鈍行
▼まぐ
「二人の、対照的な姫の話をしようかの。
――どちらも立場はさして変わらん。ひとりは大納言の一の姫、ひとりは近衛大将の二の姫であった。そして、ふたりはそれぞれ零落の道を辿る」
「……それは」
長次がぼそりと言葉を漏らすと、今上は口の端を持ち上げた。そして、黙っているように指を唇に押し当てる。それを小平太は不機嫌そうに眺めている。そわそわと身体を動かしているのは、奪われた己の珠玉を求めるがゆえだろう。しかし、そんな小平太を尻目に、今上はひどくゆっくりと続ける。
「まずは近衛の姫。――彼女はいずれ後宮に上がるであろうともっぱらの噂で、その御代の帝もそれを望んでいたそうじゃ。けれど、娘は何をしたと思う?」
「……何、駆け落ちでもしたんですか?」
問いかけられた小平太は、吐き捨てるように呟く。それに今上は呵々と笑って、はっきりとそれを肯定した。
「その通り。――その娘は栄えある皇の妻という立場を蹴って、さして身分の高くもない、気が優しいだけが取り柄の男の許へ駆けていったよ。無論、二人は追われた。けれど、姫は帝にはっきりと、自分の夫はかの男だけであると告げたそうじゃ。かの男と離れたら、己は生きながらに死ぬのだと、はっきりと姫は告げた。
そう言われては、帝も男としてその娘を奪うわけにはいかなかった。世間のことを考えて、帝は男の身分を剥奪し、姫と二人鄙の場所へ追放することに決めた。実際には、ちょっとした官位を与えての島流しじゃな。
……それでも、あの姫は幸せそうであった。あの娘にしてはそうであろうな。己の願いが叶ったのじゃ。貧しくとも好いた男と二人、彼女は鄙でひっそり暮らしたよ。ひとりの可愛い姫にも恵まれて、本当に幸せそうであった」
「……まるで見てきたような言い方ですね」
途中から伝聞調ではなくなった話に、小平太は小さく呟く。それに今上は少しだけ悲しげな笑みを浮かべ、軽く頷いた。
「まだ気づかぬか、小平太」
「何をです」
「……近衛の姫は、お前の花の母じゃぞ」
それまでかけらほども興味を示さなかった小平太であるが、その言葉を聞いた瞬間に父へと向き直った。それに今上は軽く肩を竦め、やれやれと首を横に振った。
「所詮、その程度か」
「何がです」
「主としても、良人としても、お前は未熟じゃの」
吐き捨てられた言葉に、小平太が腰を浮かせる。しかし、彼が何かを言うよりも早く、今上の鋭い視線が小平太を射抜いた。
「――ただ与えられるものが全てか、小平太」
「何を……」
言いよどむ小平太を一瞥すると、今上は気を取り直したように話を続けた。
「……もうひとりの姫は、大納言の一の姫として蝶よ花よと育てられた。大納言の姫となれば、婿がねなどよりどりみどりでの、姫には文が降るように届いたそうじゃ。
だが、姫は己の美しさ、父の身分に溺れて、ほとんどの求婚を断った。それが仇になっての……父の大納言が急死したとき、姫は未だ婿もおらず、己を守ってくれる人間さえもいなかった」
父の話に小平太が息を飲んだ。――それは、余りにも滝夜叉の境遇によく似ていた。もっとも、彼女の父は官位が高くなかったため、全くの別人ではあろうが。
「姫は物の見事に零落し、彼女に残されたのは荒れ果てた邸と乳母、そして乳兄弟のみ。ほかの使用人はひとり消え、ふたり消え……あっさりと彼女を見捨てていったそうじゃ。
けれど、なおも姫は己の矜持を捨てることはできなかった。ゆえに彼女になおも文を送る男たちを、己の身分と釣り合わぬというだけで拒み続け、彼女に求婚する男もひとり減り、ふたり減り……いつの間にか尽きてしもうた。
