ってみせた。
「元気にやってるよ。まぁここの所、夜遅いから、寝不足みたいだけど」
事も無げにいう主に、再び溜息を吐く滝子。
女御を慕う一方で、この男は非常に恋多き男だった。人好きする笑顔に豪快な性質、けれども歌を詠めば、男も眩暈をしてしまうほどの情愛の深さに憧れぬ女はいない。事あるごとに女房達に声を掛け、軽い気持ちで歌を贈るものだから、毎日邸に届く文の数も尋常でなく、仕訳できぬほどの文が届いた時ほど主を恨んだことはなかった。
それでも彼の心は埋められない。まして己のような小物では、その歯牙にも掛けられないだろう。
滝子は只管に自分の想いを殺し、主の背を見つめることしかできなかった。
「どうかしたか、滝夜叉丸?」
黙り込んだ滝子の顔を覗き込む表情や仕草は、幼子と変わらない。
苦しさを隠し、『否』と微笑んでみせる。
小平太と女御の間で交わされた約束の期間が過ぎ、暇を貰い、久々に小一条家の人々が住まう邸に帰ると、数カ月しか離れてはいないのに懐かしさが込み上げてくる。
甘い唐菓子は子供達が喜ぶだろうし、見聞きしてきた宮廷の華やかな様子は女達の興味をそそるだろう。だが、あまり人がいない。皆、使いで外出しているのだろうか。
外出着から着替えると、この邸の主である大納言とその御正室の元へと挨拶に向かう。大したことをしたとは思ってはいないが、二人は優しく滝子を労ってくれる。小平太が尊敬する養父母は、やはり滝子にとっても尊敬に値する人物であり、とても誇らしい気持ちになって部屋を退室した。
さて、そういえば小平太の文の管理はどうなっているのだろうか。どこからともなく毎日飽きもせずに届く小平太への文の様子が気になって、小一条家の文の全て管理している文殿に向かうと、山のような文と泡を食いながら仕分けする同僚達がいた。
「まぁ、三条!!」
「三条、良いところに帰って来てくれたわ!!」
三条とは、滝子の女房名である。
彼女達は安堵したように口々に滝子の名を呼んで帰還を喜ぶのだが、当の本人は山の文をゾッとする思いで見上げていた。十中八九、これは小平太への手紙だ。滝子という管理者がいなくなり、少し目を離した隙に、今や天井にも届かんばかりだろう。
「すみません、三条様…」
同僚達に紛れて、顔見知りの金吾もいるではないか。
「牛飼い童のお前も手伝っていたのか!!」
「は、はい。小平太様の文がどうしても片付かないからと…」
目の端に涙を溜めるが、金吾は男らしく我慢して見せた。
現状は、恐らく仕分けが滞り、返事が遅くなったことで、新たに催促の文が届けられ、もはや収拾がつかなくなったに違いない。深く息を吸って、それから腹を括って、手紙の山に滝子は対峙したのだった。
三条――もとい滝子の帰還により、丸一日掛かりで文殿は奇麗に片付けられた。
やはりどんな立場でも、自分がいないと彼はダメなのかもしれないと思わされる。
その夜は月が煌々と輝いていた――主は未だ邸に戻らず。せめて、どこぞに泊まるとの連絡を待っているのだが、もう眠ってしまおうかと思案していると、小平太が帰って来て自分を呼んでいると同僚からの伝言を受けた。素早く身支度を整え、小平太の部屋を訪れると、既に酒宴が始まっていた。
「滝夜叉丸!!待っていたぞ!!」
上機嫌な小平太が手招きするので部屋に入ると、他の気配にも気がつく。
「久しぶりだな、三条」
「夜遅くに呼び出してごめんね」
前者が蔵人頭の留三郎で、後者が左近中将の伊作で、二人は小平太の友人である。よく邸にもやって来ることが多いため、滝子もよく知っていたし、こうして邸で酒宴をすれば滝子も呼ばれて歓談するのは常のことであった。三人の杯に酌をしながら、話を聞く。彼らの話題は多岐に渡る。政治の話、最近読んだ漢詩の話等など――けれども当然、恋の話が一番盛り上がる。
「そういえば最近、清原の邸を訪ねるそうだな」
硬派な性質かと思えば、案外そうでもない留三郎が面白がって小平太に言う。
「清原の邸?」
「最近、新しい女性の元に通い始めたんだよ。何でも歌の上手い人らしいよ」
こそっと伊作が説明をくれる。
「まぁ、男女の仲というのは色々あるからな。余計な詮索するだけ野暮というもんだ」
と、小平太は杯を飲み干した。
「でも、彼女は夫と別れたばかりだったんだろう?しかも武に長けた男だと聞くが、歌は不得手な男らしいじゃないか。私は小平太、君が一体どんな歌を詠んで、その方の心を射止めたのか、気になるよ」
