2009,08,25, Tuesday
CP:鉢雷+長次、仙蔵(悪役)
NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝) 悲恋・死ネタ注意
「……今、何と仰いました?」
佐保姫(さほひめ)の雷(らい)と呼ばれる少女は目の前で目を伏せる兄へと問い返した。今、絶対に聞いてはならない言葉を聞いた気がして、彼女は小さく呼吸を繰り返す。それに彼女の実兄である佐保彦(さほびこ)の長次は相変わらずの小さな声で――けれどはっきりと繰り返した。
「この小刀で、天皇(すめらみこと)を殺して欲しい。――お前は以前に問うた時、答えたな。夫のあの男よりも、兄の私の方が大切だと。本当に大切だと思うのなら、兄に力を貸して欲しい」
雷は長次の言葉に呼吸もできなくなる。喘ぐように呼吸を繰り返した後、彼女は涙を大きな目にいっぱい溜めて吐き捨てるように怒鳴り返した。
「できるわけがないでしょう! 何を考えていらっしゃるのです、兄上! どうか目をお覚ましになってください! それは……それは大変なことですよ!」
「ああ。――だが、それが国のためだ。
雷、お前とて知っているだろう。あの男が余り帝には向いていないことが。あれは余りにも国を支えるに危うい。何もしでかしていない今のうちに弑して、この国の安定を図らねば」
雷は兄の言葉が理解できずに泣きながらただ首を強く振った。――いつの間に、兄はこんなに短絡的で暴力的な人間になってしまったのだろう! 雷は衣裳の胸元を掴んで兄にただひたすら首を振った。
「いや、嫌です、兄上! 私にそんなことはできません!」
「――では兄を売るか、佐保姫? それができると言うのなら」
悲鳴染みた声を上げる雷に掛けられたのは、全く別の男の声。驚いて身を引く雷に、兄の後ろから姿を現したひとりの男は口の端を引いて笑った。
「あ、貴方は……!?」
「姫――いや、皇后。貴方の兄の友人、とでも申し上げましょうか」
男は立花と名乗り、静かに雷を見詰める兄の隣りへ佇んだ。その容姿は美しく、雷も背の君を知らなければ見惚れていたかもしれない。しかし、今この状況では見惚れるよりも警戒する気持ちの方が強く、彼女は突然現れた男を雷は強く睨み付けた。
「貴方が兄を唆したのですね!? そうでなければ、兄がこんなことをするはずがない!」
「唆したも何も……貴方の兄上はもう分別の付く大人ですよ? 正常な判断ができる大人の男であれば、間違いと思えば受け入れぬもの。兄上が私にご賛同くださったのは、私の言うことがもっともだと思われたからなのでは?」
立花の発言はもっともで、雷は反論の言葉を失う。縋るように兄を見ても、彼女の望む答えなど返してくれない。それどころか、彼は手に持っていた小刀を雷の前へと置くばかりだ。その状況に雷は眩暈がした。ぐらぐらと足元が覚束なくなる。そんな彼女に、いつの間に近付いたのだろうか、立花がその耳元で囁いた。
「――貴方に残された道は二つ。
愛する兄上の尊き志を手助けするか、それとも兄を謀叛人として殺すかの二つです。さあ、貴方はどちらを選びますか?」
雷はその言葉に否とも応とも返せなかった。茫然としている間に、彼らは小刀を置いて立ち去ってしまう。忌わしいその小刀の前で膝から崩れ落ちた雷は、兄と夫、どちらも選ぶことができぬままに浅い呼吸を繰り返した。
「――膝を貸してくれないか、雷?」
「え、ええ……どうぞ、三郎様」
伊佐知(いさち)の三郎――後に諡(おくりな)して垂仁という――は、愛する妻に膝枕を強請った。最近は公務で忙しく、妻と触れ合う時間もそう取れない。特にあちこちからきな臭い噂も飛び交っており、三郎は気が休まらぬ日々を送っていた。ようやく取れた休みに心の洗濯と称して、朝から後宮へ詰めている。彼の最愛の妻佐保姫の雷と言葉を交わすだけでも、彼にはその疲れが癒されるようだった。
