鈍行
▼はからひ
「……それで、十宮と十一宮は?」
「末姫様には我が妻が、末宮様には八左ヱ門が付いてます」
服を乱して戻って来た三郎と兵助に、別の対に集まっていた宮たちが注目する。彼らを代表して仙子が声を掛けると、三郎が深い溜め息と共に応えを返した。十宮に関してはともかく、興奮どころか錯乱に近い十一宮に、その原因となった八左ヱ門が付いているということに仙子が眉を上げる。問い詰めるように弟を睨み付けると、兵助が困ったように溜め息を吐いた。
「私たちが言い付けるわけないでしょう。――八が、あの男が自ら望んだのですよ。多分、きちんと話をするつもりなのでしょう。そういう男ですから。
先に言っておきますけれど、止めるのなんて無理ですからね。皇女を盗み出すような男だ、一度覚悟を決めたら後になんて引きませんよ。止められるようなら、先に止めてますって」
諦めたように告げる兵助に仙子の扇が飛んだ。己の頭に正確に当てられた扇を拾いながら、兵助は少し赤くなった額を撫でる。それに三郎は溜め息を吐き、肩を竦めて車座に混ざった。
「――三郎はご機嫌斜めだな」
「そりゃあ、突然逃亡者を押し付けられた挙句、こう何度も騒ぎがあれば不機嫌にもなりますよ」
「それに妻も奪われたとあれば、尚更だな」
明らかに不機嫌な顔をした男に七宮小平太が茶々を入れる。更に便乗して仙子が加えると、三郎の機嫌が更に悪くなる。貴方にだけは言われたくない、と呟いた三郎に小平太が笑った。
「好きな人をひとり占めしたいってのは当たり前の感情だろ! だから、私は別に何も言わないよ。お前のことも――眞子まこのこともね」
「その通り。そして、あの男は眞子を預けるに足る男だと私が判断した。――今も、自ら進んで左近の許に行ったのが良い証拠だろう。あれを無駄死にさせるわけにはいくまい」
「……どうするつもりだ」
小平太の言葉に仙子は高らかに同意する。その笑みは常の強気なもので、彼女が既に何かしらの策を持っていることを示していた。それを見た五宮が彼女へ囁く。それに仙子は開いていた扇をパチリと閉じて、口の端を上げた。
「要は追っ手が来なければ良いのだろう? ――ならば、確実な方法がひとつある。今上が追っ手を差し出さないようにすれば良い」
「姉上、しかしそれは……!」
「黙りゃ、兵助。生真面目も過ぎれば毒だぞ。
それに……あの方は話せば分かるお方だ。東宮の時も、私の時も、小平太の時もそうだったではないか。あの方は確かに公人として生きるお方だが、その裏には子を想う親の顔もある。理を歪めることはできずとも、ごまかすことならできよう。そういうことはあの方の得意とするところだ」
自分の父親であり、国の頂点に立つ人間に対しても散々な物言いをする仙子に、しかし誰ひとりとして咎めることはしなかった。彼らの父親にはどこかそういうところがある。天皇として最長寿であり、同時に在位も最長である今上は誰からも敬われるはずの現人神であるのだが、性格は極めて奔放かつ豪快。公務中に消えるのは当たり前、思い付きで行事を行って官を泣かすこともしばしば。それでも不思議と東宮に早くその座を譲れと強いる人間が居ないのは、やはりその有能さ故であろう。――もっとも、心の中で譲位を願う人間ならいくらでも居るだろうが。
妻も多ければ子どもも多い男であるが、同時に愛情が深い男でもある。不思議と兄弟姉妹たちを一所に集めて宴会を開くなど、子どもたちの交流を図らせることも多い。その所為か、本来ならばそれなりに皇位継承争いなどが起こるはずの宮中も、順序を越えて甥が東宮に立つことに兄弟皆が納得している。唯一それに納得していないのは現中宮くらいなもので、彼女はこれまでにも数々の災難を引き起こしていた。――そのとばっちりを多く受けている兵助は、だからこそ口を開く。
「あの中宮様が、納得なさいますまい」
