2009,08,25, Tuesday
CP:鉢雷+長次、仙蔵(悪役)
NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝) 悲恋・死ネタ注意
「ね、久作、きり丸、怪士丸」
「何でしょう、皇后さま」
自分の用足しにつけられた三人の子どもたち――彼女が気位の高い侍女を好まないことを知る長次による計らいだとは容易に知れた――を呼び寄せた雷(らい)は、自分に心から仕えてくれる彼らを傍に寄せながらにっこり笑った。その腕の中にはまだ生まれて間もない赤子が気持ち良さそうに眠っており、雷はその穏やかな寝顔を見下ろしながら幼子たちに囁いた。
「お使いを、頼まれてくれない?」
「良いですよ、どんな御用で?」
雷の言葉に素早く反応したのはきり丸で、彼は何かしらご褒美の出る雷の用足しを一番快く引き受けてくれる子どもだった。雷はそんな彼に己の赤子を手渡し、人が寝静まった後にこっそりと月明かりで書いた文を赤子の懐に納めながら続けた。
「――この子をね、私の背の君へ届けて欲しいの」
「皇后さま、それは……!」
「しいっ、声が高い。――君たちを見込んでのお願いなんだ。
……君たちももう気付いているはずだよ。この屋敷はもうすぐ落ちる。私の存在がいくらあったって、元々戦うために造られてなんかいない我が家がどれだけ保つだろう。立花殿の才能と人脈を以てしても、この国最大の権力者であり兵力の持ち主である帝と兵力で渡り合うのは無理だ。
もう私がこの屋敷に来て三月。当然、朝廷では私の存在など無視して謀叛を収めようという声を大きくなって来ているはずだ。いくら私が帝の寵妃であったとしても、帝がその声を抑えるには限界がある。もう時間はない。――だから、この屋敷もかなり騒がしくなってきたし、一時期に比べて人も減ったでしょう? 沈みかけた泥船に乗っていたくないのは誰だって一緒だものね」
我が子を穏やかな瞳で見詰めながら、雷は辛辣に状況を述べた。それは彼ら三人が見ないように目を逸らしていた事態そのものを明るみに引きだすような行為であり、三人は一様に不安げな表情を見せる。それに雷はにこりと穏やかな笑みを彼らにも向け、ゆっくりと続けた。
「この子は例え謀叛人の妹から生まれようとも、日嗣皇子になるかもしれない子ども。その尊い血筋を受けた子どもを、この国の民として、臣として私は殺すわけにはいかない。けれど、私はご覧の通りの状態で決して遠出はできないんだ。それで、君たちにお願いしたいの。
大丈夫、大人なら危ないけれど、子どもならそんなに怪しまれないはず。特にきり丸はよく大きな籠を背負ってこの屋敷から出て行くでしょう? その籠に隠していけば、きっと大丈夫。――この屋敷の人間であり、兄を敬愛している君たちには酷なことをお願いしているのは分かっている。けれど、お願い。私と、そして生まれたばかりのこの子を哀れに思うのならば、どうか私たちを助けて欲しいんだ」
雷は三人の子どもをそれぞれ見詰めて、まだ本調子でない身体を必死に屈めて拝み倒す。そこには皇后としての佐保姫(さほひめ)ではなく、たったひとりの我が子を案じる母の姿があった。
「――仕方ないですねえ、金(きん)で手を打ちましょう」
「きり丸!?」
「こっちは命も危ない橋を渡るんだぜ? それなりの報酬は頂かなくっちゃ、割に合わねえぜ」
きり丸の言葉にいきり立ったのは久作だが、雷はそれが彼なりの快諾だと知っていた。――自分が汚い真似をしたという確信もある。親を村同士のとある争いで亡くし、長次に縁あって引き取られたきり丸にとって、母親や子どもという存在は心の柔らかい部分に触れるものだ。その弱みをやんわりと突いて、彼女は己の願いを押し通したのだ。
