鈍行
▼ゆかり
「……どうしたの、ねえ、あなた……」
十宮眞子は悲鳴じみた声を上げた。先日から具合が悪そうにしていた長虫がとうとうくったりと元気を失って伏しているのである。あれこれと文献を調べて世話をしてきたのだが、こうなっては眞子にももう手が出せない。どうしたらこの長虫を元気にしてあげられるだろうか、と眞子は身じろぎしない長虫を入れた虫籠を抱えておろおろと溜め息を吐いた。
――思い出すのはある人物の顔。だが、その人物に助けを求めるには余りにも縁が薄過ぎた。しかし、自分ではもうこの長虫をどうにもできない。かと言って知り合いに長虫の専門家など居るわけもなく、しかし助けを求めるには……と眞子はぐるぐると頭の中で堂々巡りを繰り返した。そこでふと思い出したのは、自分の異母兄のひとり。ありとあらゆる書物を読み尽くしたのでは、とまで言われるあの異母兄ならば、と眞子は急いで文箱を手元に引き寄せた。
「まあ、どうなさいましたの?」
「……異母妹いもうとから、文が。飼っている虫の様子がおかしいらしい。何か良い手立てはないか、と」
五宮長次は届けられた文を開いて唸った。その様子を見ていた彼の妻がおっとりと尋ねる。長次は正室であり唯一の妻でもある彼女にぼそりぼそりと言葉を返し、己を頼って来た異母妹に何かできないかと生物関係の書物を手当たり次第に引き出した。彼の妻もそんな夫の様子に慣れているらしく、静かに様子を眺めている。その時、別の場所からもうひとつの文が届いた。
「まあ、今度はどちらから? ……あら、あなた。六宮様――いえ、仙姫様からお文が」
六宮仙子は五宮長次の異母妹――それも同年の――に当たり、まだ彼らが幼い頃からとても仲の良い友人でもあった。それゆえに今でも勿論親交があるわけで、長次は慣れた様子で届いた文に目を通す。その内容自体は世間話だったのだが、彼はこれ幸いとばかりに返事の文をすぐに託した。――勿論、その内容にはほとんどないと言って良い末宮の〈お願い〉について触れられていたのである。
「……はい?」
「いや、だからな。十宮の長虫の調子がおかしいんだって。それで、お前ちょっと五宮様のお邸まで出向いて、その虫がどうなってるのか見てきてくれないか?」
主である九宮兵助に告げられて、竹谷 八左ヱ門は思わず胡乱な表情になった。それは兵助も理解できるようで、少し困ったような表情を浮かべながら頼みごとを繰り返す。しかし、その内容の異様さに八左ヱ門は弱り切り、とにかく急いで五宮邸に出そうとする主に手を上げて訪ねた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、兵助様。あの、十宮様の長虫の調子がおかしくて、何で俺が出てくるんですか? それから、何で十宮様の所じゃなくて、五宮様の所へ? 何か色々おかしくないっすか?」
「ああ、そのことか。まさか、いくら十宮の長虫を診るためとはいえ、俺の侍従であるお前が後宮に行くわけにはいくまい。だから、十宮の虫を五宮様の邸に移してもらって、別の用事があるという名目でお前さんが五宮様の許へ行くわけだ。あの娘はまだ嫁入り前だし、色々としがらみも多くてな。
で、その話がどこから私の許へ来たかという質問だが、姉上――六宮様からでな。ま、最初は博識な五宮様に十宮から文が行って、五宮様が六宮様にお話を伝えて、更に私の侍従がそういったことには詳しいだろう、ということで私に話が回って来た、というわけなんだが。で、行ってくれるな? というか、命令だ、行け」
八左ヱ門は少しばかり必死な目をした主に小さく溜め息を吐いた。長虫の様子を見てくるのはやぶさかでないが、自分とて役に立つかは分からない。それこそ、自分などより専門家に頼んだ方が良いのではないかと思うのだ。――何せ、相手はこの世を統べる天皇すめらみことの子女なのだ。当然、一声かければ各地からいくらでも専門家を集められよう。しかし、それを八左ヱ門が兵助に告げると、彼は小さく頭を横に振った。
