鈍行
▼こと
「――戻ったか」
「兵助様」
一路、潮江家の借り受けている邸へと駆けた八左ヱ門は、入口近くの部屋で彼を待っていた主へ応じた。普段から余り表情豊かな人間ではないが、今の表情は怒りに満ちている。同じ思いを共有した主従は、情報を交わすべく邸の中へと足を進めた。
主に誘われて辿り着いたのは中央の対。中には御簾が下ろされ、その前には見覚えのある顔が何人も座っていた。
「――お主が竹谷 八左ヱ門か」
竹谷は尖った調子で名を呼ばれ、思わず視線を泳がせる。その声が余りにも低く鋭かったので、目の前の誰かが言ったのだと思ったのだ。しかし、御簾の前に座る男たちの誰もが口を開いた様子はなく、竹谷はそこで初めて御簾の奥から声を掛けられたことに気付いた。
『――姉上だ』
「へっ、六宮様っ!?」
『しいっ! 物凄くお怒りでいらっしゃる。口には気を付けろ。聞かれたことに答えておけば良いから』
耳元で兵助に囁かれ、八左ヱ門はようやく自分の状況を把握する。――とんでもないことになったようだ。六宮――潮江 仙子がいかに恐ろしい存在かというのは、その実弟であり、八左ヱ門の主でもある兵助から嫌というほど聞かされている。条件反射のように御簾に向って平伏した八左ヱ門に、御簾の中から怒りを抑えた声が届いた。
「まず、異母妹いもうとを卑劣な輩の手から救い出してくれたことに礼を言う。夢前から既に状況は聞いたが、太刀を抜いていたそうだな。お主が突入する決断をしなければ、今頃異母妹は殺されていたかも知れない」
「いえ、出過ぎた真似を致しました」
「構わぬ。どうせ、本当に出過ぎた真似をしたのは、あの愚かな中宮だ」
低く吐き捨てた仙子の言葉に八左ヱ門は内心息を飲む。既に降嫁した彼女にとって、中宮は身分が上の人間だ。それでもなお人前でそう吐き捨てられるのは、彼女の本来の矜持故か、それともそれだけ怒りを感じている所為か。しかし、不思議と八左ヱ門は彼女の発言が不快には感じられなかった。それは、彼自身もまた中宮のやりように怒りを覚えていたからかもしれない。
「――我が異母妹を襲った愚か者はどうなった?」
「姫宮様――十宮様のご意向により、とりあえずの応急処置は致しました。ただ、後は私も存じ上げません」
「放って戻ったのか?」
「いけませんでしたでしょうか?」
八左ヱ門の常にない挑発的な発言に後ろに居た兵助の方が慌てふためく。しかし、六宮はそれにパチリと扇を鳴らすと、初めて笑い声を立てた。
「良くやった。――褒美だ、十宮と会って行け。あの娘もお主を心配していた。何ともないところを見せてやってくれ。それに……お主の装束も返さねばなるまい」
「え、あの……しかし、それは」
「あの娘が望んだことだ。兵助、案内してやれ」
「……承りまして」
一度言いだしたら聞かない姉である、兵助は諦めて溜め息と共に頭を垂れた。姉が言い出したとんでもないことも御簾の前で巌のように座っている義兄は動じない。その様子に自分の姉でありながらも扱い辛い仙子を妻にと自ら望んだ義兄に尊敬の念すら感じられる。しかし、そんな考えなど露ほども見せず、兵助は己の侍従を渡殿へと導いた。
「……兵助様、良いんですか?」
「何が」
「俺は男ですよ。それに……姫宮様に直接お会いできる身分でもない。今更ですが」
「知ってる」
「だったら何で……!」
なおも言い募ろうとする八左ヱ門に兵助は振り返って指を突き付けた。それにギョッとして黙る八左ヱ門を満足そうに見つめ、彼は肩を竦める。溜め息ひとつで全てを諦め、兵助は続けた。
「姉上が良いと言ったんだ。――あの方に逆らうのか?」
「いや、でもしかし……!」
「良いんだろうよ。それに、十宮も不安がっている。助けたお主が傍に居れば安心だろう。――何より、真虫が、じゅんこと言ったか? あれがな、さっきの騒動で少々弱っていてな。できれば、そっちも見てやって欲しい」
「じゅんこが……? ……分かりました」
兵助はいつの間にか覚悟が決まった侍従の顔に溜め息を吐いた。――五宮の邸で少々十宮と親交を得たことは知っていたが、実際にはそれどころじゃなかったらしい。せめて性別が逆だったなら、もう少しマシだったろうか、と兵助は己と妻のことを思い出してもう一度溜め息を吐いた。
(どちらにせよ、難しいことに変わりはない)
何度か曲がり角を越えた先の奥の対、そこに守られるように眞子は隠されていた。兵助は部屋の蔀しとみを少し上げ、中へ声を掛けた。
「九宮だ。十宮の様子はどうだ? ――竹谷を連れて来たのだが、会えそうか?」
