鈍行
▼いかし
「滝夜叉様! 団蔵がこれを滝夜叉様にお渡しして欲しい、と」
「ああ、三木――左三位からの文だな。全く……あいつも面倒がらずに、こちらへ人をやれば良いものを。すまぬな、金吾。有り難う」
滝夜叉は何の疑いもなく彼女へ文を手渡す少年に空々しく呟いた。友人からのご機嫌伺いの文、と思っているような素振りをしながらも、その実、滝夜叉は文の内容は何かを既に理解していた。彼から手紙を受け取ると、それを大切に懐へしまい込む。――誰かに、特に小平太に見られでもしたら大事だ。
(――存外、早かったな)
内容は見る前からおおよそ分かっている。けれど、こんなに早く全てが整うとは思っていなかっただけだ。滝夜叉は怪しまれることのないように、と表情を取り繕いながら厨へと足を運んだ。
厨は彼女以外に足を運ぶ人間がほとんどいない。それゆえ、いつ小平太が訪れるかも分からない己の局よりも遙かに安全と言えた。それでも滝夜叉はさらにぐるりと周囲を見回して傍に人の気配がないことを確かめたあと、金吾から手渡された文を懐から取り出した。
そこには三木の手蹟とは違う、無骨な墨跡が残っている。それにさっと目を通すと、滝夜叉は覚えるべきことだけ覚えてそれを竈の火にくべた。元は高価であったろう料紙に竈の火が燃え移り、あっという間にそれを炭に変えていく。滝夜叉はそれをしっかり見届けてから、小さく息を吐いた。
(……次の佳日を待って、〈露顕ところあらわし〉か)
佳日から三日続きで男を通わせ、最後の夜に三日夜みかよの餅を共に食べ、露顕を行うのが一般的な婚儀である。入内などの特別な婚儀となればまた違うのだろうが、滝夜叉程度の身分では露顕とてしなくても良いくらいなのだ。それを敢えて行う、というところに元を辿れば皇に交わる彼女の出自への配慮と、彼女の主であり――事実上の恋人である小平太への牽制があった。
いかな小平太でも、他人の妻になった女性に公然と手をつけることは許されない。また、人目も弁えぬほど寵愛している少女をきちんと縁づかせることで、未だ妻も迎えずにふらふらと遊び呆けている小平太へ、いつまでも今の状態を保つことはできぬと思い知らせる良い機会でもある。
(――いつまでも、宮様とておひとりでは)
皇族として生きていくにしても、臣籍降下するにしても、彼は正妻を迎えなければならない。そうしなければ、後がないのだ。
貴族にとって正妻を迎えるということは、重い。――それが己の後ろ盾を決めることになるからだ。勿論、小平太には皇族という強い地盤がある。けれど、その座は堅いようで脆い。今はまだ彼の父が今上として在位しているが、次の代の帝が小平太を今まで通りの地位を保証してくれるかどうか。それに、もし万が一政変でも起これば――今の朝廷が保っている左右の均衡が崩れれば、たとえ今上の息子であろうと、あっという間に転落する。
そのとき、滝夜叉では彼を救うことはできない。頼みとすべき両親も亡くなっており、また存命だったとしても全く役に立たないだろう。彼女の父は貴族としては余りにも官位が低く、母もまた既に実家からは勘当された身だ。その二人が何とか生活をしていけたのは、ただ運が良かっただけ。環境と、周囲の人々の好意だけが、彼女たちを生かしていた。そして、その好意が今の滝夜叉をも救っているのだ。
「――だから、わたくしでは駄目なのだ」
言い聞かせるように、滝夜叉は囁いた。閉じた瞼の裏に映るのは、明るい陽の下でその光に負けぬほど眩しい笑みを浮かべた愛しいひと。彼を想うたびに胸が締めつけられるような気にさせられるが、今はその痛みすら愛おしかった。
