鈍行
▼こと
「十宮様、少し宜しいですか?」
突然の母親の訪問に、十宮眞子は少しだけ渋い顔をした。しかし、相手が見るよりも早くその表情を消し、常に貼り付けた無表情を作り直す。懐には先日竹谷 八左ヱ門から貰い受けた組紐が仕舞い込んである。それをそっと装束の上から押えながら、彼女は唐突に現れた母に対峙した。
「何でしょう」
「……最近、やけに五宮様のお邸にいらっしゃるようですが、一体どうしたことでしょうか。貴方がこんなに頻繁に外へおいでになるなど、今までになかったことです。貴方は皇族の中でも位高いお方、そう軽々しく外においでになるのはいかがなものかと思いますが」
「――五宮様のお宅には、虫に関しての文書が多くございますので。それに、北のお方とも親しくさせていただいております」
眞子は来たか、と思っていた。
元より、彼女の行動は監視されていた。どちらかと言えば、五宮邸に頻繁に通えたことの方が不思議だったのだ。しかも、女房が普段から自分に侍っていた人間ではなく、女の童である夢前が付いていたことも不思議だった。その彼女は今別件で傍を離れているが、彼女は多分上手く中宮の目をすり抜けて彼女の傍へ侍った数少ない人間なのだろう。せめて彼女が引き離されないことを祈ろう、と思いながら、眞子は母が次に何を言い出すか待ち構えた。
「余り何度もお邪魔しては、五宮様にもご迷惑でございましょう。それに、貴方は今上唯一の内親王でもいらっしゃる。そうそう軽はずみな真似はなさいませぬよう」
「分かっております」
母の言葉に眞子は俯いて応えた。自分の立場など、痛いくらいによく分かっている。――もし、己が何の身分も持たぬ少女だったなら、彼の方に相応しい女性として出逢えただろうか。そんなことを夢想したって、詮なきことではあるのだが。
眞子はもう一度自分を抑えるように懐を撫で、小さく溜め息を吐いた。結局、己はどう足掻いても自分の分を出ることなどできないのだ。それでも、せめて夢を見るくらいならば許してもらえないだろうか。母の去った後にひとり残された眞子は、そっと懐から組紐を取り出した。自分の真虫と同じ柄をしたその紐に頬を当てながら、彼女は抑えきれない溜め息を零す。叶わないと知っていても思いが募るのは、障害があるからではなく、彼女を唯一〈普通〉にしてくれるのが彼だったからだ。
「……わたくしだって、分かっているのに」
いつかは覚めなければならない、夢。それでも縋り付いていたくて、眞子は己が唯一持っている繋がりをギュッと胸に抱き締めた。
「……え?」
「ですから、中宮様が宮様をお出しくださらないんですの!」
常のごとくに五宮邸を訪れた八左ヱ門であるが、ふらりと自分の許を訪れた少女が噛み付くように叫ぶ様子を呆然と見ていた。彼女が言うことは理を適っている。むしろ、今までの方がおかしかったのだ。皇女である十宮眞子が公達どころか貴族の末席を汚しているに過ぎない八左ヱ門と直接言葉を交わしたり、同席したりする方が間違っている。しかし、自分たちの方が正しいように怒る彼女が愛しかった。
「仕方がないだろう、夢前殿。姫宮様は元々軽々しく出歩いたりはできぬ身分のお方だ。それに中宮様の仰ることももっともだろう? もし姫宮様の御身に何かあれば、大変なことなんだから。あの方は国の宝で、いつかはどなたか身分の高い公達とご結婚なさり、更に国の礎を築くことになるだろう。そんな大切な御身をそうそう外にはお出しできまいよ」
八左ヱ門の言葉に幼い少女は尚更に顔を膨らませた。大人の理不尽な〈掟〉に納得しきれずに怒ってしまうその様子は可愛らしく、稚いとけない。自分にも昔こんな時があったと思いながら、八左ヱ門はそっと彼女の頭を撫でた。
「――お前さんの気持ちは嬉しいよ。だけどさ、姫宮様は俺たちにとって雲の上のお方なんだ。現人神に連なる、この国で最も高貴な血を継ぐお方を危険にさらすわけにはいかないだろう? 中宮様には中宮様のお考えがあって、そうなさるんだよ。それはもう、俺たちの口出しすることじゃない」
