悠久の糸車

　CP : こへ滝
　NOTE : 藤原実方伝説
　　　　　　　・通説を覆す解釈
　　　　　　　・悲恋・死にネタ

『おい、ちょっと！！お前だ、お前！！』
『はい？』

呼び止められて振り返ると、顔も着物を酷く汚した滝夜叉丸より少し年かさの子どもが立っていた。
どういう遊びをすればこんな風になるのかと驚いている滝夜叉丸に、子どもは蓬色の文を差し出す。

『この文を届けてくれ！！私が初めて詠んだ歌なんだ』

それで合点がいく。例え汚い姿でも、よくよく見れば上等な着物を着ているではないか。きっとこの子どもは主人の家族の一人なのだろうと。女童として邸に上がったばかりの彼女は他の子どもよりも少し回転の速い頭で、恐らく正しい答えを導き出す。

『……畏まりました。では、どなた様に？』
『あぁ、それは――』





「『名にし負はばいざ言(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』……」


　かつて少女の頃に仕えた主の名を、久方ぶりに聞いた滝子は、稀代の貴公子が残した望郷の歌を誰もいなくなった局で一人呟いた。
　当代の風流人として名を馳せ、女房の憧れだった滝の主人は、随分と前に都を出て陸奥へと下って行った。そうして数年前、遠い陸奥で一度も都に戻ることなく死んだと聞いている。
　人懐っこく、誰よりも人という生き物が好きで、友人の多かった主は、ずっと都に帰ることを願っていた。恐らく彼（か）の貴公子のように、都を想う歌を詠んでは、誰に見せるでもなく文箱にしたためていたいたに違いない。

今の宮廷で彼の名を聞くことなど二度と無いと思っていた。

　それが叶ったのは、ほんの数刻前――馴染みの女房の三木が滝子の局へとやって来ていた時のことだった。
　お互い結婚したものの、家の中でじっとしている生活には慣れず、再び宮中に出仕していた。昔は良くも悪くも競い合っていた相手だが、それぞれ前の主人が曰く付きであったのと、彼女達の性分から他の女房達からは遠巻きにされていたので、自然と話す機会も増えたのは言うまでもない。
　そうして他愛もない話題に花を咲かせていると、女房達の一団が滝子達のいた局の前で足を止めた。

「そういえば聞きまして？巷で話題となっている『入内雀』の話」
「えぇ、もちろん」
「あら、私は知らないわ」

　衝立越しにも、彼女らの声が滝子や三木を疎ましく思う女房の声だと分かる。いつもの厭味だろうと気にも留めずにいると、

「最近内裏に入り込んでくる一羽の雀は何と亡き前左近中将様の生まれ変わりだそうよ」
「雀が中将様？」
「えぇ、そうよ。しかもその雀といったら、台盤所で米を食んでいるんですって」
「まぁ、賤しいこと」

　左近中将とは滝子の主の役職名であった。台盤所とは帝がおわす清涼殿の中に設けられた帝が食事を摂る場所。
　突然のことに反応できないでいる内に、女房達ははしたない笑い声を上げて去って行った。

「何ということだ！！」

　先に沈黙を破ったのは三木だった。

「中将様が矮小な雀に生まれ変わられただと！？賤しいなどとあのような者達に罵られる筋合いなどッ！！」

　一しきり大声を張り上げ、悔しさの余り歯を食い縛って地団駄を踏む三木を滝子は遠いことのように見ていた。滝子には女房達の噂話と亡き主人の面影とは到底結びつかず、他人事のようにしか届かなかったのだ。



「あの方が雀に転生なさった？まさか」

　くつりと喉の奥で笑う。
　主ならば、虎や鷹など強い生き物に生まれ変わるだろう。あのように生命力に溢れた雄々しい人が、可愛らしい雀になど、本当に笑い話である。三木は怒ったけれど、主を知る御友人方が聞けば、同様に笑うだろう。

「きっと本人である貴方がお聞きになっても、お笑いになるでしょうね…」

　快活に大口を開けて笑う主の顔が脳裏に過る。
　別れてから随分経つというのに、まるで昨日の出来事のように鮮明に覚えていた。


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