鈍行


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▼やく



「……じゅんこは、お元気でしょうか」
「はい。今はもうあの時の怪我も治ったようで、元気に餌を食べておりますよ」
 竹谷 八左ヱ門は御簾の奥で静かに尋ねる少女に、明るい声で答えた。――あの事件から数週間、彼女の真虫は今八左ヱ門の手によって育てられている。それは勿論、彼女の傍に人を傷付けた真虫を置いて行くわけにはいかないという事情があったからで、それならば、と八左ヱ門がじゅんこを引き取ったのだ。幸いにもじゅんこは今まで居た静かな場所とは全く違う環境に置かれても上手く適応してくれているようで、八左ヱ門が餌を箸でぶら下げると元気良く喰い付くようになった。時折寂しそうにしゅるりと身体を動かすことはあるが、それも八左ヱ門が声をかけると不思議と大人しくなるのである。
「あれはまるで人の言葉が分かるようですね。俺も時々、ふっとアレに話しかけていると、分かっているんじゃないかと思う時がありますよ」
「ええ、わたくしもです。――じゅんこは、わたくしの一番の友人でしたから……」
 己の傍を離れた友人を恋うように寂しげな様子で囁く十宮眞子(まこ)の声に八左ヱ門は少し慌てる。実質、彼が引き離したようなものなのだ。とは言え、彼女の傍に置いておこうと思えば、じゅんこは間違いなく処分されていただろうから、どちらにせよ彼女たちは共には居られぬ運命だったのではあるが。同じく沈黙する八左ヱ門に対し、眞子は少し無理に明るい声を出した。
「大丈夫です。寂しくない、とは申し上げませんが、今は異母姉上(あねうえ)のお子方――正確にはわたくしの姪ですけれども――が対まで遊びに来てくださるんですの。夢前以外の小さなお子とお話しするのは初めてで、楽しいですわ」
 眞子の言葉に八左ヱ門は同じく緩やかに笑んだ。彼らが今居る場所は六宮仙子(せんこ)が降嫁した潮江 文次郎が住まう邸の一角である。あの事件の後、仙子が怒りのままに今上へ十宮暴行事件を直訴したのだ。そこで発覚したのは中宮が今上には眞子が了承しているという嘘を伝えていたことと、眞子にはその事実が全く知らされていなかったという事実。それに今上も甚くお怒りになり、中宮は異例の謹慎処分を受け、眞子は心が落ち着くまでは潮江邸への居候となったのである。
 勿論、この措置に落ち着くまでにも紆余曲折があったらしい。八左ヱ門は勿論関わることなどもできはしない世界だが、彼の主であり、眞子の異母兄(あに)である兵助がその紆余曲折に散々巻き込まれた挙句、その愚痴を報告という名の下で八左ヱ門に垂れ流しにしたために彼もその経緯を知っているのだ。その中では兵助の邸宅に引き取るか、という話題も出たそうだが、兵助が彼女と婚姻も可能である異母兄であるということと、何より正室が彼女を受け入れるのを嫌がったということでその話はお流れになった。同じく、一宮は都から既に離れて暮らしているために、二宮は既になく、三宮は婚姻をしていないために却下。居るらしい、というだけの四宮は当然話にならず、五宮と八宮は九宮と同じ理由で却下される。七宮も同じく異母兄であるということに加え、邸宅が京校外の荒れ屋敷であるため、警備上の理由も加えて外された。十宮と同母弟である十一宮はまだ幼く、内裏で暮らしているために避難所としては不適格。残るは同性であり、使用人も数多抱える六宮で、彼女ならば今上の信頼も厚く、また夫である潮江 文次郎も妻である仙子以外には目もくれぬと有名であったため、的確であろうと決定したのである。――もっとも、彼らの誰もが異母妹を実妹と同じく考えているために手出しなどするはずもなく、またそれぞれに愛しい妻がいるのではあるが。