その頃、姫の邸は庭に草が茂り、屋根が破れて雨が漏るうえに、手入れのされない床はささくれきしみ、それはひどいものだったそうじゃ。
――その場所で、姫は何を思ったんじゃろうな」
父の言葉に、小平太は唇を噛みしめた。
それは、小平太も滝夜叉に思ったことだ。淋しい、と遠くを見る少女に、だからこそ自分が傍に居ようと決めた。いつもは騒がしくて自己主張が激しいくせに、本当の願いは常に胸のうちへ秘める少女が心から愛しく思えて。
「その、姫は……」
沈黙した二人の間に、吐息のような声が割って入った。それは今まで黙っていた長次のもので、今上は彼の視線を受けてにやりと笑う。
「乳母が浅慮での、ろくでもない男へ縁づきかけたわ。妻も子どももいるくせに、さらに大納言の娘を次妻にしようなどという、ろくでもない男を乳母が手引きしての。
だが……その男しか、もはや姫には残されなかった。そのときの絶望は、いかほどだったのかのう」
長次は何かを言いかけたが、しかしその言葉を紡ぐことはなかった。ただ、ちらりと小平太を見やると、彼は表情を抜け落としたような無表情で、父帝を見つめていた。
「小平太、お主はあの娘をどうするつもりじゃ?」
「どう、する……?」
「気に入ったのならば、傍に置くのも確かに良かろう。だが、ただ傍に置くだけならば誰でもできるのじゃぞ」
小平太はその言葉に瞬きを繰り返した。――好きだから、愛しているから側に置いておきたかった。けれど、それだけでは駄目だと言われるのならば、一体何をすれば良いと言うのだろう。皆の言いたいことが理解できず、小平太は困惑する。それに今上が小さく溜息をついた。
「……お主は、母こそ身分はそう高くなかったが、それでも皇だからの。理解できぬか」
「何を、です」
「――貧困と孤独、それに伴う恐怖。大納言の姫が、そしてお主の花が何よりも怯えたもの。
正直なところを申せば、わしとて本当にその恐怖を理解しているかと問われれば、首を横に振らざるを得ない。わしは、そしてお主らも、生まれながらに皇として生活を保障されてきた。たとえ、周囲の心が遠くとも、物理的に満たされぬことはない。
わしらにとって、明日は今日の続き。朝日が昇れば、朝餉が運ばれ、夕日が沈めば夕餉が出る。寝るところに困ることもなく、何か困ったことがあれば周囲が手を差し伸べてくれる。――それはなんと、恵まれたことなのじゃろうな」
己の身分を厭うかのように吐き捨てた父に、小平太は彼の抱える何かを見た気がした。しかし、それも己に向けられた鋭い眼光に射すくめられるまでである。視線で人が殺せるのならば、きっと小平太は今死んだ。それほどまでに鋭い視線であった。
「……あの娘は、昇る朝日をひとりで眺め、何を思ったのじゃろうな」
けれど、告げられた一言は小平太を断罪するものでも、ましてや彼を追い詰めるものでもなかった。ただ、荒れ果てた邸にひとり残された、少女を慮るもの。告げられた言葉に思い浮かぶ光景は、小平太にも見覚えがあった。
ひとり、背筋を伸ばして。けれど、その背中は余りにも細かった。彼女はそれでも顔を上げて、真っ直ぐに遠い空を見つめている。その表情が普段の強気な笑顔からは余りにもかけ離れていて、そんな顔をさせたくない一心から、小平太は彼女を側に置こうと思った。
(――どうして、それじゃ駄目なんだ?)
大切にしたいから、側に置いた。好きだと思ったから手を付けた。奪われたくないから、手許に隠した。それのどこがいけないのだろう。
「――小平太、永久に変わらぬものなどない」
「長次まで、私にどうしろと言うんだ?