「――いっそ、あの二人の所顕ところあらわしでも先に行うか。そうすればいかな中宮様でも納得せざるを得まい」
「それは余りにも強引過ぎますし、八左ヱ門の首が危うい」
「これが一番手っ取り早いのは確かなのだがな。ま、これで皇位継承権を剥奪させれば、荒れような。これから先、愚か者が出ぬとも限らん」
仙子の戯れに兵助が首を横に振る。それに彼女はつまらなそうな顔をして、しかし彼の言い分を否定せずに肩を竦めた。そんな仙子を咎めるような調子で声を出したのは三郎である。
「それはやめた方が宜しいかと。場合によっては宮中が乱れるだけでなく、中宮様も乱れますよ。――そうなったら、とばっちりを受けるのは末宮様。あの方に今以上の負担を掛ければ、まず間違いなく壊れましょうな」
三郎の脳裏に浮かぶのは、既に半ば壊れた様子の左近の姿。姉に縋る姿はまさに狂気を体現しており、彼らの歪さを浮き彫りにしていた。三郎の言葉に兵助も唇を噛む。――彼らは末宮のあの姿を知らない。見ていれば、あのようなことは言えないはずだ。彼ら二人は静かに目を見交わし、自分たちの幼馴染が上手く左近を宥めてくれることを祈った。
「――落ち着かれましたか?」
「縛り上げておいて何を言うか! 皇子である私に対してこの無礼、許されると思うな!」
紐で後ろ手に縛り上げられた左近はギリギリと音が鳴るほどに奥歯を噛み締め、自分を静かに見つめる八左ヱ門を睨み付ける。――この男さえ居なければ、姉は馬鹿な考えを起こすこともなかった。そして、己がこのような屈辱を味わうことも。そう考えれば、この男が全ての原因のような気すらしてきて、左近は毒を吐くように八左ヱ門に言葉を投げた。
「お前の所為だ! お前さえ居なければ姉上はこんな風に惑うことも、道を違えることもなかった! 九宮の侍従であるのなら、大人しくその分を守っていれば良いものを、どうして身の程も知らず姉上に近付いた! 痴れ者め! 痴れ者め! 痴れ者め!」
左近は喉が枯れるほどに大声で喚き立てた。両腕を拘束されている以上、彼にはそれくらいしかできることがない。それ故に左近は取れる術の全てを使って八左ヱ門を呪った。――ふたりきりの姉弟。鏡を映したように同じ境遇だったたったひとりの女性。同時に、己よりも雁字搦めに捕えられた、哀れな姉。彼が唯一哀れに思える、唯一の皇族が眞子だった。
それなのに、彼女は今や宮中を抜け、ひとり檻から解放されようとしている。それは左近にとって、途轍もない裏切りだった。同じ母から生まれたとは言え、特別親しい間柄ではなかった。が、彼女と己は常に〈同じ〉だったのだ。それがこの男が現れたことによって崩され、眞子は左近を置いて遠くへ逃げ出そうとしている。そして、この試みが失敗しない限り、彼が一番不幸な皇族になるのだ。――それだけは許せなかったし、認めたくなかった。だから、左近は吼える。
「お前なんて死んでしまえば良い! そうだ、今からでも遅くない。殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 私が検非違使に一声掛ければ、それで全てが終いになるのだからな! そうすれば姉上も内裏にお戻りになり、私は――」
私は、何なのだろう。左近はそこで言葉を途切れさせた。姉が帰ってくれば、己は楽になる。けれど、本当に? 今までだって辛いのは変わりなかった。誰も己のことなど理解してくれなかった。己の気性が悪いのか、常に傍に侍るのは二人だけ。他の宮たちにはそれぞれ腹心が居る。けれど、左近はそこまで己の心を誰かに預けることなどできなかった。それは何故か、どうしてなのか。
突然の思考に泣き出しそうな気持ちになった左近に、八左ヱ門は静かに口を開いた。
「……お気が済みましたか?」
「何を」
「貴方も姫宮様もよくご気性が似ておいでだ。――ずっと、おひとりで辛い気持ちを抱えてらっしゃったのでしょう? もう仰りたいことはないですか? それで、全てですか?」
