鈍行
▼いたみ
「――で、あやつらはどこに居る?」
「これはこれは六宮様、唐突に何を仰るかと思えば。一体何のお話でいらっしゃいますか?」
内裏から眞子の姿が消えて二日後、六宮仙子が突然八宮邸へと訪れた。相も変わらず傲然とした態度で命ずる仙子に、八宮三郎が慇懃無礼な態度で応じる。普段ならばそれを軽く流す仙子であるが、今日に限っては柳眉を跳ね上げて吐き捨てる。
「白を切っても無駄だ、既に九宮が吐いた」
「あの馬鹿……っ!」
「――嘘だ。あの男も今回ばかりはだんまりを決め込んだよ。こんな鎌に引っ掛かるとはお前もまだまだ可愛げがあるじゃないか」
仙子の言葉に三郎はギリ、と奥歯を噛み締めた。彼は兵助がこの偉大なる姉に心底弱いことを知っている。それ故に彼女の言葉を思わず信じてしまったわけであるが、考えてみれば、例え兵助であってもそう簡単に吐くわけがない。
潜伏二日目にして当て推量であっても己の許へやって来た仙子に柄にもなく動揺した三郎は、思わずボロを出してしまった。それに途轍もない自己嫌悪に陥りながら、三郎は我が物顔に進んで行こうとする仙子の前へ立ち塞がった。
「邪魔をするな」
「ここは私の家です。貴方ともあろう人が、主の了承も得ずに入るなど不躾なことはなさいますまい?」
「――お前は私を誤解しているようだな。もう一度言おう。……邪魔を、するな」
低く吐き捨てられた言葉に三郎は仙子の本気を見る。思わず気圧された瞬間に、彼女はするりと三郎の脇を抜けて先に進んで行った。三郎が止めるよりも早く、彼女は片っ端から御簾や戸を開けて行く。しかしその暴虐に、三郎は屈するより他になかった。
「ここか?」
「!? ろ、六宮様……!?」
勢い良く御簾を上げた先に、虫籠を膝に載せて静かに座っている少女が見えた。自分の姿を硬直して見詰める少女の姿に、仙子は大事ないと安堵してまず胸を撫で下ろす。
さらわれた、と聞いた時には心の臓が止まるかと思ったが、下手人の目星がついた時点で彼女が害されることはない、と確信してはいる。それでも、理解することと心配することはまた別問題である。第一、八左ヱ門が彼女に害をなさなくとも、その他の要因によって何か被害を被るかも知れないのだ。無事を確認するまで、仙子はとてもではないが安心できなかった。
しかし、目の前に居る少女は顔色も良く、着ている装束も決して粗末なものではない。三郎を疑うわけではなかったが、きちんとした処遇を受けていることに仙子はほっと胸を撫で下ろした。次いで、視線を周囲に向ける。彼女が探す人物がここに居ない。どこに居るのか、と考えるより早く、遠くから足音が聞こえた。振り向けば、簀すの子の端から男が駆けてくる。彼女は駆け寄ってくるその男の顔を見た瞬間に腕を振り上げた。
「うっわ!?」
ガツ、と鈍い音が響いた。男の顔が驚きに歪む。殴り付けた拳がひどく痛んだが、仙子は構わず自分を見下ろしている男に口を開いた。
「やってくれる!」
「……お騒がせしたことは幾重にもお詫びいたします」
八左ヱ門は仙子の低い声に、ただ頭を下げた。視界の隅に入った白魚の手が赤くなっているのに気付き、一緒に駆け付けた久作にこそと何かを囁く。久作がそれに頷いて足早に立ち去って行くのを見送った後、八左ヱ門はそっと眞子まこが居る間に掛けられた御簾を持ち上げた。
「六宮様、どうぞお入りください。――姫宮様、失礼いたします。几帳を動かしますよ」
仙子は眞子の居る間に入りながら、淡々と支度をしていく八左ヱ門を眺めた。八左ヱ門は変わらず眞子に敬意を払い行動し、彼女もまた八左ヱ門に深い好意――愛情を持っているようだ。いつの間にか、俯くだけだった異母妹いもうとがしっかりと顔を上げていることに気付き、仙子は一度だけ深い溜め息を吐いた。
几帳は仙子の前に置かれ、八左ヱ門の傍に眞子が座る。最後に見えた眞子がちらりと不安げに八左ヱ門の頬に指をやったのを見て、仙子は少しだけやり過ぎたかと思った。
「……で、どうするつもりだったんだ? 突然に消えたから驚いたぞ」
「――六宮様、普通は駆け落ちする際に周囲へ宣言したりなどいたしませんよ」