この痛みがあるうちは、滝夜叉が小平太を想っている証拠。他の男に嫁ぐそのときまで、彼女が抱えていられるたったひとつのものだ。
(もし、わたくしがあの方に釣り合うだけの姫君だったら)
考えるだけ無駄だと分かっているのに、つい考えてしまう。例えば、左大臣の妾腹である三木と同じような立場の人間だったら。――そうしたら、何か変わっていただろうか。
そこまで考えて、滝夜叉は首を振った。
もし彼女がそんな立場の人間であったら、小平太と出逢うことなどなかったろう。万が一、滝夜叉との間に縁談が持ち上がったとしても、皇族でありながら出世に興味もなく、ただ気の向くまま生きる小平太の噂だけに惑わされて、彼女はきっと小平太に見向きもしなかった。――そして、それは多分小平太も同じ。いくつも重ねられた御簾の内で大切に慈しまれて育てられた美しい女子に、彼はきっと興味を示さないだろう。
お互いが、今の状態であるがゆえに二人は出逢い、そしてお互いの存在を認めた。二人で一緒に積み重ねた日々が、今の二人を作っている。この時間がなければ、今の二人はない。――つまりは、そういうことなのだ。
(皮肉だな)
今の状態であるがゆえに、滝夜叉は小平太と正式に結ばれることはない。けれど、彼女がもし彼の正妻となれるような立場であれば、きっとこの想いは生まれなかった。
何より、滝夜叉は知っている。神仏にたとえ生まれを変えてやると囁かれても、自分がそれを選び取らないことを。――あの両親の許以外に、生まれたくなどはない。
そうなれば、結局選び取れる道はただひとつ。そして、滝夜叉はそれを自分の意志で選び取ったのだった。
「では、また明朝」
「――有り難うございました、お方さま」
全ての支度を手配をし、最後にわざわざ様子を見に足を運んでくれた女性に滝夜叉は深く頭を垂れる。それに六宮仙子――潮江蔵人中将の北の方は口の端を上げた。
「大したことはしていない。……お前のことは、叔父からも喜八郎からもよくよく頼まれているしな。
小平太に比べればしばらくは物足りないかもしれないが、一生を共に過ごすなら決して悪くない相手だと夫と二人で選んだ男だ。――あとはお前次第。小平太を諦めることを選んだのなら、夫となる男をしっかりと見てやれ。そのことがきっと、お前の幸せにもつながるはずだ」
「元より、自分の選んだ道なれば」
滝夜叉は仙子の目を真っ直ぐに見つめ、告げた。その瞳にもはや迷いはない。それに仙子は軽く頷き、部屋の傍に控えた女房たちに目配せをした。――彼女の腹心をここには配している。たとえ、彼女が〈夫を拒んだ〉としても、何とか上手く取りはからってくれるだろう。
人の気持ちがそう簡単に決められるものでないことを、彼女自身が一番よく分かっている。その気持ちを押し通し、今の彼女があるのだから。――周囲に望まれた何もかもを捨て、道理を曲げて無理を通し、仙子は今の夫に嫁いだ。だからこそ、いかに覚悟を決めたところで、想いとはそう簡単に捨てられるものでないことを知っている。
仙子はそっと滝夜叉のいる局から退出すると、小さく溜息をついた。同時に、彼女が想う男――己の異母弟について考える。
「――そうやって変に構えるから、大切なものを手から零すんだ、阿呆」
彼の考えていることを想像し、仙子は小さく呟く。けれど、それは彼女が彼に告げても詮のないことだ。同時にこの二人が実はよく似ていることに気づき、仙子はもう一度深い溜息をついた。
「……阿呆め」
