鈍行
▼にぐ
『――支度をして、必ず貴女を迎えに行きます。それまではどうか普段と変わらぬ生活をして、俺を待っていてください』
八左ヱ門がそう言い残して、既に半月が過ぎた。あの日から数日後には潮江邸から内裏へと戻り、その後は彼と一切連絡を取っていない。勿論、いくら皇子の侍従とはいえ、皇女に対して付文などすれば首が飛ぶ。それは分かっているのだが、連絡が全く途切れた状態で放置されている眞子は胸に不安が沁み込んでくるのを抑えられなかった。
「宮様、先日わたくし見覚えのない虫を見ましたのよ。でも、捕まえようと思ったら逃げられてしまいました。今度は捕まえて、宮様にご覧にいれますね!」
小さな少女が己を慰めるように明るい調子で口を開く。――彼女は自分が八左ヱ門と引き裂かれたことを哀しんでいると思っているのだろう。見当違いではあるがその心遣いが嬉しく、眞子はそっと笑みを浮かべた。普段通りに過ごすと言うのは中々難しい。そもそも、普段どのように過ごしていたかが思い出せないのだ。
(誰の目にも触れぬよう、ただ静かに息を潜めて生きてきた。あの方に出会うまでは)
しかし、今はもう昔には戻れない。眞子は知ってしまった。あの優しい空気を、柔らかい人の声を、己を恋うてくれる男の温もりを。
「……有り難う、夢前殿。貴女には本当に感謝しています」
「まあ、何を仰いますやら! わたくしは宮様のお力になれることが何よりも嬉しいのですわ」
この宮中で、いつの間にか己の傍に控えてくれていた少女。自分より幾分も年下でありながら、彼女は常に己を支えてきてくれた。その彼女に何も言わず別れるのは辛かったが、迂闊に周囲へ協力を頼んで害を及ぼしてはならないと八左ヱ門と二人で決めたのだ。――飽くまで悪いのは自分たち二人であり、他の人間には最小限の被害で抑えるように。皇女である身をさらう以上はどう足掻いても波紋は広がるのだが、それでも親しくしていた人々にせめて迷惑が掛からぬように、と彼らは考えたのだ。
「――覚えていてくださいね、夢前殿。わたくしが貴女に本当に感謝していたことを」
「嫌ですわ、宮様ったら変なことを仰って。わたくしはずっと宮様のお傍に居りますのに」
「…………有り難う」
眞子はその約束が己の背信によって違えられると知っている。それ故にただ微笑むことしかできなかった。それでも、その気持ちだけは本当に嬉しく、眞子はいつかもし償うことができるならば彼女に出来得る限りのことをしようと心に決める。――例え己がどんな結末を迎えようとも。
それから更に数日後、眞子の許へ『九宮兵助からの文』が届いた。外聞はご機嫌伺いだが、実際には八左ヱ門から送られた偽造の文である。二人で決めた暗号が文の中に組み込まれており、眞子は遣いとしてやって来た八左ヱ門に諾という旨を同じく暗号でしたためた文を託した。勿論、二人が宮中で顔を合わせることはできないが、それでも心を籠めて書かれた彼の手蹟てが眞子に力を与えてくれる。――決行はもうすぐ。眞子は己の文箱に大切にしまい込んだ八左ヱ門からの文を思いながら、周囲をぐるりと眺めた。
女らしく整えられた対の中は眞子の趣味に合わせて様々な意匠が施されているが、この対に愛着を覚えたことは一度もない。唯一親しみを覚えているのは間の隅に積み重ねてある虫籠くらいか。その中には雑多な虫たちが存在し、様々な音を立てていた。
彼らに関しては連れてはいけないと八左ヱ門からも言われていたため、気付かれないように少しずつ外へと放し続けている。今まで人の手で育てられてきた虫たちが野生に戻れるかどうかは分からないが、八左ヱ門が自分の支度が整うまでの間に、と野生に戻すための様々なやり方を教えてくれた。それを気付かれないように実行して、後は彼らの生命力に全てを託す。
(――わたくしの我儘で貴方たちを振り回してごめんなさい)