それをきり丸も気付いているのだろう。けれど、気付かぬ振りで雷の願いを聞いてくれた。そんな彼を雷は我が子ごと抱き締め、ゆっくりとその頭を撫でる。その様子に感化されたのか、怪士丸も協力することを申し出る。そうなれば彼らの兄貴分と自負している久作が彼らを放っておけるはずもない、結局三人揃って雷の企みを叶えてくれることになった。
「――じゃあ、俺たちは食料取りに行くってことで外に出ます。その籠に若君を入れて、そのまま何とか帝の息のかかった場所へ逃げ込みますから」
「うん、それで十分。いきなり帝と言って通じないようなら、竹谷殿か久々知殿の名前を出すと良い。宮から離れられない帝と違って、あの二人はあちこち奔走してくださっているはずだから」
「分かりました。――その、皇后さまも無茶、しないでくださいね」
大きな籠を取って戻ってきたきり丸は、そこに柔らかな布をたくさん詰めてから赤子をそっと入れた。状況を分かっているのかいないのか、彼は声を上げることもなく穏やかに眠っている。雷は三郎が己に似合うと言ってくれた髪飾りをそっと一緒に入れ、柔らかな頬を指でなぞった。
「三人とも気を付けて。君たちこそ、どうか無茶をしないでね」
「分かってます。若君を危険にさらすような真似はしません」
「違うよ、君たちも。――図々しいかも知れないけど、この二月で私は君たちのことを弟みたいに思っていたんだよ。だから、可愛い弟たちが危ない目に遭うのは嫌なんだ。……危ない目に遭うようなお願いをしたのは私だから、矛盾しているけれど。もし捕まるようならば、無理をしなくていい。その子が日嗣皇子になる可能性がある限り、彼らにとっては生かしておきたい存在であるはず。その時はそういう定めだったのだと諦めて、戻って来ておくれね」
表情を引き締めた三人の子どもを雷はそれぞれ抱き締め、囁いた。情の深い雷にとって、近しい人間はどれも皆大切な存在なのだ。それが失われるというのは、とても悲しいことである。けれど、それと同時に彼らを失うかもしれないことになっても、己が愛しく思う存在への無理を通そうとする己の浅ましさに雷は嫌悪を覚えた。
三人は雷の対を後にし、いつも通りに籠を抱えて屋敷の門を出ようとする。けれど、偶然そこを通りがかった立花に見咎められ、足止めを食らった。早々に捕まった、と顔を青くする三人に立花は更に不審を覚え、彼らの抱えている籠を改めようとする。けれど、その時に彼らを救ったのは他でもない長次だった。
「――俺が頼んだ。雷に精の付くものを食べさせたいからな」
「…………分かった。良いだろう、しっかり探してくるんだぞ」
「はーい!」
長次は彼らの肩を軽く抱きながら、実のない命を口にする。それに三人は驚いて長次を見上げたが、彼は三人を見ることもなく彼らを門の外へ追いやった。さすがに屋敷の主である長次に表立って反論するのは立花も難しく、渋々彼らを見送る。苦々しげに長次を見遣った立花は、足早に遠ざかる子どもたちの背中を睨み付けて囁いた。
「――どういうつもりだ?」
「お前とて、もう分かっているだろう。……私はもう逃げられないが、あの子たちを一緒に黄泉国へ連れて行くことはあるまい」
「妹御も逃がす気か?」
「……もし本当に逃げたいと思っているのならば、あの娘はとうに逃げていた」
その言葉に立花は訳が分からない、と眉をひそめた。けれど彼はそれ以上何も言わず、ただ目を細めてそこから見える山の稜線を眺めた。
「伊佐知命!」
「竹谷、久々知……本当か、その、私の子が戻ってきたと言うのは? それで、我が妃――佐保姫は?」
