鈍行


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▼しののめ



「……姫さま、こちらへ」
「ありがとう」
 滝夜叉は御簾を上げる牛飼い童に微笑みかけ、牛車から降りる。その先には丁寧に整えられた邸が建っており、さらにその入口にはひとりの男が立っていた。
「本当に……来たのか」
「はい、参りました」
 己を迎える男――五宮長次に頭を垂れ、滝夜叉は彼の前へ立つ。もう背中は丸めない。宮であろうと、真っ直ぐにその視線を受けた。
「会う気、なのか」
「はい、そのために参りました」
 滝夜叉は長次の問いにはっきりと答えた。それに彼はもう何も言わず、ただ小さく息をつく。そのいやに疲れた様子へ、滝夜叉は少しだけ困った顔をした。
「……ご迷惑を、おかけします」
「――あれと兄弟として生まれたときから、諦めている」
 珍しくはっきりと呟く長次に、滝夜叉は少し目を見開く。はっきりと耳に届く声もそうだが、それ以上に内容へ驚いたのだ。
(……そういえば、この方は宮様と生まれたときからご兄弟なのだ)
 長次が五宮であり、小平太が七宮である以上、当たり前の事実であるはずなのに、これまでそれを意識していなかったことに滝夜叉は初めて気づいた。同年の、余りにも仲の良い二人。六宮の仙子も同年であるが、彼ら二人の間には何か不思議なつながりのようなものがある。――滝夜叉はその理由を知らない。けれど、今はそれで良かった。
「……荒れているぞ」
「存じ上げております」
「それでも行くか」
「参ります。――そうでなくは、わたくしも、あの方も前に進めません」
 幾度も念を押す長次に、滝夜叉は繰り返し首肯する。それは何かを積み上げるような作業にも似ていて、土台が組み上がったそのときに、長次はもう一度深く息をついた。
「……ついて来るが良い」
「有り難うございます」
 邸の主は身を翻し、滝夜叉を望む場所へいざなう。その背に従いながら、滝夜叉はしずしずと足を進める。その歩みには、もう迷いはなかった。







「――ここからさきは、ひとりで参ります」
「しかし」
「構いませぬ。……あの方に、わたくしは殺せない」
 小平太が押し込められている対への渡殿へ足を踏み出そうとする長次に、滝夜叉が声をかける。彼女の言葉に長次は明らかに反対の意を示したが、滝夜叉はそれにただ首を横に振った。そして、続ける。
「畏れながら五宮様、あの方はもはやわたくしをどうすることもできません。ですから、大丈夫です」
 滝夜叉はゆっくりと口の端を上げる。唇が形作った笑みは美しく、長次は少しだけ目を瞬かせた。それは、幾度も七宮邸に訪れたことのある長次でも、見たことのない表情。そして、彼は初めてこの少女の本質を知った気がした。
「……しばらくお騒がせするやもしれませぬが、どうぞお許しください」
「――小平太に、危険を感じたら大声を上げろ。私はこの渡殿の前に控えていよう」
 長次の言葉に滝夜叉は深く頭を垂れ、渡殿へと足を踏み出す。その背中は細く、華奢であったが、彼が今まで見た彼女のどんな後ろ姿よりも、美しく大きく見えた。滝夜叉はもう長次に振り返ることはなく、迷いのない足取りで離れの対へと消えていく。その背中を見送りながら、長次はただ小さく溜息をついた。



「――用はない、下がれ」
 衣擦れの音を聞きつけたのか、小平太は外を眺めたまま振り返りもせずに吐き捨てる。それに滝夜叉は小さく息を吸ってから、ゆっくりと口を開いた。
「わたくしにはございます」
「……滝夜叉?」
「お久しゅうございますね、宮様。――と申しましても、実際にはお傍を離れましたのは、たった数刻あまりですが」
 小平太は己を真っ直ぐに見据える滝夜叉の姿を信じられないように見つめたあと、弾かれたように腰を浮かした。しかし、それを滝夜叉が先手を打って制する。
「どうぞそのままに。……わたくしは、宮様のお傍に侍るために参ったのではございませぬ」
「何を」
「――終わらせるために」
 小平太はその言葉に表情を消した。いつでも彼女に飛びかかれるよう、体勢を整える。すぐに距離を詰めなかったのは、ただ彼女の様子が普段とは違うためであった。そんな小平太に滝夜叉は少しだけ笑いかけ、それから彼の後ろに広がる外の景色を眺める。
 空は青く高く、整えられた庭園が見るものを和ませる。その穏やかさに滝夜叉は少しだけ目を細め、それから再び小平太へと視線を戻した。
「……お話を、いたしましょう」
「何の」
「わたくしたちにとって、必要なことを」
 滝夜叉はそこで一度言葉を切り、首を少し傾けた。黒髪がゆるりと流れ、肩から零れ落ちていく。女房の仕事を始めてからはずっと髪をまとめていたが、こうしている間はまるで姫君に戻ったようだ。――もっとも、そんなに高い身分では元々なかったのだが。
「必要なこと、ねえ……私を捨てて、他の男の許へ嫁ごうとしたくせに。
もう私を愛していないのなら、どこへでも行けば良い。――じゃなきゃ、また私はお前をどこかへ閉じ込めるぞ」
「その反対です」
 滝夜叉は小平太にはっきりと告げる。視線はもう逸らさない。射抜くように視線を定め、彼女ははっきりと言葉を紡いだ。
「あなたをお慕いしているから、わたくしは他の殿方を選んだのです」
「どうしてだ!? そんなのおかしいじゃないか!」
「……そうですね、おかしい。けれど、わたくしが選べる道は、そう多くなかった。