少しずつ空になって行く虫籠に眞子は心の中で何度も謝った。少し前の眞子であれば、こんなことは絶対にしなかったはずだ。けれども、今は己の中で順序が出来てしまった。一番大切なものが出来た以上、彼女にはそれを守るために他の物を捨てるしか出来ない。人として許されない、後ろ指を差されるような行為でも、眞子はもうためらわなかった。
(それでも、あの人と共に居たいの)
最後に願うのはこれだけ。今の眞子にとって、それだけがたったひとつ生きる希望だった。
「――夢前殿、少し頼まれてくださいませんか?」
「はい、何のご用でしょう」
眞子は予てより用意していた用事を己の側近へと言い付ける。傍に居れば己に忠を尽くしてくれる彼女のことだ、何かしら手を貸してくれるに違いない。しかし、それをやらせれば彼女も罪人になってしまう。それ故に眞子は夢前を傍から離すことに決めていた。五宮へ周囲を騒がすことへの謝罪の文をしたため、眞子はそれを夢前に手渡す。五宮が文を見る頃には既に眞子は宮中には居ないはずだし、五宮から他の兄姉にも己の謝罪は伝わることだろう。眞子は激しく打つ胸を気付かれぬようにうっすら微笑み、己の唯一腹心であった女房への手を握る。
「今の状況ではもう異母兄上あにうえ方にお会いできることもなくなると思います。ですから、どうぞ十宮が皆様に宜しく申し上げていたとお伝えしてください」
「……分かりました。しっかりとお伝えいたします。すぐに戻りますから、宮様も余りお憂いにならないでくださいませ。夢前だけは宮様のお傍にずっと居りますから」
「本当に有り難う、夢前殿。でも、折角だからゆっくりしていらっしゃい。いつもわたくしの傍では気が詰まるでしょう。――偶には子どもらしく遊んだって良いのですから」
「まあ! わたくしは宮様のお傍に侍るのが好きですのに!」
稚いとけなく頬を膨らませた夢前は、けれどもおどけるように笑った。そうして彼女は深々と頭を垂れると、彼女の許を退出していく。その小さな背中を見送りながら、眞子もまた気付かれぬように彼女へ頭を垂れた。深い深い感謝を込めて。
「――これで全て、かしら」
夢前が出て行った後、眞子の行動は常になく迅速だった。すぐに人払いをし、最後に残っていた虫たちをそれぞれ決めていた場所から次々と逃がす。必要なものをひとつにまとめ、それ以外のものは全て後で処分できるように片付けておく。今まで着ていた美麗な衣装の類には一切手をつけず、少しの下着と夜着だけを集めて包みに入れる。いつでもその場を引き払える準備を整え、彼女は〈合図〉があるのを待った。
『ホーホケキョ』
しばらくすると、季節外れの鶯が鳴いた。
その声に眞子は立ちあがり、打ち合わせをしてあった通りに入口を開く。それに合わせてもう一度鶯が小さく鳴き、するりとひとつの影が中へ入り込んだ。
「――おひとりですね?」
「ええ。夢前殿にはお遣いをお願いしました。……異母兄上――五宮様に文を届けてもらえるように、と」
「……本当に宜しいですか? 今ならまだ、引き返せますよ」
眞子の言葉に八左ヱ門がもう一度念を押すように問い掛ける。それに眞子は軽く首を振って、八左ヱ門の胸に寄り添った。
「例えどのような結末になったとしても、わたくしは貴方と共に往きます。……そのような運命だったのでしょう。今でもわたくしの決意に揺らぎはございません」
八左ヱ門は眞子のその言葉にその細い体躯を抱き締めた。額に、こめかみに口付けを落とす。何かを堪えるように彼女の頭に頬を寄せ、強い意志を用いて彼女の身体を放した。同時に持っていた包みを彼女へ差し出す。
「これに着替えてください」
「これは……?」
「俺が子どもの頃に着ていた装束です。そのままのご衣装では目立ちますからね。――あ、ご安心ください。ちゃんと綺麗に洗ってありますから」
困惑したように包みを見下ろす眞子に八左ヱ門は声を落として告げる。彼女の身体を几帳の後ろへ押し遣り、着替えを促す。緊張した空気を解こうとおどけて言う八左ヱ門に、眞子はようやく表情を緩める。その時に初めて、彼女は己もまた緊張していたことに気付いた。