左近はその言葉に絶句した。彼が吐き出した呪詛も何もかも、この男には全く堪えていない。それどころか、まるで小さな子どもの癇癪かんしゃくでも見るような目付きで己を見詰めている。その瞳が余りに静かで穏やかで、左近は自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
「――他にも何か仰りたいことはございませんか? ここには私と貴方しか居ませんよ。大丈夫、何もかも吐き出しておしまいなさい。誰にも漏らしたりはいたしませんよ」
「そんなもの、信用できるか」
「おや、心外ですね。口が堅くなければ、秘密の多い宮様方の侍従などやっていられませんよ」
八左ヱ門は左近の言葉に軽く笑った。気負いも何もない。当り前の事実を言っているようだった。それに左近は無性に腹が立ち、吐き捨てるように言葉を続ける。
「お前の主は九宮だろう! あの方はまともじゃないか、秘密もクソもない!」
「おや、九宮様とて秘密はたくさんありますよ。生きていれば秘密などいくらでもできるものです。――貴方だってそうでしょう?」
左近は八左ヱ門の言葉に絶句した。――知られたくないことならたくさんある。だから、それは全て心の奥底にある葛籠に入れて蓋をして、石を重しにして深く深く沈めてしまうのだ。誰かに知られたりしたら、己の破滅である。己の人格が、存在が、その全てが打ち壊されてしまう。それを誰かに言おうとしたことなどない。きっと、己の傍にずっと居る伏木ふしきも三郎次も知らないだろう。
それなのに、この男は異母兄の秘密を知っていると言う。それはきっと、異母兄とこの男が自分たちよりもずっと深いところで繋がっているからで、左近はその事実にひどく動揺した。
「ああ、別に仰りたくなければ、それはそれで構いませんよ。私は唯、貴方と一度きちんとお話ししておきたかっただけなので。――貴方が大切に思っていた姉上様もまた、貴方のことを一番お案じになっていらした。こういった機会が訪れるとは正直思っておりませんでしたが、得られて良かった」
「嘘だ」
姉は自分のことなど考えていない。――本当にそうならば、こんな事件は起こさなかった。けれど、目の前の男が余りに真摯に告げるので、左近は少しだけ心が揺れた。
(……姉上は、いつも外を見ていた。虫たちを愛でる傍らで、空を飛んでゆく蝶や鳥の姿を眩しそうに。女子であるが故に、対の外に出ることすら儘ならなかったから)
対して、己はどうだろうか。左近は確かに皇族だが、望めば鷹狩りだろうが遠駆けだって許された。欲しいものは何でも手に入ったし、余程倫理に悖もとる行為でさえなければどんな行為も許される。
外へ自由に出かけられる自分と、それすら許されぬ姉。本当に卑怯だったのは、どちらだったのだろうか。
「――だが、姉上はいずれ東宮妃になられるお方で、私とは違うんだ。私は東宮にはなれない。今の東宮様に敵うなど、思ったこともない。私は必要とされない人間で、姉上は必要とされるお方だ。だから、姉上は逃げることは許されぬ」
「確かに、あの方は望めば東宮様にだって見えることのできるお方です。けれど、東宮様も姫宮様もそれを望まれなかった。――日嗣ひつぎの殿下が選ばれたのはあの方ではない別の女性で、あの方もまた国母となることをお望みにはならなかった。
けれど、貴方もあの方も不要な存在などとはとんでもないことでございます。あの方は仰っていました。今上のお心ひとつで、己は誰にでも嫁ぐ覚悟はできていたと。けれど、中宮様はそれをご存じでいらっしゃらず、あの方に無理強いをなされた。それで私に誑かされておしまいになったのです。