 とにもかくにもそのようなわけで、現在眞子は潮江邸に住まっている。そこに八左ヱ門が兵助の使いとして訪れ、仙子から「ちょうど良いから会って行け」と喜ぶべきか諌めるべきか分からない発言を受けて今に至る。今回も彼女の傍に侍るべき夢前は変な気を使っていない。八左ヱ門としては自分が彼女に何かしでかすなどあってはならないことだと分かっているし、変な言いがかりを付けられないためにも是非同席して欲しいと思っているのだが、彼女はそういった〈大人の事情〉には気付いてくれないようだ。しかし、同時にこの状況に心の隅では歓喜している自分を情けなく感じつつ、八左ヱ門はそっと御簾の奥で座っている少女へと目を向けた。
 御簾越しであるため、当然ながらその姿を見ることはできない。ただ、時折立てる笑い声や吐息、身じろぎで鳴る衣擦れの音などは御簾の傍に居る八左ヱ門にも良く聞こえた。下部の(しとみ)は何故か取り外され、上部の蔀は持ち上げられている。当然、御簾は風に揺れる様まで傍に寄っている八左ヱ門にはよく見え、その厚遇に彼は信頼されていると喜ぶべきなのか、それとも手出しなどできるまいと高を括られていると嘆くべきかを迷うところだ。とは言え、皇女に迂闊に手を出せば己の首が飛ぶだけでなく、眞子自身の進退にも関わってくる。愛しい女性をそのような境遇に貶めるなど当然ながら八左ヱ門にはできるはずもなく、風に漂う彼女の香に気付かぬ振りをするばかりであった。



「……わたくしももうすぐ内裏に戻ることが決まりました。母――中宮は未だ里に下がって謹慎しておりますので、その間に身の振り方が決められるようです」
「そう、ですか……。では、本当にこうしてお会いすることはなくなりますね。
 じゅんこに関しては、心配しないでください。俺が責任もって面倒見ますから。それに……」
 そこで八左ヱ門は一度言葉を切った。彼女と出会って、惹かれ始めてから考えていたことではある。けれど、それを実際に口に出すのは少し勇気が入った。それでも迷う己を振り切るために八左ヱ門は口を開く。
「……俺も、もうしばらくしたら東に帰ろうと思ってるんです」
「東に、お戻りになる……?」
 八左ヱ門の言葉に眞子は信じられない、という調子で呟いた。それもそうだろう、東など京に比べれば田舎も田舎、ど田舎である。京に課役や仕事を探して出て来るならともかく、元々は東に居たとはいえ、京で仕事――それも皇族の侍従など田舎者には過ぎた仕事だ――を持っている人間が若いうちから田舎に戻るなど余りないことだ。八左ヱ門は自分でも感じる違和感を断ち切るために、強いて明るい調子で続けた。
「ええ、幸い親父――俺の亡くなった父親の持っていた家も土地もまだ残っているんですよ。今は人に貸してますけどね、俺だってあっちに戻れば一応土地持ちの家持ちなんです。もっとも、猫の額ほどの土地ですけど。
 兵助様ももうご結婚されて遊び相手なんて要らなくなったし、侍従なら俺以外にもいっぱい有能なの抱えてますし、なら俺は一足先に(ひな)に戻って、嫁さんでも貰って楽隠居を決め込もうかな、なんて思ったりしてるんです。俺は元々京よりも鄙の地の方が向いている性格ですしね。
 それに、あちらはじゅんこにも決して悪い場所ではないと思うんです。――あ、どうしましょう。じゅんこ、こっそりお返しした方が良いですか? 俺、勝手に連れて行こうって決めてましたけど、もし駄目なら、八宮様か五宮様に面倒を頼んだ方が良いでしょうかね?」
 まだ誰にも――主である兵助にすら言ったことのない計画を語る八左ヱ門であったが、その途中で眞子の真虫に関して彼女へ窺うように問いかける。今は彼が面倒を見ている真虫であるが、八左ヱ門にとってはただ〈預かっている〉という感覚で、常にじゅんこは〈眞子の真虫〉と考えているのだ。その真虫に関してはどうするか、と御簾へと向き直った八左ヱ門は、奥からの反応が全くないことに気付いて困惑した。
