2009,08,25, Tuesday
CP:こへ滝
NOTE:身分違いの悲恋
庭先から気配を感じた。
予想通りだった、きっと今夜、彼はくる。
そう、わかっていた。
空気が揺らめいて、御簾が静かに揺れた。
「…お待ち申し上げておりました」
ああ、果たしてわたくしはいつもと同じに美しく笑えているのだろうか
いつもにこやかに笑っている小平太の顔は血の気がないように見えて、けれど瞳はぎらぎらとしている。
ぞくりと粟立ったけれど、言わねばならないのだと挫けてしまいそうな己を心のうちで叱咤した。
東宮女御として入内することが内定した。
驚くことではない、先先からわかっていたことだ。
清華家の一つである三条家の流れを汲む左大臣家の一の姫と生を受け、いずれは東宮の女御となるように教育されてきた。東宮女御として、男皇子を御産み申し上げる。それがわたくしに課せられた義務であり、責務であると幼い頃から信じてきた。
彼と出会うまでは―――。
初めて出会ったのは父君の開いた宴の日。
それは、堅苦しいものではなく、父君と親しくお付き合いのある方や信用のおける部下の方々をお呼びした、ごく内輪の集まりだと聞いていた。それでも万が一にも姿を見られることのないようにとわたくしの対の屋から出ないようにと言われていた。わたくし自身、そんなつもりはなかったけれど飼い猫のタカ丸が御簾の外に出てしまったので御簾を上げた。
そこにいたのが、彼だった。
彼の腕にはタカ丸が抱かれていてほっとしたのも束の間、慌てて扇で顔を隠した。
裳着を済ませてから、父君や兄弟と会うときすら御簾や几帳越しであったというのになんという失態だ!と思った。女房達は皆下がらせていたから、自分で出るしかなかったのだけれどそれすら失態だと思った。
仕方なしに自分で声をかけ、礼を述べて、それで終わりだと思った。
けれど違った。
父である、七松中弁様についてきたのだと彼は言った。
そして、わたくしを可愛いと言った。
自分が美しいことなど昔から知っていた。目鼻立ちはもちろんのこと、何よりも美しい艶やかで手入れの行き届いた豊かな黒髪。父君も母君も乳母も女房たちもわたくしを美しいと褒めそやしたし、裳着を済ませてから公達から届けられる文にも美しいという言葉は必ず書かれていた。
美しいだなんて、わたくしには当然のことだった。
けれど、可愛いと言われたことなど初めてだった。
興味が、湧いたのだ。
美しいとわたくしを称えることなく、けれど可愛いと言う。
全てが、今までわたくしの側にいた人たちとはまるきり違う、そんな彼に興味が湧いた。
もっと話したいと思った。
彼ともっと話をして、もっと彼のことを知りたいと、そう思ったのだ。
「また、いらしていただけますか」
気付けばそう口走っていた。
女から誘うだなんて、なんてはしたない、常ならばそう思っていただろうに不思議にそうは思わなかった。
わたくしの言葉に彼はにっこり笑って、またくると言った。
そうして言葉通りに、彼は通ってくるようになった。
流石に人目を憚ることは忘れていないようで、人目につかぬように細心の注意を払って。わたくしも注意をした。こんなこと、邸の者に知られでもしたらどうなるかはわかっていた。たった一人、信頼できる乳姉妹でわたくし付きの女童でもある金吾にだけは全てを話して協力をしてもらっていたのだけれど。
直接顔を合わせたのは初対面のあの日のみで、あとは御簾越しか几帳越しであったけれどそれですらわたくしには充分すぎるほど大胆な行いだったけれど、そうして過ごす時間はとても楽しくて大切だった。
父君からの入内の話が本格化したと聞かされるまでは。
「わたくしの元へ通うのはどうかもう、これきりに」
扇も几帳もなく、彼の前に姿を現して頭を下げた。
初めて会ったあの日以来、こうして顔を晒すのは二度目だ。
褒められた行為じゃない。それでも、顔を見たいと思ったのはわたくしの我侭。
「お聞き及びでしょう?…東宮女御として後宮に上がることになりました。宣旨が下されるのはもう少し先ですけれど…」
「一緒に逃げよう」
「…え?」
「私は滝がいれば他に、何もいらない。滝と一緒にいられるならそれだけでいい」
だから一緒に逃げよう
手を取り、まっすぐに見つめて
一緒に逃げようと、そう言った。
その言葉だけで充分だった。
裏切りを、罵られるくらい覚悟していたのだ。
それなのに彼は、一緒に逃げようと言ってくれた。わたくし以外のものなどいらないと、だから逃げようと。
嬉しくて、幸せで、だからこそ。
「できません」
「どうして…!」
「わたくしたちはそれでいいのでしょう。逃げて、どこか遠くで二人で幸せに。けれど、残されたものたちはどうなるのですか」