貴方とて、この国に必要なお方です。――いえ、この国だけでなく、今上と中宮様にとっても、と申し上げるべきでしょうか。これでも私は年嵩ですのでね、貴方がご存じないことも少々耳に入れているのですよ。でも、教えて差し上げません。貴方はご自分でお知りになるべきだ。お父上でも、お母上でも構いませんから、きちんと一度お話をしてご覧なさい。きっと素敵な話がお聞きになれますよ」
八左ヱ門は少し茶目っけを出して笑った。そう、彼は知っている。――多分、兵助も知らぬ、三郎も知らぬ、小さな真実を。下々の人間の噂話の力を舐めてはいけない。真実は案外様々な場所に顔を出しているのだ。
「お前、私のことを馬鹿にしているだろう! 何だ、皇族に向かってその態度は!」
「とんでもない、馬鹿になどしておりませんよ。――でも、貴方が他ならぬ姫宮様の弟君でいらっしゃいますから、そうですね、それだけで何となく好意を抱いてはおりますよ」
「私はお前に好意を持たれる筋合いなどない!」
「まあまあ。私が勝手に好意を抱いているだけですから、お気になさらないでください。
――ですが、貴方は私を恨んでくださって構いません。まあ、言われずともそのおつもりでしょうけれど。その代わり、と言うのも何ですが、あの方は私が唆そそのかしただけです。どうかお厭いにならぬよう」
左近はそこでようやく、己が軽くあしらわれていることに気付いた。八左ヱ門はと言えば、駄々をこねる子どもをあやすような調子で左近を扱っている。そこに屈辱を感じながらも、左近はどこかすっきりとしていた。
(――ああ、もしかしたら私は)
左近はふい、と八左ヱ門から顔を背けながら思う。けれど、それを明確に把握するよりも先に遠くでざわめきが起こった。思わず八左ヱ門と顔を見合せ、お互いに困惑した表情を見せる。いつの間にか毒気を抜かれていた左近は、俄かに騒がしくなった場所を窺おうと身体を伸ばしている八左ヱ門に声を掛けた。
「――皆、揃っておるようじゃな」
「う、主上うえ……!」
突然現れた老翁に間に集まっていた全員が目を剥いた。――それもそのはず、ここには本来居てはならない人物、この国を統べる現人神、今上であり彼らの父がそこに居たのだから。さしもの仙子も動揺し、弄んでいた扇子を手から取り落とした。さすがにひとりで忍び歩きはできなかったらしく、傍には蔵人中将であり仙子の夫でもある潮江 文次郎と七宮相談役の食満 留三郎が付いている。様々な謎がその場に渦巻いたが、誰ひとりとして口を開くことはできなかった。
「して、眞子はどこに居る?」
「……こちらには居りませぬが。しかし、今上。何故、突然この場所へ? 今はご公務がおありでは?」
誰よりも早く我に返ったのは仙子で、彼女は真実を述べた。確かにこの場には居ない。――この邸には居るが。
しかし、仙子のごまかしを今上は見透かしているようで、常と変らず高らかな笑い声を立てた後、静かに繰り返した。
「して、眞子はどこに? 儂の前に連れてまいれ」
その言葉に場の誰もが息を飲む。仙子は小さく溜め息を吐き、肩を竦めた。
「……貴方のその早耳が恐ろしいほどですよ。兵助、お前ちょっと行って眞子を連れて来い」
諦めたように仙子はもう一度だけ溜め息を吐き、弟に扇を振る。兵助もまた同じく諦めたように立ち上がり、北の対へと足を向けた。完璧に匿っていたつもりの三郎はひどく不機嫌になり、刺々しい調子で父に尋ねる。
「一体どこから嗅ぎつけておいでになったのやら。――心外ですね」
「お主らにはお主らの情報網があるように、儂には儂の情報網があるということじゃ」
三郎は父の言葉に尚更顔をしかめ――もっとも、その表情は仮面に隠されて見えないが――、明らかに機嫌を損ねて溜め息を吐いた。他の皇子たちに比べ、三郎は父親に対する反発も強い。年の功には敵わぬと分かっていながらも、彼は腸はらわたが煮え繰り返る心持ちだった。
そんな三郎を尻目に、今上は仙子の退いた上座へ腰を下ろす。その両脇を潮江と食満が固め、彼らを含める形にもう一度車座が組まれる。そんなことをしている間に衣擦れの音が響いた。
