鈍行


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▼にはか



「……ん」
 滝夜叉は小さく唸り声を上げて目を覚ました。朝日がそろそろ昇ろうとしている。もう起きなければならない時間だ。まだ鈍い痛みを訴える身体を引きずり、滝夜叉は身体を起こそうとした。しかし、それは身体に絡みついた小平太の腕で阻まれる。まだ寝ぼけているのだろう、小平太は少しだけ瞼を上げて、滝夜叉を見つめている。
「まだ貴方はお休みになっていてください。わたくしはそろそろ朝餉の準備をしなければ」
「……まだ良いだろう? 今日は出仕もないんだし」
「そういう問題ではございません。――これがわたくしの仕事である以上、疎かにするわけにはまいりませんよ」
 更に悪さをしようとする腕を軽く叩いて、滝夜叉はその腕から抜け出した。小平太は不満そうに唇を尖らせたが、滝夜叉はそれ以上彼に構うことはない。側に置いておいた水を張った桶に布を濡らすと、己の身体を手早く拭った。
 真白の身体にはいくつもの赤い痕。身体に残るけだるさと同じく、昨晩も小平太に愛された証である。
 ――既に滝夜叉が主の対で寝起きするようになってから、半年が経とうとしていた。家の人間にとっては滝夜叉が小平太の室となったような錯覚が起こり、夜遊びもしなくなって腰を落ち着けた主に喜ぶばかりだ。
「ちえー……真面目なんだから」
「わたくしが不真面目になったら、このお邸は立ち行かなくなりますよ」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
「朝餉ができたら戻ります。その間にこちらのお衣装に着替えてくださいね」
 滝夜叉は己の身繕いを簡単に済ませると、小平太の葛籠から着替えを取り出してくる。それを小平太の前へ置くと、小平太はからかうように滝夜叉へ呟いた。
「滝が着替えさせてくれるんじゃないの?」
「いつの間にそんな甘えっ子になったのでしょうね、貴方は。金吾ですらそんなことは申しませんが」
「言ったな」
 小平太はくつくつと笑いながら、再び褥へ潜り込んだ。まだ起きるには少し早いため、寝直すのだろう。滝夜叉はそんな小平太を笑みと共に対に残し、己は桶を抱えて厨へと向かった。
 滝夜叉の朝は早い。空が白み始めるころには既に目覚め、厨に立たねばならない。朝食の支度ができれば、小平太を起こして食事をとらせる。その間に出仕の日であればその支度をし、そうでないのならば洗濯や小平太の対の片付けなどの雑事を行う。はじめは己に与えられた局から始まっていた一連の仕事は、今や小平太の対から始まるようになった。女房としては過分なまでに扱われ、今では滝夜叉がこの邸の女主人のようだ。
 小平太の寵愛は深く、いつまでも翳ることはないだろう。――誰もがそう思っている。滝夜叉以外は。
 けれど、滝夜叉は知っていた。彼が幾人もの女性と浮き名を流し、そしてあっさりとその女性たちと縁を切ったことを。滝夜叉が同じ目に遭わないと、何故断言できよう?
(――あの方の気持ちが移ろわないと、断言できるわけもない)
 小平太が自分のことを気にかけるのは、飽くまで彼の庇護すべき存在であるということ、また物珍しい存在であるということが大きい。――では、その気持ちが薄れたら?