促されるままに几帳の裏へと移動し、包みを開く。しかし、眞子は着替えを始めようとしてはた、とあることに思い至った。
「……あの、竹谷様」
「何か足りないものでもありましたでしょうか?」
「いえ、あの……どうやって着たら良いのでしょうか。その、殿方のお衣装に触れることが今までございませんでしたので、着方がよく分からなくて……」
その言葉に八左ヱ門は一瞬固まった。――しかし、考えてみればその通りである。彼はそれに思い至らなかった自分の間抜けさを内心罵りながら、几帳の奥へと声を掛けた。
「……すみません、そこまで思い至らず。白小袖と白帷子かたびらの着方はお分かりになりますよね? その後に葛袴くずばかまを穿いてください。もしどうしてもお分かりにならないようでしたら、ご無礼ではございますが、その、俺が手伝います」
「すみません、頑張ってみます」
「お願いします。時間も迫ってきておりますので、なるべく急いでください」
「はい」
眞子は全ての服を脱いだ後、言われた通りに白小袖、白帷子を取り出して身にまとう。しかし、普段から人に手伝われて着替えをするため、自分ではどうしても上手くいかない。己の無能さに情けなくなりながら、眞子は小さく八左ヱ門を呼んだ。
「……その、竹谷様。申し訳ありません、わたくし、その」
「――失礼します」
裸に白小袖をまとっただけの状態の眞子は、低く抑えられた八左ヱ門の声にびくりと身を竦ませる。碌に支度もできない自分に嫌気が差し、やはり要らぬと言われるのだろうかと泣きたくなった。思わず潤み始めた目を見られたくなくて、眞子は俯く。そんな彼女を八左ヱ門の手がゆっくりと触れた。
「なるべく見ないようにはしますけど、お許しください」
しゅ、と少し強く小袖の裾を引かれる。形を整えられた小袖の上に帷子を着せ、同じくきちんと着付ける。俯いても自然に視界へ入る八左ヱ門の表情は硬い。もう後には引けないから仕方がなくやっているのではないか、と眞子が己の不甲斐無さに吐き気すら感じている中、ふと彼の耳が目に留まった。――普段よりもずっと赤く染まっている。そこで初めて、眞子は己の状況に気付いた。
「あ、の」
「何でしょう?」
思わず羞恥に顔を染めた眞子が声を上げると、八左ヱ門が同じく上擦った声を出す。至近距離でかちりと合った視線に、二人はそれぞれ顔へ血の気を昇らせた。けれども、八左ヱ門の手は少し止まった後に、再び、先程以上の速さで動き始める。それに眞子は小さく溜め息を吐いた。
「その、本当に申し訳ございません……」
「何がですか?」
「満足に装束すら着ることもできませんで、ご迷惑をおかけしてばかり。……貴方こそ、お嫌になりませんか?」
「まさか! ……むしろ、俺の方が謝らなくちゃなりませんよ。男の衣装など着たことがなければ、着られないのは当たり前です。俺こそ思い至らなくて申し訳ありませんでした。さ、袴に足を通して。――それに、俺が貴方を嫌になることなんて有り得ませんよ。それくらい、貴女に惚れ込んでいるんです。そうじゃなきゃ、こんな所にまで忍んできたりしません」
自分の肩に手を置かせ、八左ヱ門は子どもにするように眞子へ袴を着せる。手早く帯をまとめると、彼は背中に流されている豊かな黒髪へと視線を転じた。子どもなら垂髪すいはつでも問題ないが、余りにも長さがあり過ぎる。かと言って童のように短く切ることなどは論外で、八左ヱ門は小さく唸った。
「お髪ぐしをまとめるようなものは何かお持ちですか?」
「あ、えっと、では、その……こちらを」
眞子が大切そうに取り出したのは以前自分が贈った組紐。じゅんこに良く似た柄ともうひとつ――昔、初めて彼女と出会った時に虫籠を閉じるためだけに使った、あの紐。以前にも預かっている、と伝えられたことはあったが、もうとうに捨てたものだと思っていた。それを今目の前に差し出されて、八左ヱ門は思わず目を見開く。