しかし、夢前にそう言い聞かせながら、八左ヱ門は自分の言葉がこれほど嘘臭く聞こえたこともなかった。ほとんどその言葉は自分に言い聞かせているものだ。会えなくなって落胆しているのも、自分。けれども、仕方がない。――彼女は皇女で、己はほとんど物の数にも入らぬ身の上なのだから。
「……宮様はお可哀想です。本当は外に出て、虫たちと遊んでいるのが一番お幸せな方なのに……。普通の人間の男――それも、いつも気障ったらしくお洒落してる男なんて、あの方に相応しくありません。どうして母親である中宮様がそれをお分かりにならないのかしら」
それでもなおぼやき続ける夢前を、竹谷はそっと撫で続けた。同時に思う。――彼女はまだマシである、と。彼女はそれでも十宮の傍に侍ることができる。けれど、一介の侍従、それも彼女にとっては敵に近い女御腹の皇子に仕える八左ヱ門はもう二度と眞子の前に現れることすら叶わないのだ。今まであの柔らかな声を、例え時折御簾越しであっても聞ける立場に居た自分はもう居ない。それに身を切られるような口惜しさを感じながら、八左ヱ門はそれでも幼子を慰め続けた。
「ご参拝、ですか」
「ええ。少し遠くに泊りがけで」
眞子は再び訪れた母中宮に表情の抜け落ちた顔を向けた。この女性はいつも自分の気が向いた時にだけ、唐突に訪れる。その大抵が彼女にとって余り宜しくない用件であったため、今では母の来訪は災難と同義だった。今度は一体何を自分に強要するのか、と身構えたところ、件くだんの言葉が飛び出した。
「しかし、何故今になって……」
「今まで頻繁に五宮様のお邸においでになっていらっしゃいましたでしょう? それがまた外出しなくなったと今上がご心配なさって……。けれど、五宮様のお邸に何度も赴かれるのはあちらにもご迷惑というもの。ですから、それならばいっそ、気分を変えるためにも少し遠出をしてみてはどうかと思いまして」
その言葉を聞いた瞬間、己をここに縛りつけたのは自身だろうと怒鳴りつけたい気持ちに駆られた。しかし、それをぐっと堪えて彼女は頭を縦に振る。――この女性に逆らっても良いことは何ひとつ有りはしない。ただ彼女に許されるのは、従順に権力を振るいたがる母に頭を垂れることだけなのだ。
中宮は彼女の反応に満足したらしく、ひどく上機嫌で下がって行った。親子でありながら、用件以外の会話など何ひとつ行わない辺りに彼女の性格を窺わせる。思わず、己と同じ立場であった六宮を思い出し、彼女は己と六宮に存在する余りにも大きな差異に溜め息を吐いた。
「……もう、お会いできないでしょうね」
懐に大切に仕舞われているのは彼女の真虫を思わせる組紐と、彼の人物と初めて言葉を交わした時に貰い受けた組紐が一本ずつ。これを生涯の思い出として、大切にする以外に彼女に為す術はない。けれども、もし――もし、許されるのならば、一度で良い、彼の人物がいつか言っていた東の光景が見たかった。
『私の暮らしていた場所では、酒造りが盛んなんです。季節になるとあちこちに大きな酒壺が置かれて、そこに浮かべられたひさごが風に揺られてあちらへ動き、こちらへ動き、面白いんですよ。子どもの時は追い払われても何度も近付いて、酒に浮かぶひさごを目で追ったものです』
浮かべられている〈ひさご〉とはどんなものなのだろうか、酒が入った壺があちこちに置かれているというのはどういう情景なのだろうか。内裏をほとんど出たことのない、まさしく籠の鳥である眞子には想像もつかない風景がそこにはあった。彼女と外を繋ぐのは、唯一傍に置いた虫たちのみ。彼が言う冷たい空気も、爽やかな風も、雨の降る前の湿った匂いも、彼女には分からない。
「――知りたい」
自分はこんなにも何も知らない。そして、これからも知ることはないだろう。……それこそが皇女なのだから。
