鈍行
▼くらし
「……う……」
滝夜叉は頭に響く鈍痛を感じながら、目を覚ました。辺りは暗い。しかし、それが人工的に作られた闇であることに気づくまでに、そう時間はかからなかった。
(塗籠のなか、だったか)
もはや暴力とすらいえない行為を強いられた後、滝夜叉は再び小平太の邸へと連れ戻された。何か呪術でも使ったかのように、小平太は鮮やかにあの局から誰にも咎められずに滝夜叉を牛車へと運び込むと、彼は傍目にも過ぎるほど怯えている牛飼い童に自邸の場所を告げた。その牛飼い童は暗いなかでも分かるほど大きく震える手で牛を歩かせ、小平太の指示通りに誰にも止められることなく、七宮邸へと戻っていく。そして、彼に何かを囁いた小平太は、全身に残る快楽とだるさ、痛みで動けなくなっている滝夜叉をこの塗籠へと閉じ込めた。
左の足首には荒縄がきつく結びつけられており、それは大きな調度の脚に繋がっている。調度から無理矢理縄を引いて外せないわけではないのだが、このそう広くない塗籠のなかでそんなことをすれば、間違いなく滝夜叉自身が調度の下敷きとなってしまう。何より、光の全く入らないこの場所では動くことも儘ならないのだ。ゆえに、手探りで壁に触れ、自身の体勢を整えるのが今の彼女にできる精一杯だった。
(今は朝なのか、夜なのか……あれから何日たったのだろうか)
閉じ込められてからほとんど日の光を見ていない所為で、滝夜叉に時の流れは把握できない。小平太が食事を二回持ってきたので少なくとも一昼夜は経っていると思われるが、そのたびに抱かれては眠ることを繰り返している滝夜叉には、食事の時間が一定であるかどうかすら分からないのだ。ただ、小平太のおとないは頻繁で、それだけが滝夜叉を現世に繋ぎとめていた。
(――宮様は今、物忌み中、のはずだ。わざわざ人の死体を見に行ったのだから)
あの夜、怯える牛飼い童を指図して、小平太は都でも死体が多く捨て置かれている地域を牛車で通り過ぎた。当然、牛車は死体の脇を通ることとなり、彼らは死穢を受けることとなる。こうなれば穢れを周囲に移さないために物忌みをするよりほかなくなり、小平太は家人と件の牛飼い童を邸へと閉じ込め、一歩たりとも邸の外へと出なくなった。
滝夜叉は何度か説得も試みたが、勿論小平太が聞き入れるはずもない。むしろ滝夜叉を黙らせようとさらに求められる結果に終わり、彼女はいつの間にか暗闇の世界へ慣れてしまった。
一筋の光さえ届かない、真っ暗闇の世界。――そこにいる限り、滝夜叉は何も考えずに済む。どろりと溶けるような闇のなかで、小平太だけを待つ日々。それは滝夜叉の思考を蝕み、感覚すらも酩酊させていく。心のどこかで己の愚かさを罵る声が聞こえたが、滝夜叉はただ目を閉じてさらなる闇へ潜ることで、その声を無視した。
「義姉上、どうして滝を助けにいかないんですか!?」
まんまと小平太に出し抜かれた翌日、仙子は北の対に駆け込んできた義妹――三木に顔をしかめた。しかし、普段ならばそれで引き下がる三木も、このときばかりは幼馴染の安否が気にかかるためか、一歩も譲らない。それに仙子は尚更顔をしかめ、露骨に溜息をついた後に吐き捨てた。
「――行ったさ。だが、門前払いを食らった。死穢に当たったために、物忌み中だとさ」
「そんなの嘘に決まってます! 私たちと会わないための口実です!」
「お前はあいつを知らないから、そう言えるんだ。――小平太はな、やるんだよ。あれは穢れなど恐れない。目的のためなら手段など選ばないし、我々常人がためらうようなことでもやってのける。
それに、たとえ小平太の物忌みが嘘だとしても、それを証明する術はない。――三木、わたくしたちの家族は今上に仕える者ばかりなのだぞ。穢れを受けたと公言する小平太と接触したあと、参内すれば何と言われるか、お前とて想像はできよう?