知らせを聞いて公務も放り投げ飛んできた三郎に、腹心の二人は何も言わずに小さな子どもたちを押し出す。三人の子どもは不安げに久々知や竹谷を見上げたが、彼らはそれぞれ頷くことで彼らに意思を伝える。それに赤子を抱いていたきり丸が一歩前に出て、三郎を見上げて言った。
「貴方が帝でいらっしゃいますか?」
「そうだ。伊佐知命という。――君は?」
「摂津のきり丸です。佐保姫様に頼まれて、若君をお届けしました。若君の懐に佐保姫様からのお文が入っております」
三郎はきり丸からひったくるように子どもを引き取り、その懐から文を取り出す。その衝撃に今まで大人しく寝入っていた赤子が泣き出したが、三郎はその子をあやすことも忘れて雷からの文を食い入るように読んでいた。仕方なく竹谷がそっと三郎の手から赤子を引き取り、ぎこちない手付きであやす。久々知は次第に文を握る手に力を込める三郎の様子を眺めながら、不安げに己を見上げる子どもたちの頭を軽く撫でた。
「……嘘だ、雷どうして……」
「その、伊佐知命、どうなさいました?」
人前では一切口にしなかった妻の忌み名を零す三郎に、赤子を抱えたままの竹谷が問いかける。それに三郎は彼の方へ視線も向けぬまま、吐息のような声で呟いた。
「雷はもう、私の許へ戻ってこないつもりだ」
「え!?」
それに反応したのは竹谷だけで、久々知と三人の子どもはやはりか、と表情を曇らせる。特に直前の雷を間近に見ていた子どもたちは、優しげな彼女の笑みの裏に透けて見えた決意を知っていた。けれども一緒に逃げようとも言えず、彼らはただ赤子を籠に入れてこの場所へやって来たのだった。
「――伊佐知命、ご命令を。貴方だってお分かりだろう、これ以上他の臣を抑えるのは無理だ。若君もこちらへ戻ってきた以上は、尚更。
皇后もそれをお分かりの上で、こちらへ若君をお届けになったはずだ。後は貴方の命令ひとつ。…………酷かもしれないが、貴方は皇(すめらぎ)なんだ。たったひとりの女性を助けるために、貴方が潰される気か?」
「久々知、それは……!」
「竹谷、良い。久々知が正しい」
思わず咎めた竹谷を制したのは、他でもない三郎だった。彼は握りしめていた文を丁寧に伸ばしてから懐へしまうと、竹谷の腕の中に居る赤子を覗き込んだ。先程泣いてからまだ眠っていないようで、黒曜石のような瞳で三郎を見返している。その無垢な瞳に雷の面影を見た気がして、三郎は面の奥で目を細めた。
「――本牟智和気(ほむちわけ)と言うのだそうだ。佐保姫が名前だけ考えてくれた」
「本牟智和気の御子、ですか」
三郎はその子どもの頬へゆっくりと指を這わせ、柔らかく手触りの良い肌をくすぐる。それに本牟智和気はご機嫌になったようで、きゃらきゃらと笑みを浮かべた。母が居ない場所でも泣くことはなく、そこに彼が母から受け継いだ強さの一端を三郎は見る。どうかこの子だけは無事に育って欲しいと三郎は心から祈った。
同時にちらりと子ども三人を見遣る。――雷は彼ら三人を手厚く保護して欲しい、と書いていたが、彼ら三人を送り返せば雷を取り戻すための取っ掛かりになるかもしれない。彼らに何やかやと理由を付けてひとりふたり送り込めないか、と思案し始めた瞬間に、ひとりの男が部屋へ飛び込んできた。
「大変です、佐保の屋敷から火が……!」
「何だって!?」
その知らせを聞いた瞬間、三郎は全てを理解してしまった。――雷は、全てを自分たちで終わらせる気なのだ、と。
面の奥で血を引かせた三郎は全てをかなぐり捨てて、愛しい妻の居る場所へと駆け出した。三郎を危険に晒すまいと侍従二人が引き留める声を上げるが、三郎はその全てを無視して佐保の屋敷へと馬で駆け付けたのだった。
