鈍行
▼いと
「うわあ、綺麗……!」
「何だ、二郭殿、欲しいのか?」
行商人が持ち込んだ組紐などの類に目を輝かせる妹分に竹谷 八左ヱ門は笑いながら声をかけた。その隣では同じく同僚であり――同時に主の次妻でもあるおタカの方が、同じく目を輝かせて装飾品を眺めている。女性であることもさることながら、彼女は特にお洒落には気を遣っているのだ、当然興味はあるだろう。
「……でも、持ち合わせがないですから。それに、私みたいなのがあんまり綺麗な物を持っていても仕方ないですしね。今のうちにお金をためておいて、いつかもっと大きくなって美人になったら買います。その頃にはもっと綺麗なものも出てるかも知れませんしね」
「二郭殿は相変わらずしっかりしてるねえ。竹谷殿、私たちを見習わないといけないよ」
「そうですねえ。……ああ、そうだ。二郭殿、ちょっと頼みたいんだが」
どちらが年上だか分からないような様子でおタカの方が口を挟む。その手にはしっとりと落ち着いた様子の装飾品が既に載っている。どうやらそれに決めたらしい。八左ヱ門はその言葉を軽く流して、妹分へと向き直った。それに彼女がにこりと顔を上げたのを確認し、耳打ちするようにそっと囁く。
「お前さんぐらいの若いお嬢さんに頑張っているご褒美を差し上げようと思うんだが、生憎と俺はそういったことはからきしだってのは知ってるだろう? ……ちょちょっと若い感性で選んでもらえないか?」
「……竹谷さん、私くらいの若い女性に付け文するんですか?」
「え!? 竹谷殿、そりゃちょっとまずいんじゃない。光の君にしたって……いや、育てる楽しみ?」
「違いますから! ……いつもお世話になってる所の女房殿に、お礼を兼ねてってこと! ……お前さんも変な勘ぐりはしない! いくら俺がもてないからって、子どもにまで手を出すほど餓えちゃいねえぞ!」
八左ヱ門は烏帽子がずれるほどに頭を掻きむしり、唾を飛ばす勢いで自分を白い目で見つめる女房二人に怒鳴りつける。その様子を折に触れてこの邸に現われる行商人がおかしそうに眺めていた。――八左ヱ門は常にこのような役回りで、この女房二人にからかわれるのが常なのである。それもまた彼の人柄故であり、それを知っている八左ヱ門もそれ以上は何も言わずにせっつくように妹分を商品へ向き直させた。
「……と言っても、どの身分の方かによってご趣味もまた変わってくると思いますけど……」
「え? ああ、そうか。えーと……やんごとなきお方の女房、なんだが……」
「階級的には?」
「……お前さんと似たような感じだと思うんだけど……」
それだけで二郭は何かを感じ取ったらしく、軽く頷いて並べてある組紐などをしげしげと眺めだした。さすがに長年おタカの方と一緒に生活しているだけあって、彼女もまたこの類の感性は素晴らしく良い。彼女に全てを任せながらも、八左ヱ門は同じくその後ろから組紐を眺めた。
(――あ)
彼の意識に留まったのは、一本の組紐。その色や模様に見覚えがあった。
「じゅんこ、だ」
「は?」
「あ、いや……何でもない。それよりも、どうだ? 良さそうなものはあるか?」
思わず呟きながら指を伸ばして、傍らに居た妹分に不審げな声を掛けられる。それに慌ててごまかし笑いを浮かべながら、八左ヱ門は彼女に別の話題を向けた。それに二郭はにこりと笑って、青を基調とした組紐と桜色を基調にした組紐を示す。
「私くらいの若い女性ならば、このあたりが可愛らしくて良いと思うのですけれど……後は竹谷さんが決めてください。その女房殿は青が似合うか、桜色が似合うか」
「うーん……」
二郭の言葉に八左ヱ門は彼女の手に載っている二つの紐を交互に眺めた。唸りながらしばらく眺め、首を傾げて更に眺める。八左ヱ門の表情は次第次第に険しくなり、最終的には傍らの妹分に再び声を掛けることとなった。
「二郭殿なら、もらってどちらが嬉しい?」
「え? 私ですか? ……そうですねえ、ううーん、私ならこちらの桜色の方が可愛くて良いかな、って思うんですけれど」
「そっか。じゃあ、すみません、その二つの組紐を下さい」
「有り難うございます」
八左ヱ門はその言葉に軽く頷いて、彼女の手に載った二つの紐をそれぞれ購入した。驚いて固まっている二郭を尻目に、八左ヱ門は彼女の手に載っている青い組紐を手に取る。そうして、未だ驚いて固まったままの二郭の頭を撫でながら告げた。