 滝夜叉は小さく溜息をつく。そんなことを考えても詮ないと分かっていても、どうしても考えてしまう。終わりの来ないものなどないと、己が知っているせいかもしれない。けれど、今はまだ大丈夫。もう少しだけ、彼の傍に。そんなことを考えながら日々を過ごす滝夜叉に、試練はすぐ訪れた。







「まあ、潮江中将さま! それに五宮さまも……」
「平大夫か、久しいな」
「邪魔をする」
 主が連れてきた客人に滝夜叉は目を丸くした。――ひとりは己が随分世話にもなった男で、幼馴染みの異母兄にあたる蔵人中将潮江文次郎。もうひとりは七宮小平太の同年の異母兄で五宮長次である。どちらも小平太と親しくしている間柄とは言え、邸の状態が状態であるだけに彼らはもっぱら小平太を呼ぶばかりで、この邸に訪れることはなかった。それだけでも驚きであるというのに、彼らはこの邸に夜更けまで滞在するという。寝耳に水の状況に滝夜叉は飛び上がるほど驚き、脳天気に笑って二人を対へ招く小平太をこっそりと睨みつけ、彼女は慌てて厨へと走った。
 ばたばたと酒を用意し、邸の人間のために作っていた料理を客人と主に出す。更に酒の肴も用意しながら、改めて家人たちの夕餉をこしらえなおし……とまさしく鬼神のような勢いで滝夜叉は働いた。普段皆で集まる小平太の対には客人が居るため、別の対に家人たちの料理を運ばせ、滝夜叉自身は少しだけ料理をつまむと座る間も惜しいとばかりに小平太たちの許へと侍った。
 男たちは慣れた手つきで手酌をし、ひどく楽しげな会話を交わしている。滝夜叉が追加の酒を運んだころには、既に小平太がひどくご機嫌に笑っていた。ああ、これは悪い癖が出そうだ、と客人たちに酌をした滝夜叉が主の傍へと寄ったとき、文次郎が口を開いた。
「――最近、随分と落ち着いたんだな」
「ん?」
「派手だった女遊びもぱったりやめて、随分と良い主振りじゃないか」
 文次郎の皮肉を小平太は上機嫌で聞き流した。傍に居た滝夜叉をさり気なく抱き寄せ、己の酌をさせる。主の態度に滝夜叉は顔をしかめたが、客人の前で小言を言うわけにもいかないために大人しく銚子を傾ける。しかし、その途中で届いた声に滝夜叉は固まった。
「七宮、貴方もそろそろ正室を迎えて良いころじゃないのか?」
 文次郎の言葉に滝夜叉は思わず手元を狂わせた。銚子の口が杯から外れ、床へと酒が零れる。ハッと我に返った滝夜叉は慌てて持っていた布で床を拭こうとしたが、彼女の予想以上に酒は床へと広がっており、とても一枚の布では足りそうになかった。
「申し訳ありません、粗相を……! すぐに片付けます。しばし御前失礼いたします」
 滝夜叉は逃げるように立ち上がる。客人二人に頭を垂れ、すぐさまに彼らの前から離れた。握りしめた布から漂う酒の匂いが鼻について、眩暈が起こる。匂いだけで酔うはずもないことに滝夜叉は既に気付いていたが、眩暈の原因を考えたくないがゆえに強く湿った布を握りしめた。
 新しい布を持って戻れば、何やら騒がしいことになっている。慌てて小平太の許へと戻ろうとしたが、彼女が小平太の傍に駆け寄ろうとした瞬間、その鼻先を何かが飛んだ。派手な音を立てて転がったのは、小平太が持っていた杯である。驚いて眼を剥く滝夜叉にも気付かず、小平太は先程の上機嫌などどこへやら、ゆらりと立ち上がって低く告げた。
「――滝に男を通わせるだと? 冗談じゃない」
「え?」
 予想してもいなかった言葉に滝夜叉は思わず小平太の視線の先を辿る。その先には腰を浮かせて構える文次郎の姿があった。彼は戻ってきた滝夜叉をちらりと見ると、殺気すら振りまく小平太を睨みつける。そして、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。
「平大夫も夫を持つには十分な歳だ。それに、俺は彼女の後見人として彼女が幸せになるためのお膳立てをする義務がある。この世の中、女がひとりで生きて行くには余りにも厳しい」
「滝は私が面倒見てる。問題ないでしょ」
 文次郎の言葉に小平太が噛みつくように反論した。普段の明るい表情などどこへやら、小平太は文次郎を捻り殺しかねんほどの鋭さで睨みつけていた。状況が上手く掴めぬまま滝夜叉が小平太の傍へ戻ると、彼はまるで奪うように滝夜叉を抱き寄せた。