「主上、お連れしました」
「――御前、失礼つかまつります」
兵助が先導し、眞子が車座の中央へと歩み出る。目元は泣き腫らして真っ赤になっており、その姿は痛ましい。けれど、彼女自身は既に落ち着いて、静かな瞳を今上その人に向けていた。
「此度のこと、如何様に申し開きするつもりじゃ?」
「――何も。全てがわたくしの責でございます」
眞子は今上の低い声にも揺らがなかった。今までも彼女ならば、きっと俯いて黙ってしまっただろう。けれど、今の眞子は違う。父の厳しい声にも背筋を伸ばしたまま崩さず、視線を逸らすこともしない。それに今上は目を細め、続ける。
「では、どう始末を着けるつもりじゃ? 何も咎められずに事を収められると思ってはおるまいな?」
「心得ております」
今上の問いにも眞子は揺らがない。彼女はゆっくりと立ち上がると、傍に座っていた兵助の太刀をおもむろに抜いた。皆が息を飲む中、流れるような仕草で彼女は己の髪を掴み、その豊かな黒髪を背中の半ばほどまで切り取った。
ぱらぱらと音を立てて髪が床に落ちる。眞子の余りに予想外の行動に誰もが固まり、息をするのも忘れた。全ての時間が止まったと思われたその時、その空白を踏み荒らすように足音が響く。その源は勢い良く眞子へ飛びかかり、その手に取られた太刀を全力で叩き落とした。
「馬鹿、何してる! ああ、髪が……!」
「ま、眞子、お前……!」
彼女の身体を抱き締めて、半分ほど欠けた髪を八左ヱ門が梳く。その声は悲痛に溢れ、彼自身もまた彼女を抱き締めたまま泣きそうな顔をしていた。太刀を奪われた兵助も呆然と彼女の名を呼びながら、己の侍従が何度も繰る無残な黒髪を見詰めた。誰もが混乱する中、眞子のみが今上から視線を外さない。彼女は八左ヱ門の腕の中から抜け出し、落とした髪を掴んで父へ差し出した。
「――父上、いえ、主上。これがわたくしの覚悟です」
「それをどうせよと?」
「今上の十一宮眞子は、不慮の事故で彼岸へと旅立ちました。今在るのは徒人ただびとの眞子――いえ、名もなき女むすめです。どうぞそのようにお取り計らいくださいませ」
「……それを儂が許すと思っておるのか?」
その言葉に眞子は少しだけ目を伏せる。――けれど、それに反論したのは入口の傍に立っている小さな少年だった。
「――父上、もう宜しいでしょう。私たちに姉上を幸せにすることはできません。それに、あの髪ではまともに嫁ぐこともできないでしょう。
ならば、そんな役立たずはそこの地下人にくれておしまいなさい。それで全て丸く収まるのですから」
「……さこん……」
「貴方に名を呼ばれる筋合いはありません。物の数にも入らぬ身で皇族の名を呼ぼうなど、身の程知らずも良いところ。――いつまで頭を上げているおつもりか」
眞子はその言葉に深く頭を垂れ直す。同時に弟の心遣いに胸が震えた。――いつも、いつも、そうだ。この弟は幼い頃から厳しいことばかり口にするが、最後の最後で己を許してくれる。ぱたぱたと床に零れ落ちる涙を見詰めながら、眞子は嗚咽を漏らすまいと唇を噛んだ。
二人の遣り取りを見ていた今上は一度だけ深い溜め息を吐き、車座の中央で呆然としている八左ヱ門へと視線を向けた。
「竹谷 八左ヱ門」
「は、はい!」
「――確か、お主は一度我が皇女の命を救ったことがあったな? 当人が亡くなったとはいえ、それに対して何の褒美を与えておらなんだことを思い出した。
お主は確か東の生まれであったろう。我が息の侍従を長く務めたこともある。その積み重ねへも謝意を表して、お主に武蔵国を預けることにいたす。速やかに妻を連れ、東へと下るように」
八左ヱ門は今上の言葉に、思わず口を開けて固まった。何かを言おうとしているようだが、唇を戦慄わななかせるだけで声にならない。ただ眼を見開いたまま、八左ヱ門は今上に深々と平伏する。今上はその姿を満足げに見下ろすと、再び潮江、食満両名を連れて邸を退出していった。
