鈍行


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▼うら



「え、またですか」
「ああ」
 気に入られたなあ、と続ける主に八左ヱ門は困ったように頭を掻いた。五宮から召し出されるのはこれで三度目だ。どうにも八左ヱ門は何が良かったのか、五宮長次に気に入られたらしい。珍しい虫の本が出てきたやら何やらで五宮邸へと呼ばれ、八左ヱ門はその度に断ることもできず、居心地の全く宜しくない時間を過ごしている。それでもお呼びが苦ではないのは、心のどこかでもしかしたらあの方の存在を感じられるかもしれない、という思いが心のどこかにあるからだ。
 あの方――とは、彼の主である九宮の異母妹であり、現中宮の(むすめ)である十宮のことである。ひょんなことから彼女と縁を持つに至った八左ヱ門であるが、そのたおやかな姿や健気な心映えなどを知るにつれ、彼女へ強く惹かれていた。叶わぬ恋とは分かっていたが、それでも止まらぬ想いに少しでも関わりが持てれば、とつい呼ばれるがままに五宮邸へと足を運んでしまうのである。そんな彼を知ってか知らずか、再び二人の線が交わる時が訪れる。



「え……!?」
「十宮が来ている。折角だから虫の話をして欲しい」
 何だかんだと足繁く五宮邸へ通っていた八左ヱ門に、何故か五宮長次から声が掛かった。しかし、はいはいと素直に応じるには相手の身分が違い過ぎる。九宮の侍従ではあっても公達ですらない八左ヱ門が五宮長次と直接面と向かって言葉を交わすこと自体が既に奇跡と言って差し支えがないのに、更に後宮の珠玉である十宮と同席を許されるという。余りにも異常な状況に八左ヱ門は思わず言葉を失った。
「し、しかし、その……私が姫宮様の御前に上がるわけには」
「アレが望んでいる。――どうしても、趣味を受け入れてくれる人間が少なくてな。そちらさえ構わなければ是非、話相手になってやってくれ」
 話相手と言われても、と八左ヱ門がためらう間にも何かの支度が整ったらしく、長次は彼の意向など気にもせずに八左ヱ門をどこかへ(いざな)っていく。雲上人相手に逆らうことなどできるはずもなく、八左ヱ門は困惑した気持ちを抑えながらその背中へとついて行った。
 通された奥の対は御簾が下ろされている。その部屋の前に座る形となった八左ヱ門は目の前に広がる美しい庭と、御簾の中から薫る馥郁(ふくいく)とした香りに思わず溜め息を吐いた。――何とかして忘れようと思っているのに、どうしてこうなるのか。それでも相手のことが気になり、八左ヱ門はちらりと視線を御簾の中へと振り向けた。
「――この度はお呼び立てして申し訳ありません。おいでくださって有り難うございます」
 御簾の中から聞こえてきたのは幼女の声。先日聞いた彼女自身の声を想像していた八左ヱ門は思わず落胆し、同時に当たり前だと自分に言い聞かせる。あの事態こそが異常であって、本来はこの状況が正しいのだ。それでも彼女の声をもう一度聞きたかった、と馬鹿みたいに思いながら、八左ヱ門は御簾に向かって深く深く頭を垂れた。
「姫宮様におかれましては本日もご機嫌麗しくいらっしゃるようで何よりです」
 一口に宮と言えど、既に朝廷からほぼ離れている五宮長次やほとんど兄弟のように交わって来た己の主である九宮兵助と、今対峙している十宮では訳が違う。以前に交わした会話は飽くまで突発的事態によるものであり、物の数には入れられないため、彼はどういった言葉をかければ良いのか必死に考えながら口を開いた。しかも、相手が未婚の姫宮――しかも今をときめく中宮腹だ――とあれば、彼女の意向に関わらず、場合によっては八左ヱ門の首が飛びかねない。カチンコチンに緊張して(へりくだ)る八左ヱ門に、くつくつと幼い笑い声が響いた。