「何だ、伊作。お前もそんなことを言うのか」
「もちろんだとも」
留三郎だけでなく、伊作までも話に乗って来ると、小平太も拒むのは難しい。
世慣れしているくせに、年若い公達のように少し照れくさそうな様子は、やはり女心をくすぐる。ただ、やはり彼を慕う滝子としては、その心中は複雑だった。
「三条は?」
「えっ?」
「お前も年頃だろう?良い噂くらいないのか?」
二人に問われ、留守中に届けられた滝子宛の文を思い出した。
例によって恋文である。滝子も、いい加減もう結婚を考えなければいけない年齢だ。いや、遅すぎるくらいかもしれない。女御の元で世話になっている時も、多くの男性から求愛された。その中には素晴らしい歌を贈ってくれる方もいた。滝子には相応しくないほど良い身分の方もいた。けれども、彼らと一緒になることを滝子は少しも想像することはできなかった。
「……この方、と私が一生を添い遂げたい方は未だ現れませんの」
滝子は小平太を好いている。それも『一生を添い遂げたい相手』として好きだった。けれども、恋多き主人にこの想いを伝えることは一生無いだろう。一夫多妻制が世の理だとしても、愛する人には自分一人を想っていて欲しいと思うのは欲深いのだろうか。
「ははっ…叶うならば、そんな恋をしてみたいものだ」
「女はいつでも夢を見ていたいものです」
夢見がちだと留三郎は笑った。滝子は笑って軽く流す。
夢は儚く壊れやすい。頼りにできるものではないけれど、心に一時の平穏を取り戻すことはできる。
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NOTE : 藤原実方伝説
・通説を覆す解釈
・悲恋・死にネタ
時は平安――貴族階級が最も栄えた時代。
貴族達は歌を詠み、楽を奏で、王朝文化華やかなりし頃。彼と出逢ったのは、そんな時代だった。
滝子の父は、貴族の中でも名門中の名門・藤原一門の小一条家に仕える家司であった。
家司とは律令制度の下、官位が三位以上の貴族の家政一般を執り行う役職を持つ者を指す。
父は主君であった今は亡き大納言の片腕として尽力し、母は滝子の弟を生んだ後に生まれた御子の乳母となり、弟は乳母子として今も主に仕えている。そんな家族の姿を見て育った滝子も、一途に主に仕えた。
彼女の主の名は小平太。
故大納言の甥であったが、彼の両親が早くに亡くなったので大納言の家へと引き取られていた。小平太に仕えるのは、彼の初めての文を運んだ時から少し経った後だったが、女童として邸で働いていた滝子は故大納言の御子達といる姿を見て、よく知っていた。
小平太はとても活発で、地下人の子供のように泥まみれになっても気にせず遊び回る御子だった。武芸を好み、故大納言が師を宛がったが、その無尽蔵な体力と腕力に師が逃げ帰るほど、というのは強ち(あながち)嘘ではない。あの野性児が、『風流才子』、『色好みの貴公子』と呼ばれるようになるとは、滝子さえ信じられなかった。
「どうしたんだ?滝夜叉丸」
頭上から降って来た声に、ぎくりと背筋を正す。
「……右近中将様」
「お前までそう呼ぶのか?」
この頃の小平太は右近衛府の次官の任に就いていた。役職名で呼ぶのが普通なのだが、彼は身近な者達からそう呼ばれるのを厭う。何でも、コロコロと変わる役職名で呼ばれては、覚えていられないなどとのたまうのだ。
「ならば私のことも、幼少名で呼ばないでくださいませ」
「えーッ!!」
『滝夜叉丸』というのは滝子が幼少名であるが、成人の儀である裳着を済ませた今は滝子と名を改めている。もちろん忌み名を避けるこの時代、専ら呼ばれるのは女房名ではあるが。小平太は出会った頃と同じ名で呼び続けているので、お返しに役職名で呼ぶんでやるのだが、小平太は面白がるばかりで咎めはしない。
「久し振りに会いに来たっていうのに、つれないんだから」
「口煩い女房がいなくて、さぞ清々しているかと思っていましたが?」
現在、滝子は小平太の邸を出て、宮中に出仕していた。
しっかり者と評判の滝子だが、案外夢見がちな性分でもある。彼女の今一番の興味は後宮で暮らす妃達のサロン――国中から集められた才媛とそれに魅かれる若き公達が惜しみなく才を発揮させる場所。主の小平太に不満があるわけではないけれど、輝かしくも華々しい様子を垣間見れることができたらと、常々思っていたのだ。