「――さすがは父上、おいしいところをさらっていくなあ」
「全く……あの方には敵わぬよ」
七宮が大きく溜め息を吐いて零したのを皮切りに、皇子たちはそれぞれ詰めていた息を吐き出す。さしもの仙子も今回の遣り取りには緊張したらしく、ばさばさと行儀悪く扇で己を仰いでいる。そんな皇子たちの中、八左ヱ門はぶつりと切り落とされた眞子の髪を悲痛な表情で見詰めていた。
「どうしてこんな真似を……ああ、こんなに綺麗なお髪ぐしなのに」
「わたくしなりの〈けじめ〉というものですわ。それに――貴方と共に行くのに、長過ぎる髪は邪魔にしかなりませんもの」
「だからって……!」
「そこ、うっとうしい!」
仙子の扇が宙を舞い、八左ヱ門の頭に当たる。それに怨みがましい目で振り返った八左ヱ門に仙子は溜め息と共に吐き捨てた。
「切ってしまったものは仕方なかろう。第一、髪ならばまたすぐ伸びるではないか。それよりもいつまで十宮にみっともない格好をさせている。早く人を呼んで髪を整えてやれ。
それと、兵助は後で覚悟しておけよ。いくら油断していたとはいえ、太刀を奪われるとは何事だ。大体、仕事着のままで私用に出ることがまずおかしい。お蔭で肝が冷えたではないか」
出仕中に呼び出されたために束帯姿なのだが、それを棚に上げての余りにも理不尽な発言に兵助はがっくりと肩を落とす。しかし、太刀を奪われたことも、一番傍に居りながら眞子を止められなかったことも結局己の責なので、彼は何も言わずにただ姉の言葉に頭を垂れる。それに連れ出されようとしていた眞子が声を掛けた。
「異母兄上あにうえ、お許しください。――あれがわたくしにできる最善だったのです。異母兄上には申し訳ないことをいたしました」
「…………髪、ちゃんと伸ばすんだぞ。女子にとって髪は命だ。命を粗末にしてはいけない。それがお前の夫の口癖でもあるからな」
兵助の言葉に眞子は一度目を瞬き、ゆるりと笑った。その笑みは今まで浮かべていた儚い、どこか諦めたものではなく、一本芯が通ったもので。いつの間にか随分と強くなった異母妹いもうとに兵助は溜め息を吐いた。
眞子は兵助の脇を擦り抜け、入口に立つ左近の前へと足を運ぶ。自分と目を合わせぬ左近に、眞子は小さく溜め息をひとつだけ吐くと、臣下の礼を取ってその脇を滑り出た。
「――御前、失礼いたします」
「哀れなことですね。……あの男は随分と面の皮が厚いようです。憎まれっ子世にはばかる、と申しますし、あの男長生きしますよ。あの男が死ぬまで解放されないなんて、本当に哀れな方だ。多分、もうお顔を見ることもなくなりましょう」
「…………ええ、そうでしょうね。今まで、本当に有り難うございました」
眞子は弟の言葉の真意を捉えて、泣きたくなった。――素直でない彼が告げる、最大の言祝ことほぎがそこにある。眞子は、くるりと踵を返して去っていく弟の小さな背中を焼き付けるように見詰めた。
「……案外ゆっくりだったな。もっと早く行くかと思っていた」
「いやあ、引き継ぎやら何やら色々な仕事が入ってしまって、旅立ちたくても旅立てなくて。
――じゃあ、俺たちは行きます。お二方とも、本当にお世話になりました。もしこちらに来る用事があれば、絶対に寄ってください。歓迎しますよ」
二人が東へ下る出発の日に、見送りにやって来た兵助は呆れた声で呟いた。――それもそのはず、あの後彼らは更に一月ほど京に滞在したのだから。とは言え、それは十一宮眞子の葬儀が行われたり、武蔵国への国司へ任命された八左ヱ門が書類や手続きに追われて慌ただしく過ごしていた所為でもある。