同時に中でごそごそと物音が聞こえ、勢い良く夢前が飛び出してくる。その表情たるや必死で、彼女にしては珍しく不躾にも目の前の九宮兵助を無視する形で、その後ろに控えていた八左ヱ門の腕を勢い良く引っ張った。驚く八左ヱ門を尻目に、彼女はぐいぐいと彼を対の中へ入れてしまう。その勢いに圧されて兵助は呆然としていたが、目的は達成したので再び姉の居る対へと戻ることに決めて彼は踵を返した。
「……その、御前失礼仕ります」
「竹谷様……」
再び見まみえた眞子まこは既にきちんと小袿などの装束を着直し、当然ながら夜着姿ではなかった。それに何故か先程の彼女のあられもない姿を思い出し、八左ヱ門は何となく気まずく俯く。眞子も先程の恐怖がまだ抜けていないのか、白い顔で八左ヱ門を見つめていた。
二人とも、何を言って良いのか分からず、辺りに沈黙が散らばる。助けを求めて八左ヱ門が夢前を探すと、彼女は女房の職務を放棄してこの対から消えていた。それに更に動揺する八左ヱ門を余所に、眞子が第一声を上げる。
「その……先程は、危ないところを助けていただき、誠に有り難うございました」
「そんな、とんでもないことでございます。その、姫宮様の悲鳴が聞こえて、つい咄嗟に蔀を蹴破って入ってしまって……その、出過ぎた真似を致しました。今でもあの場に割って入ったことに悔いはございませんが、その、姫宮様が今上や中宮様のお怒りにさらされないか、そればかりが心配でございまして」
震える声で己に告げる少女に、八左ヱ門は敵意がないことを知らせるために深く平伏した。大体、先程まで襲われかけていた女性と、いくら助けたとはいえ、男と二人きりにする方が間違っている。床に頭を打ち付けんばかりに頭を下げた八左ヱ門であるが、彼の頭を上げたのは当の女性の白い指だった。
「どうか、そのようになさらないでください。――わたくし、本当に竹谷様に感謝しているのです。貴方が来てくださらなかったら、もしかしたらわたくしはじゅんこ共々切り殺されていたかも知れないのですから」
静かな声が二人の間に転がる。促されるままに顔を上げた八左ヱ門であるが、自分を見つめる少女の瞳が見る見るうちに潤んでいくのを見て、どうして良いか分からなくなった。眞子は慌てる八左ヱ門を余所に、震える手で彼の袖を掴む。
「ほんとうは……ほんとうは、こわかったんです……!」
小さく呟かれた言葉に、八左ヱ門は思わず彼女を抱き締めた。眞子はそれに嫌がるどころか、縋るようにその胸へ顔を押し付ける。眞子はそこで初めて泣いた。――皇女として、主として、どんなに怯えていても無様な姿を見せるわけにはいかなかった少女が、ようやく己の感情から箍たがを外したのである。勿論、八左ヱ門はそんなことを露ほども知りはしなかったけれども、己に縋りつく愛しい女性を腕でしっかりと受け止め、彼は眞子が落ち着くまでその胸で泣かせてやったのだった。
「……すみません、泣いたりして……」
「いえ、あんなことがあったのですから、泣くのは当たり前ですよ。むしろ、貴女は今までよく泣かずに頑張りました。さすがは姫宮様でいらっしゃる。この竹谷、誠に姫宮様の御心映えには感服するばかりです」
ようやく己の胸から顔を上げた眞子に、竹谷は明るい笑みを返した。泣き濡れた少女に手拭いを、と思うのだが、装束の上着を着ていないためにそれも叶わない。あわあわと再び動揺する竹谷に、眞子が本日初めての笑みを浮かべた。
「こちら、本当に有り難うございました。――竹谷様に命を助けられたのも、装束を貸していただいたのも二度目ですわね。本当に有り難うございます」
「いや、そんなとんでもない……! 俺、いや、私こそ、姫宮様のお役に立てたのであれば幸いです」
八左ヱ門は眞子の言葉に慌てて首を振る。慌て過ぎて、彼女の前で思わず砕けた一人称を使ってしまったほどだ。それに眞子はくつりと笑って、八左ヱ門に告げる。
「どうぞ、お楽になさってください。皇女といえど、わたくしは末席を汚すに過ぎませぬ故」
「そ、そのようなことは……!」
「わたくしも、その方が気が楽なのです。……今だけでも、構いませんから。どうか」
眞子の言葉に八左ヱ門は困ったように眉を下げた後、腹を括って頷いた。――多分、これが本当に最後の逢瀬になる。それならば、お互いに未練が残らぬようにした方が良い。そこまで考えて、八左ヱ門は己を嘲笑った。
(――お互いに・・・・? 俺の、の間違いだろ)
不思議そうに己の顔を見上げる少女に、八左ヱ門は己の考えをごまかすように笑いかけた。それに彼女も同じ微笑み、お互いの間に柔らかい空気が漂う。そこで八左ヱ門はあることを思い出して口を開いた。