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NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝) 悲恋・死ネタ注意
「ね、久作、きり丸、怪士丸」
「何でしょう、皇后さま」
自分の用足しにつけられた三人の子どもたち――彼女が気位の高い侍女を好まないことを知る長次による計らいだとは容易に知れた――を呼び寄せた雷(らい)は、自分に心から仕えてくれる彼らを傍に寄せながらにっこり笑った。その腕の中にはまだ生まれて間もない赤子が気持ち良さそうに眠っており、雷はその穏やかな寝顔を見下ろしながら幼子たちに囁いた。
「お使いを、頼まれてくれない?」
「良いですよ、どんな御用で?」
雷の言葉に素早く反応したのはきり丸で、彼は何かしらご褒美の出る雷の用足しを一番快く引き受けてくれる子どもだった。雷はそんな彼に己の赤子を手渡し、人が寝静まった後にこっそりと月明かりで書いた文を赤子の懐に納めながら続けた。
「――この子をね、私の背の君へ届けて欲しいの」
「皇后さま、それは……!」
「しいっ、声が高い。――君たちを見込んでのお願いなんだ。
……君たちももう気付いているはずだよ。この屋敷はもうすぐ落ちる。私の存在がいくらあったって、元々戦うために造られてなんかいない我が家がどれだけ保つだろう。立花殿の才能と人脈を以てしても、この国最大の権力者であり兵力の持ち主である帝と兵力で渡り合うのは無理だ。
もう私がこの屋敷に来て三月。当然、朝廷では私の存在など無視して謀叛を収めようという声を大きくなって来ているはずだ。いくら私が帝の寵妃であったとしても、帝がその声を抑えるには限界がある。もう時間はない。――だから、この屋敷もかなり騒がしくなってきたし、一時期に比べて人も減ったでしょう? 沈みかけた泥船に乗っていたくないのは誰だって一緒だものね」
我が子を穏やかな瞳で見詰めながら、雷は辛辣に状況を述べた。それは彼ら三人が見ないように目を逸らしていた事態そのものを明るみに引きだすような行為であり、三人は一様に不安げな表情を見せる。それに雷はにこりと穏やかな笑みを彼らにも向け、ゆっくりと続けた。
「この子は例え謀叛人の妹から生まれようとも、日嗣皇子になるかもしれない子ども。その尊い血筋を受けた子どもを、この国の民として、臣として私は殺すわけにはいかない。けれど、私はご覧の通りの状態で決して遠出はできないんだ。それで、君たちにお願いしたいの。
大丈夫、大人なら危ないけれど、子どもならそんなに怪しまれないはず。特にきり丸はよく大きな籠を背負ってこの屋敷から出て行くでしょう? その籠に隠していけば、きっと大丈夫。――この屋敷の人間であり、兄を敬愛している君たちには酷なことをお願いしているのは分かっている。けれど、お願い。私と、そして生まれたばかりのこの子を哀れに思うのならば、どうか私たちを助けて欲しいんだ」
雷は三人の子どもをそれぞれ見詰めて、まだ本調子でない身体を必死に屈めて拝み倒す。そこには皇后としての佐保姫(さほひめ)ではなく、たったひとりの我が子を案じる母の姿があった。
「――仕方ないですねえ、金(きん)で手を打ちましょう」
「きり丸!?」
「こっちは命も危ない橋を渡るんだぜ? それなりの報酬は頂かなくっちゃ、割に合わねえぜ」
きり丸の言葉にいきり立ったのは久作だが、雷はそれが彼なりの快諾だと知っていた。――自分が汚い真似をしたという確信もある。親を村同士のとある争いで亡くし、長次に縁あって引き取られたきり丸にとって、母親や子どもという存在は心の柔らかい部分に触れるものだ。その弱みをやんわりと突いて、彼女は己の願いを押し通したのだ。