私は、滝夜叉が可愛いと思ったから側に置いて、他の女とは手を切った。あれがいれば他は要らないと思っている。そのほかに何が必要なんだ? そんなもの、私のほうが知りたい!」
かんしゃくを起こしたように叫ぶ小平太に、長次はただ瞼を伏せ、今上は小さく溜息をつく。
「分からぬなら、もはやその手許に花は戻るまいよ」
今上はそれだけ吐き捨てると、傍らに控える己の息子へ視線を向ける。それに長次は少し頭を下げると、苛々と己らを見つめる小平太の腕を取る。彼は少し抵抗したが、それでも先程のような苛烈な反応はもはやなく、そのまま長次の牛車へと押し込められたのだった。
「……ひどいな」
「――見苦しい姿で御前を汚しますこと、お許しください」
喜八郎の牛車で内裏へと運ばれた滝夜叉は、その格好のまま女御の殿舎へと連れていかれた。うっすらと陽の光が差し込む牛車に揺られた滝夜叉は、塗籠に押し込められていたときとは打って変わって冷静な調子で貴人へと頭を垂れる。しかし、彼女から漂う生臭さに女御は扇を口元に当てて顔をしかめると、手を打って女房たちを呼び寄せた。
それまでは別の局に控えていたらしい女房たちが素早く現れ、見るに堪えない状態の滝夜叉を囲む。あれよあれよ、という間に彼女は女房たちに別の局へと連れ出され、そこに用意してあった湯で丁寧に身体を拭われた。さらに滝夜叉が触れたこともないような素晴らしい衣裳をまとわされ、彼女は女御の応対に思わず身を竦ませる。しかし、他の女房たちは滝夜叉のそんな様子など意に介することもなく、彼女を再び女御の許へと連れ出したのだった。
「おや、ようやく見られるようになったようだな」
「あの、女御……これは一体」
しかし、女御は滝夜叉の問いに答えることはなく、彼女の顎を扇で持ち上げた。普段の滝夜叉ならば許さぬ振る舞いであったが、女御には抵抗を許さぬ何かがある。圧しかかるような重い空気に滝夜叉が息を飲むと、彼女はくつりと笑った。
「――似ておるの、母君に」
「母を、ご存じで……?」
「知っておるとも。……わたくしたちは仲の良い友人だったのだから」
その言葉に滝夜叉は瞠目した。思わず、不躾に目の前の相手を見つめる。しかし、その反応にも女御はただ軽やかに笑って、そして彼女を傍へと座らせた。
「――少し、話してやろう。お前は母の記憶が余りなかろうしな」
滝夜叉の母は、彼女が幼い頃に亡くなった。元々彼女が病がちであったこともあり、滝夜叉が母と過ごした時間は少ない。今はもう顔すらおぼろげな母のことを、滝夜叉は知りたいと思った。
「さて、何から話せば良いのやら……おや、遅かったな。もう少し早く戻ってくるかと思えば。そのうえ、随分と貧相になって、のう?」
「三木……おま、その頭……!」
しかし、彼女が話し出すより先に外が騒がしくなる。滝夜叉が振り返れば、そこにはひどく不機嫌そうな顔をした六宮仙子と、見るも無惨に髪を切り落とした三木の姿があった。滝夜叉がそれに絶句すると、仙子が呆れたように吐き捨てる。
「――心配は無用。この阿呆が自分で切り落としおったわ」
「そんな、自分で、って……三木、お前なぜそんな馬鹿な真似を……!」
「――気にするな。自分のためだ」
滝夜叉が慌てて彼女に駆け寄る。短くなったその髪を白い手で梳けば、今までは絡むはずの髪が指からすり抜けた。その心許なさに滝夜叉は胸を衝かれるような気になる。そして、彼女がこんなことをしでかした原因が己であることに、唇を噛みしめる。腕を伸ばしてその細い身体を抱きしめれば、焚きしめられた香が鼻腔に届いた。
「この阿呆……っ! 愚かな真似を……!」
「……別に、お前のためじゃない。本当は、自分のためなんだ」
恋はひとを愚かにする、そう言ったのはお前だろう、と己の胸元で呟いた三木を、滝夜叉はただ強く抱きしめた。
「少しは落ち着いたか。――ま、少しは見られる頭になったな。左三位ひだりさんみ、あとでわたくしのかもじをひとつ贈ろう。髪の色は違うが文句は言うなよ。とりあえず装束の端から髪が出ていれば体裁は立つであろう?」
女御の女房たちが再びよってたかって三木を囲み、彼女もまた衣裳から髪の毛まで整えられて戻ってきた。先程の無残な姿からは一変して、立派な尼御前のように見える。――もっとも、衣裳は墨染めではないのだが。
「有り難うございます」
「ふふ……娘の義妹とあらば、手を貸さぬわけにはまいらぬよ。何より、六宮が世話になっておるしの」