「選んでくれた礼だ。そっちはもらっておいて。――もっと良いやつはいつか通ってくるようになった男に貰いな」
「え!? え、でも……」
「良いって。いつも頑張ってる二郭殿にご褒美だ。――俺は下が居ないから、偶には兄貴面させてくれよな」
よしよし、と頭を撫でる八左ヱ門に二郭は照れたような顔で俯いた。手に載ったままの桜色の組紐を握り締め、困ったようにおタカの方を見やる。しかし、彼女は笑顔で二郭を見やった後、「良かったねえ」と笑いながら言っただけだった。
「……あの、本当に良いんですか? こんな」
「良いって良いって。どうせ俺は他に何か贅沢するわけでもないし。――偶にはこうやって使っておかないと、買い物の仕方を忘れちまうからな。――その代わり、今度また何かあった時は宜しく頼むぞ? 頼りにしてるからな、二郭殿」
「はいっ! 任せてください!」
まだ幼い少女だが、おタカの方と九宮兵助の正室に上手く仕える彼女は腕の良い女房だ。八左ヱ門にはとても関わり合いになれない女同士の問題も彼女が上手いこと処理してくれていることが多い。そういった意味でも彼女は九宮邸になくてはならない存在であった。
「……じゃあ、私はそろそろお暇いたしましょうか」
いつの間にかおタカの方も買い物を済ませていたらしい。店仕舞いを始める商人に、女房二人も頭を下げてからおタカの方の戦利品をそれぞれ持って下がってゆく。その背中を見送りながら、八左ヱ門は仕舞われる寸前の組紐に思わず声を上げた。
「……どうかなさいましたか?」
「あ、あーいや、そのー……す、すみません。やっぱりこれも貰って良いですか?」
「――竹谷様」
「おお、夢前殿」
相変わらず五宮邸に召し出され続ける八左ヱ門は、この場所で顔馴染みになった女房に軽く手を上げた。どうにも彼女は五宮と十宮の繋ぎ役でもあるらしく、頻繁にこの邸へ文やら何やらを届けたりしているようだ。本来ならば下男にでも任せる役目なのだろうが、そこはさすが宮同士と言うべきか。そんな呑気なことを考えながら、八左ヱ門は自分の前へとやって来た幼い少女に視線を合わせた。
「今日もお勤めご苦労様だなあ」
「いいえ、本日は宮様もご一緒ですもの」
「え、姫宮様もおいでなのか?」
八左ヱ門は夢前の言葉に心臓が跳ね上がるのを感じた。それを知ってか知らずか、彼女はにこにこと笑みを浮かべながら続ける。
「ええ。それでわたくしは竹谷様がおいでだとお聞きしたので、お呼びに上がったのですわ。ささ、折角の機会ですもの、また何か虫や獣のお話をしてくださいませ」
手首を掴んで引っ張る様はまさしく幼子で、八左ヱ門は思わず表情が緩んだ。ついつい引っ張られるがままに付いて行くと、そこは以前にも一度通されたことのある御簾の下ろされた部屋の前。しまった、と思うよりも早く夢前が素早く彼が留まれるように支度をしてしまう。そうなっては固辞するのも不躾であるし、八左ヱ門は困ったままに差し出された円座に腰を下ろすしかなかった。
「宮様、竹谷様をお連れしましたわ!」
「夢先殿……」
意外なことに、十宮眞子は了承していなかったらしい。どこか戸惑った様子の声が聞こえて、八左ヱ門はさっと腹を決めた。すぐに姿勢を正して、彼女の居るであろう方角へ額ずく。いつもの通りにはきはきした様子で彼は口を開いた。
「姫宮様には大変ご無礼をいたしますが、またこうして御前に侍る幸運を賜りまして有り難く存じます」
「いえ、こちらこそ夢前殿が突然お連れ申し上げて、ご迷惑をお掛けいたしました。異母兄あににご用がおありではないのでしょうか? それならばわたくしには構わず、どうぞそちらをお済ませになってくださいまし」
静かに響くのは夢にまで見た少女の声。あの逢瀬とも言えぬ逢瀬からしばらく経つが、少女の透き通るような声はどんなに時間が経っても八左ヱ門の耳に優しかった。
「いえ、五宮様からのお召しはもう済んでおりまして、後は帰ろうかと思っていたところだったので。お気遣い有り難う存じます」
「それならば、宜しいのですが……わたくしにお付き合いいただいても問題はございませんのでしょうか? 竹谷様はわたくしと違ってお忙しいでしょうし、ご無理なようならばどうぞご遠慮などなさらずに仰ってくださいませ」
「まさか。姫宮様のお召しに勝る仕事などございませんよ。――元々、今は主が余り出歩くことがないので時間があるのです。私のような下の者にまでそのように細やかなお気遣いを頂いて、姫宮様のお心映えの素晴らしさに感服いたします」