「っ!」
「当家はいいでしょう。きっとわたくしがいなくなったとしても妹たちや縁戚のものを後宮に送るのでしょう。けれど、七松中弁様はそうはいかないでしょう」
それはきっと、事実だ。
「きっと除籍の上、殿上差し止めは免れません。それでも、中弁様のみで沙汰が済むとなぜ言えるのですか。小平太様の弟妹方にまで累が及ばないと、誰が言えるのですか」
きっと、父君は手を回す。
それは予想でも、予感でもなく事実なのだ。
左大臣としての面子を何よりも大事にする父君なのだからそれくらいのことやってのける。
彼の父である、七松中弁様は優秀な方と有名で己の才覚と弛みない努力の果てに現在の任に就かれた方だ。彼もそんな父君を誰より尊敬していると言っていた。
わたくしたちのために、彼に家族を裏切らせるわけにはいかない。
わたくしたちの幸せのために誰かが犠牲になるなんて、そんなことをわたくしは望んでいないのだ。
「…だって、滝は私を好いているだろう?私以外の誰が滝を幸せにできるんだ!」
「わたくしを誰だとお思いですか?当代一の才媛と誉れ高い左大臣家の一の姫、滝姫ですよ?幸せな振りをやってのけることなど容易いこと」
東宮女御として幸せな姫の振りをする、これからさきずっと。
それが、彼を裏切って女御となるわたくしの戒めなのだ。
「わたくしが想うのはこれから先もずっと、小平太様ただお一人。滝夜叉の心は貴方だけのもの」
「滝…」
「…次に生まれるときにはきっと、貴方に相応しい身分で相応しい立場に生まれてきます。だからきっとわたくしを見つけてくださいませね。わたくしの心も、魂も全て小平太様のものですから、だからきっと」
にっこりと微笑むと、彼は泣きそうな顔になってしまった。
ああ、彼を悲しませたくはないのに。
「滝夜叉と、忌み名を告げるのは貴方だけ、想いは貴方へ全て残してゆきます。だから」
「もういい、もういいから」
わたくしの言葉を遮って、唇を塞がれた。
口を吸われるのは初めてだった。
熱い唇、瞳を閉じるのは何故だか勿体無い気がした。
抗う気はなかった。
互いの熱も、肌の柔らかさも、全てが最初で最後。
だから、全てをこの身に刻んで。
「お慕いしております、ずっと貴方だけを」
「私もだ、約束する。私にはずっと滝だけだ」
一夜の温もりと約束が二人の永遠となった。
NOTE:身分違いの悲恋
庭先から気配を感じた。
予想通りだった、きっと今夜、彼はくる。
そう、わかっていた。
空気が揺らめいて、御簾が静かに揺れた。
「…お待ち申し上げておりました」
ああ、果たしてわたくしはいつもと同じに美しく笑えているのだろうか
いつもにこやかに笑っている小平太の顔は血の気がないように見えて、けれど瞳はぎらぎらとしている。
ぞくりと粟立ったけれど、言わねばならないのだと挫けてしまいそうな己を心のうちで叱咤した。
東宮女御として入内することが内定した。
驚くことではない、先先からわかっていたことだ。
清華家の一つである三条家の流れを汲む左大臣家の一の姫と生を受け、いずれは東宮の女御となるように教育されてきた。東宮女御として、男皇子を御産み申し上げる。それがわたくしに課せられた義務であり、責務であると幼い頃から信じてきた。
彼と出会うまでは―――。
初めて出会ったのは父君の開いた宴の日。
それは、堅苦しいものではなく、父君と親しくお付き合いのある方や信用のおける部下の方々をお呼びした、ごく内輪の集まりだと聞いていた。それでも万が一にも姿を見られることのないようにとわたくしの対の屋から出ないようにと言われていた。わたくし自身、そんなつもりはなかったけれど飼い猫のタカ丸が御簾の外に出てしまったので御簾を上げた。
そこにいたのが、彼だった。
彼の腕にはタカ丸が抱かれていてほっとしたのも束の間、慌てて扇で顔を隠した。
裳着を済ませてから、父君や兄弟と会うときすら御簾や几帳越しであったというのになんという失態だ!と思った。女房達は皆下がらせていたから、自分で出るしかなかったのだけれどそれすら失態だと思った。
仕方なしに自分で声をかけ、礼を述べて、それで終わりだと思った。
けれど違った。
父である、七松中弁様についてきたのだと彼は言った。
そして、わたくしを可愛いと言った。
自分が美しいことなど昔から知っていた。目鼻立ちはもちろんのこと、何よりも美しい艶やかで手入れの行き届いた豊かな黒髪。父君も母君も乳母も女房たちもわたくしを美しいと褒めそやしたし、裳着を済ませてから公達から届けられる文にも美しいという言葉は必ず書かれていた。
美しいだなんて、わたくしには当然のことだった。
けれど、可愛いと言われたことなど初めてだった。
興味が、湧いたのだ。