雷は己の膝で無防備に眠る三郎を見下ろしながら、愛しげな手付きでその髪を撫でる。普段から面を被っているその姿は異様で、そういった気難しい様子がまた臣の不安を誘うのだろう。確かに彼は気難しいが、帝として不適かと言えば決してそうではないことを雷は知っていた。だからこそ、彼を弑して不安を取り除こうなどと言う兄たちが信じられない。けれど、両親が亡くなってからずっと寄り添い合うように生きてきた兄を謀叛人として告発することも雷にはできなかった。
胸元に隠しているあの時の小刀を雷は衣裳の上からそっと撫でた。本当ならば捨ててしまいたかったが、そこからもし何らかの拍子に長次が浮かんでしまうかと思うと捨てられず、かと言ってしまい込んでもいつ何時誰に見つかるかも分からないため、結局己で肌身離さず持っているしかなかったのだ。
(――今なら、殺せる)
そう、兄と立花の目の付けどころは正しい。普段は警戒心が強いために全く隙を見せない三郎だが、雷の前でだけは驚くほど無防備になる。普段なら決して敵わぬ暗殺も、雷が行うならば容易くできることだろう。
だが、できるわけがない。――こんなにも愛しているのだ。
帝に嫁ぐと決まった時には、後ろ盾となる親戚も多くないために本当に不安だった。けれど、三郎はそんな雷を優しく受け入れ、これ以上ないほどの愛情を注いでくれた。確かに常から面をかぶっていたり、帝にしては気まぐれだったりと不安要素はいくつもあったが、三郎にとってそれは歪な己を少しでも埋めるための行為なのだろう。雷はいつの間にか三郎を帝としてではなく、ひとりきりの背の君として愛するようになっていた。
その夫を、己に殺せとは何という皮肉だろう。兄と夫を天秤に掛けることなどできないのに、どちらかを選べと彼らは言う。夫を取れば兄を失い、兄を取れば夫を失う。どちらも大切な存在で、絶対に失いたくないのに彼女はどうして良いか分からずに人知れず涙を零した。
「――やらないのかい?」
「さ、ぶろうさま、何を……?」
雷の零した涙が面に落ちると同時に、三郎が囁いた。雷はそれに驚いて、彼が気付かぬうちに、と涙を拭う。しかし、三郎は腕を上げると彼女の懐――そこに隠されている小刀を衣裳の上から撫で、続けた。
「君がずっと何かを隠していることは知っていたよ。――私は他の人間に殺されるのはごめんだけれど、君になら良かったのに」
「三郎様、何を……!」
「兄君と立花が手を組んだようだな。――雷、私は確かに君たちにとって頼りにならない帝かもしれないがね、腐っても帝なんだよ。調べ物は簡単だ」
雷はその言葉に喘ぐように息を飲んだ。彼は初めから――多分、雷の許へ兄と立花がやってきた時から、全てを把握していたのだろう。けれど、それを知っても雷を咎めることも、ましてや兄たちを咎めることもしなかった。それは多分、雷の動向を窺っていたから。彼女を深く愛しているからこそ、三郎は何もせずに静観することに決めたのだ。
「――申し訳ありません……!」
「何故、謝る? 君は結局私を殺さなかった。君と兄君はこちらが妬けるほど仲が良い。その兄にそんな重たいものを押し付けられて、苦しかっただろうに。
……雷、私は他の人間には殺されてやろうなんて思わないけれどね、君にだけは良いと思ったんだよ」
三郎の言葉に雷は泣きながら首を振った。それに三郎は彼女の涙を弾き、滑らせる面を外す。二人きりの時だけに見せる素顔に、雷は更に涙を流した。
「昔、君が私に嫁してきた時、私を見て君は大声で悲鳴を上げたよね」
「それは、その……忘れてください」
雷は余り思い出したくない過去の自分を掘り出され、零していた涙も止まるほど渋い顔をした。そんな彼女に三郎は笑う。
