2009,08,25, Tuesday
CP:鉢雷+長次、仙蔵(悪役)
NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝) 悲恋・死ネタ注意
「――佐保姫(さほひめ)、お前が火を掛けたのか」
「はい。屋敷の者には死にたくなければ逃げるようにと伝えてあります」
パチパチとあちこちで火の爆ぜる音が響く。既に煙が立ち込め始めた屋敷の中、誰しもが逃げ惑う状況で主とその妹だけが平然としていた。どういう仕掛けを使ったのか、火の回りが早く逃げるにも逃げきれない。雷は己の頬をあぶる火の熱さを感じながら、兄を真っ直ぐに見詰めていた。
「立花殿はもうお逃げになられたのですか?」
「ああ。――用を言いつけて、外に出しておいた」
「……どこまでも、おひとりで罪を被るおつもりなのですね」
呆れたように優しく笑う妹に、長次は何も言わなかった。ただ彼女に歩み寄り、その頬に手を当てる。己の手許に置いていたよりもずっと美しくなったのは、愛する夫を得たからだろう。長次自身はまさか彼女がここまで帝に寵愛されるとは思っていなかったのだが、妹は幸せだったようだ。あの帝さえもっとしっかりしてくれていたら、と今更考えても詮なきことを思う。
――両親が亡くなった後、何よりも大切に慈しんで育てた妹だった。それこそ目に入れても痛くないほどの思いで彼女と過ごし、最も幸福になれるようにと尽力して後宮にも上げた。けれど、己の行動が彼女を結局不幸にしてしまったことを思えば、兄失格である。
「兄上が、あの方を信じてくださらなかったことが今でも心残りです。
――兄上、あの方は、伊佐知命(いさちのみこと)は確かに傍から見れば少し不安に感じる帝かもしれませんが、私はあの方以上に帝に相応しい方を存じ上げません。他にも皇族は多くいらっしゃいますけれど、あの方以上の方はどこにもいらっしゃらない。あの方へ不安を感じた時に私に仰ってくだされば、いくらでもお話ししましたのに」
「……それでも、挙兵したかもしれない」
「ええ、そうかもしれません。でも、そうしない道を探ることもできたはず」
雷は兄の言葉に遣る瀬無く笑った。それに長次は目を細める。
「――あの時、私がお前に問うた時。……夫が大切だとお前が言っていれば、もしかしたら」
「……私が兄上の前で、兄上が大切ではないと申し上げることができるとお思いですか? 私は伊佐知命に同じことを聞かれても、同じようにあの方が大切だと答えたでしょう。――だって、どちらも選ぶことなどできない。どちらも私にとっては必要な存在なんですから」
長次はその言葉に溜め息を吐いた。同時に妹を抱き寄せる。その小さな頭を抱えて、彼はぼそりと何かを呟いた。けれど、その言葉が終わる前に腹部に振動が走る。長次が妹の身体を離して腹部を見遣ると、そこには己が以前に妹へ渡した小刀が突き立っていた。
「――佐保姫……」
「私たちはここで終わるべきです、兄上。――私は、兄上とあの方が争うのを見たくない。だから、私が兄上を殺します。
兄上が不要というわけでは勿論ありませんが、あの方は、伊佐知命はこの国にとってなくてはならぬ方。故に私たちが消えましょう。佐保の名と共に私もお伴いたします」
「……馬鹿な、娘だ」
「それでも、兄上もおひとりで逝かれるのはお淋しいでしょう?」
崩れ落ちる兄の身体を抱き留めて、雷は小さく囁いた。その瞳からは涙が零れ、長次の頬を濡らす。彼はその頬の涙を動きが鈍くなった手で拭い、ぼそりぼそりと火の勢いに掻き消されそうな調子で呟いた。
「あの男を消すのではなく、私を消すか……けれど、あの男の幸せは願わないのだな」
「――どちらも選べないと申し上げましたでしょう? これは、私があの方にできる数少ない行為のひとつなんです。
あの方には奥方がたくさんいらっしゃいますから、私が居なくても後宮は安心です。あの方の心も、侍従のお二人が守ってくださる。――それに何より、私のお生み申し上げたお子があります。あの子が今後は私の代わりにあの方の支えとなるでしょう。……自己満足ですね。それに、あの方のことをまるで考えてない。
でもね、兄上。私はあの方に自分が必要だと自惚れられるくらいには、あの方に愛されていたんですよ。あの方のお傍に上がれて、本当に幸せでした。兄上、私をあの方と妻合(めあ)わしてくださって、本当に有難うございました」
「……馬鹿だ」
「ええ、馬鹿です。それでもあの方おひとりを選べないのですから。――でも、大切なものはいくらあっても良いでしょう? 私をこんなに我儘に育てたのは兄上、貴方ですよ?」