我々の権力とて絶対ではない。栄枯盛衰、必ず滅びは訪れる。そして、それが今ではないと断ずることができるほど、朝は穏やかでもないのだから」
三木は仙子の言葉に唇を噛みしめた。彼女の言葉は全てその通りなのだ。――左大臣、右大臣共に縁続きであり、長く在位の続く今上を頂点に、既に隠居の身となり己の息へと春宮位を譲った一宮を始め、多くの皇子皇女がいがみ合うこともなく現朝廷を支えているのは確かだ。しかし、その朝廷が一枚岩であるかと問われれば決して首肯できぬことは確かであり、今まさに膨らみきった望月のような権力を手にしている彼らであっても、もし気を緩めて隙を見せれば、あっという間に権力の座から蹴り落とされていくのだろう。
それは、三木にとっても覚えのある感覚だった。――もっとも、彼女の場合は転げ落ちたのではなく、見いだされたのだが。
幼い頃の彼女は、左大臣という父を持ちながらも彼女の母が側室であったがゆえに、正室の後妻嫉妬を恐れて父が彼女たちを鄙の地へ留め置いたのだ。その地には先に滝夜叉の両親が暮らしており、彼らは同じ貴族身分ということで仲良くなった。けれど、同じ鄙に住まう貴族という立場だったはずの二人は、今では三木が左大臣の女としてかしずかれる側となり、滝夜叉は七宮に仕える女房として人にかしずく側として生きている。
本来ならば滝夜叉の両親もまた、左大臣や右大臣とそう変わらぬ家柄の人間であったらしい。だが、何らかの事情で二人は鄙つ地へと追いやられた。そのきっかけが何であるかは三木も詳しく知らないが、それを契機に彼らはあっさりと都を追われた。きっと、その後釜にはすぐに別の人間が納まり、彼らの不在など何の問題にもならなかったのだろう。……身分社会であると同時に、その身分もまた絶対ではない。それを身を以て知っている三木は、父や異母兄の立場を危うくする行動など起こせるはずもなく、さらに強く唇を噛みしめた。
「でも……では、どうしたら」
「今考えている」
仙子は仙子で焦燥があるらしく、普段は涼やかな表情を今は険しくさせている。それもそのはず、彼女としては小平太を抑えるために万全の体制を取っていたつもりだったのだ。それがあっさりと出し抜かれた挙句、今もなお手出しできない状態となれば、彼女の矜持も含め、かなり危機的状況にあるといえる。
「とにかく、陰陽師を呼んで物忌みの明ける期日を調べさせる。……余り長く言うようならば、心付けでもさせて期間を最短にさせよ」
「義姉上、それは……!」
「体裁さえ整えばそれで良いのだ。とにかく、早いうちにあの娘を助けねば……小平太のことだ、死なせることはないと思うが、壊すことはやりかねない。――意図的であれ、無意識であれ、な」
壊す、という言葉に三木は思わず息を飲んだ。――彼女は小平太と面識がないため、仙子や滝夜叉からの噂でしか小平太を知らない。けれど、その噂を聞く限り、確かに破天荒な宮であることは理解できたが、そのように昏い精神を持つ人間には思えなかった。しかし、同時にその人物が現在の騒動を引き起こしているわけでもあり、三木は何もできずに見ているしかない自分への口惜しさに唇を噛みしめた。
「――その件に関しては、僕が既に対応済みです」
「宮内卿くないのきょう! ……お前、どこから入ってきたんだ。先触れもなしに無礼だぞ」
焦燥で黙りがちになった二人の間に、低い声が割って入る。それに二人が驚いて振り返ると、そこには上品な衣装をまとった若い公達が立っていた。しかし、よくよく見ればその装束は土に汚れ、彼が相変わらずであることを表している。
「……喜八郎、お前また穴掘りに行ってたろう! この非常事態によくもまあそんなことができるもんだ」