仙子の第一声に応じたのは追ってきた三郎だった。彼は同じく八左ヱ門の傍に座り、几帳の奥に居る仙子と対峙する形となる。これでは自分が彼らの敵のような気がして、仙子は何だか面白くなかった。けれど、それを隠して続ける。
「お前には聞いておらぬ。――竹谷 八左ヱ門。お前は眞子を連れてどうするつもりだったんだ? もう父親はなく、母親は我が母に仕えて京に住まっている。頼れる場所などなかろうに、行く当てもなく眞子をさらったのか?」
「……父の残した土地が、東にあります。そちらに行き、二人でひっそりと暮らそうかと」
「できると思うておったのか?」
素早く続けられた仙子の問いに八左ヱ門は答えなかった。少し視線を落とした後、言葉を選ぶようにして続ける。
「……成功させたいとは、思っております。けれど、それ以上に、私はこの方を他の男に渡したくなかった。事が成就するか否かよりも、この方をとにかくあの場所から出してしまいたかったのです」
「六宮様、わたくしが望んだのです! あの場所から逃げたいと……そして、それ以上にこの方が見ている多くのものが見たいと!」
「十宮は黙っていなさい。私は竹谷に問うておるのだ」
思わず口を挟んだ眞子を仙子は切り捨てた。几帳越しにも見詰めるのは竹谷唯ひとり。彼は余り交流することはなかった主の姉からの視線を静かに受け止めて、口を開いた。
「行く当てが確実にあった、とは申しません。現に東の家とて人に貸したままですし、すぐに返してくれと言っても無理な話でしょう。……けれど、どうしてもこの方をあそこに置いておきたくはなかった。あの場所に居れば、この方がいずれ別の男に嫁ぐことは分かっていましたから。
もし、この方が私を受けれ入れてくださらなければ、私はきっとこの方が嫁いでいくのを見てから東に帰っていたでしょう。けれど、この方が俺を好いてくださっていると知れば、諦められるはずなどなかった。他の男に触れられるのも、傍に居られないのも我慢がならない。世界の誰にも許されなかったとしても、この方と二人で生きていきたいと思ったのです」
「――〈生きていきたい〉か」
仙子はその言葉を繰り返した。過去の自分を思い出す。……あの時、何故自分は周囲の反対を押し切ってまで、東宮ではなくあの男に嫁いだのか。それは、きっと。
(――『共に生きていきたい』と、思ったから、か)
彼女にとって、東宮に嫁ぐことは義務だった。周囲から望まれ、己もそうすることが国のために一番良いと知っていたはずだ。けれど、人として生きるには今の夫が必要だと思った。そして、その考えは間違えではなかったと今も知っている。
「……お前、十宮よりも長く生きる覚悟はあるか? それこそ、どんなに重い病に掛かっても、どんなにひどい怪我を負ったとしても、十宮よりも少しでも長く、それこそ瞬きの時間程の長さであっても、生きる覚悟はあるか?」
「え……?」
「この娘を連れて行く以上、ひとりにすることは何があっても許すことはできぬ。――お前にその覚悟があるか?」
八左ヱ門は几帳の奥から届いた言葉に一度瞬きをする。しかし、掛けられた言葉の意味を理解することで顔を上気させ、深々と几帳に向かって頭を下げた。
「必ずや、姫宮様をおひとりにするような真似はいたしませぬ!」
「その言葉、違えるなよ。――八宮」
「はい」
仙子は八左ヱ門の言葉に短く返し、傍らで動向を見守っていた三郎に声を掛ける。三郎の短い応えに彼女はパチリ、と扇を閉じる音を響かせた。
「――覚悟をしておけ。人が集まるぞ」
「畏まりました。牛車のご用意はいたしますか?」
「要らぬ。自分で帰るさ。……そうだ、眞子」
三郎の申し出を断り、仙子は立ち上がった。するり、と衣擦れの音が響く。それに再び頭を深く垂れた八左ヱ門を見下ろした後、彼女はふと思い出したように傍らで同じく頭を下げる少女へ声を掛けた。
「もう契ったのか?」
「うおっほ、げほっ……!」
むせるような声が平伏した八左ヱ門の喉から洩れる。直接問い掛けられた眞子も顔を真っ赤にして絶句していた。その様子に仙子は彼らの床がまだ白いことを確信して、呆れたように溜め息を吐いた。
「手の遅いことだ。……まあ、良い。どうせなら待っておけ、後数日もすれば決着する。折角だ、きちんとした婚礼を挙げさせてやろう」
「六宮様……!?」
「私にできないことはない。――見せてやろう」