それをきり丸も気付いているのだろう。けれど、気付かぬ振りで雷の願いを聞いてくれた。そんな彼を雷は我が子ごと抱き締め、ゆっくりとその頭を撫でる。その様子に感化されたのか、怪士丸も協力することを申し出る。そうなれば彼らの兄貴分と自負している久作が彼らを放っておけるはずもない、結局三人揃って雷の企みを叶えてくれることになった。
「――じゃあ、俺たちは食料取りに行くってことで外に出ます。その籠に若君を入れて、そのまま何とか帝の息のかかった場所へ逃げ込みますから」
「うん、それで十分。いきなり帝と言って通じないようなら、竹谷殿か久々知殿の名前を出すと良い。宮から離れられない帝と違って、あの二人はあちこち奔走してくださっているはずだから」
「分かりました。――その、皇后さまも無茶、しないでくださいね」
大きな籠を取って戻ってきたきり丸は、そこに柔らかな布をたくさん詰めてから赤子をそっと入れた。状況を分かっているのかいないのか、彼は声を上げることもなく穏やかに眠っている。雷は三郎が己に似合うと言ってくれた髪飾りをそっと一緒に入れ、柔らかな頬を指でなぞった。
「三人とも気を付けて。君たちこそ、どうか無茶をしないでね」
「分かってます。若君を危険にさらすような真似はしません」
「違うよ、君たちも。――図々しいかも知れないけど、この二月で私は君たちのことを弟みたいに思っていたんだよ。だから、可愛い弟たちが危ない目に遭うのは嫌なんだ。……危ない目に遭うようなお願いをしたのは私だから、矛盾しているけれど。もし捕まるようならば、無理をしなくていい。その子が日嗣皇子になる可能性がある限り、彼らにとっては生かしておきたい存在であるはず。その時はそういう定めだったのだと諦めて、戻って来ておくれね」
表情を引き締めた三人の子どもを雷はそれぞれ抱き締め、囁いた。情の深い雷にとって、近しい人間はどれも皆大切な存在なのだ。それが失われるというのは、とても悲しいことである。けれど、それと同時に彼らを失うかもしれないことになっても、己が愛しく思う存在への無理を通そうとする己の浅ましさに雷は嫌悪を覚えた。
三人は雷の対を後にし、いつも通りに籠を抱えて屋敷の門を出ようとする。けれど、偶然そこを通りがかった立花に見咎められ、足止めを食らった。早々に捕まった、と顔を青くする三人に立花は更に不審を覚え、彼らの抱えている籠を改めようとする。けれど、その時に彼らを救ったのは他でもない長次だった。
「――俺が頼んだ。雷に精の付くものを食べさせたいからな」
「…………分かった。良いだろう、しっかり探してくるんだぞ」
「はーい!」
長次は彼らの肩を軽く抱きながら、実のない命を口にする。それに三人は驚いて長次を見上げたが、彼は三人を見ることもなく彼らを門の外へ追いやった。さすがに屋敷の主である長次に表立って反論するのは立花も難しく、渋々彼らを見送る。苦々しげに長次を見遣った立花は、足早に遠ざかる子どもたちの背中を睨み付けて囁いた。
「――どういうつもりだ?」
「お前とて、もう分かっているだろう。……私はもう逃げられないが、あの子たちを一緒に黄泉国へ連れて行くことはあるまい」
「妹御も逃がす気か?」
「……もし本当に逃げたいと思っているのならば、あの娘はとうに逃げていた」
その言葉に立花は訳が分からない、と眉をひそめた。けれど彼はそれ以上何も言わず、ただ目を細めてそこから見える山の稜線を眺めた。
* * *
「伊佐知命!」
「竹谷、久々知……本当か、その、私の子が戻ってきたと言うのは? それで、我が妃――佐保姫は?」