「どうぞお気を楽に、竹谷様。わたくしは十宮様の女房で夢前と申します。この場は飽くまで私的なもの、宮様も堅苦しいことをお望みではございません」
「し、しかし……」
「宮様は虫の話を御所望です。貴方がご存じの、何か珍しいお話を是非お聞かせくださいな。そのためにわたくしが参ったのですもの」
 幼女、というには余りにも落ち着いた調子の言葉に八左ヱ門はどうして良いか分からなくなる。八左ヱ門の戸惑いが分かったのだろう、少女は更に続けた。
「普段は中宮様がお選びになった女房が宮様のお付きなのですが、お恥ずかしながら宮様の虫にとうとう堪えられなくなりましてね。それで虫の平気なわたくしが新しくお傍に侍ることになったのですわ。それに……わたくしは中宮様よりも宮様の方が好きなんですの。ですから、貴方が宮様を楽しませてくださる限りは多少のことには目を瞑って差し上げましてよ」
「夢前殿!」
 小さな囁きが八左ヱ門の耳に届く。この時ばかりは耳が良くて良かったと八左ヱ門は思った。――待ち望んでいた、少女の声だ。彼女は小さな声で少女を咎め、少しためらった後に少し大きな声を出した。
「……大変ご無礼をいたしました、竹谷様。わたくしの教育が至らぬばかりにご不快になられたことと思います。わたくしからもお詫び申し上げますので、どうぞお許しくださいまし」
「そ、そんな畏れ多いことです。姫宮様も女房殿もどうぞお気になさらず。今でこそ九宮様の侍従ではございますが、元々は東国生まれの物の数にも入らぬ身。お気遣いなきよう」
 十宮からの直接の詫びに竹谷は今度こそ飛び上がって平伏した。慌てて早口で己の身の上を述べる。それに少しだけ興味を引かれたように、十宮がほろりと直接問いを零した。
「……東の方なのですか?」
「はい、元々は。母が九宮様の母君――つまりは女御様なんですが、彼のお方の侍女でございました。それでも六宮様がお生まれになる前に東国の人間に縁あって嫁ぎまして。しかし、その男――私の父ですが――がしばらくして亡くなりまして、幼子を抱えて困っていた母を女御様が再びお傍に召してくださり、私自身もちょうど同い年でいらっしゃる九宮様の遊び相手にちょうど良い、というので母と共に再び京へ。
 ああ、そうですね、東にはこの土地には居ない虫も多いですよ。やはり場所が違うと環境も気候も少し変わる所為か、やはり虫も変化しますね。花も草も京とは少し趣が違って、(ひな)には鄙の面白さがありますよ」
 夢前との遣り取りで少し気が緩んだのか、八左ヱ門はようやく言葉を軽く紡ぎ始めた。京で暮らすよりもずっと短い期間過ごしただけの故郷であるが、今でもその光景は懐かしく思い出せる。今よりもずっと制約が少なく、心のままに野山を駆け回ったあの頃は八左ヱ門にとって大切な宝物だった。
「東ではどのような生き物が居るのですか?」
「そうですねえ……ああ、ヤマカガシという長虫をご存じですか? あの長虫はこちらでは地味な色合いをしておりますが、東に行くと赤や黄の斑模様だったりするんですよ。こちらで初めて見た時は別の長虫かと思いましたね」
 いつの間にかいつもの明るい笑みを浮かべながら、八左ヱ門は二人の聴衆へ楽しげに語っていた。本来ならば女房こそが主人の言葉を伝えなければならないところを、夢前自身もまた十宮や竹谷と会話を始めている。そのうちに三人でそれぞれ直接言葉を交わし合うようになっており、私的とはいえどこまでも型破りな交流の場が作り上げられたのであった。