結局は仙子も交えて三人が女御の前へ控える形となり、彼女はひとり上座で扇を口元へ当てている。その姿は絶世の美女と謳われる六宮仙子の実母であると実感させる貫禄があった。彼女は一度小さく息をつくと、口の端を上げる。
「――さて、どこまで話したのだったか」
「母について、お話くださると」
「ああ、そうであったな。
六宮、お前は覚えているか? まだ小さかったから、覚えていなくとも無理はないが」
まるで謎かけでもするかのように、女御は仙子へと話を振る。それに彼女は小さく溜息をついたあと、呆れたように吐き捨てた。
「父上を振って、身分の低い男と逃げた姫の話でしょう。未だに女房たちの間では語りぐさですよ。……まあ、わたくしとしては、身分に囚われず、あの父上を選ばなかったことに天晴れと申し上げますが」
「ひどい言いぐさだ。あれでもお前の父だぞ?」
「実父だからこそ申し上げるのです。……あの時期は、とくにひどかったでしょう? そうでなければ、同年の子が三人、さらに別に同年の子どもが二人も生まれるわけがない」
仙子の言葉にも女御はただ笑うだけだ。自分もその同年の子を二人産んだにもかかわらず、娘の非難をただ受け流す様はさすがにあの今上と長く付き合っているだけある、というところだろうか。とくに、現在の内裏に住まう帝の妻は女御と中宮の二人のみ。あくの強い今上と、己を敵視しては騒動を起こす中宮を上手く御すだけの胆力は伊達ではないらしい。
「まあ、お前たちはとくに渦中にあったしな。六宮に九宮、全くわたくしの子でありながら運のないことだ」
「あなたがその時期に産んだのでしょう。こればかりはわたくしにどうこうできる問題ではございませぬ」
「わたくしとて、お前たちが生まれるのを自分の意志でどうこうできるわけではないわ。……まあ、唯一できるとすれば主上うえか」
「結局は父上に行き着くわけですか」
親子二人の会話は容赦がない。しかも、いつまでたっても肝心な話題に入らないため、滝夜叉と三木は揃って顔を見合わせた。普段ならば自己主張の激しい二人のこと、それぞれ話に割って入ってしまうのだが、相手は何分今をときめく女御と、降嫁したとはいえ未だ権勢衰えぬ六宮である。どうするべきか、と視線で会話を交わしていると、それに気づいた女御が扇をぱらりと音を立てて開いた。
「あの方のだらしなさについてはまた今度にするとして、今は話を戻すか。――確か、左三位は平大夫へいのたいふの母と面識があったな?」
「はい、わたくしも以前は滝夜叉――平大夫と同じ地で暮らしておりましたので、その際には随分と良くしていただきました」
三木はちらりと滝夜叉を見る。それに彼女もまた頷き、口添えをした。
「三木――左三位のお邸はわたくしの邸のすぐ傍に建っておりまして、わたくしと左三位、そして彼女の弟である団蔵とよく邸を行き来しておりました。わたくしも彼女の母君に随分とお世話になりましたから。――そのご縁もあって、今わたくしが女御の御前に」
「懐かしいの。まだそう古い記憶でもないはずだが……お前があちこちからの口添えと共にわたくしの許へ現れたのは。
勿論、わたくしとてあの姫の娘でなければ、ここまで世話はしてやらなんだわ」
懐かしむような呟きと共に投げられた視線は、遠い彼方へ消えていく。その先に見えているのは、きっと過ぎ去った時間であろう。彼女が唇から漏れ出した過去に、滝夜叉は静かに聞き入った。
「――あれは、もう十何年前になるのか……ちょうどわたくしが入内するという話が持ち上がったときに、なぜかかの姫の入内も同時に持ち上がってな。同時に二人の姫が入内するなど前代未聞のことであったが、まあ、何というか、その当時は内裏も大分乱れておったのでな、それがまかりとおってしまった時期だった。わたくしの入内したすぐあとに七宮の母――こちらは亡くなられた先の中宮の女房だったのだが――である更衣に手を付けられたり、八宮の母を迎え入れたりと、まあ主上もお盛んでな。
皇后がお隠れになって、ぽっかりと空いた穴を何とか他のもので埋め尽くそうと、入内の条件に合った美姫は勿論、興味の引いた女子へよく誘いをかけておったわ。まあ、あの方の唯一良いところは、決して無理強いはしなかったところだな。――もし、あの方がかの姫を無理矢理入内させていたら、まず間違いなくかの姫の初夜が来る前に、わたくしが寝所で首を落としていただろうからの」