「私も驚いた。――帝の顔を見て、悲鳴を上げる人間など今まで居なかったからね。君だけがただひとり、私を帝でも神でもなく、ただの三郎にしてくれた。君の前では私は〈ただの三郎〉だから、構わないんだよ」
三郎の言葉に雷は強烈な怒りを感じた。思わず手を閃かせ、その頬に打ち当てる。膝に乗っていた三郎の頭が衝撃で吹っ飛ぶのも構わずに雷は三郎へ怒鳴り付けた。
「――あな、貴方はっ……! 私が、私が貴方の命を平気で奪えるような人間だと、その程度の感情しか持ち合わせていないとお思いですか!? 確かに私は兄に昔、貴方と兄のどちらが大切かと聞かれて兄と答えました。けれど、私を慈しみ育ててくれた兄の前でどうしてその答え以外の答えを言えるでしょうか! 私は、私は、貴方も兄もどちらも失いたくなんてないんです! どちらも必要で、どちらかが欠けても幸せになんてなれないのに……!」
吹っ飛んで頭を打った三郎は痛みと驚きで目を瞬かせた。自分の上には興奮して立ち上がり、真っ赤な顔をして己を見下ろす雷の姿。風と彼女の動きで動いた領巾(ひれ)に三郎は状況も忘れて見惚れる。しかし、それも再び――今度は直に――頬へ落ちた涙の粒によって正気を取り戻させられ、三郎は慌てて雷へと起き直った。
「ご、ごめん、雷、泣かないで……! 私が君の愛を疑うことなんてないに決まってるじゃないか! でも、その……私は君を愛しているから、君がよくよく考えた上で私を殺そうと言うのなら、それでも良いと、思ったんだよ」
語尾はほとんど吐息だったが、しっかりと耳に届いた言葉に雷は泣き崩れる。それに三郎は彼女を泣かせてしまったという焦りを感じながら、その一方で己のために泣いているという事実に喜悦を感じている自分に呆れた。そっと彼女ににじり寄り、三郎はその細い体躯を抱き締める。
「君を疑っていたわけじゃない。本当だよ。……そうでなければ、君の傍に来るわけがないじゃないか。
けれど、私は君の兄君への愛情も知っている。君は兄君のためなら、できる限りのことはしようとするはずだ。――私と彼を天秤にかけて、不利なのは私だ。悔しいが、あの人は出来た人だものな。両親を失った後も君という妹を守り、最終的には私の後宮へと入れるほど有能な兄と、面を被って公務もろくろく行わない帝では、どうしても天秤が傾くだろう?」
雷は三郎の言葉に激しく首を振り、再び彼を睨み付けた。――どうして分かってくれないのだろう、と思う。雷にとって、長次と三郎は全く別の次元で大切なのだ。二人を並列することなんてできないし、ましてやどちらか一方を取ることなど考えたこともない。二人とも雷にとっては大切な存在で、どちらも失いたくなんてないのだ。
「確かに私は、兄が大切です。けれど……三郎様も大切なのです! 二人とも大切で、失いたくなくて……どうして、二人が争わなければならないのでしょうか? 何か、お互いに歩み寄ることはできないのですか? 私を愛していると仰ってくださるなら、どうか……!」
「――雷がそう言うなら、努力はしてみよう。でもね、雷。私が歩み寄っても、あちらが歩み寄ってくれなければ事は良くならないよ」
「私がやります。――兄とて私の背の君を本当に害したいなど思っているはずがありません。ちゃんと話せば分かってくださるはずです」
起き上がって雷を見上げる三郎に、彼女はその手を取ってしっかりと告げた。――優しい兄だったのだ。人を傷付けることを望むはずがない。雷は決意も新たに三郎を見詰める。そんな彼女を三郎は抱き寄せ、けれどその首筋に添えた表情は全く浮かぬものだった。
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NOTE:『古事記』より佐保彦・佐保姫の話(垂仁帝) 悲恋・死ネタ注意