「失礼だな。騒動を知る前に穴を掘っていて、事が起こったから慌てて穴を放り出してかけずり回ったんだ。――陰陽師はもう捕まえて、小金も握らせてあるよ。それでも人死にだからね、どうしても時間はかかる。
けれど、その間に僕らも滝夜叉奪還の準備ができる、ってことだ。そうだろう、三木?」
己の名をためらいもせず呼ぶ青年に、三木は顔を上げる。その視線は既に揺らがず、彼の目にひたと据えられていた。
「――その通りだ」
三木は唇を引き結び、深く息を吐く。
小金を握らせても、陰陽師はきっと彼女たちが望むほど早い日付を告げてはくれないだろう。けれど、それでも一分一秒でも早く、確実に彼女を助け出すために、今こそ三木たちは周到な用意をせねばならない。遠回りにも思えるが、それが最終的に滝夜叉への最短距離になる。
「……喜八郎、何としても滝夜叉を奪い返すぞ」
「当たり前でしょ。――滝夜叉があんな風に自分のことを曲げるのは、らしくないもの。そんなままにはしておけない」
喜八郎の言葉に、三木は深く頷いた。
深く彼女を知っている人間ならば、今の状態が本来の彼女でないことなどすぐに分かる。何より、三木は彼女が一度その状態から立ち上がったことを知っているのだ。
だからこそ、深く憂いに沈んだ表情で、何もかもを堪えて俯く滝夜叉に耐えられなかった。三木の知る滝夜叉は、常に傲然と笑っている。それが多少の強がりを含んでいることも知ってはいたが、他者に弱みを見せたがらないその気高さもまた、彼女の魅力のひとつだった。
「……恋などで、人の本質が変わるものか」
変わってたまるか、と三木は絞り出すように呟いた。
――その日は実に呆気なく、誰にとっても平等に訪れた。
潮江文次郎は妻とその女房と共に牛車へ乗り込んだ。本来ならば外になど連れ出さぬ存在なのだが、このときばかりは仕方がなかった。何せ、相手が相手だ。元より破天荒な七宮を御せるのは、同じ宮である五宮、六宮くらいしか居ないのである。場合によっては今上の話も聞き入れないであろう七宮小平太を思えば、同じく小平太へ談判するために出てくる五宮長次と六宮仙子を揃えても、事を成就させるのは難しいやもしれない。しかし、己の裁量で滝夜叉に婿がねを宛がった文次郎としては、彼女を現状のままにしておくわけにはいかなかった。
これからの困難を思うと、文次郎の口からはただただ深い溜息が漏れる。それを聞きつけ、仙子はただ眉を潜める。己の夫が元より要らぬことに気を回しすぎる性格だというのは知っているが、今はそれが裏目に出ているようだ。
対する仙子は、成せば成る、と言うよりも、成す以外に術はなし、と腹を既に括っている。何が何でもやるしかないのだ。それがたとえいつも以上に常識が通じなくなっている異母弟相手であっても、仙子は負けるつもりはなかった。――一度負けた戦に二度負ける趣味はない。既に一度出し抜かれた形の仙子は、扇を握る力にその決意を込めて牛車が向かう先を睨み据えた。
彼らが目的地へ着いたとき、そこには既に何台かの牛車が止まっていた。ひとつは見慣れた五宮のもので、もう一台は仙子が呼び出しておいた同母弟いろせの兵助のものだ。小平太がもし暴れたときのことを考えると、男手は多いほうが良い。ただそれだけの理由で彼女は九宮兵助を呼び出している。皇位継承権三位という立場にありながらも、実姉である仙子に振り回され続けている義弟に文次郎は心から同情した。
彼は長次と共に既に小平太の邸へ入っており、母屋にて小平太と対面している。――もっとも、邸の主である小平太の応対は歓迎には程遠く、兵助などは既に身を竦ませていたのだが。
「何だ、今度は仙ちゃんか。今日はいやに千客万来だな。揃いも揃って皇族が、この穢れのある邸に来て良いのか?」
「心配は無用。――陰陽師が既に物忌みは晴れたと告げておる」