さり気なく恐ろしいことを口にした女御に、三木と滝夜叉は思わず身を引く。仙子だけがただ深々とそれに頷き、続きを促す。
「どこで知り合ったのかはわたくしも詳しく知らぬ。ただ、姫はとある男――殿上人ですらない、端貴族よ――となぜか出逢い、文を交わしたか言葉を交わしたか、それも詳しくは知らぬが、とにかく縁を深めたらしい。
姫の身分が身分だ、あの娘とて叶わぬ恋だとは分かっていたと思うが……まあ、色々あったのだろうなあ。
正直なところを言えば、わたくしも詳しくは知らぬのだ。ただ、あの娘が入内の決まった際に、その男の許へ走ったとしか。――正直に言えば、驚いたな」
そこで一度女御は言葉を切って、苦笑に似た表情を浮かべる。滝夜叉がそれに怪訝そうな顔をすると、彼女は扇を弄びながら続ける。
「あの姫は、何というか、そう……わたくしとは正反対だったのだ。わたくしはまあ、知ってのとおり、好き放題生きてきたからな。それなりに財もあれば、男に頼って生きる必要もない。ゆえに届いた文も千切っては捨て、を繰り返していたら、まあさすがに両親がわたくしの将来に不安を覚え、荒れ放題の今上にこれ幸いと入内させおったわ。――まあ、わたくしの場合はこれで良かったのだがな。
だが、あの姫は違った。わたくしたちは仲の良い友人であったけれども、あの娘は親の言うことにも逆らわず、周囲を気遣う、本当に姫君らしい姫でな。だから、皆が望む入内を蹴って、物の数にも入らぬ男の許へ走ったと聞いて驚いたよ。……けれど、同時に安堵した。
いつも、思っていたのだ。誰にも逆らわず、己の意志も主張せず、あの娘は本当に大丈夫なのだろうかと。それが最後の最後、もっとも大きな我儘をしたのだ。しかも、入内という女にとっては一番の誉れを捨てて、それこそこれまでの生活も何もかもを投げ打って、だぞ。――これほどすっとしたこともない。あのときは本当に大笑いしたものだ」
笑い事ではないだろう、と思わず視線を逸らした滝夜叉に、三木もまた似たような反応をする。思わず視線を交わし合った二人に、女御はさらに笑った。
「まあ、それでも二人が無事にあの地へ落ち着けたのは、主上がお許しになったからだ。
あのとき、今上は姫を追わせなかった。――ただ、自ら行幸され、あの二人に会っている。そして、特別の計らいとしてあの男に鄙つ地なれど土地を与え、生活を助けてやったのだ」
「……なぜ、主上はそのようなことを……? その、我が父母は、いわば主上を裏切った、憎い存在でしょうに」
「――それが、あの姫の望みであったからよ」
けれど、滝夜叉の問いに答えたのは彼女の目の前に侍る女御ではなく、外からざわめきと共に現れたひとりの老人であった。
「主上!」
「お渡りとは存じ上げませなんだ。――先触れをお出しくださらなければ困ります」
再び唐突に現れた今上に、話を聞き入っていた滝夜叉と三木はそれぞれ肩を跳ねさせるほど驚いた。対する仙子と女御は全く驚いた様子もなく、それぞれただ溜息をついている。その間に女房たちが女御の隣へ今上の席を作り、彼はゆっくりとそこへ腰を下ろした。
「随分と、懐かしい話をしておるの」
「必要だと思いましたので」
「わしも先程、別のところで同じ話をしてきたばかりじゃ。――もっとも、ここまで詳細には話しておらんがの」
その言葉にハッと滝夜叉が顔を上げると、今上が彼女を優しい目で見つめていた。視線が合ったことに驚き、慌てて頭を垂れようとする滝夜叉を今上が留める。それどころか、上座から彼女の許まで足を運び、彼はそのまま膝をついて滝夜叉に話しかけた。
「……愚息が迷惑をかけたの」
「い、いえ、その……っ!」
主は宮と言えど、滝夜叉にとって帝など雲の上の存在でしかない。そんな存在から間近に声をかけられ、滝夜叉はどうしてよいか分からずに声を詰まらせる。ひたすら板目を見つめる滝夜叉の頭を、今上がそっと撫でた。
「顔を上げよ、平大夫。――わしにその顔をよく見せてくれんか?」
「は、はい……」
滝夜叉は言われるがままに顔を上げる。すると、しわだらけの手が彼女の頬を包んで、ひどく優しい視線が落ちてくる。――これが七宮小平太の父であり、あの破天荒な帝か、と思うほど、その行為は穏やかだった。
「ふむ……顔立ちは母君によう似ておるの。だが、その意志の強そうな眉や目元は、父君か」
「父母を……覚えておいでで?」
「勿論、覚えておるよ。――おぬしの母君はわしを初めて振った女子で、おぬしの父君はわしの妻になる女性を奪っていった男だからの。あれほど印象強い出会いもない」