「いや、十宮の飼っている長虫の調子が悪いとなれば、中宮様――十宮の母君が嬉々として捨てさせるだろうよ。元々、あの方は十宮が虫や生き物を飼うことに反対だからな。だから十宮も決して母君には頼らない。自分の身の丈に合わぬ生き物も飼育しないんだ。最後までしっかり面倒が見られない生き物を飼うのは、罪悪だとあの娘が一番よく知っている」
兵助がしみじみと述べたその言葉に八左ヱ門はドキリとした。元々生き物を可愛がる性質の八左ヱ門である。その彼が生き物を大切にする人間の話を聞いて好意を抱かぬはずがない。しかも、それが人に普段嫌われる生き物であるのだから、尚更。何とかして力になってやりたいと、八左ヱ門は兵助の許に届いた長虫の特徴や状態などを詳しく聞いた後に様々な準備を行ってから五宮邸へと出向いたのであった。
「――これだ」
「あちゃあ……随分と弱ってますねえ」
文を出してから三日と経たずに専門家の手配がついたと聞き、眞子は異母兄の許へ長虫を連れて行った。しかし、そこに呼び出されていた〈虫に詳しい人間〉の声を聞いて驚く。――彼女がはじめに縋ろうと考えた人物の声である。御簾の中で思わず腰を浮かせ掛けた眞子は、自分の隣に長次の室が居ることを思い出して慌てて堪えた。けれど、虫籠を持ち上げては中の虫を矯めつ眇めつしている男の様子や声が届くことによって、自分がほっと安堵していることに気付く。会ったことは一度、文を交わしたのは儀礼的なものだけ。それなのにどうして彼へこんなに心を預けているのだろう、と眞子は自分で自分がおかしくなった。
「今まで、どんな場所に置いていたんですか?」
「室の隅に他の虫たちと同じように」
「風通しは? 直接日が当たるような場所でしたか? 餌は何を?」
矢継ぎ早、とも言える調子で八左ヱ門は質問を飛ばした。いつの間にか表情は真剣で、前に居るのが自分より遥か上の身分の人間だということも忘れている様子である。幸い、そのようなことを気にする人間などその場に居はしなかったが、五宮はじめ十宮でさえも次第に変化する彼の様子に息を飲まざるを得なかった。
初めは大人しく胡坐をかいていたはずの膝が次第に立てられ、立てた膝の上に虫籠が載せられる。それだけではどうも確認できなかったのか、八左ヱ門は自分を見つめる長次に視線を向けた。
「この長虫、出しても大丈夫ですか?」
「ああ」
「失礼します」
慣れた手つきで虫籠の蓋を外し、優しい手つきで八左ヱ門は長虫を取り出す。時折柔らかい声で話しかけながら、八左ヱ門はぐったりとしたままの長虫をそっと再び胡坐をかいた膝の上に乗せた。その姿は先程まで皇族に遠慮して小さくなっていた人物とはとても思えない。時折ちろちろと舌を出す長虫を確かめるその様子に、眞子は自分がひどく動揺していることに気付いた。
(――どうしてこんなに心臓の音が速くなるのだろう。あの方の笑顔を思い出すだけで胸が穏やかになったのに、どうして今こんなにも落ち着かない気持ちになるのかしら)
手に持った扇を弄びながら、眞子はじっと自分の長虫を眺めている男の横顔を食い入るように見詰める。その視線を感じたのか、八左ヱ門がふと御簾の方へ顔を向けた。思わずドキリとして扇を取り落とす眞子に、八左ヱ門は何も言わない。当然だ、御簾の外からでは存在自体は分かっても、彼女がその長虫の持ち主であるなどと分かるわけがないのだから。自分を見たのではない、と早鐘を打つ心臓に言い聞かせながらも、眞子はどうしても落ち着かぬ自分に何だか泣きたくなった。
「……んー……まあ大丈夫、良くなりますよ。少し気を付けてさえいただければ」
震える手で扇を取り上げた瞬間に、何度も瞼まぶたの裏に蘇らせた笑顔が目に入った。拾おうとしていた扇をもう一度取り落として、眞子はその笑顔に見入る。どうしてだか、涙が溢れた。
「宮様……!?」
「あ、いえ……何でもないのです。ただ、どうしてだか涙が溢れて……」