 ――ひとつは、これまでどおりお傍に召人として侍りながら、あなたが北の方を迎えたならばお傍を離れること。今ひとつは、傷が浅いうちにあなたのお傍を辞して、別のお邸へ仕えること。最後のひとつは、ただの女房へ戻って、ずっとあなたのお傍に仕えること。
 ……わたくしには、あなたの北の方になられる女性を憎まないでいられる自信も、あなたのお傍を離れる覚悟もできなかった」
 小平太は滝夜叉の言葉に理解できない、と首を振った。苛々とした様子で何かを言おうとするものの、己のなかでわだかまる感情をどう表現してよいか分からぬようで、結局言葉を発することはなかった。それに滝夜叉は少しだけ笑って、続ける。
「――あなたは、ご自分の立場をお分かりでいらっしゃらない。いえ、逆にお分かりでいらっしゃるからこそ、かもしれませんが」
「何が言いたい」
「宮様は皇としてお生まれになり、宮としてさまざまな特権をお持ちでいらっしゃる。
 あなたが望めば、大抵のものが手に入ることでしょう。それは物品に限らず、女性でも同じ。……あなたが望むのならば、それこそ左大臣、右大臣の娘でも迎えることができる。けれど、逆を申し上げれば、あなたに釣り合わぬものは全て強制的に排除される運命なのです」
 滝夜叉は悲しげに笑った。――彼女もまた、〈排除される〉側の存在。小平太には釣り合わぬ、賎しい育ちのもの。辿れば古い皇族に行き着くと告げたところで、今の彼女には頼れる親もなければ、己を支える財産もない。あるのはその身ひとつのみだ。
「そんなこと……っ!」
「――ありますよ。そして、あなたは特権を受ける代わりに、それを享受するための義務がある。今上に続く御代を支えるために、次代を繋ぐ。――そして、今のわたくしはそれに耐えられない」
 そこで言葉を切り、意識して呼吸を重ねる。覚悟を決めていても、話を続けるには勇気が必要だった。
「わたくしは、あなたに想いを伝える気なんてなかったのです。こうなることは、初めから分かっていたのですもの」
「何を」
「――たとえば、わたくしの父がもう少し官位が高ければ、また話は違っていたのかも知れません。けれど、父はほぼ無位無冠で、鄙つ地の土地以外に財もない。本当に、物の数にも入らぬ存在でございます。それがつまりどういうことか、宮様はお分かりになられませんでしょうね」
 滝夜叉の言葉に小平太が明らかに不機嫌な表情を浮かべる。己が分からない前提で話を進められることが不快なのだろう。けれど、事実彼は何も分からないのだ。そういう立場に置かれたことがないのだから。
「……夫にとって良い妻の条件を、あなたはご存じですか?」
「何だそれ」
「財を持ち、経済的に夫を支えられること。――それができず、離縁することもあるそうですわ」
「そんなもの、私が何とでもしてやる」
「……そう、あなたならそう仰るでしょうね。ですが、あなたの地位とて、絶対ではない」
 滝夜叉ははっきりと告げる。それに小平太が目を見開いたが、彼女の言葉は止まらなかった。
「今はまだ、今上が在位なさっておりますから良いでしょう。けれど、その次、春宮が即位なさればどうでしょう?」
「春宮は私たちを蔑ろになどしない」
「ええ、それは勿論でしょう。叔父を大切になさらない方ではございませんので」
「だったら」
「――ですが、代替わりをすれば、その周囲も代替わりするのですよ、宮様」
 端貴族と言えど、滝夜叉の父が消えても揺らがぬ朝廷のように。また、滝夜叉の母が入内せずとも栄えた後宮のように。代わりはいつだってすぐに現れる。――そして、それは滝夜叉とて同じだ。
「もし、あなたが今の地位を失ったとき、わたくしはあなたに何もして差し上げられない。……ですから、わたくしを選んで欲しい、とも申し上げられません」
「私は滝夜叉の世話になろうだなんて、一回も思ったことはないぞ! たとえ私が宮でなくなったとしても、自分で山と川で食料調達するくらいはできるし、それを売って暮らしの足しにすれば良いだろう」
 小平太らしい発言に、滝夜叉は少しだけ目を瞬かせてから瞼を伏せた。そして、自分がまた〈建前〉で話をしていたことに気づく。覚悟を決めたと思っていても、まだ自分を守ろうとしていることに気づいて、滝夜叉は唇を噛みしめる。手のひらに爪が食い込むほどに拳を固めると、滝夜叉は再び視線を上げ、一歩小平太に歩み寄った。
「申し訳ありません、そうじゃないんです」
 初めて、滝夜叉の瞳が揺れた。握りしめた拳が微かに震える。開いた唇から漏れ出た言葉もまた、先程とは一変して揺らいでいた。
「……わたくしは、あなたが信用できないんです」
「何を言って」
「――あなたは、わたくしに約束をしてくださいましたね。
 わたくしをお傍に置く間は、他の女性とのお付き合いはやめてくださる、と」
「事実、やめただろう」
「ええ、おやめくださいました。……本当にあっさりと、何の未練もなく。それが、わたくしには恐ろしかった」
 小平太は滝夜叉の言葉が理解できない、と険しい表情を浮かべる。それもそうだろう。滝夜叉自身が言い出し、その願いが叶ったのだから、喜びこそすれ、不満に思うなど間違っている。それでも、思うのだ。――明日は我が身、と。
「あなたはきっと、わたくしを捨てるときも、あのようにあっさりと、まるで反古を捨てるかのように、何の未練もなく捨てておしまいになるのでしょうね」
「そんなこと」
「ない、と言い切れますか? あなたが」