「滝は私のものだ。他の誰にも渡さない」
「宮様……?」
「――だが、お前だって正室を迎えなければならない歳だろう。いつまでもふらふらしているわけにはいくまい」
 滝夜叉は文次郎のその発言で、ようやく内容を理解した。――多分、文次郎は知っている。滝夜叉が小平太の召人であることを。そして、それが双方にとって良くない状況であると判断したのだ。それに滝夜叉は唇を噛みしめる。文次郎の考えは痛いほど理解できた。
(確かに、私では宮様の益にはならない)
 後ろ盾となる親も既に居らず、文次郎が後見をしてくれているとは言えども、それとて飽くまで一時のことだ。宮と言えど既に母の家からの援助も期待できない小平太を支えるには、滝夜叉では力不足に過ぎる。何より、滝夜叉自身が小平太の世話になっている状況なのだ。だからこそ、側室どころか召人として扱われているのである。
「別に私は正室なんて要らない。滝が居ればそれでいい」
「いつか、そう思わなくなる日が来る」
 殺気立って痛いほどに滝夜叉を抱き寄せる小平太にも構わず、文次郎は続ける。同時に、彼は真っ直ぐに滝夜叉をも射貫いて続けた。
「――分かっているだろう、平大夫。いつまでもこの状況は続かない」
 滝夜叉は文次郎の言葉に声がでなかった。
 それは、彼女が常に抱いていた不安である。そう、いつまでもこの状況は続くものではない。
(今はまだ良い)
 小平太の愛情を頼みにして、その愛情が失われることなどないと思える今はまだ。――けれど、これが一年経ち、二年経ち……そうやって長い時間を経たらどうなるのだろうか。
 滝夜叉とて今でこそ麗しい己の容貌を誇っていられるが、歳を経て容貌が衰えたときに小平太が果たして己をまだ愛してくれるのかとも思う。勿論、小平太が己へ情けをかけたのは麗しい容貌だけが理由ではなかろう。けれども、滝夜叉は同時に小平太の移り気もよく分かっていた。
(もっと物珍しい女性が現れたら?)
 小平太は直情傾向で、好きなものには真っ直ぐに突き進む性格だ。だからこそ、滝夜叉を得たときに他の女は全て切った。――だが、滝夜叉が切られる側に回らないとは言えるだろうか。二度あることは三度ある。そして、滝夜叉は己がそうならないと断言するには、余りにも弱い立場に居た。
「もう帰れ、文次郎。お前の顔はしばらく見たくない」
「……これは仙の考えでもある。近々、改めるぞ」
「聞きたくないね」
 滝夜叉を抱えたままで小平太は吐き捨てた。文次郎はその様子に溜息をつき、処置なしとばかりに頭を振った。ちらり、と傍らで沈黙を保っていた長次に視線を投げ、軽く頷く。彼もまた軽く頷いて立ち上がり、最後に一言だけ、ぼそりと呟いた。
「……小平太にも、いずれ分かる」
 宮の中でも博識と聞こえが高い五宮の発言は重く、滝夜叉は尚更己の身の上を思い知らされたような気がした。
 滝夜叉では、小平太に相応しくないのだ。仮にも血筋を辿れば宮に、また古い天皇へと繋がる滝夜叉であるが、現在の権勢などないも同じ。両親もある事情から親戚縁者に縁を切られているし、本当にこの身ひとつのみが滝夜叉の財産なのである。
「お見送りを」
「しなくていい」
 退出していく二人を見て我に返った滝夜叉が彼らを追おうとしたが、小平太の腕がそれを拒む。滝夜叉が困惑して小平太と二人を交互に見やると、その視線に気付いたのか、長次が振り返って小さく首を振った。
「いい。今日は世話になった」
 長次は滝夜叉が返事をするより早く、簀の子の奥へと消えた。それを咄嗟に追おうとしたものの、小平太の腕が身体に絡みついて身動きすら取れなくなる。更に腕の力が強まったことで息苦しさすら感じ、滝夜叉は戸惑いで小平太を見上げた。その表情は感情が抜け落ちていて、まるで深淵を覗くかのよう。それに滝夜叉が息をのむと、小平太は更に腕の力を強めた。
「……私は、お前が居ればそれで良い」
「宮様」
「正室も要らない。側室も要らない。滝だけで良い」
 己の背骨を軋ませるくらいの力で抱きしめ続ける小平太に、滝夜叉は何だか泣きたくなった。――愛されているのは分かるのに、己が求めるものとはどこかちぐはぐなその感情。けれど、それを求める自分が余りにも利己的であることを知っていた滝夜叉は、ただ小平太の背中を撫でた。