「……姫宮様? どうかなさいましたか? ご気分でも?」
 御簾ににじり寄って囁く八左ヱ門に、衣擦れの音が聞こえた。気配が近い、と気付くよりも早く、御簾の下から細い指が現れる。それは御簾のぎりぎりまで寄っていた八左ヱ門の袖を弱い力で掴み、眞子が御簾を隔てながらもすぐ傍に居ることを教えた。
「……姫宮、様?」
「――いつ、お行きになるのですか?」
 囁かれた眞子の声は震えている。それはまるで幼い子どもが置いてきぼりにされるような雰囲気があった。――心細いのだろう、と八左ヱ門は考える。あのような事態に遭遇してなお、彼女は他の男に嫁がねばならない。今上が選んだ男ならば少なくとも無体な真似はするまいが、己の思うが儘に過ごせぬ少女の身の上に八左ヱ門は同情した。それ故に、彼女の指に八左ヱ門は勇気付けるように己の指を絡める。その行為に含まれた己の想いには気付かぬ振りをして、彼は続ける。
「貴女のことが落ち着いたら。……こうして姫宮様のお傍に侍る幸運を得たのも、何かの縁なのでしょう。貴女のお幸せな姿を(しか)と見届けた後、俺も東へ戻ります。姫宮様がお寂しいようなら、じゅんこはちゃんと京に置いて行きますよ。五宮様か八宮様に託せば、世話もきちんとしてくださるでしょう」
 本当は彼女が嫁ぐ姿など見たくなかった。けれども、そうでもしなければ諦めが付かないのだ。
 元より、八左ヱ門が眞子の傍に侍ること自体が天地が引っ繰り返るような事態である。しかも、このように兄弟でもないのに親しく言葉を交わし、時には夫でもないのに目を合わせることすらした。男女の恋は噂と和歌から始まるのが世の常であるはずが、己は恋すら許されぬが故か、こんなにも傍に在れる。傍に居れば居るほど、彼女を知れば知るほど、想いは募ってゆくのだ。諦められるはずがない。
「……ならば、伊勢にでも行ってしまうのだった」
 ぽつりと零れた言葉は、声の持ち主ですら呟いたことに気付かなかったらしい。けれど、耳の良い八左ヱ門は気付いてしまった。同時に、彼女が何を思っているのかにも気付いてしまう。――気付きたくなど、なかった。その先にあるのは破滅でしかないのだから。けれど、気付いてしまった。彼女もまた、己に好意を抱いているということに。
 気付けば最後、もう後には戻れない。
「姫宮様」
 八左ヱ門は堪え切れずに声を漏らした。絡めた指を強く引く。同時に己の手を御簾の内に潜り込ませた。
「――貴女をお慕いしております」
 取った手が震えるのが分かった。八左ヱ門はそれに自嘲する。……彼女が己を信頼するのは、そこに男女の関係がないからだ。己を害するわけではなく、兄のように守る存在だったからこそ彼女は己を傍に置いた。それを愛情と勘違いして、馬鹿なことを告げたのは自分。けれどもう、口から零れた言葉を取り戻す術はない。最終的には半分自棄に近い状態で、八左ヱ門は続けた。
「もし貴女が少しでも俺のことを好いてくださっているなら――もう一度だけで良い。貴女の顔を見せてください」
 夫でもない、それどころか公達ですらない八左ヱ門が貴人、それも皇女である眞子と対面するなどあってはならないことだ。一度でも御簾の隙間や扇の端から垣間見ることができれば奇跡に近い。けれど、その奇跡の恩恵を既に八左ヱ門は享けている。それで満足していれば良かったのかも知れない。けれど、八左ヱ門は彼女がどんな声で話し、どんな表情を浮かべ、どんな振る舞いをするのかをもう知ってしまった。一度知ってしまえば知らなかった頃には戻れない。だからこそ、こんな無理なことを言ったのだ。
(正気の人間ならば、この手を振り払って奥へ逃げるはず。――そうしてくれたら、今度こそ諦められる)