 反論する小平太に、滝夜叉は冷静に返す。可愛げがないことなど百も承知だが、胸に根を張った恐怖を無視し続けることなどもうできない。
「……わたくしは、存じ上げておりますもの。
 あなたにお仕えしてから、わたくしを召人になさるまで、あなたがどれだけの女性に通われたか。花から花へ、まるで蝶のようにあちこちの女性へ羽ばたいては、興味がなくなった女性には見向きもしなくなる。色好み、なんて言えば聞こえは宜しいですが、実際には光の君よりずっと性質が悪い。――光の君は寵愛した女性を最後まで気にかけてくださるけれども、あなたはそれで終わり。
 ……では、わたくしは?」
 滝夜叉は泣きそうな顔で笑った。
(――もしも、なんて言葉には意味がないけれども)
 己が周囲から隔絶される孤独を知らなければ、少しは違ったのだろうか。色好みの小平太が、関係を持った全ての女性を捨ててまで、己を選んでくれたことを、監禁するほどの愛情を、信じることができたのだろうか。
(いや、違うな)
「宮様、わたくしたちは間違えたのです」
「何を! 私はお前を……!」
「ええ、想ってくださっていると、存じ上げております。
 それでも……いいえ、だからこそ、わたくしたちは間違えたのでしょう。愛情の発露を、身体を重ねることに求めすぎて、言葉を重ねることをしなかった。
 こうなる前に、もっと早く、わたくしはあなたにこうしてお話しすれば良かったのです。けれど、こんなことを申し上げて、あなたに嫌われるのが恐ろしかった。あなたの愛を失うことは、生きる全てを失われると同義。それを怖がって遠慮をしていたのでは、どうにもならないのに」
「滝……」
 小平太に名を呼ばれ、滝夜叉はぽろりと一筋の涙をこぼした。それが呼び水となったように、涙はあとからあとから零れ出す。泣くまいと目元を両手で目元を押さえても、堰を切ったように止まらなかった。
「あなたの……っ、いちばんたいせつなひとになりたかった……おとうさまとおかあさまみたいに、あなたのたったひとりのひとになりたかったんです」
 叶わないと分かっていた。それでも夢を見てみたかった。
 世間の夫婦は一夫多妻が当たり前で、己の父母のほうが普通ではないのだ、というのは幼い頃から知っていた。それでも心のどこかでずっと、いつか父のように己ひとりを愛してくれる人に、母のようにたったひとつの愛を捧げたいと思っていたのだ。
 もう真っ直ぐ立ってもいられなかった。膝を折って、顔を覆って涙を流す。こんな情けない姿を見せたくないと思うのに、もうどうにもならなかった。
「どうしてもお傍にいたかったから、それならば普通の主従に戻ろうと思ったんです。あなただって、いずれは本物の姫君を北の方として迎えなければならない。それならば、あなたが他の女性を――北の方を娶る前に終わらせてしまいたかった。ただの主従に戻ってしまえば、きっとこれ以上苦しまずに済む。何より、そのときにわたくしにも夫がいれば、きっと幸せそうなあなたを見ても耐えられるのではないかと思ったから。
宮様、どうぞわたくしをお捨てください。……これ以上、あなたのお傍にはいられません。あなたも、わたくしも、傷つくだけ。ですから、もう――終わりにしましょう。何もかも」
 声も身体も、小刻みに震えていた。余りにも情けないが、もうどうしようもできない。第一、滝夜叉が小平太に情けない姿を見せるなど、これが初めてというわけでもないのだ。最後の最後くらい、美しい己を見せていたかった。
 小平太は何も言わない。ただ、うずくまって小さくなる滝夜叉を見下ろしている。ぱたぱたと床に落ちる涙の音だけが、辺りに響いた。
「――分かった」
 滝夜叉の胸を刺し貫くように、小平太の低い声が届く。それに滝夜叉が顔を上げられずにいると、小平太が小さく続けた。
「お前の言いたいことは、ちゃんと分かったから」
 小平太はそれだけ言うと、いつもよりずっと荒い足音を立てて、局を出て行ってしまった。振り返ることもできない滝夜叉がうずくまったままで床の板目を見つめていると、今度は静かな足音が響く。己の上に影が落ち、肩に大きな手が乗せられた。
「……平大夫」
「五宮様……そちらを向かぬご無礼をお許しください。あまりにもみっともない顔をしておりまして、とてもお見せすることができませんので。
 ――有り難うございました。もう、終わりましたので、わたくしもお暇いたしたいと存じます」
 温かい長次の手のひらに身体の強ばりが解ける。滝夜叉は手のひらで涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……どうする、つもりだ?」
「――尼になろうかと。幸い、宮内卿がわたくしの面倒を見てくださるそうなので、彼の言葉に甘えて、どこかの尼僧でも紹介してもらいます」
「……今とは別の邸に仕え、他の男と縁を結んでも良いのでは……? 何なら、我が邸でも」
「いいえ。――いいえ、お気遣いありがとうございます。けれど、気づいてしまったんです。わたくしは、あの方以外好きになりたくないのです。あの方をずっと好きでいたい。たとえ、それが他の人間には不幸に見えたとしても」
 泣き濡れた顔で、滝夜叉は困ったように笑った。けれど、その表情は先程見た強気な表情となぜか重なる。これが覚悟を決めた人間の表情なのか、と長次はぼんやり思う。その間に滝夜叉は背筋を伸ばし、深く息を吸った。
「お騒がせをいたしました。――大口を叩いた割に、このような様でお恥ずかしい限りですが」
「いや……よく、頑張った。少し、休むが良い。局を用意させた」