御簾の中が騒がしくなったのに気付いたのだろう、八左ヱ門は再び丁寧な手つきで虫籠に長虫を戻し、落ち着いた様子で長次に頭を下げる。二、三彼に何かを伝えた後、更に眞子たちが居る御簾の方へも頭を下げ、彼は立ち上がって踵を返した。
(あ、行ってしまう)
何が眞子をそこまで突き動かしたのか、彼女自身にも分からない。ただ、身体が知らぬうちに動いていた。
「待ってください!」
「宮様!?」
長次の室が止めるより早く、眞子は御簾を払い上げて飛び出していた。自分に背中を向けている八左ヱ門を呼び止めようと思わず駆けて、足をもつれさせる。当然だ、普段から歩くどころか立ち上がることすら稀なのだから。重い装束が身体に圧し掛かる。床に激突する、と目を瞑った瞬間に、温かい腕が自分の身体を掬い上げた。
「……っと、大丈夫ですか!?」
「え、あ、はい……あの、すみません……」
抱き留められる形で八左ヱ門に包み込まれて、眞子はどうして良いか分からずに真っ赤になって硬直する。へたり込んでしまった眞子を、八左ヱ門は困ったように見下ろした。
「お姫様が御簾の中から出て来てはまずいでしょう。さあ、早く御簾の中に」
「あの、でも、どうしてもお礼を申し上げたくて……! わたくし、じゅんこの時も、今も、竹谷様には大変お世話になっているのに直接お礼も申し上げることもできず……その、ですから、あの」
真っ赤な顔で涙交じりに訴える眞子に、八左ヱ門はにっこりと笑いかけた。
「既にあんなに立派なお文を頂きました。お気になさる必要などございませんよ。さ、もう中へ。誰に見られるとも分かりませんから」
「……十宮」
長次に促されて、眞子は真っ赤な顔のままこくりと頷き八左ヱ門の腕から立ち上がる。乱れた髪を手で直してから、眞子は深々と八左ヱ門へ頭を下げた。長次が去りがたい様子で立っている眞子をもう一度促し、彼女を御簾の中へと入れる。何度も己に振り返る眞子に戸惑いながら、八左ヱ門は己の隣で佇む長次へと再び頭を下げた。
「では、私は今度こそ失礼いたします。姫宮様も皆様方もつつがなく」
「助かった、礼を云う」
「大したことはしておりませんし、生き物が大事にされるのは嬉しいことです。また何かお力になれることがあればお声をおかけください」
長次の言葉に八左ヱ門は明るく笑った。もう一度だけ彼に向って深く頭を下げ、更に御簾の中に居るであろう眞子に対しても頭を下げる。そうして彼は今度こそ、貴人の屋敷を後にした。
「お、お帰り。どうだった?」
「……何て言うか、もう俺駄目かもしれません」
帰還の挨拶にやって来た八左ヱ門は、笑顔で迎える主の前で崩れ落ちた。先程五宮邸を辞した時とは対照的に、彼は耳まで真っ赤になっている。その様子に驚いている兵助に、八左ヱ門は己の腕を開いてじっと見下ろした。
「……八?」
「――はああああ……とりあえず、無事に頼まれごとは完了しました。でも、俺の心が大変な衝撃を受けました」
「何だそりゃ」
「心が辛いのでもう寝ます。お疲れ様です」
「あ、おい、ちょっと」
八左ヱ門はまだ問い足りない主を置いて部屋を退出した。本来ならば許されない行為だが、さすがの兵助も常とは違う八左ヱ門の様子に咎めることはできない。普段とは違い、少し背中を丸めて出ていく彼を引き留めることもできずに見送った兵助は、いったい何があったのかと首を捻る以外にやりようがなかった。
一方、自室に下がった八左ヱ門は几帳の後ろに回り込んでからがっくりと膝をついた。先程以上に深い溜め息を吐き出してから、諸手を床につく。
「…………手の届かない人だって分かってるじゃんよ、俺……」
腕の中に残るのは、柔らかい少女の体温と焚きしめられた香の匂い。至近距離で見下ろした貴人の赤く染まった頬と涙に潤んだ瞳を思い出して、八左ヱ門はもう一度深い深い溜め息を吐いた。
「……まあ、さすがにもうお呼びもないだろ」
ごろり、と衣装も脱がずにだらしなく床に転がりながら、八左ヱ門は早く忘れてしまおう、とぐっと強く目を閉じた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