今上の言葉に滝夜叉は思わず言葉に詰まった。何と反応すれば良いのか分からず、視線を泳がせる。しかし、今上はそんな彼女を呵々と笑い飛ばすと、その頭をもう一度撫でてから上座へと戻った。
「あのときは本当に驚いた。――どちらかと言えば、そういうとんでもないことをやらかすのは、こちらの女御のほうであったからの。まあ、女御が逃げたと聞いても驚きはせなんだろうが、近衛の姫が男と手と手を取って逃げたと聞いたときは、女御の差し金かと思うたわ」
「おや、ひどい。わたくしがやるならば、もっと上手くやりますよ。――少なくとも、あの娘が苦労をするような手段は取りませぬ」
「であろうな。何より、女御が怒り狂っておったからのう。あの姫も、よもや自分が親友に本気で追われるとは思ってはおらなんだろうになあ」
明るく笑い合う二人だが、その内容は全く笑えない。とくに、その逃亡の果てに生まれた滝夜叉としては、我が身に関わることである。よく父母は無事だったな、と戦々恐々とするなか、今上の視線が滝夜叉に向いた。
「……おぬしの父母に関しては、おぬしのほうがよく知っておろうが、わしから見たあの二人は、まさしく共に過ごす宿命を持って生まれたのだと思うたぞ。
どこで出逢ったか、どうして想い合ったのか、そのようなことはわしも知らぬ。ただ、そうじゃの……本当に、息をするのと同じような自然さで、二人はきっと恋に落ちたのじゃろう。――そんな二人を、いくらわしが帝であろうと、引き離すことはできんよ。とくに、あの当時のわしはあの姫が欲しいわけではなかったからの」
「欲しいわけではなかった……?」
「まあ、今だから言えることじゃが、昔のわしは心の穴を埋めたいがために、とにかく女性を求めた。もしかしたら、どこかにこの穴を全て埋めてくれる女性が現れるのではないかと思うての。
だが、それは無理なことじゃ。そなたも分かろう? この世にいる誰だって、誰一人誰かの代わりになることはできない。どんなに頑張っても、同じ人間にはなれんからの。だが、心の穴を同じように埋めることはできずとも、その穴を塞ぐことはできる。穴が空いたことをなかったことにはできないが、衣裳を繕うように、ひびの入った器を直すように、目立たなくすることはできるのじゃ。――それをわしは妻たちに教わったよ。のう、女御?」
穏やかに傍らの妻へと語りかける今上に、彼女は少しだけ呆れたような溜息をついた。
「相変わらず口のお上手なお方だ。――第一、あなたの場合は、今は騒動の種に振り回されてばかりでしょう? もっとも、それが可愛いとお思いになっていることも、存じ上げてはおりますが」
「言うのう。じゃが、わしは女御と共に過ごすことも大切に思うておるよ。わしらの間にあるものはきっと、近衛の姫とあの男の間にあったようなものではない。が、わしらにはわしらの形があるからの」
「そうやって、いつも煙に巻いてしまうのですから、ひどい方だ。……まあ、わたくしもあなたに嫉妬するような性格ではございませぬので構いませぬが。
それで、話の続きをお聞かせ願いましょうか? わたくしもあのあと、あなたが二人にしたことを詳しくお伺いしたことはございませぬゆえ」
己へ笑いかける夫を笑って流し、女御は話を元に戻す。それに今上は怒ることもせず、同じく軽い調子で頷いてから滝夜叉に視線を戻した。
「すでに女御から聞いたやもしれんが、わしは一度だけ、おぬしの父母と会った。面と向かって話したよ。……あのときは、わしの護衛を撒きつつ、他の追っ手を追い返すのに随分苦労したわい」
「撒く……? 追い返す……?」
滝夜叉は明らかに聞いてはいけない単語を聞いてしまい、思わずその言葉を繰り返す。ちらりと傍らの三木を見れば、彼女もまたひどく複雑な表情を浮かべていた。多分、異母兄の苦労を思い出したのだろう。勿論、当の文次郎はその当時は生まれてもいなかったであろうが、今上は今の行動も大して変わりはない。青い顔をする三木から思わず視線を逸らすと、今上が再び呵々と笑った。
「わしも若い頃はまだまだ腕白での」
「今もでしょう、父上。それも腕白では済まないくらいに」
その発言にはさすがに夫が迷惑を被っている仙子が口を挟んだ。それに大きく三木が頷いているのに、滝夜叉はかの人物がどれだけ苦労しているのか、と思わず瞼を伏せる。けれど、その抗議すらも今上は軽く流して、話を続けた。