「いえ、お気遣いだけで。多分、女御の許で左三位と宮内卿が待っておりますので。――本日は大変ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。何もお返しができぬ身ではございますが、何か女房の手が必要であればお声がけいただければ何を置いても馳せ参じます」
「気に、しなくていい。……元々は、我が弟のせいだ」
 滝夜叉はその言葉に緩く首を振った。そして、それ以上は何も告げることはなく、ただ頭を垂れて暇乞いをする。
 牛車に乗って内裏へと戻っていく滝夜叉を見送りながら、長次は飛びだしていった小平太の行方が届くのを待つために東の対へと歩いていった。







 渡殿の前で佇む長次を見つけ、小平太は唇を引き結んだ。――彼や父が言っていた言葉が、今になって身に染みる。確かに、己は何も分かってはいなかったのだ。
(――ずっと、怖がっていたのか。私がいつお前を好きじゃなくなるかと)
 自分が気の多いことも、気まぐれであることも自覚はしている。けれど、滝夜叉を得てからは彼女のことを一番に考えて生きてきた。それが伝わっていなかったことも口惜しかったが、それ以上に滝夜叉の不安に全く気づいていなかった自分に腹が立った。
「小平太」
「今は何も言うな。ちょっと局を借りるぞ」
「しかし」
「滝夜叉のこと、頼む。今の私では泣かせることしかできない」
 長次ならば、滝夜叉を泣かせることも、ましてや手を出すこともないだろう。彼は唯一の妻である北の方を大切にしている。己らのように恋をして夫婦になったわけではないが、二人とも穏やかな性格のためか、今では非常に仲の良い夫婦であった。――そして、それを築き上げることができたのは、彼らがたくさんの時間をともに重ねたから。
 口数の少ない長次が、多くのことを北の方と語らったとは思えない。けれど、本当に必要で、大切なことはきちんと口にしたのだろう。己と、滝夜叉とは違って。
 小平太は足音も荒く、東の対へと進んでいった。とにかく、己がいた――滝夜叉が残る対から少しでも離れたくて。
「くそ……っ!」
 ある程度まで歩いてきたところで、小平太は傍の柱を殴りつけた。――こうして実際に突きつけられるまで、何も気づかなかった自分に反吐が出る。滝夜叉を愛している、などと言っても、この様か。
『――あれの本質も分からぬくせに。結局、気まぐれに手をつけて弄んだだけじゃないか。それで宮とは畏れ入る』
 六宮仙子の義妹から吐き捨てられた言葉が、頭のなかに蘇る。それに小平太は歪んだ笑みを浮かべた。
「確かに、私は何にも見えていなかった」
 瞼の裏に浮かぶのは、先程見たうずくまって震える細い肩。あんな滝夜叉を見たのは初めてだった。ひとりは淋しいと呟いたときも、己が騙して抱いたときも、未来の夫から奪って無理矢理繋ぎとめたときですら、あんな様子は見せなかったのだ。それは滝夜叉が、見せないようにしていたから。小平太にそれを見せても、どうにもならないと知っていたからだ。
 ずるずると、小平太は先程自分が殴りつけた柱にもたれかかって座り込んだ。遠くでがたがた、と牛車が走っていく音が聞こえる。滝夜叉が戻っていく音だろう。――このままでは、本当にこの手から失ってしまう。いや、もう失ってしまったのだろうか。あの温かい身体も、仕方ないと諦めたように笑う顔も、射干玉の髪も、何もかも。
(――あれを失う? 冗談じゃない)
 失えないから奪ったのだ。今更諦めることなどできるわけがない。小平太は弱気になっていた自分の手のひらを睨みつけ、痛いほどに拳を握った。
「小平太」
 きし、と床がなる音へ紛れそうになるほど微かな声。けれど、耳の良い小平太がそれを聞き逃すはずもない。顔を上げれば、そこには複雑そうな表情をした長次が彼を見下ろしていた。
「長次、アレは?」
「今、女御の許へ戻った。しばらくは内裏にいるのだろう。父上が離しはすまい」
「いや、それはない。――好色な父上の傍に、若くて美しい娘を置いておけるほど、中宮に余裕はないだろう。滝夜叉は歳だけ見れば春宮にも見合うから、尚更だ」
 止まっていた思考が動き出す。――一度こうと決めたらとことんまで突き進むのが小平太だ。そして、それを成し遂げなかったことはただの一度もないのである。
「長次、私やっぱり諦めきれない。――あんな風に泣かれても、あの娘を手放すなんてできないんだ。
 泣かせたままで私を忘れるなんて許さない。他の男と幸せになるなんて、もってのほかだ」
「小平太」
「とりあえず、まずは父上と戦うことから始めるか。あのやたらとでかい壁を壊さないと、滝夜叉まで辿り着けんからな。……あの方はいい歳して元気が過ぎる」
 長次は小平太に何かを言いかけたが、結局何も言わずに口を閉ざした。言わないほうが良いこともある。結果が同じならば、尚更。
 そんな長次の様子になど全く気づきもしないで、小平太は久しぶりに口を突いて出た「いけいけどんどーん!」というかけ声とともに、内裏に向かって走り出していた。







「……また置いてある」
「またか」
「まただ」
 滝夜叉は簀の子の上に置かれている小さな花を取り上げて、首を傾げた。ここ数週間、滝夜叉の局の前にぽつんと一本だけ花が置かれているのだ。初めはどこかから風で飛ばされたのだろうと思っていたが、置かれている花はこの辺りに咲いているものではない。何より、花の根本には明らかに引きちぎったような痕がある。人に贈るにしては余りにも無造作すぎるその様子に、滝夜叉はそれが好意からなのか、嫌がらせなのか、掴みかねていた。