お互いに気遣いをし合う様子を見て、夢前はこっそりと肩を竦めた。八左ヱ門が眞子に気を遣うのは当然としても、眞子もまた人に対してはかなり気を遣っている。今をときめく中宮腹の皇女とは思えぬその様子に、夢前は彼女の気質が宮中には余りにそぐわぬものであると改めて感じた。
(……この人は、よくこの歳まで宮中で生きられたものだ)
このように繊細な心を持っていては、あの泥沼のような場所では生きにくかろう。――もし、彼女が周囲の思惑に気付かぬほど幼く、愚鈍であればまた状況は変わったかも知れない。けれど、眞子は余りにも聡明で、己を知り過ぎていた。そして何より、心痛で弱って死ぬほどには弱くなかったことが、彼女にとって最も不幸なことかも知れなかった。
「――竹谷様、今日は長虫だけでなく他の獣についてもお話ししてくださいな!」
「他の獣と言われても……何か、お知りになりたいことはございますか?」
頭の中で広げていたそんな考えを表には露ほども出さず、稚いとけない子どものように夢前ははしゃいだ声を上げた。それに八左ヱ門が少し困ったように首を傾げ、穏やかな表情を浮かべて眞子へと問う。それに彼女が同じく困って沈黙し、そこを混ぜ返すように夢前が再び声を上げる。そのうちに八左ヱ門も興が乗って来たのか、あれこれと彼女たちの知らない話を披露し始めた。
次第に雰囲気が解れ出す大人二人の様子をはしゃいだ様子とは裏腹に冷静な視線で観察しながら、夢前は己の願いを小さく意識した。――彼らが、いつか幸せに暮らすことができれば良い。朝廷など関係のない遠い緑豊かな場所で、大好きな生き物に囲まれて、小さな子どもたちと一緒に過ごすことができれば。
(……それはきっと、権力者から見たら本当に取るに足らない、願いとすら言えない願いかも知れないけれど)
きっと、その方が彼らは幸せなのだ。どんなに高い地位に就こうとも、そんなに高価な物に囲まれようとも、今彼女が幸せではないように、人にはきっと向き不向きというものがあるのだから。
「――夢前殿、どうした?」
「え?」
八左ヱ門に声を掛けられて夢前はハッと我に返った。いつの間にか黙り込んでいたらしく、近くに居る竹谷と、御簾の奥に居る眞子からの視線が集中している。慌てて笑顔で取り繕おうとする夢前に、竹谷は思い出したように懐から何かを取り出した。
「そうだ、この前買っておいたやつ! ほら、いつも頑張ってる夢前殿にご褒美だ。――俺が選んだやつじゃないから、安心して使えるはずだぞ。見たところ、あんまりこういうの持っていないから好きじゃないのかも知れないけど、あって困るものでもないし。折角だから貰ってくれよ」
そう告げられて手渡されたのは、青を基調として模様が織り込まれた組紐である。普段はほとんど使わないとはいえ、夢前とて女の子だ。綺麗な物は好きである。わ、と歓声を上げて、彼女は目の前で明るく笑む八左ヱ門へ視線を向けた。
「わたくしが頂いても良いのですか?」
「ああ、貰ってくれ。俺が持ってても使わないものだしな。――安物で悪いけど。ま、もう少し良いのはアレだ、大人になったら通ってくる男に貰いな」
カラカラと笑う八左ヱ門に、夢前は少しだけ鎌を掛ける。
「あら、竹谷様だってわたくし以外にも送る方がいらっしゃるんじゃなくて? こんな風に散財なさって宜しいのですか?」
「……それはあれか、俺がもてないことを分かってての皮肉なんだろうな? どうせ俺はもてませんよ、風流を解さない男ですよーだ」
腕組みをして子どもっぽくそっぽを向いた八左ヱ門に決まった相手が居ないことを確認し、夢前は誰にも知られぬままにほっと胸を撫で下ろす。女を囲うのは男の甲斐性でもあるが、やはり気が多い男よりはしっかりと眞子を守ってくれる男が良い。
「あら……? 竹谷様、懐から何か出てらっしゃいますけれど……その紐の模様、もしかして真虫ですか?」
「え!? あ、いや、これは違くってその……」
先程、夢前に渡すための組紐を出した際に同じく懐に入れていた組紐が飛び出たのだろう、ひょろりと装束の間から頭を垂れる紐は滑稽ですらある。それを指摘すると八左ヱ門は先程とは全く違って、慌てた様子でその紐を仕舞おうとした。しかし、慌てれば慌てるほど手元が狂うようで、結局彼は諦めたように懐から一度全ての紐を引っ張り出した。
「まあ、じゅんこの色ですわね! 宮様、ご覧くださいな。こんな組紐もあるんですね」