「ま、そのようにわしは邪魔者を追い払い、何とかおぬしの父母の許を訪れた。二人は本当に着の身着のままで飛びだしておってのう、まさしく駆け落ちといった様子じゃったな」
今上の言葉に滝夜叉は少しだけ唇を噛みしめる。父母が想い合って、かの地に飛びだしてきた、ということは知っていた。父母こそ詳細に語らぬでも、父の友人たちが武勇伝のようにそれを滝夜叉に教えてくれたことがあるからだ。けれど、このような大事であったというのは今初めて知った。唖然とする滝夜叉に、今上は優しく笑いかける。
「あの姫は、強い女性じゃった。――本当に、とても強い女性じゃったぞ。わしの妻にならなんだのが、惜しいくらいじゃった。
あの姫はのう、平大夫。わしの目を真っ直ぐに見据えて、あの男と生きていきたいと言うたわ。わしよりも、誰よりも、あの男を選ぶと。連れ戻しても、何度でもこの男の許に戻る、とな。普段は女御の後ろに隠れているような、本当に大人しい姫であったのに、あのときばかりはこの国を統べるわしですら圧倒しおった。……本当に、女子とは強こわい生き物じゃのう」
しかし、その表情は続く言葉に一変する。どこか呆れたような笑みを浮かべた今上は、少しだけ溜息をついてから続けた。
「そのあとに続いたおぬしの父君は、正直な感想を述べれば、情けなかったがの。――這いつくばって土下座して、ひたすらわしを拝み倒すのよ。身分違いも、力のなさも、全て百も承知だが、それでも姫を欲しいと。苦労をさせるのは目に見えて分かっているが、それでも全力で幸せにするから、何とか許して欲しいと。もし、それが許されないのならば、自分の命などどうでも良いから、とにかく姫のことを一番に考え、幸せにして欲しいと」
滝夜叉はその言葉を聞いたとき、さもありなん、と額に手を当てた。あの父は、何というか、そういうところがある。優しくて穏やかな父であるが、同時にとても弱くて情けないのだ。――けれど、滝夜叉はそんな父がとても好きだった。
「……父は、引きませなんだか」
「引いているようで、引いていなかったのう。姫の前で頭を垂れながら、決して下がろうとはせなんだわ」
「――あの方は、そういうところがありましたから」
懐かしい、今はもうおぼろげな父の面影。けれど、その記憶は今もなお滝夜叉の心に刻み込まれている。優しいだけが取り柄であったが、けれど同時にとても強かった。忘れかけていた思い出を噛みしめ、滝夜叉は泣きたくなるような気持ちになる。
(――それに比べて、今のわたくしは何だ?)
膝に置いていた拳を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込んで痛みを訴えたが、滝夜叉はそれを意に介することもなかった。強い光が瞳に宿り、大きく呼吸をする。
「主上、女御。――貴重なお話をお聞かせくださり、誠に有り難うございました。お陰をもちまして、覚悟が決まりましてございます」
「――ほう、覚悟が決まった、とな?」
瞳に強い光を取り戻した滝夜叉に、女御が艶然と笑みを浮かべて問い返す。それに彼女は同じく口の端を上げて、ただ頭を垂れる。
「はい」
「どうするつもりじゃ?」
今度は今上からの問い。それに滝夜叉は綺麗に笑んで口を開いた。
「あの方に、お目にかかろうと存じます」
「小平太にか」
「はい。――そうしなければ、始まりも終わりもしないのです。これは、わたくしたちが二人で始めたこと。終わりもまた、二人で行わねばなりませぬ」
そう告げる滝夜叉にもはや気負いはなかった。それに女御が高らかに笑う。
「主上、止めても無駄ですよ。――やはり、お前もあの姫の娘だな。あの姫も、今のお前のように何でもない顔でわたくしと会ったあと、お前の父の許へ駆けていったわ。
よい、行け。六宮、お前の牛車を貸してやるがよい。主上、七宮は今いずこへ?」
「……五宮へ預けてあるが……わしは反対じゃ。今の小平太に話し合いができると思えんからの」
「それはこの娘が何とかいたしますよ。――そうであろう、平大夫」
「無論」
滝夜叉は生来の強気な笑みを浮かべて、女御の問いに応えた。それに今上は処置なし、と首を振り、呆れたように溜息をつく。いつの間に場を離れたのか、仙子が牛車の準備ができたことを告げた。
上座の二人と仙子に頭を垂れてから退出しようとする滝夜叉の袖を、傍らで沈黙していた三木が掴んだ。それに滝夜叉はゆっくりと笑いかけ、その手を彼女の髪に伸ばす。両手で包み込むようにした細い髪は、手のひらからぱらぱらとすり抜けていった。