そんな時、転機が訪れた。
先頃、小平太の従妹姫が東宮へと入内された。小平太は滝子の願いを叶えてやろうと短期間だけ女御付きの女房の一人として参内させたのだった。
「宣耀殿での暮らしにも慣れたか?」
宣耀殿とは後宮の殿舎の一つで、従妹姫の住まう殿舎である。四代前の帝に仕えた叔母のように深い寵愛を得られるようにと、叔母の住んでいた宣耀殿を賜ったのだった。
「えぇ、女御様や他の女房達も良くしてくださいますから…」
帝の寵愛を一身に受け、今を時めく中宮のサロンも魅力的だが、宣耀殿女御の元に集った女房達も中々の実力者達なのだ。
女童の頃から女御に仕えていた喜子の詠む歌は奔放であり、時に艶めいて面白いし、反対に藤子の歌は初心な様子が可愛らしい。そして東宮に仕える三木は漢詩も嗜むようで、時折交わす会話などは酷く興味をそそられる。
にこにことそれは楽しそうに滝子が語るものだから、自然と小平太も笑みが零れた。
滝子を貸し出してから、お付きの牛飼い童の金吾や四郎兵衛は、どこかつまらなそうにしている。そろそろ戻ってこさせようかとと、様子を見に来たのだが、普段から真面目に邸を切り盛りしてくれる滝子の好きにさせてやろうと思い直した。
「さて、では女御の元に挨拶にでも伺おうか」
「まぁ!女御様に挨拶も無しに、こちらにいらしていたんですか!!」
呆れて物が言えないと小平太を嗜める滝子だったが、彼が女御を避けていることも知っていた。
小平太は小一条家の傍系とはいえ、一門の中で最も将来を見込まれている公達である。故大納言の御子達も彼には及ばない。いずれは叔父の後を継ぎ、女御を、引いては東宮を支えるべき立場にあるのだ。小一条家を背負うのは小平太。それが分らない彼ではないだろう。
先を歩く小平太の背を眺めながら、滝子は思う――彼の秘めたる想いを。
宣耀殿女御は、どこまでも広がる射干玉(ぬばたま)の御髪に、天女の如き美貌を持つ佳人。生まれた時から、国母にと望まれ、賢く聡明な彼女は、もはや手の届かぬ人。その顔とて御簾に隔てられる彼女こそ、小平太が初めて恋の歌を贈った相手。
「……邸の皆は息災ですか?」
まだ二月と離れてはいないのに、さも主に振り回される童達が心配だと言わんばかりに言ってみせた。
「元気にやってるよ。まぁここの所、夜遅いから、寝不足みたいだけど」
事も無げにいう主に、再び溜息を吐く滝子。
女御を慕う一方で、この男は非常に恋多き男だった。人好きする笑顔に豪快な性質、けれども歌を詠めば、男も眩暈をしてしまうほどの情愛の深さに憧れぬ女はいない。事あるごとに女房達に声を掛け、軽い気持ちで歌を贈るものだから、毎日邸に届く文の数も尋常でなく、仕訳できぬほどの文が届いた時ほど主を恨んだことはなかった。
それでも彼の心は埋められない。まして己のような小物では、その歯牙にも掛けられないだろう。
滝子は只管に自分の想いを殺し、主の背を見つめることしかできなかった。
「どうかしたか、滝夜叉丸?」
黙り込んだ滝子の顔を覗き込む表情や仕草は、幼子と変わらない。
苦しさを隠し、『否』と微笑んでみせる。
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小平太と女御の間で交わされた約束の期間が過ぎ、暇を貰い、久々に小一条家の人々が住まう邸に帰ると、数カ月しか離れてはいないのに懐かしさが込み上げてくる。
甘い唐菓子は子供達が喜ぶだろうし、見聞きしてきた宮廷の華やかな様子は女達の興味をそそるだろう。だが、あまり人がいない。皆、使いで外出しているのだろうか。
外出着から着替えると、この邸の主である大納言とその御正室の元へと挨拶に向かう。大したことをしたとは思ってはいないが、二人は優しく滝子を労ってくれる。小平太が尊敬する養父母は、やはり滝子にとっても尊敬に値する人物であり、とても誇らしい気持ちになって部屋を退室した。
さて、そういえば小平太の文の管理はどうなっているのだろうか。どこからともなく毎日飽きもせずに届く小平太への文の様子が気になって、小一条家の文の全て管理している文殿に向かうと、山のような文と泡を食いながら仕分けする同僚達がいた。
「まぁ、三条!!」
「三条、良いところに帰って来てくれたわ!!」
三条とは、滝子の女房名である。