「――そうだ、姫宮様。じゅんこはどこへ? さっき、兵助様――主から弱っていると聞きましたが」
「! そうです、診てくださいませんか? その、先程、わたくしを助けようとして……」
「ええ、それは存じております。本当に良い育て方をなさいました。畜生は犬や猫など、余程人に慣れていないと人に忠義を尽くすということはありません。しかも、虫となれば尚更。それが貴女を守るために戦ったのですから、貴女の愛情がじゅんこに届いていたのでしょうね。さ、見せてみてください。今何かしてやれることがあれば、してみますから」
「お願いします。……それと、その……先程の、男は」
「――とりあえずの応急処置は致しました。後のことは俺も知りません。知りたくもないです」
「では……」
「処置だけして置いてきました。まあ、本人も真虫に噛まれたと知ったら、大人しく医師を呼ぶでしょう」
八左ヱ門は手渡された虫籠をそっと覗きながら、辛辣に吐き捨てる。それに眞子は彼が自分以上に怒っていることを知り、困惑した表情を浮かべた。それに気付いた八左ヱ門は、困ったように笑う。
「――貴女がご無事で良かった。もし、本当に何かされていたならば、殴るだけじゃ済ましませんでしたよ」
その発言に眞子が顔を真っ赤に染める。八左ヱ門はそれに同じく照れた笑みを浮かべながら、ずっと籠の中で身じろぎしないじゅんこを見遣る。床に叩き付けられたらしいが、幸いにも表面的な怪我はなさそうである。このまま養生すれば治るだろう、と八左ヱ門は踏んで、己の傍らで心配そうにじゅんこを見詰める眞子に声を掛けた。
「姫宮様、じゅんこは大丈夫だと思います。幸いにもどこか折れたり、血が出ているような様子もありませんし。このまま養生させたらそのうち元気になりますよ。ただ……」
「ただ……?」
八左ヱ門はこのことを告げるのが苦痛で仕方がなかった。けれど、伝えないわけにもいかない。彼は彼女の笑顔が曇るのを承知で口を開いた。
「もう、じゅんこは貴女のお傍に置いてはおけないでしょう。――貴女を守るためとはいえ、じゅんこは人を傷付けました。特にじゅんこは真虫ですし、我々のようにじゅんこをよく知らない人間からすれば、貴女がもし噛まれることがあったら、と案じます。だから――」
「分かっています。分かって、いるのです……」
眞子は八左ヱ門の言葉に悲鳴じみた声を上げた。
――知っている、そんなことは知っているのだ。それでも彼女は知らない振りをしたかった。じゅんこは彼女が幼い頃から苦楽を共にした友人で、ただの愛玩動物ではないのだ。彼女が寂しい時、苦しい時、悲しい時もずっと共に過ごした。大切な友人で、離れ離れになることなどできはしない。しかも、その原因が自分を守ったことにあるなど、眞子は耐えられなかった。
「……お母様はひどい。わたくし、ちゃんと仰ってくだされば逃げなんてしなかったのに。それが自分の務めだと理解しておりましたのに。それなのに、あの方はわたくしを騙したのです。――あんなことさえなければ、じゅんこが人を傷付けることもなかったのに!」
次第に支離滅裂になっていく彼女の言葉に、八左ヱ門は何も言わなかった。己に縋って再び涙を零す少女の柔らかな髪を撫で、宥めるように背中を叩く。何度か会った時には常に穏やかで感情の高ぶりなど見せなかった少女が、今己の腕の中で泣いている。そこまで考えて、ふと八左ヱ門は違う、と己の考えを否定した。
(俺と初めて言葉を交わした時も、その次の時も、この方は必死に言葉を紡いでいたじゃないか)
初めはじゅんこのために、次は礼を述べるために。彼女は自分のためよりも、誰かのために必死になる。そんな眞子のことが愛しく感じられ、八左ヱ門はこのまま時が止まれば良いのにと思った。――このままで時が止まれば、彼女と引き離されずに済む。永遠にこのまま、二人で過ごすことができる。
(――馬鹿なことを)
自嘲して、八左ヱ門は彼女の頭をもう一度優しく撫でた。この腕にある温もりは、いつかは別の男の手に渡る。それは彼自身が痛いほどよく分かっていた。
(それでも……それでも、もし彼女が一言でも望んでくれるのならば)
逃げたいと、告げてくれたのならば。八左ヱ門は苦い笑みを噛み砕いて、震える少女の身体を宥め続ける。己を信じて身を預けている少女に、自分は何を考えているのだ。浅ましい考えを少女を慰めることで追い払い、八左ヱ門はキリキリと痛み出す己の心を無視した。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