「……今、何と仰いました?」
佐保姫(さほひめ)の雷(らい)と呼ばれる少女は目の前で目を伏せる兄へと問い返した。今、絶対に聞いてはならない言葉を聞いた気がして、彼女は小さく呼吸を繰り返す。それに彼女の実兄である佐保彦(さほびこ)の長次は相変わらずの小さな声で――けれどはっきりと繰り返した。
「この小刀で、天皇(すめらみこと)を殺して欲しい。――お前は以前に問うた時、答えたな。夫のあの男よりも、兄の私の方が大切だと。本当に大切だと思うのなら、兄に力を貸して欲しい」
雷は長次の言葉に呼吸もできなくなる。喘ぐように呼吸を繰り返した後、彼女は涙を大きな目にいっぱい溜めて吐き捨てるように怒鳴り返した。
「できるわけがないでしょう! 何を考えていらっしゃるのです、兄上! どうか目をお覚ましになってください! それは……それは大変なことですよ!」
「ああ。――だが、それが国のためだ。
雷、お前とて知っているだろう。あの男が余り帝には向いていないことが。あれは余りにも国を支えるに危うい。何もしでかしていない今のうちに弑して、この国の安定を図らねば」
雷は兄の言葉が理解できずに泣きながらただ首を強く振った。――いつの間に、兄はこんなに短絡的で暴力的な人間になってしまったのだろう! 雷は衣裳の胸元を掴んで兄にただひたすら首を振った。
「いや、嫌です、兄上! 私にそんなことはできません!」
「――では兄を売るか、佐保姫? それができると言うのなら」
悲鳴染みた声を上げる雷に掛けられたのは、全く別の男の声。驚いて身を引く雷に、兄の後ろから姿を現したひとりの男は口の端を引いて笑った。
「あ、貴方は……!?」
「姫――いや、皇后。貴方の兄の友人、とでも申し上げましょうか」
男は立花と名乗り、静かに雷を見詰める兄の隣りへ佇んだ。その容姿は美しく、雷も背の君を知らなければ見惚れていたかもしれない。しかし、今この状況では見惚れるよりも警戒する気持ちの方が強く、彼女は突然現れた男を雷は強く睨み付けた。
「貴方が兄を唆したのですね!? そうでなければ、兄がこんなことをするはずがない!」
「唆したも何も……貴方の兄上はもう分別の付く大人ですよ? 正常な判断ができる大人の男であれば、間違いと思えば受け入れぬもの。兄上が私にご賛同くださったのは、私の言うことがもっともだと思われたからなのでは?」
立花の発言はもっともで、雷は反論の言葉を失う。縋るように兄を見ても、彼女の望む答えなど返してくれない。それどころか、彼は手に持っていた小刀を雷の前へと置くばかりだ。その状況に雷は眩暈がした。ぐらぐらと足元が覚束なくなる。そんな彼女に、いつの間に近付いたのだろうか、立花がその耳元で囁いた。
「――貴方に残された道は二つ。
愛する兄上の尊き志を手助けするか、それとも兄を謀叛人として殺すかの二つです。さあ、貴方はどちらを選びますか?」
雷はその言葉に否とも応とも返せなかった。茫然としている間に、彼らは小刀を置いて立ち去ってしまう。忌わしいその小刀の前で膝から崩れ落ちた雷は、兄と夫、どちらも選ぶことができぬままに浅い呼吸を繰り返した。
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「――膝を貸してくれないか、雷?」
「え、ええ……どうぞ、三郎様」
伊佐知(いさち)の三郎――後に諡(おくりな)して垂仁という――は、愛する妻に膝枕を強請った。最近は公務で忙しく、妻と触れ合う時間もそう取れない。特にあちこちからきな臭い噂も飛び交っており、三郎は気が休まらぬ日々を送っていた。ようやく取れた休みに心の洗濯と称して、朝から後宮へ詰めている。彼の最愛の妻佐保姫の雷と言葉を交わすだけでも、彼にはその疲れが癒されるようだった。