仙子は傲然と顎を上げて告げた。兵助はそれまで座っていた場所を立ち、姉である彼女とその夫に上座を譲った。本来ならば男子である兵助のほうが身分としては上なのだが、彼にとって姉は絶対的支配者に近い。仙子もまたそれを当然のように受け、文次郎も一度深く兵助に頭を垂れた後、彼女の傍らに腰を下ろした。
彼らはそれぞれ小平太へ視線を集めるが、対する小平太はいっそふてぶてしいまでの態度でそれを受ける。その衣装は普段と違い乱れていて、先程まで彼が何をしていたかを想像させた。それに仙子は軽く眉をひそめ、口火を切る。
「――よくもまあ、わたくしを出し抜いてくれたものだな」
「よく言うよ。その前に私を出し抜いたのはそっちじゃないか」
小平太は笑う。――普段の笑みとは全く違う、ひどく昏い笑みで。それに仙子は少し眉を上げ、含みのある笑みを浮かべた。
「よもや、お前に出し抜かれることがあるとは思わなんだ。その才覚をもっと別の場所でも生かせばよいものを」
「そんなの、別に興味ないよ。――私は、私が必要なものを得られればそれで良い」
「その〈必要なもの〉が、あの娘か?」
仙子はそこで核心に切り込んだ。それに小平太は尚更昏い笑みを浮かべる。その笑みにはもはや狂気すら映し出され、その場にいる全員が怖気だった。
「そう。……だから、奪う者は許さない。それが誰であろうとも、ね」
「巻き込まれたほうは災難だ」
「巻き込んだそっちが悪いんでしょう? 手出しされなければ、私だってこんなことしなかった。
……ただ、私たちを放っておいてくれればそれで良かったのに」
小平太は笑いながら呟く。けれど、仙子はそれを痛烈な言葉で切り捨てた。
「何も分かってないのはお前だろう、小平太。
放っておいて何になる? いずれお前に食らい尽くされたあの娘の滓が残るだけだ。――生憎と、わたくしも、わたくしの夫もあの娘の後見なのだ。むざむざと食い荒らされる様を指をくわえて見ているつもりはない」
「食い荒らされる……? 心外だな、こんなに慈しんでいるのに」
小平太の言葉に全員が顔をしかめた。兵助は滝夜叉に会ったこともなければ、この事件自体が仙子からの又聞きである。けれど、それでも小平太が異常であることは理解できた。そして、それに何ひとつ疑問を抱いていない小平太に、恐ろしさを超えた生理的嫌悪感すら覚える。次第に粟立つ腕を撫で、兵助は事の成り行きを固唾をのんで見守った。
「――話はそれだけ? じゃあ、そろそろ戻ってよい?
お前らが何を考えているかなんて、私だって分かるよ。今頃どうせ別の人間が滝夜叉を奪おうとしているんだろう? 勿論、護衛は置いてきているけど、私もそろそろあれの顔が見たくなった」
「生憎だが、その望みは叶えてやるつもりはない」
立ち上がる小平太に退治するように、仙子もまた立ち上がる。その身体は細い。しかし、その背中は小平太にも負けないほど大きく見えた。
「あちらです」
仙子らとは別に、三木は喜八郎と七宮邸へと入り込んでいた。幸いにも三木の弟である団蔵が、七宮の牛飼い童である金吾と学友であったことが幸いし、彼を仲間に取り込めた。彼らは金吾、四郎兵衛の先導で小平太に気づかれぬまま、滝夜叉が閉じ込められているという塗籠へと近づくことができた。――が、しかし。
「見張りが居るな」
「あれは滝夜叉様の、その……夫君となる方と、その従者の方です。……宮様が、あの夜からお連れになって」
「自分の花嫁を奪った男の命令をよく聞けるな」
「……誰だって、ご自分のお命は惜しいかと」
金吾の言葉に三木は顔をしかめた。確かに、よく見れば顔にはあちこちに青痣があり、さらに目を凝らせば着ている衣装も傷んでいる。言うまでもなく、小平太から圧倒的な力で支配されていることは明らかで、三木は忌々しげに溜息をついた。強行突破するには力が必要だ。ちらりと傍らの喜八郎を見やれば、彼はこの場所に来るまで手放さなかった鋤を三木へ示した。