雷の言葉に長次は笑った。けれど、腹部に感じる痛みにすぐに苦痛へその表情を変える。雷は兄の頭を己の膝にのせながら、焼けて落ちて来る梁や柱の先に見える雄大な山々を眺めた。
「――兄上、私の背の君は、この土地をしっかりと治める素晴らしいお方なんですよ。本質を見誤って、損をしましたね」
「そう……かもな……」
ぱたぱたと妹の涙が頬に落ちるのを感じながら、長次は火に包まれていく己の身体を感じた。不思議と苦痛を感じないのは、多分既に己が死にかけているからだろう。全く無傷のはずの妹はこの火でどれほど苦しむのだろうか、と考えたところで、彼の意識は途絶える。最後まで、彼に膝を貸していた妹が苦痛にのたうち回るような様子がなかったことが、彼にとっての救いだった。
「――離してくれ、雷(らい)! 雷!」
「駄目ですよ、危険です! 今貴方を失うわけにはいかないんですから!」
火に包まれる佐保の屋敷へ飛び込もうとする三郎を侍従二人は必死で押さえ付けた。既に屋敷全体に火が回っており、打ち壊す以外に消化する方法もない。既にあちこちから柱も焼け崩れ、全焼するのも時間の問題である。その中に三郎最愛の妻が居ることはその場に居る全員が分かっていたが、悲痛な叫びを喉から絞り出す主をその心のまま火の中へ飛び込ませるわけにはいかなかった。
結局、その屋敷は一晩燃えた後に鎮火し、その中から今回の騒ぎの首謀者であると思われていた長次の遺体と、その傍でまるで寄り添うように亡くなっている雷の遺体が発見される。長次の遺体には腹部に小刀が突き刺さっており、直接の死因は火に巻かれたことよりもその腹部の傷であるようだと判断された。大して雷の遺体はもがき苦しんだ様子はなく、どうも火に焼かれるよりも早く煙によって亡くなったのではないか、ということである。
三郎は黒焦げとなって顔ももう判別しない雷の遺体へ屈み込み、その頬を撫でる。指に付いた煤に三郎は彼女の死を実感し、彼は外聞もなく嗚咽を漏らした。煤に汚れるのも構わず、三郎は雷の遺体を掻き抱いて泣く。その焼けた頬に頬ずりした時、三郎は彼女はとある櫛を付けていることに気付いた。――それは、以前に三郎が彼女へ贈った櫛で、表面に螺鈿細工が施されている。櫛はもうほとんど原形を留めていなかったが、螺鈿細工は一部焼け残ったようだ。それは三郎が彼女に初めて贈ったもので、贅沢を好まずに他にどんな高価な品を贈ろうともその櫛以上に気に入った品物がないほどに雷が思い入れをしていた品物である。
どんな時も雷はその櫛を肌身離さずに持っていて、黄泉路の装いにそれを選んだことに三郎は尚更涙した。彼女の遺体を見るたびに傍らに横たわった男への憎悪が募る。彼だけは他殺だと聞いて、三郎はいっそ胸がすく思いだった。けれど、その感情も長次の腹部に突き立った小刀を見て霧散する。――それは、彼女は己を殺すために渡された小刀である。その小刀が意味することに気付き、三郎は信じられない気持ちで雷の遺体を見下ろした。
「――君が、やったのか……?」
彼女が最愛の兄を殺すだなんて信じられない。けれど、三郎は何となく彼女の心を理解できた気がした。
(……最後まで、君は人のことばっかりだ。私と兄を案じて、己のことは後回し。私たちは、君の幸せを何よりも望んでいたのに)
『――いつか必ず、私はまた貴方に逢いに行きます。だから、どうか悲しまないで』
風に乗って届いたのは、愛しい女性の囁き声。それに三郎はハッと顔を上げ、澄んだ青空を瞳に移した。そこには空以外何もなかったが、三郎は確かに己の傍へ雷が居たように感じる。最後までお人好しだった彼女を想い、三郎は泣いた。
――後の調査で、長次と共犯関係だったと思われる立花の死体が出て来なかったことが明らかになる。
逃げたのか、それとも焼け過ぎた関係で他の死体と判別がつかなかったのかは分からない。けれど、三郎はその男を追わせはしなかった。それよりもやるべきことが彼にはあり、もし己を本当にこの位から引きずり落としたいと思っているのなら、再び目の前に現れるはずだと思ったからである。
三郎は後に多遅麻毛理(たじまもり)に「非時(ときじく)の香(かく)の木の実」を常世の国に探しに行かせるなど、いずれ生まれてくるはずの雷を待つために己の生命を延ばそうと必死になったが、結局その努力も虚しく、多遅麻毛理が常世の国より戻る前に亡くなったのであった。
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NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝) 悲恋・死ネタ注意