仙子は妖艶な笑みを口元に刷き、流れるような動きで退出していく。彼女の落としたとんでもない発言に八左ヱ門と眞子は困惑して固まり、彼女を見送るために同じく席を立った三郎は呆れたような溜め息を吐いた。
「…………勢い良く殴り込んできたかと思えば、結局は一番良いところをさらいに来ただけですか」
「十宮を案じておった心も本当だ。――だが、あの二人を見てしまえば、こうするのが一番良かろう。後は私に任せろ」
「事を余り荒立てないでくださいよ、貴女はそういうところがある。騒ぎになれば、最後に一番困るのはあいつらなんですから」
「おかしなことを、既に事は荒立っているだろうに。他の宮たちにも情報は流すぞ、心配しているからな。……案ずるな、私たちがあの二人をどうこうするわけがなかろう。私も人のことは言えぬし、七宮もそうだ。一宮と東宮はこういったことには関わり合いになりたがらぬ性質であるし、あの二人が想い合う場所を提供していた五宮も口出しはすまいよ。お前と九宮は言わずもがな、だ。
問題は三宮と十一宮だが……三宮は、また胃を痛めるかな。あの方に心痛を与えることだけが少々心苦しいが、まあ、それは耐えてもらおう。可愛い異母妹いもうとのためだ。ただ、十一宮は……」
「間違いなく、荒れるでしょうね。だが、あの方もそろそろ学習すべきだ。余の中には己の思い通りになど行くものの方が少ないと。
――気質は決して悪くないのですが、あの方は余りに不器用だ。不器用が故に己も周囲も傷付ける。せめて周囲がまともならば良かったのに、母君があれで、姉君も彼ほどひどくはないにしても余り人と関わるのはお得意ではない。傍に侍る者もあの方のご気性によって流れるばかりで、変わらぬのは二人きり。あの二人とて主にそう口出しせぬ性格故、必然的にあの方は孤立する」
「中宮様もな、好い加減に気付けば宜しいのだ。――己の殻にばかり籠っているから、真実を見逃す。それ故に周囲を傷付け、己を窮地に追い込んでいくことに」
吐き捨てた仙子の声には、どこか憐憫が籠っていた。三郎にはそれが意外に感じられたが、その理由を問うことはしない。ただ溜め息を吐いて、肩を竦めた。話が一段落着いたところを見計らったように、幼い少女がぱたぱたと軽い足音を立てて現れる。仙子に駆け寄った少女は、濡れた布を彼女へ差し出した。
「何だ?」
「竹谷様からでございます。その、お手をお冷やしになられますように、と」
仙子は少女が差し出した布を受け取り、苦笑した。なるほど、中々気の利く男ではあるようだ。仙子は有り難くその布で赤くなった手を冷やすと、三郎へと視線を向けた。
「我が妹君は、男を見る目があるな」
「あれは私が認めた男ですからね」
「なるほど、心得ておこう」
仙子は悠々とした笑みを浮かべると、今度は静かに屋敷を辞していった。それに三郎は呆れにも近い感情を感じながら、彼女を乗せた牛車が門を出て行くのを見送る。
だが、これで肩の荷が下りた。――あの女性が「やる」と言えば、それは絶対だ。三郎は最強の女性を味方に付けた幼馴染の幸運に薄笑いを浮かべた。何より、彼らの将来さきに幸いが見えたことが嬉しい。
これで全てが上手くいく、皆がそう安堵したその隙を突くように事件は起きる。
「――姉上」
借りた対の奥でこれからのことを考えていた眞子の背に、冷たい声が投げ付けられた。勢い良く振り返った先には、青を通り越して白に近い顔色をした弟。自分の、たったひとり同じ血を受けた弟の姿がそこにあった。
「……左近」
「よくもまあ、こんなことを仕出かせたものですね。お蔭でこちらは好い面の皮だ。――虫の趣味もそうですが、よくぞここまで我々に恥を掻かせられたものですね。本当に感心いたしますよ」
幼い唇から漏れ出すのは余りにも不釣り合いな怨嗟。その根を知っている眞子は、唇を噛み締めて俯いた。
他の誰に罵られようと耐える自信はある。しかし、この弟にだけは眞子は何も言うことができなかった。異母兄姉きょうだいは多く居たが、同じ母から生まれたのは左近だけだ。そして、あの母の暴虐に共に耐えたのも、身の丈に合わぬ望みを押し付けられた苦しみを知るのもお互いだけだった。