今時分、小平太は仙子らが仕組んだ朝廷での宴に出席している頃だろう。凄まじく勘の強い小平太をそのまま野放しにしておけば、あっという間に滝夜叉が何をしようとしているか気づかれてしまうという考えから、決して彼が断れず、尚且つ早々に退席もできないような状況をわざわざ作り上げたのだ。さらに彼の監視として、彼女の夫である文次郎と、異母兄の長次、そして小平太の側近である近衛中将食満留三郎が同席している。たとえ小平太に滝夜叉の婚姻が露顕したとしても、そう簡単にこちらまで来られるわけじゃない。さらに言えば、今仙子がいるこの邸は秘密裏に急遽用意したもので、この婚姻が成立すれば再び手放す――つまり、今晩から三日間のためだけに手に入れたものなのだ。その分、どうしても手入れが足りない部分もあるが、別段この邸に住むわけでもない。滝夜叉がいる所さえ整えておけば良いのだ。
「……上手く運べよ、文次郎」
普段は何でもそつなくこなすくせに、いざとなると下手を打つことが多い夫に仙子は小さく呟いた。下手を打つ、というよりも周りが見えすぎるのだろう。何だかんだ言って、彼は周囲の調整役に回ってしまう。それゆえに己の本願を遂げられないことも多い。その視界の広さが今宵だけは上手く作用するように、と彼女は冴え冴えと姿を見せる月に祈った。
「今宵は勢揃いだな」
一宮と東宮、そして三宮、五宮、八宮、九宮、十一宮と皇子ばかりが勢揃いした宴を見て、小平太は楽しげに呟いた。その傍には今上の覚えめでたい公達である蔵人中将、そして彼の好敵手と目されている近衛中将が控えている。そのほかにも今上の腹心である木下など、今の朝廷にとって重要な人物が軒並み席を並べている。しかし、彼らがなぜ集まったかがいまいち理解できない小平太は、その場の空気に少しだけ眼を細めた。
「どうした、小平太」
そんな小平太の空気を読み取ったのか、五宮長次がぼそりと囁く。それに小平太は笑みを作り、小さく首を振った。
「いや、何でもない。……ただ、こんな風に男だけで集まるのは久々だな、と思ってさ」
「そうだな……だが、たまにはこんなのも良いだろう。男同士は気を遣わずに済む」
「へえ、仙ちゃんや眞子に?」
長次の言葉に茶化すように呟いた小平太に、長次は少しだけ沈黙した。けれど、こくりと頷き、続ける。
「やはり、違うからな。――とくに、眞子は」
「……まあ、あの子はね。でも、それならあっちは?」
小平太が示した先には、彼らの末弟が不機嫌そうに座っている。傍らには三宮が座っており、彼が穏やかに語りかけるのに時折相槌を打っているようだ。それに長次は眼を細め、小さく溜息をついた。
「……仕方がない。中宮さまがあのご様子では」
「長く空位だった中宮位を得た女性が、あれではなあ」
小平太の呟きには強い揶揄が含まれており、長次はそれに少しだけ顔をしかめた。確かに新しく中宮位についた女性は多少難のある人物ではあったが、決して悪い人間ではない。甘やかされて育った所為もあるのか、我儘が過ぎることもあるが、それでも子に対する異常な執着と愛情以外はごく普通の女性である。――本当に、ごく普通の女性なのだ。彼らの知っている父の寵姫たちとは違って。
今上が愛した一宮の母、皇后を長次たちは知らない。けれど、今上の子で一宮以外に唯一皇后を知る三宮は、穏やかな女性であったと語った。――彼女だけは、妃たちの中で別格。後にも先にも、周囲がどんなに望もうとも、彼は誰かを皇后位に上げることはなかった。
二宮、三宮の母は早くに儚くなり、長次たちが物心つくころにはもう居なかった。三宮曰く、皇后を失って今上は変わったのだという。まるで彼女の穴を埋めるように女性たちを入内させ、慎ましやかだった後宮が一変して華やかになった。しかし、その愛情が誰かに偏ることはなく、常に均一な待遇を今上は保ち続けた。それゆえに今の後宮と、そして仲の良い皇族があると言えよう。