「夢前殿、竹谷様のものですよ。お返しなさい。……申し訳ありません、竹谷様。わたくしの女房がいつも失礼をいたしますわ」
「いえ……いや、実は私もじゅんこの色だと思って買ったんですが、買った後になって男の私が持っていても仕方がないことに気付きまして。どうしたものかと思いながら今に至るわけなのです」
恥ずかしげに頭をかく八左ヱ門に眞子は思わず笑みを零した。彼女の周りにはこのように実直に話す人間というのはほとんど居ない。その人柄の温かさに心が休まるのを感じながら、彼女は彼の手に横たわる組紐を見つめた。そこで、ふと思い出す。
「――そう言えば、わたくしは未だに竹谷様にあの時の紐をお返ししておりませんでしたわね。こんなに長い間お借りして何も申し上げず、本当にお恥ずかしい限りですわ。けれど、その……今ちょっと持ってきておりませんで、もし宜しければ今度人を遣りますので」
「紐? ……ああ! ああ、あれかあ! ああ、いえいえ、別に大した紐でもありませんし、お返しいただく必要もお手間もございません、そのまま捨てておしまいになって構いませんよ」
「ですが……」
「あ、でもそうか、あんな安物を姫宮様に押し付けるわけにもいきませんよね。すみません、気が利かなくて」
「いえっ、とんでもないことです! あ、あの……では、本当に頂いてしまっても宜しいのでしょうか」
「姫宮様さえお構いにならなければ、本当にお返しいただく必要はございませんから。第一、私も今の今まで忘れていたくらいですし」
からからと笑う八左ヱ門に眞子はつられて笑おうとして、胸が詰まった。――嬉しい、と素直に思う。
今まで、どんなに綺麗な櫛や衣装などを貰っても、こんなに胸が弾んだことはない。自分の立場なら、望めばそれこそどんなに高級なものでも手に入らないものはないのだ。それでも、そのどれよりもちっぽけとすら言える紐が嬉しい。思わず持っていた扇を胸に抱き締めた眞子に、更に言葉が掛かる。
「あの、それと……ついでと言うか、何と言うか、もし宜しければ、この組紐もご一緒にいかがでしょう?」
「え? で、でも、それは竹谷様が……」
「先程も申し上げました通り、私が持っていても仕様のないものですし。――それに、その……本当は、夢前殿への贈り物を買う時に一緒に見て、身の程も弁えず、姫宮様にお見せしたいと思って買ったものなんです。いやあ、本当に何と言うかもう、あはは……」
今度こそ本当に照れて真っ赤になった竹谷に、眞子自身も胸がギュッと締め付けられるような気持ちになる。例えそれが妹分への贈り物のついでに買ったもので他意は全くなかったとしても、自分をその時に思い出してもらえただけで眞子は幸せだった。しかし、言葉を継ぐことができずに居る眞子を勘違いしたのか、竹谷はあらぬ方向を向きながら続けた。
「いや、やっぱりいくらじゅんこ柄と言っても、こんな安物じゃ姫宮様に差し上げるには相応しくないですよね! すみません、なんか調子に乗って色々と!」
「いえっ、要ります! 欲しいです、とっても!」
このままでは持って帰られてしまう、と思った眞子は自分でも想像できないほど大声を上げた。それには八左ヱ門だけでなく夢前も驚いたのか、二人とも驚きの眼で御簾を見詰めている。この人物と関わると自分は考えなしになる、と思いながら、眞子はこの状況をどう打開すれば良いのかと同じく固まってしまった。そこで逸早く我に返ったのは八左ヱ門で、彼はにっこりと笑って紐を綺麗にまとめてから夢前に手渡した。
「――本当にお気遣い有り難うございます。お言葉に甘えて、こちらも姫宮様に」
「宮様、どうぞ」
八左ヱ門の行動で我に返ったらしい夢前が御簾を上げて彼女の傍に近付き、そっと組紐を差し出す。真っ赤な顔でそれを受け取った眞子は、それでもとても嬉しそうにその紐を押し抱いた。
「……竹谷様、有り難うございます」
「いえ、こちらこそ何だか押し付けるような真似をいたしまして申し訳ありません。少しでも何かのお役に立てば良いのですが」
再び額ずく竹谷に、眞子は見えないことを承知で幸せそうな表情を浮かべた。それを間近で見ていた夢前は、彼女の細い手にしっかりと抱えられた組紐をそっと眺めながら、同じくにっこりと微笑む。
――それがこの二人にとって穏やかで幸せな最後の逢瀬だと、この時に気付いた者は誰も居なかった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