彼女達は安堵したように口々に滝子の名を呼んで帰還を喜ぶのだが、当の本人は山の文をゾッとする思いで見上げていた。十中八九、これは小平太への手紙だ。滝子という管理者がいなくなり、少し目を離した隙に、今や天井にも届かんばかりだろう。
「すみません、三条様…」
同僚達に紛れて、顔見知りの金吾もいるではないか。
「牛飼い童のお前も手伝っていたのか!!」
「は、はい。小平太様の文がどうしても片付かないからと…」
目の端に涙を溜めるが、金吾は男らしく我慢して見せた。
現状は、恐らく仕分けが滞り、返事が遅くなったことで、新たに催促の文が届けられ、もはや収拾がつかなくなったに違いない。深く息を吸って、それから腹を括って、手紙の山に滝子は対峙したのだった。
三条――もとい滝子の帰還により、丸一日掛かりで文殿は奇麗に片付けられた。
やはりどんな立場でも、自分がいないと彼はダメなのかもしれないと思わされる。
その夜は月が煌々と輝いていた――主は未だ邸に戻らず。せめて、どこぞに泊まるとの連絡を待っているのだが、もう眠ってしまおうかと思案していると、小平太が帰って来て自分を呼んでいると同僚からの伝言を受けた。素早く身支度を整え、小平太の部屋を訪れると、既に酒宴が始まっていた。
「滝夜叉丸!!待っていたぞ!!」
上機嫌な小平太が手招きするので部屋に入ると、他の気配にも気がつく。
「久しぶりだな、三条」
「夜遅くに呼び出してごめんね」
前者が蔵人頭の留三郎で、後者が左近中将の伊作で、二人は小平太の友人である。よく邸にもやって来ることが多いため、滝子もよく知っていたし、こうして邸で酒宴をすれば滝子も呼ばれて歓談するのは常のことであった。三人の杯に酌をしながら、話を聞く。彼らの話題は多岐に渡る。政治の話、最近読んだ漢詩の話等など――けれども当然、恋の話が一番盛り上がる。
「そういえば最近、清原の邸を訪ねるそうだな」
硬派な性質かと思えば、案外そうでもない留三郎が面白がって小平太に言う。
「清原の邸?」
「最近、新しい女性の元に通い始めたんだよ。何でも歌の上手い人らしいよ」
こそっと伊作が説明をくれる。
「まぁ、男女の仲というのは色々あるからな。余計な詮索するだけ野暮というもんだ」
と、小平太は杯を飲み干した。
「でも、彼女は夫と別れたばかりだったんだろう?しかも武に長けた男だと聞くが、歌は不得手な男らしいじゃないか。私は小平太、君が一体どんな歌を詠んで、その方の心を射止めたのか、気になるよ」
「何だ、伊作。お前もそんなことを言うのか」
「もちろんだとも」
留三郎だけでなく、伊作までも話に乗って来ると、小平太も拒むのは難しい。
世慣れしているくせに、年若い公達のように少し照れくさそうな様子は、やはり女心をくすぐる。ただ、やはり彼を慕う滝子としては、その心中は複雑だった。
「三条は?」
「えっ?」
「お前も年頃だろう?良い噂くらいないのか?」
二人に問われ、留守中に届けられた滝子宛の文を思い出した。
例によって恋文である。滝子も、いい加減もう結婚を考えなければいけない年齢だ。いや、遅すぎるくらいかもしれない。女御の元で世話になっている時も、多くの男性から求愛された。その中には素晴らしい歌を贈ってくれる方もいた。滝子には相応しくないほど良い身分の方もいた。けれども、彼らと一緒になることを滝子は少しも想像することはできなかった。
「……この方、と私が一生を添い遂げたい方は未だ現れませんの」
滝子は小平太を好いている。それも『一生を添い遂げたい相手』として好きだった。けれども、恋多き主人にこの想いを伝えることは一生無いだろう。一夫多妻制が世の理だとしても、愛する人には自分一人を想っていて欲しいと思うのは欲深いのだろうか。
「ははっ…叶うならば、そんな恋をしてみたいものだ」
「女はいつでも夢を見ていたいものです」
夢見がちだと留三郎は笑った。滝子は笑って軽く流す。
夢は儚く壊れやすい。頼りにできるものではないけれど、心に一時の平穏を取り戻すことはできる。
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| 結夏 | 21:32 | comments (x) | trackback (x) |
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