(愛されているのに、安定まで欲しいと思うのは間違っているのかもしれない)
 この人物がこれだけの感情を見せるのは、多分今の時点では己のことだけであろう。それだけで満足するべきだ。そう、頭の隅で声がする。けれど、そう考えるたびに脳裏に浮かぶのは寂れた自邸と誰も居なくなってがらんとした空間。あの場所にはもう戻りたくないという、己の心の声。
(――結局、わたくしはこの方よりも自分が大切なのかもしれない)
 愛されて幸せだった。愛していると思っていた。けれど、同時に胸へ棲み着く利己的な考えと、小平太への不信。それが捨てきれないのなら、きっといつまでも滝夜叉は小平太の胸へ全てを預けることなどできない。――正室も、側室も要らないと宣言する小平太は、裏を返せば滝夜叉に安定を与えるつもりもない、ということである。小平太にとってたったひとりの女性として過ごすことは容易いが、いつ愛が枯れて捨てられるかも分からぬ土台を頼りにするには、滝夜叉は余りにも現実を見過ぎていた。
 だからこそ、抱きしめた己をそのまま寝台へと連れだして常にない荒々しさで求める小平太に必死でしがみつきながら、滝夜叉はあるひとつのことを決意したのだった。



「――そちらから尋ねてくるとは思わなかったな」
「お忙しいのに、お時間を割いていただきまして恐れ多いことに存じます」
 滝夜叉は幼馴染に会うという名目で二条の邸へと赴いていた。そこには本来目的だったはずの左三位――潮江文次郎の異母妹である三木ではなく、邸の主である文次郎が座っている。滝夜叉は深々と彼に額ずいた後、頭を上げて真っ直ぐに文次郎を射貫いた。
「……目的を聞こう」
 彼女の表情だけで既に分かっているだろうに、文次郎は敢えて問い直した。それに滝夜叉は一度目を伏せ、ゆっくりと視線を上げてから口を開く。
「先日、宮様にお話なさっていたわたくしの縁談、よろしきご縁を整えていただけるのでしたら――お進めください」
「良いのだな?」
「はい。何事も良いようにお計らいくださいますよう。……中将様や北のお方には大変なご迷惑とお手数をおかけいたしますが」
 はっきりと己の口から告げた滝夜叉に、文次郎は念押しをした。それに滝夜叉が揺らぐことのない覚悟を伝えると、彼は疲れたように溜息をついた。
「こっちとしては有り難い話だが……お前も難儀だな」
「……仕方のないことでございますれば」
 お互いに今の関係を続けていても、いつかは毒になるばかりだ。それならば、まだ傷が浅いうちに、忘れられるうちに、と滝夜叉は考えた。
 小平太の寵を受けてまだ日は浅い。これが一年、二年と過ぎれば過ぎるほど、滝夜叉はきっと深く傷つき、苦しむことになるだろう。――そして何より、夫を得れば、小平太がいつか正妻を迎えたときにもきっと耐えられる気がした。
「元々、三木の――異母妹の幼馴染であり、あれも義母も随分とそちらの一家には世話になった。何より、お前の父君と我が妻の叔父が親しくしていたことで、あの方からもお前のことに関してはくれぐれも宜しくと申し伝えられている。決して悪いようにはしない」
「有り難う存じます」
 再び深々と頭を垂れた滝夜叉に、文次郎はしばし沈黙した。美しい黒髪が床に流れ、細い肩が見える。余りにも頼りないその様子に、文次郎は痛ましさを感じて再び息をついた。
「――よく決断してくれた。お前の英断に、感謝する」
 文次郎の言葉に滝夜叉はどこか泣きそうな顔で笑った。それは先程見せた覚悟の表情とは余りにもかけ離れた、ひどく弱々しい表情で。それに文次郎は彼女がどれだけの想いを押し殺してこの場を訪れたのかということ、また愛しいとのたまいながらもこのような表情をさせる小平太への憤りに表情を険しくさせた。



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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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