 それは共に過ごしている三木も同じようで、彼女もまたその花を見るたびに首を傾げている。捨てるのも可哀想だということで生けたりもしてみるが、それにしても目的が分からない。何度か夜を徹して見張ってみたこともあるのだが、滝夜叉たちの一瞬の隙を突いてその花は現れるのだ。最近は花が置かれる以外に害もないとあって、置かれる花を回収するに留めていた。
「一体、どういうつもりなんだろうな?」
「さあ……わたくしの美しさに懸想してしまう気持ちは分からんでもないが」
「有り得ない。――はっ、そうか……尼姿の私に懸想して、せめて想いだけでもと……」
「それこそない」
 お互いに己の美しさを過信している二人である。いつの間にか犯人捜しよりも言い争いのほうが大きくなり、簀の子の際でありながらも大声で怒鳴り合う。そこへ遊びに来た喜八郎が、呆れたように声をかけた。
「何やってるの、二人とも」
『だって、こいつが!』
「あーはいはい、本当に仲良しだよねえ。でも、その前に場所を考えたら? 外から丸見え、声も丸聞こえ。奥まりたる姫君、なーんて本当にとんでもないよね」
 いつの間にか掴み合っている二人に、喜八郎は尚更呆れたように告げる。それにはさすがに二人も決まりが悪かったのか、まだ唇を尖らせて小さく相手を罵りながらも、御簾のなかへと入っていった。
 ここは右大臣の所有する別邸のひとつで、滝夜叉たちは帝や女御の勧めで、ある準備が整うまでこの小さな邸に身を寄せることとなった。
「それで喜八郎、進み具合はどうなんだ?」
「うん、ちょっとずつ進んでいるよ。僕もたまに手伝いに行ってる」
「それ、穴掘りに行ってるだけだろ。職人は迷惑だろうな」
 進み具合、というのは二人が入る予定である尼寺の普請についてだ。あのあと、滝夜叉が尼になる決意を明らかにすると、周囲は何とか引き留めようとした。しかし、滝夜叉がどうしても首を縦に振らないことで、彼らも諦めたらしい。最終的に、新しい尼寺を建て、そこに彼女と――そして、同じく尼を望む三木を住まわせることになった。
「ま、まだしばらくはかかるよ。一朝一夕にできるようなものじゃないんだから」
「それは分かっているが、やはり気になるではないか。
 と言うよりも、別にわざわざ新しく建立する必要なんてどこにもないのだが」
「それはそうだよな。父上が寄進した尼寺だっていくらでもあるのに、なんでわざわざ新しく作る必要があるんだ」
「そりゃあ、左大臣の姫と、女御と帝のお気に入りの姫を尼にするならそれくらいはしないと」
 喜八郎がさもそれらしく言う理由に、滝夜叉と三木は顔を見合わせ揃って溜息をついた。明らかに煙に巻かれている。しかし、こういう風に何かをはぐらかしている喜八郎に本当のことを吐かせるのは至難の業であることを、幼馴染である二人は理解していたので、敢えて問い詰めることはせずに放っておいた。――彼が彼女たちにとって不利益なことはしない、ということだけははっきりしていたので。
「で、二人は何で喧嘩してたの?」
「ああ、それなんだがな」
「ここ数週間、花が置いてあるんだよ。もうずっと。それも、なぜか汚く引きちぎったものばっかり。花じゃなければ嫌がらせとしか思えないんだが……」
 滝夜叉が拾った花を喜八郎に見せる。それに喜八郎は少しだけ目を見開いたあと、呆れたように小さく息をついた。そして、肩を竦めてから呟く。
「狸の置き土産じゃない?」
「何だそれは」
「そのままの意味。気にする必要ないよ。何なら捨てて来ようか?」
 手を差し出す喜八郎に、滝夜叉はなぜか庇うようにその花を胸に抱えた。それに喜八郎が不満そうに眉を上げたが、滝夜叉はその花を手放せない。自分でもどうしてだか分からず、彼女は困ったように視線を落とした。
「花が欲しいなら、僕がもっと綺麗なのあげるよ?」
「ん……いや、花が欲しいわけではないんだが……」
 それでも花を手放せず、滝夜叉は自身に困惑する。それに喜八郎があからさまに溜息をついて、今度は三木に絡みだした。二人の言い合う声を聞きながら、滝夜叉はなぜかしおれかけた花を大切そうに抱きしめたのだった。



「ん……」
 滝夜叉はふっと夜更けに目を覚まして、その身体を起こした。普段ならばすぐに寝直すところだが、なぜだか目が冴えている。彼女は傍に置いていた袿を一枚羽織ると、御簾の外から差し込む月影に誘われるように端近に歩み寄った。月はちょうど空の真上に昇り、青白く辺りを照らしている。はしたないと分かっていたが、滝夜叉は格子にもたれかかるようにして明るく輝く月を見上げる。その光は淡く優しく、滝夜叉が奥深くに隠している気持ちを見透かすようであった。
「……宮様」
 自分で決めて傍を離れたと言えど、彼を想わない日はない。何気ない出来事でも彼を思い出し、胸の痛みを堪える日々だ。胸が苦しくて泣きたくなる日もあるが、それでも彼を好きにならなければ良かったとは思わない。――出逢えただけで、滝夜叉にとっては僥倖だったのだから。
 滝夜叉が格子に額を当てて溢れる想いを堪えていると、外でかたん、と小さな音がした。ハッと彼女が視線を上げれば、黒い大きな影が庭に立っている。月に雲がかかり、顔は見えない。だが、こんな時間に先触れもなく訪れる人間などいるはずもなく、滝夜叉はすわ盗人か、と滝夜叉は身体を強張らせる。が、月を覆っていた雲が切れて、その人物の顔を照らした瞬間、彼女の時が止まった。