勿論、身分ゆえに待遇では差こそこそはあるが、愛情は常に一定。決して誰も特別でないからこそ保たれていた均衡。――それを崩したのは、父が腹心であり友人の臣下の娘を後宮に引き取ったことだ。
「……まさか、中宮位に据えるなんて思ってなかったもんなあ……」
一度空いた称号はそのままにしておくことが父の流儀だと思っていた。けれど、彼は少女を新しい中宮として扱ったのだ。そのときの、小平太の衝撃は凄まじいものであった。
そのころからだろうか、小平太は真面目な生活をやめた。――正確には、女性に対して、だが。
元々破天荒な親王として名を馳せていた男である。今更そこに女癖の悪さが加わろうと大した問題ではない。何より、彼の父親自体が女性に対して大らかすぎるほど大らかであったため、彼の行動もまた父親に似たのだろう、と思われただけに過ぎなかった。
色好みの親王、と雅に捉えられたことが、また小平太の行動を増長させた。けれど、その行動の真意を捉えられている人間など、多くはなかっただろう。
長次は小平太の言葉に少しだけ目を伏せ、手許の酒を呷る。小平太の行動には彼にもまた原因があり、それが現状を招いてしまった。
(……あの娘だけは)
長次が思い浮かべるのは、小平太の腕の中で真白な顔をしていた少女。彼女の身の上は仙子や文次郎から既に聞き及んでいる。ゆえに、彼は彼女がなぜそこまで形にこだわるのか、理解できる気がした。
(――あの娘は、中宮様によく似ている)
自分たちが知らない世の厳しさを、彼女たちは知っている。ゆえに、己を守るために彼女たちはできるかぎりのことをするのだろう。そして、それを小平太や仙子が真に理解するのは難しいだろうということも。
「……小平太、飲め」
長次は手許にあった銚子を取り上げ、小平太の杯に注いだ。滝夜叉は既に心を決めている。ならば、長次にできることは今小平太をこの場に留めておくことだけだ。
小平太が何のためらいもなく杯を干す様を眺めながら、長次は白い月が早く傾くことを望んだ。
「……静か、だな」
滝夜叉は己を落ち着かせようと、わざと声を出して呟いた。既に月は高く昇り、もう規定の刻限は過ぎていた。いつまでも来ない相手に落ち着かない気持ちになりながらも、滝夜叉は心のどこかでもう少しだけ遅れて欲しいと願っていた。未来の夫が遅れてくる時間だけ、滝夜叉はまだ小平太を想っていられる。すぐに捨てなければならぬ想いだと分かっていても、それでも夫に逢うまでは大切に抱えていたかった。
絶やされることなく灯る明かりが揺れる。それが周囲に映った滝夜叉の影をも揺らし、まるで今の自分の心が映ったようだ、と滝夜叉は訳もなく考えた。それと同時に明かりが大きく揺れ、辺りが一瞬暗くなる。その影に潜むように、彼女のいる局の前に人影が映った。
(――来た……!)
滝夜叉は御簾の向こうにいる影に気づき、顔を強張らせる。夜の闇とおぼろな明かりでは、滝夜叉の位置から御簾の向こうまで見通すことはできない。けれど、彼女は敢えてその場から動こうとはしなかった。
動けなかったのだ。
(来て、しまった)
これでもう、後戻りはできない。――滝夜叉は、今宵より別の男の妻になるのだ。小平太を、裏切って。
暑くもないはずなのに、汗が流れた。男は簀の子を軋ませて、妻戸を潜る。そのまま格子の外されたままの滝夜叉の局へ進み、男はそこで足を止めた。
(……?)