「――佐保姫(さほひめ)、お前が火を掛けたのか」
「はい。屋敷の者には死にたくなければ逃げるようにと伝えてあります」
パチパチとあちこちで火の爆ぜる音が響く。既に煙が立ち込め始めた屋敷の中、誰しもが逃げ惑う状況で主とその妹だけが平然としていた。どういう仕掛けを使ったのか、火の回りが早く逃げるにも逃げきれない。雷は己の頬をあぶる火の熱さを感じながら、兄を真っ直ぐに見詰めていた。
「立花殿はもうお逃げになられたのですか?」
「ああ。――用を言いつけて、外に出しておいた」
「……どこまでも、おひとりで罪を被るおつもりなのですね」
呆れたように優しく笑う妹に、長次は何も言わなかった。ただ彼女に歩み寄り、その頬に手を当てる。己の手許に置いていたよりもずっと美しくなったのは、愛する夫を得たからだろう。長次自身はまさか彼女がここまで帝に寵愛されるとは思っていなかったのだが、妹は幸せだったようだ。あの帝さえもっとしっかりしてくれていたら、と今更考えても詮なきことを思う。
――両親が亡くなった後、何よりも大切に慈しんで育てた妹だった。それこそ目に入れても痛くないほどの思いで彼女と過ごし、最も幸福になれるようにと尽力して後宮にも上げた。けれど、己の行動が彼女を結局不幸にしてしまったことを思えば、兄失格である。
「兄上が、あの方を信じてくださらなかったことが今でも心残りです。
――兄上、あの方は、伊佐知命(いさちのみこと)は確かに傍から見れば少し不安に感じる帝かもしれませんが、私はあの方以上に帝に相応しい方を存じ上げません。他にも皇族は多くいらっしゃいますけれど、あの方以上の方はどこにもいらっしゃらない。あの方へ不安を感じた時に私に仰ってくだされば、いくらでもお話ししましたのに」
「……それでも、挙兵したかもしれない」
「ええ、そうかもしれません。でも、そうしない道を探ることもできたはず」
雷は兄の言葉に遣る瀬無く笑った。それに長次は目を細める。
「――あの時、私がお前に問うた時。……夫が大切だとお前が言っていれば、もしかしたら」
「……私が兄上の前で、兄上が大切ではないと申し上げることができるとお思いですか? 私は伊佐知命に同じことを聞かれても、同じようにあの方が大切だと答えたでしょう。――だって、どちらも選ぶことなどできない。どちらも私にとっては必要な存在なんですから」
長次はその言葉に溜め息を吐いた。同時に妹を抱き寄せる。その小さな頭を抱えて、彼はぼそりと何かを呟いた。けれど、その言葉が終わる前に腹部に振動が走る。長次が妹の身体を離して腹部を見遣ると、そこには己が以前に妹へ渡した小刀が突き立っていた。
「――佐保姫……」
「私たちはここで終わるべきです、兄上。――私は、兄上とあの方が争うのを見たくない。だから、私が兄上を殺します。
兄上が不要というわけでは勿論ありませんが、あの方は、伊佐知命はこの国にとってなくてはならぬ方。故に私たちが消えましょう。佐保の名と共に私もお伴いたします」
「……馬鹿な、娘だ」
「それでも、兄上もおひとりで逝かれるのはお淋しいでしょう?」
崩れ落ちる兄の身体を抱き留めて、雷は小さく囁いた。その瞳からは涙が零れ、長次の頬を濡らす。彼はその頬の涙を動きが鈍くなった手で拭い、ぼそりぼそりと火の勢いに掻き消されそうな調子で呟いた。
「あの男を消すのではなく、私を消すか……けれど、あの男の幸せは願わないのだな」
「――どちらも選べないと申し上げましたでしょう? これは、私があの方にできる数少ない行為のひとつなんです。
あの方には奥方がたくさんいらっしゃいますから、私が居なくても後宮は安心です。あの方の心も、侍従のお二人が守ってくださる。――それに何より、私のお生み申し上げたお子があります。あの子が今後は私の代わりにあの方の支えとなるでしょう。……自己満足ですね。それに、あの方のことをまるで考えてない。
でもね、兄上。私はあの方に自分が必要だと自惚れられるくらいには、あの方に愛されていたんですよ。あの方のお傍に上がれて、本当に幸せでした。兄上、私をあの方と妻合(めあ)わしてくださって、本当に有難うございました」
「……馬鹿だ」
「ええ、馬鹿です。それでもあの方おひとりを選べないのですから。――でも、大切なものはいくらあっても良いでしょう? 私をこんなに我儘に育てたのは兄上、貴方ですよ?」
雷の言葉に長次は笑った。けれど、腹部に感じる痛みにすぐに苦痛へその表情を変える。雷は兄の頭を己の膝にのせながら、焼けて落ちて来る梁や柱の先に見える雄大な山々を眺めた。