「みや、さま……」
 それは、滝夜叉がずっと焦がれていた男の顔。彼は迷わずに滝夜叉の局の前まで歩み寄ると、普段の仕草に似合わぬ丁寧な仕草で簀の子に何かを載せた。それが無造作にちぎった花であることに気づいた滝夜叉は、全てが頭のなかで繋がる。
 ――いつも己の局の前に置いてある花。無造作にちぎられたそれは、なぜか己の心に引っかかった。その理由は、見覚えがあったからだ。まだ小平太と主従であったころに、よく山菜を小平太が取ってきてくれた。その山菜のちぎりかたと全く同じなのだ。見覚えがあるはずである。
「み……あっ!」
 思わず声をかけようとした滝夜叉であるが、彼女が言葉を紡ぐよりも早く小平太は踵を返して駆けだしてしまう。慌てて簀の子に出ようと妻戸へと向かう。けれど、滝夜叉が外に出るころには、もはや小平太の姿は影も形もなかった。――残されたのは、無残とも言えるほど不格好に摘まれた花が一輪。滝夜叉はそれを拾い上げると、まだ瑞々しいその花弁にそっと口づけた。
「……通ってくださっていたのですね」
 ぱらぱらと、滝夜叉の頬へ涙が伝う。――逢いたい、と素直に思った。平気な振りをしていても、恋しい気持ちは止まらない。幾度振り捨てたと思っても、既に胸へ根付いた花をむしり取るのは不可能だった。
「けれど、今更どうしてそんなこと申し上げられましょうか」
 溢れる涙を拭うことなく、滝夜叉は不格好な一輪の花を押し抱いた。もう何十輪にもなった小さな花たち。毎晩一輪ずつ置いていく小平太は、一体何を思っているのだろう。それでもその気持ちが嬉しく、滝夜叉はその場にずっと佇んで月を見ていた。







「――長いな、それ」
「ああ、もうすぐ百になる」
 滝夜叉の局の前へ置かれつづける花を見て、三木が小さく呟いた。それに滝夜叉が頷きながら、大切そうにそれを拾い上げる。宝物のようにそれを押し抱く様を見て、三木は小さく溜息をついた。
「数、覚えているのか」
「何となく数えはじめただけだったんだが、な」
「あといくつで百なんだ?」
 滝夜叉はそれに切なそうに笑って、小さく囁く。それは吐息に近く、三木は風に紛れそうになったそれを捉えるのに苦労した。
「――あと、一輪だ」
 それが何を意味するのか、三木は知らない。滝夜叉もまた同じだろう。けれど、予感がした。今宵、何かが変わる予感が。けれど、その物思いを断ち切って、彼女は敢えて大きな声を上げた。
「ああ、寒い! とにかく局に戻ろう、滝夜叉。もう霜も降りているんだぞ、いつまでもこんな寒いところにいたら風邪を引いてしまう」
「そう、だな」
 尼寺の普請には時間がかかっており、いつの間にか季節は冬になっていた。庭から見える光景も随分と寒々しくなっている。紅葉はどれも枝を離れ、灰色めいた空が重苦しく垂れこめていた。この調子だと、今宵は天気が崩れそうだ。場合によっては激しい雪になるかもしれない。とくにこの邸は山の麓に建っているため、一度雪が降ると吹雪になるのだという。そうなれば厄介だ、と三木は小さく息をついて、まだ花を大切そうに見つめている滝夜叉を無理矢理局へと引き戻した。
「……吹雪にならないと良いが」
 小さく呟いた三木の声は、凍てつくような空気に吸い込まれるように消えていった。



「……まだ、来ないか」
 がたがた、と格子が鳴るほどに激しい風と、暗闇を舞う白い飛礫。夕方から降り出したそれは弱まるどころか夜半には激しさを増しており、地面を分厚く覆い尽くしている。今や視界も怪しいほどで、滝夜叉はそわそわと格子の外を見やった。既に夜も更けて皆も寝静まっており、こうして起きているのは滝夜叉だけである。けれど、普段ならばそろそろ訪れるはずの小平太がいつまでも姿を現さないことで、滝夜叉は落ち着かない様子で外を眺め続ける。
 月も分厚い雲に覆われ、明かりらしい明かりもない。ただ荒れ狂う白い飛礫だけがいくつも視界に現れては消え、滝夜叉は同じだけ荒れ狂う心を抱えて大きく溜息をついた。
「……まさか、この雪で動けなくなっているとか……」
 小平太ならば大丈夫だろう、と思うけれども、一度胸に巣くった不安は取り除けない。何より、いつまでたっても現れない小平太に堪りかね、滝夜叉は夜着の上に袿と綿入れを羽織り、妻戸から外へと飛び出した。
「寒……っ!」
 刺すような冷たさが滝夜叉の肌に触れる。風と雪が入り込みそうになり、滝夜叉は慌てて前をかき合わせた。突っかけた足駄は雪に埋もれて脱げかけるが、そんなことも構わず滝夜叉は庭の奥へと進んでいった。
「……どちらから……!」
 門を出て周囲を見回す。忍んでくる小平太は、いつも必ずこの方角からやってきては帰っていく。ならば今宵もこちらからだろう、と滝夜叉は吹雪でなぶられる髪を押さえながら目を凝らした。
 雪の飛礫が全身にぶつかり、寒いというよりも痛い。それでも滝夜叉は小平太の無事が確認できるまで、局に戻ろうとは思わなかった。歯の根が噛み合わぬほどの寒さに身動きすらままならなかったが、そんなことも気にならないほどに滝夜叉は小平太を求めた。
「宮様……っ!」
 雪が頭に、身体に降り積もる。それはじんわりと装束に染み込み、尚更滝夜叉の身体を凍えさせた。このままでは彼女自身が凍死しかねない状態であったが、それでも滝夜叉は小平太を捜しつづける。
(――ご無事な姿を一目見られたら、もうほかには何も要らない。どうか宮様をお助けください……!)