手に握り締めた二本の組紐を再び懐に戻し、眞子は顔を上げる。遠出をするのならば、それなりの準備をしなくてはならない。夢前や他の女房たちにも準備をさせなければ、そう考えながら眞子は忙しなくなる自分の周囲に小さく溜め息を吐いた。
「――ふむ。参拝、な」
方々に散らした己が手の者たちより報告を読みながら、六宮仙子せんこ――潮江 仙子は小さく言葉を漏らした。明敏な頭脳は既に目まぐるしく様々な可能性を考慮しており、彼女はその報告が何を意味するかについて結論を急いだ。
参拝に時期外れということもなかろうが、それにしても余りに唐突すぎる。しかも、普段は内裏から出ることのない中宮まで共に参拝するというのが引っかかる。眞子自身も然程信心深い性質でないことは仙子も承知の上であるし、これは何か裏があると考えざるを得なかった。
「…………しかも、お主が供には入れられぬとなると、尚更に何かあるな」
「はい。今やわたくしは十宮様の腹心とも言える存在。そのわたくしを供から外すなど、何か宮様に宜しくないことがありそうで」
仙子の前に平伏した夢前は怒りを抑えられぬように呟いた。その表情には同時に主への心配と不安が表れており、彼女は自分が手配しておきながらも彼女の忠誠心に口元を引き上げた。夢前が幼い身でこれほどまでの働きをするとは思ってもいなかった仙子は、彼女が想像以上に様々な役回りを果たしていることに労ねぎらいを述べる。
「――それと、その……もうひとつ」
「? 言うてみよ」
「……口さがない女房の言うことなので、信頼できる情報であるか分からないのですが。
その、何でも今度ご参拝する神社仏閣なのですが、同時期に何人かの公達も参拝するとか。良縁が見つかるかもしれない、というのがその女房の言い分だったのですが、何だかわたくしには……」
「皆まで言うな、分かっておる。――わたくしが良きように計らおう。ご苦労であった、もう下がって良いぞ。何か進展があったら、またいつものように連絡する。お主もわたくしとの繋がりをあちらに悟られぬよう、重々注意しておくれ」
「はい、心得ております」
衣擦れの音を響かせながら、少女は後ろ髪引かれる様子で何度も仙子を振り返りながら退出していった。それを見送った仙子は、パチパチと軽く手を打って女房たちを呼び寄せる。すぐさまに現れた女房たちに、彼女はすぐさま指示を飛ばした。――異母妹いもうとを守るために。
「……随分と大きなお邸が借りられましたのですね」
「当然でございましょう。わたくしは今上の中宮であり、そして貴女は今上の娘でいらっしゃるのですから。――ささ、お寛ぎなさいませ。母は別室で休ませていただきますからね。ふふ、神仏にあんなにお祈りしたのですもの、これからの貴女の将来もきっと明るくお開きになりますわ。母は既に確信しておりますのよ……」
何だかひどく上機嫌な母中宮に眞子は不審を強く抱いた。しかし、それをどうすることもできず、彼女はそっと膝に乗せた虫籠を撫でる。その手つきは優しく、まるで母が子を撫でるよう。その様子に中宮は気分を害したように眉を吊り上げ、眞子へと苦言を呈した。
「いい加減に虫遊びはお止めなさいませ。宮である方にはお相応しくないご趣味ですよ。神や仏の御前にもそのような下賤な生き物をお出しになるなど、本当に不作法な。そのようなご様子では、いつか夫になる殿方にも愛想を尽かされておしまいになりますよ」
眞子はその言葉に沈黙を返した。――自分ももうかなりの歳になるが、未だに縁談は持ち込まれない。それは多分、皇女であるという理由だけでなく、己の趣味が周囲に知れ渡っているからでもあるのだろう。それでも公達に彼女の身分と後ろ盾は喉から手が出るほど欲しいものでもあり、眞子はいつか自分が物のように政治的判断で嫁がされることを知っていた。――そして、その相手に自分との相性など全く考えられないことも。
「……まあ、宜しいでしょう。貴女にもそのうちお分かりになりますわ、ご自分がいかに愚かでいらっしゃったのかが」