「これ……」
「その、以前にお借りした――いえ、頂いた紐なんですけれども」
「もう捨てられたものだと思っておりました」
「まさか! 大切な、わたくしの宝物です」
少し恥ずかしそうに、けれど笑顔で応えた眞子を八左ヱ門は思わず抱き締めた。――もうこれ以上どうにもならないくらいにこの女性に惚れ込んでいるはずなのに、このようにちょっとしたことで更に深みにはまっていく。こんなことをしている場合ではないのに、思わず八左ヱ門は己の腕の中に居る少女へ口付けていた。
「――ん、んん!」
「は……すみません、つい……。お髪、失礼しますね。まとめて水干の背に入れてしまいましょう。被きをしていただきますので、お顔やお髪などはご心配なさらぬよう」
柔らかい唇の感覚に溺れそうになる自分を無理矢理引き戻し、八左ヱ門は眞子の頭の形を一度だけなぞって手を放す。更に顔を上気させる眞子の髪を手早く紐でまとめると、水干の背に溜まるように入れ込んだ。更に自分の装束の上をその上から被せ、八左ヱ門は笑う。
「これでお支度が整いました。さあ、参りましょう」
彼の装束を掛けられるのは何度目か。ふわりと薫る八左ヱ門の匂いにひどく安らぐ自分に気付いて、眞子は何だか気恥ずかしくなった。――けれど、これからは二人で一緒に往くのだ。差し出された腕に己の身を委ねると、眞子は自分がそっと抱え上げられるのを感じた。
「顔を伏せて、黙っていてくださいね。――貴方は宮中に出仕している男の童で、気分が悪くなってしまったから俺が頼まれて連れて帰るんです。力を抜いて、なるべく体調が悪そうな感じでお願いします」
子どものように抱え上げられ、眞子は思わず身を固くする。荷物はいつの間にか八左ヱ門の手に収まっており、何もかもが進んでいく。掛けられた装束の下で真っ赤な顔をしながらも、眞子は八左ヱ門の首に腕を巡らせた。大人しく、具合の悪そうにしていることが重要だ。――疑われて顔を見られた時点でこの企ては終いとなる。今更ながらに恐ろしさを感じて、眞子はぎゅっと八左ヱ門に回した腕へ力を込めた。
「――大丈夫、上手くやってみせます」
宥めるように軽く叩かれた背中に少しだけ波立った心が落ち着いた。それでも恐怖と不安が全て消えるわけではなく、眞子は震える身体を抑えることができない。八左ヱ門はそんな眞子に気付いて、けれどももう彼女に問い掛けはしなかった。
「……もう引き返せますよ、とは言いません。貴女が嫌がって泣いて喚いても、俺は貴女をさらっていきます」
強く、一度だけ抱き締められる。眞子は低く囁かれた言葉に喜びで胸が詰まり、何も応えることができなかった。ただ唯一自由になる腕の力を強くして、八左ヱ門に寄り添う。八左ヱ門はそんな眞子の背中に一度だけ頬を寄せることでそれに応え、何も言わずに歩き始めた。
「――おや、どうしたんだ?」
顔見知りの門衛に声を掛けられ、八左ヱ門は反射的に笑顔を浮かべた。こういう時に自分の愛想の良さが役に立つとは思わなかったが、そんなことは置いておく。ビクリと小さく身体を竦ませる腕の中の少女を背中を軽く押さえることで宥めつつ、八左ヱ門は用意してあった言い訳を口にする。
「いや、それがこの子が気分悪くなっちまったみたいで。でも、親にもご主人にも迷惑かけたくないって言い張ってさ、仕方ないから送ってってやろうと思ってさ」
「相変わらずお人好しだなあ、お前さんは。どれ、大丈夫か?」
「わー! ちょ、駄目駄目! ようやく寝たとこなんだよ! 光で起きちゃうから勘弁して!」
厚意とはいえ伸びてきた手に八左ヱ門は悲鳴じみた声を上げた。大声を出しかけて慌てて己の口を塞ぎ、周囲に静かにするよう示す。それらしい言い訳を咄嗟に練り上げ、彼は大げさなくらいの態度で口に人差し指を当てた。その様子に門衛の方が困った顔をする。