 傍に侍るのを許され、親しげにされればされるほど勘違いしそうになる。だからこそ、己の未練を断ち切るためにも彼女に己を嫌悪して欲しかった。身の程を知れと、自分たちの生きる世界は遠いのだと明確に思い知らせてほしいのだ。
 けれど、八左ヱ門の望んだ行動を眞子は取ってくれなかった。それどころか、更に彼を惑わせるような行動を取る。
 ――御簾が、上がった。間を遮るための蔀は存在せず、細い手が重そうに御簾を持ち上げるすぐ傍に眞子の身体が見えた。色鮮やかな装束が八左ヱ門の目に映り、眩暈を起こさせる。いつの間にか八左ヱ門は空いている手で自ら御簾を上げていた。身を乗り出し、御簾の奥へと身体を滑らせる。ぱさり、と御簾が背中の後ろで落ちる音が聞こえた。
 何故、と八左ヱ門が問うより早く、眞子が動いた。いや、動いたのは八左ヱ門も同じである。二人は引き寄せられるかのようにお互いの身体に腕を回していた。お互いの存在を確かめ合うように二人は強く抱き合う。その行為は言葉よりも確かにお互いの気持ちを伝えていた。
 八左ヱ門は一度身体を離し、眞子の顔に手を触れた。頬を辿るように手を滑らせる。眞子はその行為に抵抗することもなく、ただ潤んだ瞳を一度だけ伏せた。それに誘われるように八左ヱ門は彼女の額に口付けを落とす。続いて瞼へ、鼻へ、頬へ。そこで一度顔を離して、八左ヱ門は小さく告げた。
「――もし、唇を許したら、俺は貴女をさらって逃げます。他の男になんて渡せるわけがない。どこまでも連れて逃げて、貴女を俺だけのひとにする。それが嫌なら、俺からお逃げください。俺は貴女をもう離せない。だから、貴女が抗ってください。俺は、貴女を追わないように頑張ります」
 支えていた眞子の顔から八左ヱ門は一度手を外す。ついで、もう一度片手だけで撫でた。力は籠めない。眞子がいつでも逃げだせるように、八左ヱ門は残り僅かな理性を掻き集め、愛しい女性を見詰めた。その瞳には八左ヱ門だけが映っていた。
 ふわり、と風が起きる。同時に八左ヱ門の胸に温かい固まりが当たった。眞子が、身体を寄せたのだ。細い腕が八左ヱ門の腕に掛かり、小さな頭が彼の肩に委ねられる。眞子が己の腕の中に身を寄せたと気付いた瞬間に、八左ヱ門は彼女の身体を掻き抱いて口付けを施していた。
「ん……っ!」
 小さな声が柔らかな唇から洩れる。けれど、八左ヱ門はそれすらも飲み込むように小さな唇を貪った。細い体躯を強く抱き締め、逃がさないように取り囲む。己の膝の上に少女を乗せ、八左ヱ門はその身体を己の腕を檻として閉じ込めた。どこか縋るようなその抱擁に眞子が同じく八左ヱ門を抱き返す。
「ごめんなさい、本当はこんなこと許されないのです。けれど、わたくしは貴方を知りたいと思ってしまった。貴方のお傍に行きたいと、貴方の知る世界を見たいと願ってしまったのです。――罪深いわたくしを、どうかお許しください」
「貴方が罪深かったら、俺は大悪党ですよ。皇女殿下にこのような振る舞いをして、今も貴女を唆(そそのか)そうとしている。本当の臣ならば貴女を破滅に向かう道に引きずり込んだりなどしない。それでも、俺はもう貴女を手放すことはできないのです」
 二人はもう一度口付けを交わして、お互いに抱き合った。お互いの体温が嬉しくて、哀しい。己の胸に頬を寄せる眞子の髪を梳きながら、八左ヱ門は今後のことについて考えていた。
 ――もう後には戻れない。行き着く所まで行くしかないのだ。



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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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