捨て台詞のように中宮はそれだけ吐き捨てて、再び勢い良く退出していった。相変わらず、自分の言いたいことを述べた後はすぐに居なくなるお方だと思う。それが自分の母であることに、眞子は何とも言えない気分になった。それでも血の繋がりを消すことはできぬから、彼女はただ自分の不運を嘆くより他にやりようがなかったのである。
周囲はざわざわと騒がしい。まるで何か祭りでも行われるかのようだ。もしかしたら、先程参拝した神社や仏閣のどこかで神事や法事が行われるのかも知れない。女房の中には信心深い人間も居るから、そのために様々な準備をしているのだろう。眞子はそんなことをぼんやりと考えながら、もう一度虫籠を撫でた。どちらにせよ、己には全く関係のないことだ。
いつの間にかひとりになっていた眞子は、虫籠の中に指を入れてじゅんこの身体を撫でながら己に感じる風に気付いた。最近は幼い少女が常に傍へ控えているため、実際にひとりになるということは珍しかったのだ。彼女は物忌みのため聖地に行くことはできぬらしく、今は傍に居ない。そのことに寂しさを覚えつつ、眞子は静かな部屋でひとり頭を垂れた。
――その夜に、事件は起こる。
虫の音が響き渡る夜、眞子は早々に休む支度をしていた。近くにお湯が湧く場所があるらしく、珍しいからと従者たちがお湯を運んでくれたため、彼女は髪と身体を洗う。大勢の人間に髪を引っ張られ、梳くしけずられ、あちこちを布で擦られる。そのことに関しては今更何と言うこともないが、いつになく念入りに身体を擦られることに眞子は違和感を感じていた。
あちらこちらに散らばった違和感を全て理解したのは、亥の刻が訪れた頃だった。遠くでパタンと音がする。普段から不思議と人通りに敏感であるが故か、眞子はその微かな音に目を覚ました。気付けば、外に明かりが灯されている。もう休んでいるのにどうして明かりが必要なのか、眞子は音を立てずに褥しとねに起き上がりながら外へ注意を向けた。
さわさわと静かな声で誰かが話し合う声が聞こえる。何か起こったのかと眞子は更に耳を澄ませた。音は次第に自分の対へと近付いてくる。何かあって、誰かが知らせに来たのだろうか、と眞子は人を出迎えられるように手で髪を整えた。先程洗った髪はゆるりと指を抜けて零れていく。しかし、その本当の意味を――彼女は次の瞬間に理解した。
『こちらでございます。既に宮様はお休みでいらっしゃいます』
『そうか。では、後は私が。中宮様に宜しくお伝えください』
『わたくしたちはどんな騒ぎがあろうと、こちらに戻ることはございませんので……』
『心得ております。貴女もどうぞお下がりください』
聞こえたのは男の声と、それに応じる聞き覚えのある女房の声。それに眞子は全てを理解した。――母は、このために自分をこの場へ連れ出したのだ、と。
既に婚姻を結ぶには少し遅いとも言える歳になった眞子に、未だ今上や彼女が納得するような縁談は得られていない。東宮妃にしようという目論みも遥か昔に破れ、彼女は尚更縁遠くなった。それを苦々しく見つつも、いつか東宮妃のひとりに、と目論んでいたと思っていた中宮は、その裏で彼女の眼鏡に適う公達を見繕っていたらしい。そして、ようやくその相手が決まったのだ。
(――ひどい裏切りだ)
眞子が咄嗟に思ったのはその一言だった。いくら彼女が人よりも虫を愛し、自分の身分とは全くそぐわぬ男に懸想しようとも、己の立場は弁えているつもりだった。今だって、たった一言今上から「縁談を」と言われれば、彼女は頭を垂れてそれを受け入れたであろう。それが己の役目であり、義務であると知っていたから。
それなのに、彼女の母は娘を信頼していなかったのだ。だから、このように不意打ちで男を通わせようとする。その事実に彼女の目から悔し涙が零れ、温かい滴が褥に落ちた。同時に思う。
(逃げなければ)