「……阿呆が」
「うるさい」
「――大丈夫、もう目は醒めている。
何せ、こんなに無鉄砲で短慮な友人がいるのでは、心配で甘い夢など見ていられないからな」
「阿呆はどっちだ、阿呆」
滝夜叉は泣きそうな顔で呟く三木を抱きしめ、その耳元で囁く。
「恋情は恐ろしいものだな、三木。……どんな人間も分別を失い、闇に惑い、狂っていく。けれど、だからこそ、とても愛しい。――なあ、三木。それでも好きにならなければ良かっただなんて、思いはしないだろう?」
堪えきれずに涙を零す三木に、滝夜叉はもう一度綺麗に笑った。その笑みは塗籠で見せたものとは正反対の、彼女のよく知る滝夜叉のもの。それに三木はもう一度「阿呆」と呟き、袖で己の涙を拭った。退出する滝夜叉に合わせ、三木もまたその場を辞す。仙子が仕様がない、と小さく溜息をついた音が、衣擦れの音に紛れて消えた。
「滝夜叉、こっち」
「喜八郎! ……先程は見苦しいところを見せたな」
「いいよ、別に。滝夜叉の格好悪いところなんていくらでも見てるし」
仙子の牛車へ向かった滝夜叉と三木を待っていたのは、先程滝夜叉をこの場所まで運んできた宮内卿、綾部喜八郎だった。勿論、喜八郎というのは幼名なのだが、幼馴染である三木と滝夜叉は未だに彼をその名で呼んでいる。さらに言えば、良くも悪くも知りすぎているがゆえに、お互いに遠慮もない。とくに歯に衣着せぬ喜八郎の発言には、滝夜叉も三木も顔をしかめるばかりである。
「三木もまあ、随分と貧相になっちゃって」
「うるさい、黙れ」
普段はもう少し物言いの柔らかい三木も、喜八郎にだけは毒を吐く。しかし、喜八郎がそれを気にするはずもなく、今度は滝夜叉に向き直って牛車を示した。
「姉上から話は聞いてるよ。これを使えってさ」
「ああ、有り難う。六宮――潮江の北の方にも、滝夜叉が御礼申し上げていたと改めてお伝えして欲しい」
喜八郎は姉上、と言うが、実際には従姉弟である。仙子の母である女御の兄が、喜八郎の父なのだ。彼は牛車に乗り込む滝夜叉を助けながら、何でもない風に呟く。
「ま、駄目でも心配しなくていいよ。何だったら、滝夜叉も三木もぼくがまとめて面倒見てあげるから」
「何だそれ」
苦笑する滝夜叉に、喜八郎は胸を張る。
「これでも一応、今をときめく宮内卿だからね。父は女御の兄で、生粋の公達だし。二人養うくらい、訳ないよ。
どっちかがぼくの跡継ぎを産んでくれたら嬉しいけど、まあ別に嫌ならそれはそれで。何せ、二人がいたら退屈しなさそうだもの」
「こっちがお断りだ、阿呆!」
喜八郎の言葉に反応したのは三木のほうが早かった。もっとも、彼女は強烈なまでの拒否反応を示していたが。
「――そうだな、もし何もかも終わって、わたくしに何も残らなかったら、そのときは養ってもらおうか。但し、わたくしを囲おうと言うのならば、それなりに覚悟が必要だぞ、喜八郎」
滝夜叉は喜八郎の顎を指で持ち上げ、口の端を上げた。その様子に彼はただ笑う。それは無表情な喜八郎には珍しく、はっきりと笑みと分かるものだった。
「――いってらっしゃい、滝夜叉」
「ああ、いってくる」
牛車の御簾を下ろし、喜八郎は牛飼い童に行き先を告げる。既に出発の準備が整っていた牛車は、喜八郎の指示を聞いてすぐに動き始めた。
「……大丈夫だろうか」
「大丈夫でしょ。何せ、滝夜叉だし。ああなったら強いから」
「それは知ってるけどさ」
三木は喜八郎の突き放したような言葉に、少しだけ俯いた。――なぜなら、彼女は知っているからだ。あの闇を。そして、滝夜叉が見せた笑みを。
そんな三木の頭に腕を伸ばし、喜八郎は彼女を胸に抱き寄せる。子どもにやるようにその頭を胸へ押し当て、随分と短くなった髪の毛をかき混ぜた。
「それに言ったでしょ、いざとなったらぼくが二人まとめて面倒見てあげるってさ」
「お前の世話になるくらいなら、わたくしは尼になる」
「それなら、尼寺建てて、滝夜叉と三木が住めるようにしてあげるよ」
「……お前は本当にいつも斜め上だな」
三木は小さく憎まれ口を叩いたが、それでも抱き寄せられた頭を離そうとはしない。次第に遠ざかる牛車を見送りながら、瞼を伏せて祈った。――友の幸せを。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