美しいとわたくしを称えることなく、けれど可愛いと言う。
全てが、今までわたくしの側にいた人たちとはまるきり違う、そんな彼に興味が湧いた。
もっと話したいと思った。
彼ともっと話をして、もっと彼のことを知りたいと、そう思ったのだ。
「また、いらしていただけますか」
気付けばそう口走っていた。
女から誘うだなんて、なんてはしたない、常ならばそう思っていただろうに不思議にそうは思わなかった。
わたくしの言葉に彼はにっこり笑って、またくると言った。
そうして言葉通りに、彼は通ってくるようになった。
流石に人目を憚ることは忘れていないようで、人目につかぬように細心の注意を払って。わたくしも注意をした。こんなこと、邸の者に知られでもしたらどうなるかはわかっていた。たった一人、信頼できる乳姉妹でわたくし付きの女童でもある金吾にだけは全てを話して協力をしてもらっていたのだけれど。
直接顔を合わせたのは初対面のあの日のみで、あとは御簾越しか几帳越しであったけれどそれですらわたくしには充分すぎるほど大胆な行いだったけれど、そうして過ごす時間はとても楽しくて大切だった。
父君からの入内の話が本格化したと聞かされるまでは。
「わたくしの元へ通うのはどうかもう、これきりに」
扇も几帳もなく、彼の前に姿を現して頭を下げた。
初めて会ったあの日以来、こうして顔を晒すのは二度目だ。
褒められた行為じゃない。それでも、顔を見たいと思ったのはわたくしの我侭。
「お聞き及びでしょう?…東宮女御として後宮に上がることになりました。宣旨が下されるのはもう少し先ですけれど…」
「一緒に逃げよう」
「…え?」
「私は滝がいれば他に、何もいらない。滝と一緒にいられるならそれだけでいい」
だから一緒に逃げよう
手を取り、まっすぐに見つめて
一緒に逃げようと、そう言った。
その言葉だけで充分だった。
裏切りを、罵られるくらい覚悟していたのだ。
それなのに彼は、一緒に逃げようと言ってくれた。わたくし以外のものなどいらないと、だから逃げようと。
嬉しくて、幸せで、だからこそ。
「できません」
「どうして…!」
「わたくしたちはそれでいいのでしょう。逃げて、どこか遠くで二人で幸せに。けれど、残されたものたちはどうなるのですか」
「っ!」
「当家はいいでしょう。きっとわたくしがいなくなったとしても妹たちや縁戚のものを後宮に送るのでしょう。けれど、七松中弁様はそうはいかないでしょう」
それはきっと、事実だ。
「きっと除籍の上、殿上差し止めは免れません。それでも、中弁様のみで沙汰が済むとなぜ言えるのですか。小平太様の弟妹方にまで累が及ばないと、誰が言えるのですか」
きっと、父君は手を回す。
それは予想でも、予感でもなく事実なのだ。
左大臣としての面子を何よりも大事にする父君なのだからそれくらいのことやってのける。
彼の父である、七松中弁様は優秀な方と有名で己の才覚と弛みない努力の果てに現在の任に就かれた方だ。彼もそんな父君を誰より尊敬していると言っていた。
わたくしたちのために、彼に家族を裏切らせるわけにはいかない。
わたくしたちの幸せのために誰かが犠牲になるなんて、そんなことをわたくしは望んでいないのだ。
「…だって、滝は私を好いているだろう?私以外の誰が滝を幸せにできるんだ!」
「わたくしを誰だとお思いですか?当代一の才媛と誉れ高い左大臣家の一の姫、滝姫ですよ?幸せな振りをやってのけることなど容易いこと」
東宮女御として幸せな姫の振りをする、これからさきずっと。
それが、彼を裏切って女御となるわたくしの戒めなのだ。
「わたくしが想うのはこれから先もずっと、小平太様ただお一人。滝夜叉の心は貴方だけのもの」
「滝…」
「…次に生まれるときにはきっと、貴方に相応しい身分で相応しい立場に生まれてきます。だからきっとわたくしを見つけてくださいませね。わたくしの心も、魂も全て小平太様のものですから、だからきっと」
にっこりと微笑むと、彼は泣きそうな顔になってしまった。
ああ、彼を悲しませたくはないのに。
「滝夜叉と、忌み名を告げるのは貴方だけ、想いは貴方へ全て残してゆきます。だから」
「もういい、もういいから」
わたくしの言葉を遮って、唇を塞がれた。
口を吸われるのは初めてだった。
熱い唇、瞳を閉じるのは何故だか勿体無い気がした。
抗う気はなかった。
互いの熱も、肌の柔らかさも、全てが最初で最後。
だから、全てをこの身に刻んで。
「お慕いしております、ずっと貴方だけを」
「私もだ、約束する。私にはずっと滝だけだ」
一夜の温もりと約束が二人の永遠となった。
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