この縁談を受け入れるわけにはいかなかった。彼女の尊厳を、意志を、存在すら、何もかもを踏みにじられた状態で嫁ぐなど考えたくもない。眞子は静かに褥から抜け出し、枕元に置いていた虫籠に手を伸ばした。夜行性のじゅんこはしゅるりと静かに身体をくねらせる。唇だけで「静かに」と伝えると、眞子はとにかく奥へ逃げ出そうと足を踏み締めた。しかし。
「――どちらに行かれるのです、宮様」
「っ!」
既に男は彼女の対に入り込んでおり、艶やかな黒髪を手で掴んでいた。それでも逃げようとすると、強い力で髪を握られる。装束を掴まれていたならば脱いで逃げ出すことも可能だったが、髪の毛ではそうもいかない。更に夜着という状況が彼女に強い羞恥と怒りを覚えさせた。
「お放しください。わたくしは貴方を受け入れることはできません」
「……おや、虫愛ずる姫君は大人しい方だと思っておりましたが、随分とはっきり物を仰られるようだ」
「お放しなさい。――このわたくしを誰だとお思いか」
男は眞子の言葉を軽くあしらう。それに彼女の怒りも頂点に達した。――仮にも皇すめらみことの直系に対して、この男の態度は不遜すぎる。常は己の身分など考えることはないが、今この瞬間だけは生まれを相手に誇示したかった。
「今更何を仰います。貴女様はわたくしの妻になるのですよ。そう今上と中宮様がお決めになられた。そして、その相手に私をお選びになったのです。――貴女はただ大人しくなされば宜しい」
「それは中宮の独断に過ぎませぬ。今上はこのように不愉快な真似はなさらない。――例え選ぶにしろ、己の娘を尊重せぬような男はお選びにならない」
眞子は虫籠を持つ手とは反対の手で己の髪を鷲掴んだ。力任せに引っ張って見るも、男と女の力では差が有り過ぎて取り戻すことができない。更に彼女が力を込めようとした瞬間、相手が先に彼女の髪を離した。当然、力を籠めて髪を引いていた眞子は勢い余って転がってしまう。虫籠も手から零れ、彼女は無様に床へ伏せた。
「じゅんこ……!」
咄嗟に転げた虫籠へと手を伸ばそうとした瞬間、男の手が眞子の身体に絡み付く。ぞっと怖気が走り暴れる彼女を余所に、男はいやらしい調子で笑みを漏らした。
「放して、お放し! じゅんこ! じゅんこが……!」
「長虫など放っておきなさい。今は貴女と私のことの方が重要ですよ」
「いやっ、放してっ! 誰そ、誰そ!」
大声で叫ぶも、普段ならば即座に現れるはずの女房達が一向に現れない。眞子は何故、と考えた後に、ふっと先程の会話を思い出した。
『わたくしたちはどんな騒ぎがあろうと、こちらに戻ることはございませんので……』
仕組まれていた暴虐に眞子は唇を噛んだ。誰も助けてくれないのならば、自分で逃げるしかない。彼女は自分へ覆いかぶさる男へ必死に抵抗し、何とか逃げようと身体を捻った。けれど、所詮はほとんど動かぬ皇女。その抵抗も全て押さえられ、彼女は捕えられた蝶のように床へ磔にされた。
「……わたくしはっ、絶対に貴女の妻になどならないっ!」
「そう思われるのも今のうちだけですよ」
例え身体を穢されようとも、この男の妻になるのだけは嫌だった。覆いかぶさる男の影に目を閉じながら、眞子は必死に神や仏へ助けを求める。様々な顔が彼女の脳裏に現れる中、最後に現れたのはよく見知った――彼女の想う男の顔だった。
「助けて、竹谷様……っ!」
縋るような気持ちで眞子は声を絞り出す。その瞬間、男の喉から凄まじい悲鳴が迸った。
「っ!?」
思わず目を開けると、そこには男の腕に噛み付くじゅんこの姿。先程転がされた衝撃で、虫籠の口が開いたのだろう。そして、主の危機を感じたか、それとも男がただ気に食わなかったのか、彼女は不逞の輩へ攻撃を仕掛けたのだった。
「じゅんこっ!」
「ええい、この……!」
男は噛み付いた真虫を掴み、己から無理矢理引き離す。しっかと噛み付いていたじゅんこも火事場の馬鹿力には敵わなかったのか、男の手によって投げ捨てられた。その間に男の下から抜け出ていた眞子は、急いで床に叩きつけられたじゅんこの傍へと駆けつける。幸い、命に関わるような怪我はしていないようだったが、成人男性に床に力いっぱい叩き付けられたのだ。無事であろうはずもなかった。