「――ああ、もう日が傾き始めてきた。姫宮様もお帰りになるのでしょう? 私も随分長居をしてしまいましたし、そろそろお暇しなければ。本日は大変楽しい時間を有り難うございました。畏れ多くも姫宮様にこうして直接お声掛けいただける幸いに与りましたこと、この竹谷は決して忘れません。このようにお目に掛かることはもうないとは思いますが、どうぞ姫宮様もつつがなくお過ごしください」
「そんな……でも、そうですね。わたくしも、忘れません」
 しんみりと言葉を交わし合う二人を尻目に夢前は溜め息を吐いた。彼女自身も一緒になって盛り上がっていたわけだが、男女が一つ所に居りながら一度たりとも色めいた話題が出なかったのは不思議なことである。二人は最後まで盛り上がっても道を誤ることはなく、己の領分を守り続けた。そのことに半ば感心めいた気持ちを抱きながら、夢前はそっと別れる二人を見守り続ける。
 御簾越しに見つめ合う二人はどこか寂しげで、離れがたいという気持ちがお互いから感じられた。しかし、八左ヱ門が思い切るように頭を垂れると、十宮眞子(まこ)もまた見えないと分かっていながら彼に向かって頭を下げる。彼女が額ずいている間に八左ヱ門が立ち上がり、足音と衣擦れの音が遠ざかって行く。頭も上げられぬままにそれを聞いた眞子は、せめて背中だけでもと既に消えた人物を求めて御簾の外へ必死に目を凝らした。その表情は見ている方の胸が絞られるほど切なげで、夢前は知らず知らずのうちに溜め息を吐いてしまう。――結ばれぬ運命だと分かっていても、不思議と成就して欲しいと思う縁がある。幼いながらも二人の心を理解した夢前は、報告すべきことにこの事項を留めた。



「――また、来て欲しい」
「お召しとあらばいつなりと。本日は長居をしてしまって申し訳ございませんでした。姫宮様にもお相手していただきまして、どうぞ五宮様からも竹谷が深く御礼申し上げていたとお伝えくださいませ」
「礼を言うのはこちらの方だ。……あれは余り人と関わりたがらない。ゆえに人に慣らしてくれて感謝している」
 竹谷はその言葉に一度目を瞬き、その後に泣き笑いめいた表情で笑った。その理由を長次が問う前に、彼は再び深く頭を垂れてその場を辞してしまう。問う機会を失った長次は溜め息をひとつ吐くと、己の後ろにそっと控えている幼子に視線を向けた。
「……六宮への報告を、頼む」
「承りましてございます。――けれど、不思議なご縁ですね。物の数にも入らぬこの身ではございますが、六宮様や五宮様に影ながら引き立てられ、更に十宮様のお傍に侍る幸運を得られるとは」
 その幼い容姿とは裏腹に大人びた口調で語る少女に長次は眉を上げた。それに彼女もまたくつりと唇を緩ませる。
「あのお二方が結ばれることはないと分かっていても、どうしても望んでしまいますね。……あのお二方、本当にお似合いなんですもの。ヤマカガシの話題であんなに盛り上がれる男女を、わたくし初めて見ましたわ」
「……ヤマカガシ……」
「長虫の一種ですわ。東と西では色や模様が違うんだそうです。お二方は終始そのようなお話ばかりで、他にはどんな話題も出ませんでした。――宮様が北のお方とお話しなさっている間に、わたくし六宮様へのお文を書いてしまいますね。その後は宜しくお頼み申しますわ」
「ああ」
 幼い背中が遠ざかるのを眺めながら、長次は先程竹谷が浮かべた表情の理由を考えていた。何かまずいことを言っただろうか、と思うものの、思い当たる節がない。今度機会があれば聞けるだろうか、と考えながら、長次もまた眞子と妻の居る対へと戻って行った。



 一方、帰路を歩いていた八左ヱ門はグチャグチャとこんがらがる思考を何とか宥めようと必死だった。――彼の人物の言葉に他意がないことなど、彼が一番よく分かっている。それでも深読みしてしまった自分に自己嫌悪が募った。
(――どうせ俺には手の届かない方で、所詮俺なんてあの方が結婚するための踏み台にしか過ぎないんだろ!)
 あれだけ素晴らしい姫である、五宮が言う通りに人に慣れれば縁談もさぞかし円滑に進むことだろう。――もっとも、竹谷に接する十宮は人に不慣れだというような様子は全くない常に清らかな様子で、まるで人の世のしがらみをまるで知らない天女のようだった。その柔らかな声を思い出しながら、竹谷は深い溜め息を吐く。
(……あの方が仮に天女だったとしても、どっちにしろ手の届かない人であることは確かだよなあ)
 自分の心に重く圧し掛かるのは、彼女に釣り合わない自分の身の上ばかり。しかし、生まれを嘆いたところで仕方がないし、八左ヱ門は自分の両親が好きだった。それゆえに長く悩むことはせず、いつか時がきっと解決してくれると結論付けて家路を急いだのだった。



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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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