佐保の炎 二
 CP:鉢雷+長次、仙蔵(悪役)
 NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝)  悲恋・死ネタ注意





 それから更に四月が過ぎた。雷(らい)はあの時既に身ごもっていたらしく、その腹は大きく膨れている。三郎は日を増すごとに丸みを帯びていく彼女の腹を慈しみ、何かあってはいけないからと後宮から一歩も出さぬ日々を繰り返した。情報も遮断された小さな箱庭で過ごす雷に、当然ながら外の生臭い話など届かない。三郎は己の妻が日ごと膨らんだ腹を優しく撫でる様子を眺めながら、いかに彼女へ知られずにこの事態を収めるかについて考えていた。
 雷は事を収めるために兄へ文を出し、その返事を三郎が受け取って二人は和解した。――という風に彼女へは伝えているものの、実際には文を遣ろうが人を遣ろうが彼らからは梨の礫で、三郎は彼らが既に意思を固めていることを知る。その時点で雷を気付かれぬように軟禁し、外から遮断することを選んだ。身重であろうと彼女は自分のために、また愛しい兄のために駆けるだろうと知っていたので。
 ――けれど、その思惑は破綻する。

「……雷が、消えただと!?」
「お手水(ちょうず)を片付けるためにおひとりにした少しの時間で、抜け出されたようです……! 今、必死にお探し申し上げておりますが……!」
「馬鹿者! 佐保姫は身重なのだぞ! あれの身に何かあったら……!」
 三郎は己に報告した人間に思わず怒鳴り付けていた。三郎は天皇であるが故に妻も多いが、未だ子はない。愛情が比例したのか、唯一子を孕んだのが雷で、彼女に宿った子どもは日嗣皇子(ひつぎのみこ)と目されている。政治的にも、また感情の上でも三郎は雷と子どもを失うわけにはいかなかった。
「――とにかく、一刻も早く捕まえるんだ!」
「伊佐知命(いさちのみこと)、すぐに人を遣りましょう」
「そんなこと言っても、皇后がどちらに行かれたのか……」
「馬鹿、そんなの決まってる! ――兄の許へ行ったのだろう、説得するために……」
 三郎は吐き捨ててから苦々しく呟いた。自分の腹心である久々知と竹谷に彼女の捜索を手配させると、三郎は己こそ彼女の許へ駆けて行きたいのをぐっと堪えて執務を行うために踵を返す。――こんな思いをするのなら、いっそ位など誰かにくれてやれば良かったと思う。三郎は妻とその腹に宿った子どもを己の手で守ることすらできない自分に吐き気がするほどの嫌悪感を覚えていた。
「……くそっ!」
 堪らずに壁を拳で打っても、己が自由にならぬ身であることに変わりはない。三郎は歪んだ表情を面の奥に隠したまま、己の裁決を待つ臣の許へ戻るしかないのだった。

* * *


「――兄上、佐保姫(さほひめ)にございます! どちらにいらっしゃるのですか!?」
「まさか……貴女が自らおいでになるとは、思いもしませんでしたよ」
「! ……立花殿」
 久々に実家へ戻った雷を待っていたのは、兄ではなく彼を唆した立花という男。彼女は涼しげな笑みを自分に向けて浮かべる男を睨み据えながら、勢い良く口を開いた。
「兄はいずこに?」
「奥の対に。……しかし、その身体で無茶をなさる。貴方の夫はさぞかし動揺しているでしょうね。もうここまで来たら和解など無理なことは理解できるでしょうに」
 雷は立花の言葉に唇を噛んだ。――三郎が、身重の己を案じて嘘を吐いたのは理解している。それでも、兄と夫が争うのだけは見たくなかった。何より、謀叛人となった兄を持つ皇后では、日嗣皇子を生むに相応しくない。それ故に雷は無理を押してきたのだ。
「――おどきください。私は兄と会わなければ」
「お会いになっても無駄だと思いますがね」
 冷やかに落とされた立花の呟きに雷は先程よりも強く唇を噛み締め、彼の傍を通り抜けた。勝手知ったる己の家だ、兄が居る場所などすぐに分かる。戦の準備を始めているらしい家人たちに驚きの目で眺められながら、雷はただひたすら兄の許へ駆けた。