「その真虫を放しなさい! 切り殺してくれる!」
「嫌です! ……それよりも、お動きにならぬよう。じゅんこは真虫――毒を持っています。暴れれば身体に毒が回り、死にますよ」
眞子はぎらぎらと獣のような目で己の腕に囲われた真虫を睨み付ける男を睨み返した。余りに混乱した状況へ逆に冷静さが戻り、彼女は男の危険を示唆する。それも男は聞いていないようで、部屋の隅へ置いていたらしい太刀を掴んで抜き払った。その刃は当然、じゅんこを抱いたままの眞子へ向けられる。それに悲鳴すら上げられず、眞子はじゅんこを抱いたまま後退りした。
今度こそもう駄目だ、そう眞子が覚悟したその時、ふいに外が騒がしくなる。そして、彼女が声を上げるより早く、誰かが蔀(しとみ)を蹴り飛ばし、御簾を手荒く持ち上げた。月明かりの逆光でその人物の顔は分からない。ただ、体格で男とだけ理解できた。その男は彼女が声を上げるより早く、太刀を振り上げた男に突進する。その時に初めて、眞子はその人物の顔をはっきりと見ることができた。
「竹谷様……!?」
「早く後ろに……っ!? っの、野郎!」
男の身体を抑えながら、眞子の方へと八左ヱ門は振り向く。そこで彼は眞子の夜着が肌蹴たあられもない姿に目を見開き、次の瞬間には容赦なく男に殴りかかった。馬乗りになり二度、三度。鬼気迫る表情の八左ヱ門に、眞子は初めて恐ろしさを感じた。慌ててじゅんこを床に置き、殴りつけるために振り上げられた腕に飛び付く。それは殴られた男を案じたと言うよりも、八左ヱ門にそれ以上誰かを傷付けて欲しくない一心だった。
「――それ以上はおやめください! それより、その人を早く医師に見せなければ……! じゅんこが噛み付いたんです、処置をしなければ死に至ります!」
「…………分かりました、それは俺がやります。とにかく、貴女は下がってください。――夢前殿、入ってきてくれ。姫宮様をどこか別の場所に! いっそ、この場所から出した方が良いだろう。潮江様方のいらっしゃるお邸へ! 牛車は我が家の主の物を使って構わないから」
八左ヱ門は男に馬乗りになったまま、自分の装束の上を脱ぐ。それを帯を奪われ、あられもない恰好の眞子へ着せた後、先程まで部屋の前で待機していた夢前に後を任せた。このような騒ぎになってもなお家人が現れないのは、そういう約束だからか、それとも危機感が欠片もないのか、八左ヱ門は吐き気がするような気分で考えながら、自分の下でもがく男を睨み据えた。
男の帯を無理矢理奪い、血が滲む腕から心臓に近い部分を締め上げる。既に動き回っているから毒が身体を巡っているかもしれないが、そんなことは八左ヱ門の知ったことではない。彼女はこの男に処置をするよう求めたが、彼はそのまま野垂れ死なせた方が良いとすら思っていた。いつの間にか怯えた様子で八左ヱ門を見上げている男に、彼はにやりと笑みにもならない笑みを浮かべる。
「――あの方が、自分を襲った相手でも助けようとするような心の清い方で良かったな。俺だったら間違いなくそのまま死なせるのに。
とりあえず、応急処置はした。後は自分で母屋にでも駆け込んで、真虫に噛まれたから医者を呼んでくれとでも騒ぐんだな。動かない方が毒は回らなくて良いんだが、俺がお前にそこまでしてやる義理はない。後は精々ひとりで悶え苦しむが良い」
八左ヱ門は毒の処置をした後、男の身体をすぐに捨てた。触っているのも不愉快だ。――先程見た、青ざめた顔をした眞子の姿が忘れられない。抵抗したのだろう、普段は綺麗に梳られているはずの髪は乱れ、真白い夜着は帯を奪われ前が開いていた。あの白い肌にこの男が触れたと思うだけで頭に血が上り、八左ヱ門はこれ以上何かをする前に早々とその場を立ち去った。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