しかし、そこから一歩も動かない男に不審を感じ、滝夜叉はぎこちなくその身体を動かした。この日のために、と仙子が用意してくれた衣装は重く、彼女の自由を奪っている。けれど、それだけが己が動けない理由ではないことを、彼女は考えるよりも先に気づいていた。
(――見たく、ない)
見えてしまえば、もう本当に後戻りはできない。けれど、もうそんなことを言っていられないことも理解していた。だから、滝夜叉は振り返る。けれど、そこに彼女が期待していたものはまだ見えなかった。
振り返った先にいるのは、若い男だ。身なりは良い。来ている衣装も贅を凝らして作られたもので、生半な男では着られないものである。けれど、男はなぜか扇で顔を隠しており、滝夜叉から数歩のところで足を止めていた。
入口間際に置かれている燈台の明かりが逆光となって、尚更男を判別しにくくしている。滝夜叉が目を眇めて相手を見つめると、男は一歩だけ足を前に進めた。けれど、再びそのまま止まってしまう。
「あなたが……わたくしの、背の君となる方ですか?」
滝夜叉は不審を募らせる己の心を宥めながら、ゆっくりと口を開いた。しかし、男はその問いかけに反応しない。それに滝夜叉が訝しげに眉をひそめると、男はようやく顔を隠した扇を降ろした。さらにもう一歩男が進めば、滝夜叉の後ろに置かれた燈台の明かりが、男の顔を照らす。その闇に浮かび上がった顔は滝夜叉がよく見知ったもので、そしてこの場所にあってはならないものだった。
「こ、へいた、さま……」
絶対にこの場にいないはずの存在。――いてはならない人物、のはずだ。それがなぜ、この場に立っているのだろう。滝夜叉は思わず絞り出すように彼の名を呼び、其の姿を見つめた。それに扇を降ろした小平太が、笑う。
「――どうして、お前はここにいるの?」
しかし、その笑みとは裏腹に口から零れた言葉はひどく恐ろしい調子を持っていた。滝夜叉は己を打つ冷たい響きに身体を強張らせ、視線を泳がせる。何か言わなければ、と思うのに、普段は留まることのない声が喉でわだかまっていた。
「ねえ……滝、知っている? 今宵、大蔵大夫が年若い姫を娶るそうだよ。ずっと独身主義で通していたのにねえ。
今宵の宴に侍っていた女房たちが裏で声高に話していたよ。――蔵人中将と右大臣が揃って是非に、と大夫に縁談を申し入れたそうだ」
小平太が穏やかに告げる内容に、滝夜叉は顔から血の気を引かせた。――大蔵大夫に縁づく「年若い姫」は、滝夜叉のことである。なぜ彼がそのことを知っているのだろう、と彼女はそのことばかりが頭を掻き回すのを感じた。
「――ねえ、これは一体どういうこと?」
小平太が足を踏み出し、滝夜叉の前に膝をつく。そして、今宵のために美しく梳られた緑の黒髪を一房掴む。強く引かれたわけでもないのに、滝夜叉はまるで重い鎖にでもつながれたような気分になった。
「滝?」
「……そ、れは……」
何と言えば良いのか、と滝夜叉は頭を回転させる。そして、ハッとあることに気づいた。
(――このままでは、背の君も来てしまう)
小平太と未来の夫が鉢合わせでもしたら、どうなるか分からない。見ず知らずの人間とは言え、自分で妹背となると決めた男だ。その人物が無用な危害を加えられることは避けたい。ゆえに滝夜叉は唇を噛みしめ、深く息を吸い込んでから口を開いた。
「――わたくしは、その方と今宵結ばれるのです」
「何で? ……ああ、文次郎や長次に言われたから」
「違います。――わたくしが、自分で背の君を迎えると決めたのです」
その言葉に小平太が眼を細める。口に刷いていた笑みはいつの間にか消え、冷え冷えとした視線が滝夜叉に突き刺さった。それに気圧されながらも、滝夜叉は続ける。
「……わたくしは、あなたと添うことはできません」