雷は己の膝で無防備に眠る三郎を見下ろしながら、愛しげな手付きでその髪を撫でる。普段から面を被っているその姿は異様で、そういった気難しい様子がまた臣の不安を誘うのだろう。確かに彼は気難しいが、帝として不適かと言えば決してそうではないことを雷は知っていた。だからこそ、彼を弑して不安を取り除こうなどと言う兄たちが信じられない。けれど、両親が亡くなってからずっと寄り添い合うように生きてきた兄を謀叛人として告発することも雷にはできなかった。
胸元に隠しているあの時の小刀を雷は衣裳の上からそっと撫でた。本当ならば捨ててしまいたかったが、そこからもし何らかの拍子に長次が浮かんでしまうかと思うと捨てられず、かと言ってしまい込んでもいつ何時誰に見つかるかも分からないため、結局己で肌身離さず持っているしかなかったのだ。
(――今なら、殺せる)
そう、兄と立花の目の付けどころは正しい。普段は警戒心が強いために全く隙を見せない三郎だが、雷の前でだけは驚くほど無防備になる。普段なら決して敵わぬ暗殺も、雷が行うならば容易くできることだろう。
だが、できるわけがない。――こんなにも愛しているのだ。
帝に嫁ぐと決まった時には、後ろ盾となる親戚も多くないために本当に不安だった。けれど、三郎はそんな雷を優しく受け入れ、これ以上ないほどの愛情を注いでくれた。確かに常から面をかぶっていたり、帝にしては気まぐれだったりと不安要素はいくつもあったが、三郎にとってそれは歪な己を少しでも埋めるための行為なのだろう。雷はいつの間にか三郎を帝としてではなく、ひとりきりの背の君として愛するようになっていた。
その夫を、己に殺せとは何という皮肉だろう。兄と夫を天秤に掛けることなどできないのに、どちらかを選べと彼らは言う。夫を取れば兄を失い、兄を取れば夫を失う。どちらも大切な存在で、絶対に失いたくないのに彼女はどうして良いか分からずに人知れず涙を零した。
「――やらないのかい?」
「さ、ぶろうさま、何を……?」
雷の零した涙が面に落ちると同時に、三郎が囁いた。雷はそれに驚いて、彼が気付かぬうちに、と涙を拭う。しかし、三郎は腕を上げると彼女の懐――そこに隠されている小刀を衣裳の上から撫で、続けた。
「君がずっと何かを隠していることは知っていたよ。――私は他の人間に殺されるのはごめんだけれど、君になら良かったのに」
「三郎様、何を……!」
「兄君と立花が手を組んだようだな。――雷、私は確かに君たちにとって頼りにならない帝かもしれないがね、腐っても帝なんだよ。調べ物は簡単だ」
雷はその言葉に喘ぐように息を飲んだ。彼は初めから――多分、雷の許へ兄と立花がやってきた時から、全てを把握していたのだろう。けれど、それを知っても雷を咎めることも、ましてや兄たちを咎めることもしなかった。それは多分、雷の動向を窺っていたから。彼女を深く愛しているからこそ、三郎は何もせずに静観することに決めたのだ。
「――申し訳ありません……!」
「何故、謝る? 君は結局私を殺さなかった。君と兄君はこちらが妬けるほど仲が良い。その兄にそんな重たいものを押し付けられて、苦しかっただろうに。
……雷、私は他の人間には殺されてやろうなんて思わないけれどね、君にだけは良いと思ったんだよ」
三郎の言葉に雷は泣きながら首を振った。それに三郎は彼女の涙を弾き、滑らせる面を外す。二人きりの時だけに見せる素顔に、雷は更に涙を流した。
「昔、君が私に嫁してきた時、私を見て君は大声で悲鳴を上げたよね」
「それは、その……忘れてください」
雷は余り思い出したくない過去の自分を掘り出され、零していた涙も止まるほど渋い顔をした。そんな彼女に三郎は笑う。
「私も驚いた。――帝の顔を見て、悲鳴を上げる人間など今まで居なかったからね。君だけがただひとり、私を帝でも神でもなく、ただの三郎にしてくれた。君の前では私は〈ただの三郎〉だから、構わないんだよ」