 八百万の神に祈りながら、滝夜叉は雪を踏みしめて歩く。足の感覚などもはや失われ、ただ気力だけが彼女を支えていた。けれど、そんな状態でいつまでも歩けるはずもなく、滝夜叉は雪に足を取られて無様に雪へ転がった。身体の力がうまく入らず、立ち上がることすらできない。無情にも己に降り積もる雪に体力をさらに奪われ、滝夜叉は悔しさに唇を噛みしめた。
「こんなことに、なるくらいなら……お話すればよかった」
 夜ごと現れる小平太にかける言葉が見当たらず、いつも現れては消えていくその姿を見つめつづけた。残された花だけが、滝夜叉にとっての唯一の幸せだったのだ。けれど、こんな風に別れることになるのならば、もう一度だけでも、きちんと顔を見て声を聞きたかった。己の愚かしさに情けなくなりながら、滝夜叉は意識が遠のいていくのを感じた。
「滝夜叉! 馬鹿、何してる!」
 しかし、彼女の意識を無理矢理引き留める腕がある。その熱い腕は彼女を雪のなかから引きずり出し、きつくそのなかに閉じ込めた。
「みや、さま……? ごぶじで?」
「馬鹿、無事じゃないのはお前だ! 何でこんなところにいるんだ!」
「みやさまが、いらっしゃらないから……」
 滝夜叉は夢うつつで答える。死ぬ間際の幻覚でも、最期に逢えて嬉しかった。けれど、優しく己を抱きしめるはずの幻影は、滝夜叉の横っ面を思いっきり引っぱたいた。
「いった……っ、ちょ、何するんですか!?」
「よし、起きてるな、良かった……! 話はあとだ、とにかく邸に戻るぞ!」
 じん、と熱を帯びて痛みを伝える頬を押さえた滝夜叉は、己の身体が持ち上がるのを感じて初めてこれが現実なのだと思い至った。小平太と再会した喜びよりも、戸惑いのほうが大きいうちに滝夜叉は邸へと連れ戻される。いつの間に起きだしたのか、待ち構えていた三木や女房たちによってたかって湯へと浸けられた滝夜叉は、何が何だか分からぬうちに再び自分の局へと押し込められていた。
 そこで彼女を待っていたのは、薄明かりに照らされた先には、先程力一杯己の頬を打ちつけてくれた愛しい男。何が何だか分からぬ滝夜叉に、小平太は腹を立てた様子で口を開いた。
「どうしてあんな危険なことをしたんだ! 危うく死ぬところだったんだぞ!?」
「だ、だって、宮様が……!」
「私が何だ!」
「いつもの時間にいらっしゃらないから……!?」
 滝夜叉の反論は途中で途切れる。それは小平太が一瞬呆気にとられた顔をしたあとに、彼女を力一杯抱きしめたからだった。
「みやさま……っ!?」
「この馬鹿……! 雪に埋もれているお前を見て、心臓が止まるかと思ったんだぞ!」
 小平太の腕が震えている。それに彼が本当に怯えていることを知り、滝夜叉は思わず小平太の背中へ手を回していた。きつくきつく、彼の身体を抱きしめる。それに小平太の腕が更に強さを増し、彼女の背骨を軋ませるほどにその身体を強く抱えた。



 しばらく二人で抱き合ったあと、小平太は滝夜叉を抱えたまま腰を下ろした。あぐらを掻いた膝に身体を載せられ、滝夜叉は少し困惑する。けれどこの心地よさを逃したくなくて、彼女はそのまま小平太の胸へと頭を預けた。
「……宮様、どうして……?」
 少しだけ顔を持ち上げ、滝夜叉は多くのことを含めて小平太に尋ねる。それに小平太は滝夜叉の身体を抱えたまま、複雑な表情で頭を掻いた。
「――父上と、賭をしたんだ」
「賭?」
「そう。――お前を手に入れるために、百夜の間、滝夜叉に触れずにここへ通ってみせろと。私ができれば滝夜叉は私のもの、そうでなければお前の意志どおりに尼にすると」
「なっ……そんな賭知りませんよ!?」
「当たり前だろ、言ってないんだから」
 あっさりと言ってのける小平太に、滝夜叉は開いた口が塞がらなかった。本人の与り知らぬところで将来が左右されていたと思うだけでぞっとする。けれど、小平太は驚きに固まる滝夜叉を抱きしめたまま、小さく息をついた。
「今宵で百夜になるから正面から入ったのに、そうしたら局にお前はいないし、よく見ると妻戸も開いているし、庭に転々と足跡がついているのを見たときは焦ったぞ」
「わ、わたくしは宮様が雪で何かあったのではないかと思って……!」
「私が雪なんかでどうにかなるわけないだろう、馬鹿だな滝は」
 心配をあっさりと切り捨てられ、滝夜叉は今度こそ絶句した。何か言ってやりたいのに、触れた部分から伝わる熱でそんな気すらしぼんでいく。今触れられる場所に小平太がいることの幸せに、身体の力が萎えきっていた。これでは駄目だ、と思いながらも、滝夜叉は小平太へ全身を委ねる。そんな彼女の髪を掻き分け、小平太は滝夜叉の頬を持ち上げる。先程打たれた頬は熱と痛みを訴えていたが、それすらも気にならないほど小平太の手のひらが熱かった。
「無事で良かった。――私の北の方になる前に死なれたんじゃ困る」