「任せて」
喜八郎はそれだけ言うと、鋤を肩へ担ぐ。そして、堂々と彼らの前へ姿を現した。
「――そこに用があるんだけど、どいてくれない?」
「く、宮内卿……! あ、ああ、い、だ、駄目です、そんなことをしたら私の命が……!」
さすがに貴族の端くれと言うべきか、喜八郎の顔を見知っていたらしい。しかし、それでも彼の言葉に従わず、彼ら二人は塗籠の扉へとかじりついた。
「じゃあ、仕方ないね。あの男と同類になるのは不愉快だけど、私も急いでいるから」
淡々とそう呟くと、喜八郎は容赦なく鋤で二人の身体を薙ぎ払った。元々肉体労働すら行ったことのない男たちを、穴掘りが趣味の喜八郎が蹴散らすことなど造作ないこと。さらに頑丈な錠がかけられた塗籠の扉を、喜八郎は鋤で打ち壊した。
大きな音を立てて、塗籠の扉が割れる。固くそれを縛めている錠を鋤で壊すと、喜八郎は歪んで開きにくくなった塗籠を力尽くで解放した。
それと同時にむっと生臭い匂いが辺りに立ちこめる。その匂いが男女のものであることに気づいた喜八郎は、背後から駆けつけようとした三木を手で制する。しかし、彼女はそれを無視して塗籠の中へと足を踏み入れた。
「うっ……くそ、滝夜叉!」
貴族の娘とは思えないような荒々しさで彼女は塗籠のなかへと呼びかけた。そう広くない室内のはずなのに、まるで異界のような雰囲気がそこにはある。袖で匂いを抑えながら視線を巡らせると、微かに動く布の塊があった。
「滝夜叉!」
三木がその布へと駆け寄ると、布の下から微かな声が聞こえた。その布を剥ぎ取れば、そこには探していた存在がある。しかし、三木はすぐにその布をまた彼女にかぶせ、その顔を背けた。
「……どうして、こんな……」
「三木」
「駄目だ、喜八郎そこに居ろ」
その言葉で喜八郎は全てを察したのだろう。――また、この状況から、彼女の状態も大体推測できた。気分が悪くなりそうな匂いの充満する塗籠から出て、喜八郎は先程自分が薙ぎ倒した二人を再び払った。
「三木、時間ない。急いで」
「分かってる」
返事が震えたのは、溢れる涙のせいだ。三木は自分に気づいてよろよろと身体を起き上がらせた滝夜叉の惨状に唇を噛みしめて、かぶせられた布を彼女の身体に巻き付ける。
「滝夜叉……」
「……見苦しいところを、見せたな」
声は掠れて、普段の様子は微塵も感じられない。男と交わった残滓を身体中に貼りつけたまま、裸でこの場所に閉じ込められている滝夜叉に、三木は涙を止めることができない。だが、それ以上に彼女の様子に、三木は耐えられなかった。
「……馬鹿、何でこんなになるまで我慢したんだ……! いつものお前なら、こんなことされて黙ってなかったはずだぞ!」
「……知っている。わたくしらしくないなど、百も承知だ。
けれど、恋に狂えば、それまで積み重ねた全てすら、ときに塵芥へ帰すものだ。――愚かだと、笑え。
それでも、わたくしはあの方がこうしてわたくしを求めてくださったことが、嬉しくて仕方がない」
三木の前で浮かべられた滝夜叉の表情は、彼女がこれまで見たことのあるどの表情とも違っていた。その昏い情欲は、女の狂気だ。それを三木は知っていたけれども、同時に彼女にそれが相応しくないことを理解していた。
「……馬鹿タレ!」
抱きしめた滝夜叉の身体からは、生臭い男の香りがする。三木はさらに己の装束を一枚彼女へ着せると、持っていた飾り紐で無理矢理に留めた。どこかうつろな表情をしている滝夜叉を抱え、三木は外の喜八郎を呼ぶ。
喜八郎は尚も己に取りすがろうとする男たちを蹴り飛ばし、彼女から滝夜叉の身体を受け取って牛車のほうへと向かった。三木はそれに続こうとしたが、ふと頭を母屋へと向ける。今は異母兄と義姉たちがこの邸の主を引き留めているはずだ。喜八郎は三木に視線で共に来るよう告げたが、彼女は唇を一度強く引き結ぶと、喜八郎へと踵を向けた。