その間に彼らは借家で佳き日を選んで所顕しを行い、正式な夫婦となった。眞子は今上の計らいによって、彼の腹心である貴族の木下 鉄丸に養女として入り、八左ヱ門へと嫁したのだ。八左ヱ門は飛躍的な出世と愛しい妻を同時に手に入れることを許され、毎日忙しく立ち回りながらも生き生きとしている。毎日が楽しいらしく、仕事が終わればすぐに借家へ急ぎ帰ることで周囲から有名になっていた。眞子は眞子で今までやって来なかった家の切り盛りなどを覚えるので忙しいらしく、彼女もまた張りのある毎日を送っているようだ。
対して、眞子を失った中宮は悲しみに暮れてこのまま出家したいと今上に告げ、慌てて内裏に呼び戻された。それによって左近が再び中宮の愛情を過多に受けているようだが、彼はもう彼女の思いのままに動く操り人形にはならないようだ。少し気性も落ち着いて、このまま成長すれば新しい帝が現れる時には立派な臣となっているだろうと噂されている。全てが丸く収まる、というわけにはいかないが、どうやら大団円に落ち着きそうだと兵助はほっと胸を撫で下ろした。
三郎は二人が己の邸から借家に移ったことで再び妻との蜜月を再開したようで、目に見えて機嫌が良くなった。妻の雷はあれ以来眞子と親しくなったらしく、時折文を交わし合っている。兵助自身はと言えば特に変わらず、ひとり有能な侍従が居なくなったために不便が生じたくらいか。それでも友人の幸せを願えば、何てこともない。余り仲の宜しくない妻と愛しい女性に通いながら、周囲の自由気儘な行動に頭を痛める毎日である。
「達者で暮らせよ」
「三郎様も。――兵助様も」
「……ああ」
今生の別れにも等しいというのに、三郎の声は軽い。確かに行こうと思えば行けなくはない距離であるが、皇族として職務に就く彼らが京を離れることは余り許されないのだから、余程のことがない限りはこの先二人に会うことはないだろう。その考えが八左ヱ門にも伝わったのだろう、彼は兵助に少し歪んだ笑みを向けた。
「――貴方は無自覚に無理をする方だから少し心配です。俺が離れても、余り根詰めて仕事をしないように」
「お前もお人好しを発揮して、眞子を泣かせるなよ」
「俺があの方を泣かすとお思いですか?」
「……いいや、ないな」
自信たっぷりに返された言葉に兵助は苦笑した。同時に呆れた気分となって、犬の子でも追い払うかのように手を振る。
「もう行けよ、眞子を待たせているんだろう」
「ええ。……今まで、本当にお世話になりました」
「幸せにな」
牛車に乗り込んでいく八左ヱ門を見送りながら、兵助は次第に視界が歪むのを感じて上を向いた。
空は抜けるように青く、高い。長い旅の門出を祝うに相応しい天気だった。その青が次第に歪むのを感じて、兵助は牛車が動き出す音がしても顔を正面に向けることができなかった。三郎はそんな兵助の頭を軽く叩き、宥めるように呟く。
「淋しくなるな」
「ああ」
「でも、お前にはおタカの方も居るだろ。――少し泣いたら、ちゃんと笑うんだぞ」
「……ああ」
しかし、兵助にそう告げる三郎の声も若干滲んでいる。彼が仮面の奥で自分と同じく涙を流していることに気付き、兵助は笑いだしたくなるような気分になった。
――自分たちは主従だったけれども、同時にとても仲の良い友人だった。自分は彼らに何もしてやれなかったけれど、せめて道中の安全と将来さきの平和を祈ろうと思う。
泣き笑いの表情で小さく道に消えていく牛車を見送った兵助は、珍しく乱雑に装束で涙を拭ってから三郎に告げる。
「――今日はもう仕事しないで、遊びに行こうか。幼い頃遊んだあの場所へ」
「おや、生真面目の兵助が珍しいな。ま、良かろう。付き合ってやるよ」
今日だけは感傷に浸っても許されるだろう。兵助は自分でそう勝手に考えて、牛車が消えた方向とは正反対の方向へ踵を返した。傍らの三郎を道連れに、仕事を放棄することに決める。それに三郎がくつりと笑って、けれども彼を止めるどころか煽るように彼もまたその背中へとついて行ったのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