立場や条件、そのどれを取っても滝夜叉が小平太の妹となることはできない。皇族の正妻として嫁ぐには余りにも父の官位が低すぎるし、小平太を支えていく後ろ盾もない。たとえお互いが想い合っていても、どうにもならないことはあるのだ。
(――それを、この方は理解していないだけ)
「だから、背の君をお迎えするのです。……ご安心を。わたくしが貴方のお傍に侍ることに変わりはありません。ただ……夜のお召しだけは、お許しいただかねばなりませんが」
滝夜叉は無理にでも笑った。そうしなければ、小平太の前で泣き崩れてしまいそうで。――妻にしてくれ、と縋り付いてしまいそうになる。けれど、そんな惨めなことだけはしたくなかった。
何より、滝夜叉は己を追って小平太がこの場所まで来てくれたことが嬉しかった。たとえ、これで縁が切れることになっても、そこまでは想ってくれていたことが堪らなく嬉しかったのだ。だから、綺麗なままで、彼のよく知る聡明で気の強い、滝夜叉が己と思う自分の姿で別れたかった。
「宮様・・のお情けを頂きましたことは、わたくしの身に余る光栄でした。本当に夢のような……。
けれど、わたくしは現に生きねば。どうぞお許しくださいませ」
滝夜叉は小平太に向かって額ずいた。これで全て終わりだと、必死に己の目元から零れ落ちそうになる涙を堪えながら、小平太がこの場から立ち去るのを待つ。
――しばらくの後、ぎっ、と床板が軋む音が滝夜叉の耳に届く。それに滝夜叉がほっと肩の力を抜いた瞬間、その肩を男の強い力が押し上げた。驚いて息を飲んだ滝夜叉であるが、無理矢理上げられた視界に怒りで表情がなくなった小平太の顔が入り、抗議すらできなくなる。肩を掴む手には骨が軋むほどの力が込められ、滝夜叉は痛みで顔を歪めた。けれど、それすらも今の小平太には何の抑制にもならないらしい。彼は滝夜叉をそのまま床へ押し倒し、首を片手で押さえつけて低く囁いた。
「これが現ではないと、お前はそう言うのか? ――私と共に過ごすことが、夢だと」
「み、やさ……っ!」
喉を掴む手に力がこもる。息苦しさのなか、滝夜叉はそれでも見苦しい姿だけは見せたくない、と強く小平太を睨みつけた。
「お、帰りください! もうすぐこの邸に背の君がおいでになります。それに……宮様ともあろう方がこのような醜聞を世間に知られては――」
「来ないよ」
滝夜叉は己の言葉を遮るように吐き捨てた小平太を呆然と見上げる。それに小平太は真っ直ぐ滝夜叉を見下ろして、繰り返した。
「大蔵大夫は来ない」
その言葉の意味を、滝夜叉は小平太の表情で読み取った。これ以上ないほどに血の気を引かせ、滝夜叉は唇をわななかせる。
「……なにを、なさったんですか」
「何、この邸のことを聞いて、あとはちょっと眠っていてもらっただけさ。命まで取ってないし、大怪我もさせてない」
「そんな、どうして……!」
「『どうして』? それをお前が言うの、滝。
――私のものを奪おうとする輩に容赦せよ、と?」
小平太はそこで初めて笑う。けれど、いつもの明るい笑みとはかけ離れた、ひどく昏くらい笑みだった。
「因みに助けを呼んでも無駄だよ。……仙ちゃんも詰めが甘いね。女房たちは大蔵大夫の従者を見ただけで、私が大夫だと勘違いしてくれたよ。
多分、お前が嫌がって多少声を上げても、助けに来てはくれないよね。お前が私のものだったことは周知の事実なのだし、私の名を読んだところで、よもや〈私を拒んでいる〉とは思うまいし」
滝夜叉は小平太の言葉に呆然とする。同時に、背中に這い上る恐怖が喉を詰まらせた。この場から逃げ出さねば、そう思うのに身体が動かない。――こんな小平太を見たのは、初めてだ。その変貌に脳が痺れるほどの衝撃を覚え、滝夜叉はただただ身体を震わせた。
「――お前が誰のものか、思い知らせてあげる」
小平太が口の端を上げて、笑った。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