知らせを聞いて公務も放り投げ飛んできた三郎に、腹心の二人は何も言わずに小さな子どもたちを押し出す。三人の子どもは不安げに久々知や竹谷を見上げたが、彼らはそれぞれ頷くことで彼らに意思を伝える。それに赤子を抱いていたきり丸が一歩前に出て、三郎を見上げて言った。
「貴方が帝でいらっしゃいますか?」
「そうだ。伊佐知命という。――君は?」
「摂津のきり丸です。佐保姫様に頼まれて、若君をお届けしました。若君の懐に佐保姫様からのお文が入っております」
三郎はきり丸からひったくるように子どもを引き取り、その懐から文を取り出す。その衝撃に今まで大人しく寝入っていた赤子が泣き出したが、三郎はその子をあやすことも忘れて雷からの文を食い入るように読んでいた。仕方なく竹谷がそっと三郎の手から赤子を引き取り、ぎこちない手付きであやす。久々知は次第に文を握る手に力を込める三郎の様子を眺めながら、不安げに己を見上げる子どもたちの頭を軽く撫でた。
「……嘘だ、雷どうして……」
「その、伊佐知命、どうなさいました?」
人前では一切口にしなかった妻の忌み名を零す三郎に、赤子を抱えたままの竹谷が問いかける。それに三郎は彼の方へ視線も向けぬまま、吐息のような声で呟いた。
「雷はもう、私の許へ戻ってこないつもりだ」
「え!?」
それに反応したのは竹谷だけで、久々知と三人の子どもはやはりか、と表情を曇らせる。特に直前の雷を間近に見ていた子どもたちは、優しげな彼女の笑みの裏に透けて見えた決意を知っていた。けれども一緒に逃げようとも言えず、彼らはただ赤子を籠に入れてこの場所へやって来たのだった。
「――伊佐知命、ご命令を。貴方だってお分かりだろう、これ以上他の臣を抑えるのは無理だ。若君もこちらへ戻ってきた以上は、尚更。
皇后もそれをお分かりの上で、こちらへ若君をお届けになったはずだ。後は貴方の命令ひとつ。…………酷かもしれないが、貴方は皇(すめらぎ)なんだ。たったひとりの女性を助けるために、貴方が潰される気か?」
「久々知、それは……!」
「竹谷、良い。久々知が正しい」
思わず咎めた竹谷を制したのは、他でもない三郎だった。彼は握りしめていた文を丁寧に伸ばしてから懐へしまうと、竹谷の腕の中に居る赤子を覗き込んだ。先程泣いてからまだ眠っていないようで、黒曜石のような瞳で三郎を見返している。その無垢な瞳に雷の面影を見た気がして、三郎は面の奥で目を細めた。
「――本牟智和気(ほむちわけ)と言うのだそうだ。佐保姫が名前だけ考えてくれた」
「本牟智和気の御子、ですか」
三郎はその子どもの頬へゆっくりと指を這わせ、柔らかく手触りの良い肌をくすぐる。それに本牟智和気はご機嫌になったようで、きゃらきゃらと笑みを浮かべた。母が居ない場所でも泣くことはなく、そこに彼が母から受け継いだ強さの一端を三郎は見る。どうかこの子だけは無事に育って欲しいと三郎は心から祈った。
同時にちらりと子ども三人を見遣る。――雷は彼ら三人を手厚く保護して欲しい、と書いていたが、彼ら三人を送り返せば雷を取り戻すための取っ掛かりになるかもしれない。彼らに何やかやと理由を付けてひとりふたり送り込めないか、と思案し始めた瞬間に、ひとりの男が部屋へ飛び込んできた。
「大変です、佐保の屋敷から火が……!」
「何だって!?」
その知らせを聞いた瞬間、三郎は全てを理解してしまった。――雷は、全てを自分たちで終わらせる気なのだ、と。
面の奥で血を引かせた三郎は全てをかなぐり捨てて、愛しい妻の居る場所へと駆け出した。三郎を危険に晒すまいと侍従二人が引き留める声を上げるが、三郎はその全てを無視して佐保の屋敷へと馬で駆け付けたのだった。
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