「――兄上、私の背の君は、この土地をしっかりと治める素晴らしいお方なんですよ。本質を見誤って、損をしましたね」
「そう……かもな……」
ぱたぱたと妹の涙が頬に落ちるのを感じながら、長次は火に包まれていく己の身体を感じた。不思議と苦痛を感じないのは、多分既に己が死にかけているからだろう。全く無傷のはずの妹はこの火でどれほど苦しむのだろうか、と考えたところで、彼の意識は途絶える。最後まで、彼に膝を貸していた妹が苦痛にのたうち回るような様子がなかったことが、彼にとっての救いだった。
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「――離してくれ、雷(らい)! 雷!」
「駄目ですよ、危険です! 今貴方を失うわけにはいかないんですから!」
火に包まれる佐保の屋敷へ飛び込もうとする三郎を侍従二人は必死で押さえ付けた。既に屋敷全体に火が回っており、打ち壊す以外に消化する方法もない。既にあちこちから柱も焼け崩れ、全焼するのも時間の問題である。その中に三郎最愛の妻が居ることはその場に居る全員が分かっていたが、悲痛な叫びを喉から絞り出す主をその心のまま火の中へ飛び込ませるわけにはいかなかった。
結局、その屋敷は一晩燃えた後に鎮火し、その中から今回の騒ぎの首謀者であると思われていた長次の遺体と、その傍でまるで寄り添うように亡くなっている雷の遺体が発見される。長次の遺体には腹部に小刀が突き刺さっており、直接の死因は火に巻かれたことよりもその腹部の傷であるようだと判断された。大して雷の遺体はもがき苦しんだ様子はなく、どうも火に焼かれるよりも早く煙によって亡くなったのではないか、ということである。
三郎は黒焦げとなって顔ももう判別しない雷の遺体へ屈み込み、その頬を撫でる。指に付いた煤に三郎は彼女の死を実感し、彼は外聞もなく嗚咽を漏らした。煤に汚れるのも構わず、三郎は雷の遺体を掻き抱いて泣く。その焼けた頬に頬ずりした時、三郎は彼女はとある櫛を付けていることに気付いた。――それは、以前に三郎が彼女へ贈った櫛で、表面に螺鈿細工が施されている。櫛はもうほとんど原形を留めていなかったが、螺鈿細工は一部焼け残ったようだ。それは三郎が彼女に初めて贈ったもので、贅沢を好まずに他にどんな高価な品を贈ろうともその櫛以上に気に入った品物がないほどに雷が思い入れをしていた品物である。
どんな時も雷はその櫛を肌身離さずに持っていて、黄泉路の装いにそれを選んだことに三郎は尚更涙した。彼女の遺体を見るたびに傍らに横たわった男への憎悪が募る。彼だけは他殺だと聞いて、三郎はいっそ胸がすく思いだった。けれど、その感情も長次の腹部に突き立った小刀を見て霧散する。――それは、彼女は己を殺すために渡された小刀である。その小刀が意味することに気付き、三郎は信じられない気持ちで雷の遺体を見下ろした。
「――君が、やったのか……?」
彼女が最愛の兄を殺すだなんて信じられない。けれど、三郎は何となく彼女の心を理解できた気がした。
(……最後まで、君は人のことばっかりだ。私と兄を案じて、己のことは後回し。私たちは、君の幸せを何よりも望んでいたのに)
『――いつか必ず、私はまた貴方に逢いに行きます。だから、どうか悲しまないで』
風に乗って届いたのは、愛しい女性の囁き声。それに三郎はハッと顔を上げ、澄んだ青空を瞳に移した。そこには空以外何もなかったが、三郎は確かに己の傍へ雷が居たように感じる。最後までお人好しだった彼女を想い、三郎は泣いた。
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――後の調査で、長次と共犯関係だったと思われる立花の死体が出て来なかったことが明らかになる。
逃げたのか、それとも焼け過ぎた関係で他の死体と判別がつかなかったのかは分からない。けれど、三郎はその男を追わせはしなかった。それよりもやるべきことが彼にはあり、もし己を本当にこの位から引きずり落としたいと思っているのなら、再び目の前に現れるはずだと思ったからである。
三郎は後に多遅麻毛理(たじまもり)に「非時(ときじく)の香(かく)の木の実」を常世の国に探しに行かせるなど、いずれ生まれてくるはずの雷を待つために己の生命を延ばそうと必死になったが、結局その努力も虚しく、多遅麻毛理が常世の国より戻る前に亡くなったのであった。
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