「三木?」
「先に行っていてくれ! やり忘れたことがある!」
「おやまあ」
喜八郎はそれに目を丸くしたが、引き留めようにも両腕は塞がっている。何より、滝夜叉の身柄を安全な場所へと移すことが彼にとって最優先の事柄であったため、三木の背を追うことはせずに彼は牛車へと足を向けた。
「失礼いたします」
足止めを食らっている小平太の耳に届いたのは、震える声。それに視線を向ければ、見覚えのある姿が平伏していた。
「三木……!? なぜここへ……!」
文次郎が驚いて声を上げるが、彼女は異母兄に目もくれない。上げた頭から見えるその視線は、ただ小平太だけを射抜いていた。それに小平太が眼を細めると、彼女もまた同じく眼を細める。しかし、その瞳には隠しようのない怒りの炎が浮かんでいた。
「――確か、文次郎の異母妹か。何の用だ?」
「滝夜叉を奪い返しましたので、そのご挨拶に」
三木の言葉に文次郎たちもまた驚きにさざめく。しかし、彼女はそれに構わず、立ち上がって小平太の前へと進んだ。その身体は小刻みに震えていたが、それが恐れからか、怒りからかは小平太には計りかねた。威圧的に見下ろしても、彼女は己から目を逸らさない。しばし睨み合った後に、三木が口を開いた。
「あなたは……あれを見て何ともお思いにならなかったのですか?」
「あれ、とは?」
「滝夜叉です」
小平太は質問の意図が理解できずに眉を上げる。それに三木は心底侮蔑するような視線を返し、続けた。
「あの滝夜叉を見て何ともお思いにならぬのならば、あなたの目は節穴だと申し上げます」
「へえ……言ってくれるね。それは、私が七宮だと知っての発言?」
小平太が己の権力をちらつかせ、腕を伸ばして三木の喉元を絞め上げる。しかし、彼女はそれにすら怯むことはなかった。
「あんなものが滝夜叉だとはお笑いですね。――あなたはあれと居た時間、一体何をご覧になってきたのやら。
あれは、滝夜叉ではない。本来の滝夜叉は態度が大きく、自信過剰で、――けれど、もっと美しかった。あれで満足できるようならば、あなたは本当に滝夜叉を愛していたわけではない」
その言葉に小平太が三木の喉をさらに絞め上げる。我に返った文次郎が割って入ろうとしたが、それを制したのは当の三木であった。
「三木……!」
「――あれの本質も分からぬくせに。結局、気まぐれに手をつけて弄んだだけじゃないか。それで宮とは畏れ入る」
「左大臣の女だからと、思い上がるな。その発言、皇への不敬と取るぞ」
文次郎はその言葉に今度こそ彼らの間に割って入ろうとする。しかし、それよりも先に再び三木が動いた。
「好きにしろ」
その呟きと同時に、三木は懐から小刀を取り出す。その手は鮮やかに後ろ髪を断ち落とし、彼女の髪を辺りに散らせた。小平太ですら目を見張るなか、三木が冷静に呟く。
「これでわたくしは出家する。――家も何も関係ない。ただの尼を潰すなら潰すがよかろう。皇の矜持を以て、それができるのならば」
その発言に、小平太は三木の首から手を放した。急に呼吸が楽になった三木はそれに少しだけ咳き込み、けれど揺らぐことなく小平太を睨み続ける。そして、最後に告げた。
「たったひとりの女の望みすら理解できず、愛した振りで満足しているのならば、滝夜叉でなくても宜しいでしょう。以前の貴方のように、適当に女を見繕って遊べば良いだけ。――滝夜叉は返していただきます」
三木はそれだけ呟くと、一歩退いた。それで金縛りが溶けたように、他の人々も動く。文次郎はすぐさま三木へと駆け寄り、その頬を打った。
「愚かなことを……!」
「申し訳ございません、異母兄上あにうえ」