「――兄上!」
「…………何故、戻った」
 物静かで学問を好んだ兄が武装している姿に雷は衝撃を受けてよろめいた。咄嗟に傍にあった柱に縋りつくも、その衝撃は変わらない。己を慈しみ、優しく導いてくれた兄はもうどこにもいないのだと、それだけで理解できた。けれど、雷は諦めきれずにその対へ一歩足を踏み入れる。愛する人の子を宿した腹が重く、雷は覚束ない足取りで兄の傍へと歩み寄った。しかし、よろめいた拍子に裾を踏み付け、思わず転びかける。そこをすかさず長次が抱き留めて助け、雷は昔と変わらぬ兄の温もりと優しさにただ涙した。
「兄上……どうして、どうして……!」
「これが定めというものなんだろう。どうして戻った、佐保姫。――もう後戻りできないことなど、分かり切ったことだろう」
「さ――伊佐知命にこんな状態になっていると分からないようにされておりました。――もっと早く分かっていたなら、いくらでも兄上の許へやって来てお話しできたのに……!」
 泣き崩れる雷に長次は彼女の頭を撫でた。
「……その判断は、正しい。お前は日嗣皇子を宿す大事な身体だ。危険にさらすわけにはいくまい。佐保姫、もう帰れ。お前はここに居てはいけない」
「――そうはいかない。佐保彦、妹君にはしばらくご滞在願おう」
「何を考えている」
「さあ」
 突然現れた立花に長次は剣呑な声を上げた。小さくぼそぼそとした声であるが、その調子は低く刺々しい。妹を守るように肩を抱き、長次はしばし立花と睨み合う。けれど、彼の言う意味もまた理解していた長次は、ただ溜め息を吐いて妹を昔彼女が使っていた対へと連れて行ったのだった。

* * *


「――今度はこちらで籠の鳥、ってわけだね。全く、呆れるほど馬鹿だった」
 雷は小さく溜め息を吐きながら呟いた。
 この邸に来て既に二月、勿論一度たりとも屋敷の外に出してもらえた例がない。感情に任せて兄の許へ来てしまったが、戻れないとあっては今度は夫が気に掛かる。自分が居なくても公務などは全く問題なかろうが、それでも面の奥に秘められた彼の心が心配だった。
「……私のこと、心配しているのだろうなあ」
 雷は大きくなった腹をさすりながら、小さく溜め息を吐いた。三郎のために、兄のために駆けたのに、結果はこの様だ。本来ならばもっと早く決着がつくはずの内乱を、雷という存在が引き延ばしている。三郎側は雷と子どもの安全を考えれば迂闊に攻撃を仕掛けることもできないが、長次の側は逆に雷の存在で相手を牽制して準備を着々と進めているのだ。帝を一番傍で支えるはずの皇后でありながら、呆れるほど足手まといである。
(――逢いたい)
 ちゃんと食事はしているだろうか、夜はきちんと寝ているだろうか、そんなことばかりが頭に浮かぶ。傍に腹心の二人がついているのならば安心だろうが、雷以外の妃とは心通わせているとは言い難い三郎なので、公務を終えた後の暮らしが心配だった。雷が居なくなっても彼はきっと生き続けるだろう。責任の重さを一番よく知っているのは、実は奔放に暮らしていると思われている三郎だ。けれど、その生活が自暴自棄になりそうで、雷はひどく怖かった。
(きっともう、私は三郎様とは逢えないだろう)
 この状況ではおめおめと皇后に戻ることもできるわけがない。第一、兄が謀叛人となれば当然一番親(ちか)い雷も罰を免れることはできないだろう。皇后だから、王に寵愛を受けた人間だから、その理由で罰せずに居れば律が乱れる。三郎がどんなに雷を助けたいと願っても、彼が天皇(すめらみこと)である限り、彼はその選択肢を取ることはできないのだ。
(……せめて、文だけでも届けられたら……)
 憂いて溜め息を吐いた時、腹部に異変が走った。――全く感じたことのない感覚なのに、何故か分かる。これが本能というものなのかもしれない、と雷は場違いに考えた。
「生まれる……!」
 雷は傍に控えていた女性に小さく囁いた。お腹を押さえて呻けば慌てて数人が駆け寄ってくる。彼女の用足しに兄が付けた子ども二人もそんな雷の様子に驚いて駆け寄り、男子であるが故に追い払われていた。雷は急に襲ってきた痛みに耐えながらも、愛しい男性の顔を思い浮かべる。そして、この子をいかにして彼の手に委ねるか、空転する頭で必死に考えていた。

 大きな産声が響き渡ったのはそれから数時間後。比較的安産で雷は初産を終えた。血を拭われて産声を上げる子どもに雷は慈愛に満ちた笑みを向けながら、身体のだるさと痛みに耐えつつ今後のことを考える。以前から考えていた企みと、痛みと痛みの狭間で何とか思い付いた試みを頭の中で繋ぎ合わせながら、雷はある決意を固めて泣く子に乳を含ませた。――愛しいこの子を手放すのは辛いが、ここに置いていても将来はない。ならば、一か八かの賭けに出るべきだ。普段は迷いに迷う雷であるが、この時ばかりはすぐさまに決断を下して良い時機を待った。
 ――そして、その時は訪れる。


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| 緋緒 | 22:32 | comments (x) | trackback (x) |

  
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