彼ら二人は距離こそ離れていたが、心は常に寄り添っていた。左近はよく眞子の趣味に関して物申してきたが、それは決して眞子が憎いからではない。彼なりに彼女を案じてもいたのだ。ただ、二人ともその表し方を知らなかった。実直に物を述べることなど許されなかった。眞子はただ沈黙することで己を守り、左近は周囲に――母に望まれるような振る舞いをする以外に己を守る術を学べなかったのだから。
「……貴女のお蔭で随分と宮中が騒がしくなりましたよ。あちこちでたくさんの人間が、貴女を探すために昼夜を問わず動いている。――その意味を分からぬ貴女ではありますまい。今なら・・・、まだ〈なかったこと〉にできる」
「――いいえ、左近。なかったことなどにはできないのです。わたくしは知ってしまった。とてもとても多くのことを。――内裏に戻ったところで、昔と同じような暮らしはできません。……貴方には、申し訳なく思っています」
「申し訳ない? そんな殊勝なこと仰っても、実際に貴女は義務も何も放棄して、男と共に往くのでしょう。――そう、貴方は良い。所詮は女子おなごだ。嫁いでしまえば、皇すめらぎなど関係がなくなるのだから」
左近の言葉に眞子は強く唇を噛み締めた。左近が一歩、また一歩と眞子に近寄る。その表情は鬼気迫るものがあり、彼が追い詰められていることを知らせていた。
「けれど、逃げだせるのは貴女だけだ。――貴女は宜しいですね。好いた男に頼ればどこへでも逃げられる。そうやって誰かに頼って、自分だけ幸せになろうというのでしょう? そうして、後のことは何もかも私に押し付けられる。……本当に、良いご身分だ」
左近の辛辣な言葉が耳を打った。他の音など何も聞こえはしない。いつの間にか彼は眞子の前に立ちはだかり、その細い手首を掴んでいた。しかし、その仕草はどこかに引き立てようとするよりも、まるで迷い子が唯一己が縋れるものを必死で掴んでいるような様子に見えた。
「左近、ごめんなさい」
それでも、眞子は彼と共に戻ることはできなかった。――久し振りに触れた弟の手はかの時よりも大きく、自分たちが寄り添い合って暮らしていた日々を随分遠くに感じさせる。眞子は手首を掴む左近の手に己の手を重ねながら、ただ謝罪の言葉を繰り返すしかできなかった。
それに左近の表情が変わる。縋るような子どもの表情から、一変して狂気が見えた。眞子の腕を掴む力が強くなり、ギラギラと光る目が眞子を見下ろす。唇からは黒く見えるほど歪んだ言葉が吐き出された。
「――私が貴女を逃がすとお思いですか? 貴女をさらった男も、貴女も皆滅ぼしてやる。貴女だけ幸せになんてさせない。貴女だけ幸せになるなんて、私を置いて幸せになるなんて、絶対に許さない。貴女だけは許さない。貴女だけは――」
「何してる!」
禍々しいほどに歪んだ言葉を遮ったのは、常になく焦った三郎の声。同時に眞子は荒く駆けてきた足音と共に温かい腕に抱き締められた。見ずとも誰が己を抱き締めているのかなど分かっている。その庇護の腕に安堵すると同時に、共に苦難を耐えた弟を選べぬ自分に強い罪悪感を抱いた。
八左ヱ門の腕の中から左近を見ると、彼は三郎と兵助によって簀の子へと引きずり出されていた。多分、どこかの間へ連れ出されて行くのだろう。どうか彼を傷付けないで、と言いたかったが、嗚咽で声にならなかった。
「姫宮様、大事ないですか?」
「……ああ、ごめんなさい。ごめんなさい、左近」
――貴方を選べなくて、貴方を守れなくてごめんなさい。
多分、異母兄姉の中では誰よりも大切に思っていた弟だった。一番傍に居て、何度厳しい言葉を投げられても、嫌いになれない子どもだった。そう、彼は子どもだったのだ。己が守らねばならぬ、小さな子どもだった。
けれど、彼が縋る腕を振り解いて、眞子は今傍で己を抱き締める男性を選んだ。皇女として、そして左近の姉として、彼女はこの腕から離れるべきだった。しかし、今の眞子はそう思っても身体を動かすことはできない。いや、動かす気すらない。
「――それでも、わたくしはこの方と共に生きたい……!」
溢れる涙は何のためか。眞子は己を優しく抱き締めて守る男の腕に縋りながら、異母兄あにたちに引かれていく左近に謝り続けた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