小平太は床に散った赤い髪を見下ろし、身体が震えるのを感じた。しかし、それでも失えないものがある。それは己の理性よりずっと奥にある本能が叫ぶもので、小平太は突き動かされるように足を踏み出す。――が、彼の足を次に止めたのは、見覚えのある姿がその場へ現れたからであった。
「……主上うえ」
「どうしてこちらへ……!?」
ひとりの供だけでこの場に現れた帝――自分たちの父親に皇族たちは動揺する。しかし、帝は彼らの動揺を尻目に、無残な姿となった三木へ静かに告げた。
「出家は許さぬ。――その髪を拾ってかもじを作るが良い。蔵人中将、北の方、決して不当にこの娘を責めぬよう」
「……畏まりまして」
呆然と立ち尽くす三木の頭を掴んで、文次郎は無理矢理平伏させる。それを皮切りに兵助が慌てて上座を整え、父の座る場所を作った。しかし、帝はそれにただ手を振り、小平太へと視線を据える。
「――小平太、大蔵大夫への調凌、および平大夫への暴行、許し難い。しばらく謹慎せよ。長次、お主が邸に引き取り、その身柄を監視するのじゃ。良いな」
「御意に」
突然現れた帝の発言に誰もが困惑したが、長次は彼の行幸に理由を尋ねることもなく、ただ頭を垂れて命を受けた。帝はそれに頷くと、次は視線を平伏したままの文次郎、三木へと向けた。
「頭を上げよ。――蔵人中将、しばらくの間、一の姫と平大夫は儂が預かる。後宮にて適切な対応をし、そのうえで二人の身の振り方を決める。良いな?」
「はっ」
文次郎に否やが告げられるはずもない。帝の言葉に彼はただ頭を垂れた。それに眉をひそめたのは仙子である。彼女は唐突に現れた父に不機嫌も露わに口を開いた。
「主上、何故このような場所へ? それに、なぜ二人の身柄を主上の御許へ? お手を煩わすような事態ではございませぬ」
「――生憎と、儂にも無関係な出来事ではないのでな。噂好きのお主ならば知っているかと思うたが」
「失敬な」
しかし、その発言で仙子は帝の意図を理解したらしい。渋々ではあるが、父の言葉に従う。元々蚊帳の外であった兵助は何が何やら分からぬままではあるが、ただ事態が収束したことだけを理解し、それに胸を撫で下ろす。ただ、小平太だけは父を真っ直ぐ見据えていた。
「――小平太、お主にまともな愛情を教えられなんだのは、儂の責じゃの。ゆえに、少しだけ昔話をしてやる。
他の者は下がれ。一の姫はそのまま内裏へ向かうよう。既に女御へ伝えてある」
その言葉を契機に、彼らは邸を後にする。切り捨てられた三木の髪は兵助がいつの間にか拾い集めており、簡単に束ねられたものが彼女へと手渡された。文次郎はもはや何も言わず、異母妹を見ることもしない。それに三木が瞳を伏せたことに彼は気づいていたが、それでも何も言わなかった。――言えなかったのだ。
仙子はそんな夫を視界の端に確認しつつも、彼に声をかけることはないままに義妹と共に内裏へと向かう。今は夫よりも義妹とその幼馴染のほうが優先すべき事柄であったからだ。それに何より、彼女は今の彼に伝えるべきことは何もないと知っていた。彼を納得させる理由を彼女は知っていたけれども、それは彼に伝えるべきことではない。また、伝えたところでどうにもならないことだと理解していたからであった。
「では主上、恐れ多いことではございますが、わたくしたちも」
「うむ」
平然と退出する仙子を筆頭に、文次郎、三木が続き、最後に兵助が深々と頭を垂れてからその場を後にする。長次は小平太の監視役に任じられたこともあり、その場に留まることにした。帝もまた長次へもはや退出を促すことはなく、兵助が設えた座所へと腰を下ろす。
太陽はいつの間にか随分と高い位置に昇り、闇が支配していた邸を暴くように陽光を差し込んでいく。その目映さに小平太が眼を細めたとき、帝は昔話を始めたのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