「起きるって……起きたらまずいのか?」
「連れてくる前にもお勤めがあるってぐずってさ。ご主人に軽く調子が悪いみたいだからって話して、帰りたくないって駄々こねるこいつ宥めて、大変だったんだよ。寝た子を起こしたくないし、そろそろ行くわ。お勤め頑張れよ」
「お前さん、本当にお節介と言うか何と言うか……まあ、気を付けてな」
「すまんな、有り難う。じゃ」
何とか門衛の前を擦り抜け、八左ヱ門は門の外へと足を踏み出す。走り出したくなる気持ちを抑え、彼は一度腕の中の少女を揺すり上げると歩き出した。次第に早足になるものの、何とか混雑に紛れて大内裏の大路を歩き続ける。まだまだ省や寮など役所が立ち並ぶ場所が続くため、一般人に紛れるまでとてもじゃないが気は抜けなかった。次第に汗ばんでくる身体を無視して、八左ヱ門は歩き続ける。時折会う顔見知りに脅かされながらも、何とか朱雀門まで辿り着いた頃には人ひとり運んでいた八左ヱ門は勿論、眞子も緊張で汗まみれになっていた。
『……朱雀門を抜けました。空家に荷物を隠してあります。そこで一度地下人に変装して、その後は歩いて東へ向かいましょう』
声を出して応じることができない眞子は少し抱き付く力を強めることで応じる。それに八左ヱ門は彼女の身体を再び揺すり上げることで更に応え、再び歩き始めた。さり気ない様子で人気の少ない場所へ向かって行き、彼の荷物を隠した空家へと近付いて行く。人目を盗んでその家に入り込むと、八左ヱ門は安堵で深い溜め息を吐いた。――が、しかし。
「随分長く掛かったな。皇女を盗むにしては悠長だ」
「へっ、いすけさまっ!? おタカの方まで……どうしてここに」
自分しか知らないはずの空き家に居るのは二つの人影。しかも、それが己の主とその次妻となれば驚きは否応なしに増すというものである。八左ヱ門の言葉に今まで顔を伏せていた眞子も身体を起こして二人を見遣り、不安げに己を抱く男へと身を寄せた。
「――私は確かにお前の主だけど、同時にお前の友人で幼馴染でもあるんだぞ。上手く隠してても、私に分からないはずないだろ」
「因みにこの場所を調べてくれたのは二郭殿のオトモダチだよ。表だって動けないから頼んでもらったの」
険しい顔で己を睨み付ける主と、相変わらず状況にそぐわぬほどいつも通りの同僚。その二人を交互に見遣りながら、八左ヱ門はどうするか考えていた。身を翻して逃げても、人ひとり抱えている八左ヱ門と兵助とでは、兵助の方に分がある。かと言って、このまま引き離されて愛しい女性を連れ戻されるのも御免だった。空転する頭に焦りが過よぎる。それが眞子にも伝わったのか、彼女は不安げに八左ヱ門の首に縋り付いた。
「……八左ヱ門……お前、自分が何やってるか、分かってるんだよな?」
「当たり前でしょう。生半可な覚悟で姫宮様を盗み出すなんて出来るわけない」
「……眞子は、それで良いのか?」
兵助の言葉に眞子は身体を震わせた。守るように強く抱き締める八左ヱ門の腕に彼女は覚悟を決め、八左ヱ門に降ろすよう合図する。嫌がる八左ヱ門に首を振ることで意志を通し、眞子は己の足で地を踏み締めて異母兄と対峙した。
「――わたくしは、この方と共に往きます。どうぞ我々のことは死んだものとして忘れてください。ご迷惑をおかけしますが、何もお構いなさいませぬよう。全て知らぬ存ぜぬで通してくださいまし。……異母妹いもうととしての唯一のお願いです」
「できぬ、と言えば?」
「……それでも二人で逃げますよ。最後まで」
兵助の言葉に眞子を守るように八左ヱ門が前に出た。己を真っ直ぐに見据える二人の瞳に兵助は溜め息を吐く。――何となく、この二人が親しくなったと姉から聞いた時に、こうなることは分かっていた気がしたのだ。一本気な幼馴染と一度愛情を与えたものには揺らぎない異母妹。この二人がお互いを認めた以上、分け隔てることはできない。茨の道と分かっていても、それを貫く二人の気持ちが哀しかった。