三郎の言葉に雷は強烈な怒りを感じた。思わず手を閃かせ、その頬に打ち当てる。膝に乗っていた三郎の頭が衝撃で吹っ飛ぶのも構わずに雷は三郎へ怒鳴り付けた。
「――あな、貴方はっ……! 私が、私が貴方の命を平気で奪えるような人間だと、その程度の感情しか持ち合わせていないとお思いですか!? 確かに私は兄に昔、貴方と兄のどちらが大切かと聞かれて兄と答えました。けれど、私を慈しみ育ててくれた兄の前でどうしてその答え以外の答えを言えるでしょうか! 私は、私は、貴方も兄もどちらも失いたくなんてないんです! どちらも必要で、どちらかが欠けても幸せになんてなれないのに……!」
吹っ飛んで頭を打った三郎は痛みと驚きで目を瞬かせた。自分の上には興奮して立ち上がり、真っ赤な顔をして己を見下ろす雷の姿。風と彼女の動きで動いた領巾(ひれ)に三郎は状況も忘れて見惚れる。しかし、それも再び――今度は直に――頬へ落ちた涙の粒によって正気を取り戻させられ、三郎は慌てて雷へと起き直った。
「ご、ごめん、雷、泣かないで……! 私が君の愛を疑うことなんてないに決まってるじゃないか! でも、その……私は君を愛しているから、君がよくよく考えた上で私を殺そうと言うのなら、それでも良いと、思ったんだよ」
語尾はほとんど吐息だったが、しっかりと耳に届いた言葉に雷は泣き崩れる。それに三郎は彼女を泣かせてしまったという焦りを感じながら、その一方で己のために泣いているという事実に喜悦を感じている自分に呆れた。そっと彼女ににじり寄り、三郎はその細い体躯を抱き締める。
「君を疑っていたわけじゃない。本当だよ。……そうでなければ、君の傍に来るわけがないじゃないか。
けれど、私は君の兄君への愛情も知っている。君は兄君のためなら、できる限りのことはしようとするはずだ。――私と彼を天秤にかけて、不利なのは私だ。悔しいが、あの人は出来た人だものな。両親を失った後も君という妹を守り、最終的には私の後宮へと入れるほど有能な兄と、面を被って公務もろくろく行わない帝では、どうしても天秤が傾くだろう?」
雷は三郎の言葉に激しく首を振り、再び彼を睨み付けた。――どうして分かってくれないのだろう、と思う。雷にとって、長次と三郎は全く別の次元で大切なのだ。二人を並列することなんてできないし、ましてやどちらか一方を取ることなど考えたこともない。二人とも雷にとっては大切な存在で、どちらも失いたくなんてないのだ。
「確かに私は、兄が大切です。けれど……三郎様も大切なのです! 二人とも大切で、失いたくなくて……どうして、二人が争わなければならないのでしょうか? 何か、お互いに歩み寄ることはできないのですか? 私を愛していると仰ってくださるなら、どうか……!」
「――雷がそう言うなら、努力はしてみよう。でもね、雷。私が歩み寄っても、あちらが歩み寄ってくれなければ事は良くならないよ」
「私がやります。――兄とて私の背の君を本当に害したいなど思っているはずがありません。ちゃんと話せば分かってくださるはずです」
起き上がって雷を見上げる三郎に、彼女はその手を取ってしっかりと告げた。――優しい兄だったのだ。人を傷付けることを望むはずがない。雷は決意も新たに三郎を見詰める。そんな彼女を三郎は抱き寄せ、けれどその首筋に添えた表情は全く浮かぬものだった。
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| 緋緒 | 22:22 | comments (x) | trackback (x) |
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