「兵助様、その辺で良いじゃないですか。あんまり意地悪しちゃ駄目ですよ」
「タカ……」
対峙する三人の均衡を崩したのは、先程と同じく場違いなほどに穏やかなおタカの方である。彼女は明るい笑顔を浮かべながら、隣で佇む兵助の頬を指で突いた。嫌な顔をする兵助を余所に、おタカの方は笑顔を崩さずに割って入ってくる。
「――あのさ、竹谷殿。私たちが君たちの不幸を望んでると思う?」
「それは……でも」
「確かに、身分違いで犯罪だ。けれどさ、仕方ないじゃない? 好きになってしまったものはどうにもならないんだし。一番大切なのはお互いの気持ちでしょ。もう一回だけ聞くよ。――二人とも、お互いが大好きで一生離れたくないんだよね?」
「当たり前でしょう」
即答したのは八左ヱ門だ。彼に肩を抱かれた眞子は恥ずかしげに顔を俯けている。おタカの方は一歩進み、己より幾分小さな少女へ目線を合わせながら優しく問い掛けた。
「姫宮様は、どうですか? ちゃんと、ご自分の言葉でお答えくださいな」
「――わたくしとて、許されないことだとは分かっているのです。けれど、わたくしはこの方と共に往きたい。この方に教えていただいた光景を、己の目で見てみたいのです」
「……ですって、兵助様」
二人の答えを満足げに聞いたおタカの方は、夫に振り返って笑った。その応えを聞いた兵助は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。彼の傍に再び戻ったおタカの方は、素直じゃないね、と笑う。どこかあやすような彼女の声に更に眉間にしわを寄せた後、兵助は深い溜め息をひとつ吐いた後に口を開いた。
「――もうすぐ、お前たちを迎えに車が来る。多分、もうそろそろ十宮が消えたことに内裏が騒ぎ出す頃だ。もうこの時点で無事に京を落ちるのは難しい。だから、お前たちが無事に騒ぎが収まるまで隠れる場所を提供してやる」
「へ、兵助様っ!?」
「……言ったろう。俺は九宮兵助である以前に、お前たちの幼馴染であり、異母兄なんだと」
「異母兄上……!」
「素直じゃないんだからねえ、この方は」
まるで子どもに言うようにおタカの方が茶化した。それに兵助は本当に嫌そうに顔をしかめた後、男子の姿をしている眞子を自分の妻に示した。
「その恰好じゃ車に乗って見咎められた時に不自然だろ。タカの女房装束を持って来たから着替えなさい。――八左ヱ門、お前はその間にここの荷物や痕跡を全て浚っておけよ。まさかそこまで検非違使が優秀だとは思わないが、見つかれば厄介だからな」
「兵助様……」
「仕方ないだろ、俺たちだって我儘したんだ。お前にも随分迷惑を掛けた。……そのお前が一生で一度のでっかい我儘するってんなら、主として叶えてやらないわけにはいかないだろう。もしかしたら、俺とはもう一生会えないかも知れないんだから」
その言葉に八左ヱ門は思わず涙を零した。主従以上に仲が良いことは自他共に認める事実だが、改めて友愛を示されると胸が痛かった。この人物を裏切って、己の想いを付き通そうとした自分に腹が立つ。けれど、それ以上に腹が立つのは、例えそれで主との友情が途切れることになっても、眞子を諦めきれない自分自身だった。
「さ、姫宮様はこちらへどうぞ。すぐに迎えが来ますから、急がないと」
「竹谷様……」
「大丈夫、おタカの方は信頼できる人です。何と言ってもあの気難しい兵助様にずーっと女房として、妻として傍に居た人だから。……信じましょう。それに、この方は腹芸ができるような方じゃない。それは侍従として傍に居た俺もよく知ってます」
気難しいは余計だ、と呟く兵助と明るい笑みで己を促すおタカの方を代わる代わる見遣った後、眞子は八左ヱ門の言葉に頷いて足を踏み出した。彼と離れること自体が不安だったが、それを抑えてまた一歩踏み出す。にこりと優しく笑むおタカの方に眞子は少し硬い笑みを向けた後、もう一度だけ八左ヱ門を振り返る。それに彼が頷くのを見て、彼女もまた頷き返して事前に紐で吊るしておいたらしい衣装の影へと入り込んだ。
一方、残された八左ヱ門は未だ渋い顔を崩さない兵助に気まずい思いをしていた。荷物は既にまとめてあるし、痕跡と言っても埃や何かはこの空き家を使うと決めた時に大体払ってしまったため、今更汚すこともできない。主に謝罪しようかとも思ったが、謝っても許される問題ではないし、何より彼は謝る気もない。――犯罪ではあるが、お互いの気持ちはひとつ。もう己を偽るつもりはなかった。
「……そう言えば、あの真虫だけは連れて行くつもりだったんだな」
「え?」
「十宮の真虫。お前がこっそり飼ってたやつ」
己と視線を合わせぬままに呟く兵助に、八左ヱ門は困惑しながら応えた。――じゅんこだけは、どうしても野生に放せなかったのだ。今も隠した荷物の中にひとつだけ虫籠が紛れている。八左ヱ門は先程集めてきた荷物の中に混じる虫籠を見下ろして小さく呟いた。
「……こいつだけは、特別なんですよ。あの方にとっても、俺にとっても」
「十宮を助けたから?」
「それもありますけど。――それ以上に、こいつは何か……人の言ってることが分かってるような、何かそういうのがあって。どうしてもこいつだけは手放せなかった。これもただの我儘ですけど」
「ふうん……」
再び二人の間に沈黙が落ちる。けれど、二人はもう何も話そうとはしなかった。それで良かったのだ。
「もし誰かに見咎められたら、九宮の使いだと言え。十宮はタカの名を使えば良い。――私たちのことは気にするな。何か言われたら、不埒な元・侍従が勝手に騙ったとでも言っておくさ。目的地はこの牛飼い童が知ってるから安心しな。
じゃあ、久作、頼むな」
「承りました。――では、お二方、どうぞ中へ。準備ができたらお声掛けください。出発いたします」
人目をはばかるように粗末な牛車が空き家の少し離れた場所で止まっている。その牛車を操っていた牛飼い童は兵助の言葉に軽く頷き、他の人間に指示を出した。同時に乗車の準備が始められる。眞子は普段己が使っている牛車よりも数倍早く支度を整える車添えたちに目を丸くしなながら、異母兄や義姉に一度だけ頭を下げた。
「礼は要らない。匿うといっても絶対じゃない。どんなに気を付けていてもどこから漏れるかは分からないから、全て終わって落ち着いたらにしてくれ。――八左ヱ門、俺の異母妹を頼むぞ。泣かせたら姉上に言い付けるからな」
「恐ろしいことを……分かってますよ、全力を尽くします。おタカの方、兵助様を頼むな。二郭殿にも、黙っててごめんって、元気で暮らすように伝えてくれ」
「分かってるよ、大丈夫」
三人が別れを惜しむ間にも牛車の支度が整う。二人は促されるままに車に乗り込み、物見窓から顔を出す。それに兵助とおタカの方は手を上げることで応え、窓を外から閉めさせた。二人が離れると同時に牛車が動き出す。次第に遠ざかって行く牛車を見送りながら、兵助は溜め息を吐いた。
「……淋しい?」
「そりゃあな。――お前よりも長い時間、ずっと一緒に居たんだ」
「でも、今生の別れじゃないんだし。北のお方に遠出するって言って、偶に遊びに行っちゃえば?」
「できないよ。あいつらが逃げた以上、犯罪者だ。皇すめらぎに連なるものとして、理を外れたあいつらを表立って許すわけにはいかない。皇族が律令を踏みにじれば、世が荒れる」
「……相変わらず真面目だなあ」
おタカの方は兵助の言葉に小さく呟いた。それに夫は顔をしかめたが、彼女は彼のそういうところが嫌いではない。むしろ、そういった人物だからこそ、一生かけて仕えようと思ったのだ。それはきっと八左ヱ門も同じだったろう、と思いながら、既に見えなくなった牛車をおタカの方は再び眺めたのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