 滝夜叉は己の耳に届いた言葉に、目を瞬かせた。聞き間違いではなかろうか、と小平太を見つめる滝夜叉を他所に、小平太が局の外へと声をかけた。それと同時に壁代から不機嫌そうな三木が現れ、白い餅を置いて去っていった。
「なに、どういう……?」
 三木の置いていったものは「三日夜の餅」と呼ばれる、婚姻のさいに夫婦で食べるものである。その意味を計りかねて、滝夜叉は小平太を見上げる。それに彼は口の端を上げ、滝夜叉の身体を更に抱き寄せた。
「お前を他の誰にも奪われないためには、きちんとお前が誰のものか形にするのが一番だろう?」
「無茶です、そんな……! わたくしでは余りにも身分が低すぎます!」
「それなら問題ない。右大臣がお前の新しい父になるそうだ。話を持ちかけたら二つ返事で快諾してくれたぞ。何でも、父君と大親友だったそうじゃないか」
「それはそうなんですが、だからと言って……!」
「左大臣家にばかり頼るから、淋しかったそうだ」
「あの方は何を言ってるんだ!」
 堪らずに叫ぶ滝夜叉を他所に、小平太は引き寄せた三日夜餅を無造作に口へ運ぶ。更にもう一個を掴んで滝夜叉の口へと突っ込み、彼女を黙らせた。餅を口から外して更に何かを言おうとする滝夜叉を、今度は己の唇で黙らせる。久々に触れた甘い肌に、小平太は貪るようにその唇を吸った。舌を絡ませ、細い体躯を抱きしめる。
「――誰にも渡したくない」
 唇を離した小平太が、抱きしめた滝夜叉の耳元で低く囁く。それに滝夜叉が身体を震わせると、彼は少しからかうように続けた。
「百日程度じゃ足らないなら、何日でもお前に通いつづけるよ。お前が私を夫と認めるまで何度でも。諦める気はないし、他の男になんてくれてやらない。
 そのためならどんなことだってしてみせるし、お前が嫌がったって離してやらない。私がしわくちゃのクソ爺になったとき、お前が隣で白い頭の婆さんになってなくちゃ嫌だ。私の子を生むのはお前だけだし、お前が孕むのも私の子だけ。そうでしょう、滝?」
 滝夜叉がおそるおそる顔を上げれば、小平太が額に、瞼に、鼻に、頬に、唇に口づけを落とす。その優しさに滝夜叉が涙を溢れさせると、小平太はその涙を唇で拭った。
「こうしてお前が泣くのは私のためだけにしてよ。その代わり、泣くよりもっといっぱい笑わせてみせるから。
 私は考えが足らないから、またお前を傷つけるかも知れないけれど、そうしたらちゃんと言ってくれ。引っぱたいても構わないから。お前が言ったみたいに、たくさんの話をしよう。それで、幸せになろう」
 小平太の言葉に、滝夜叉は泣き笑いの表情を浮かべた。それは普段己の美しさを誇る少女には余りにも不釣り合いの、不器用な笑み。それでも、小平太は今見た笑顔が一番美しいと思った。もう一度滝夜叉の顔に口づけの雨を降らせると、彼女の細い腕が小平太の首に回る。彼の耳元に口を寄せた滝夜叉は、涙混じりの細い声で囁いた。
「――あなたがすきです」
 それは、小平太が初めて滝夜叉を抱いたときに告げられた言葉。それに小平太は滝夜叉の身体を強く抱きしめ、そのまま褥に押し倒した。







「ん……」
 滝夜叉は夜明け前の薄暗がりのなかで小さく唸った。目をこすりながら身体を起こせば、傍らに眠る男の姿が目に入る。気の緩みきったその寝顔に苦笑めいた笑みを浮かべながら、滝夜叉は乱れた髪を掻き上げた。
 もう幾度、このように穏やかな朝を迎えただろうか。夫となった小平太と夜を重ねて紡いだ日々。いつの間にか当たり前となった日常を、滝夜叉は愛しく思う。
「……こら、どこ行くんだ」
「朝食の用意をしなければなりませんので。ほら、放してください」
 褥を抜け出そうとする滝夜叉の腰に腕が絡みつく。甘えるように腰へ頭を押しつける小平太に、滝夜叉はその腕を軽く叩いて離すように告げる。しかし、小平太の腕は滝夜叉を放すまいと更に力を込められ、彼女は呆れたように笑った。
「小平太様、金吾や四郎兵衛たちにも朝食が必要ですから」
「……あいつらなら自分で作れるよ」
「駄目です。――大体、わたくしをそんなに離したくないのなら、女房を雇ったら良いんですよ」
 己が煩わしいという理由で女房を未だに雇わぬ小平太は、滝夜叉の一言に渋々腕を外した。それに滝夜叉は更に苦笑を深くしながら、小平太へと振り返る。
「まあ、あなたのお世話が務まるのなんて、わたくしくらいしかおりませんでしょうけど」
 小平太を宥めるようにその唇に口づけしながら、滝夜叉は小さく囁く。その言葉には小平太から愛されている自信が見え隠れしており、小平太は己の腕のなかへ戻ってきた愛妻に応えるように唇を吸った。けれど、そのままもう一度褥にもつれ込もうとするより早く、滝夜叉は彼の腕から抜けていってしまう。それに不満げな声を上げると、滝夜叉が明るい笑い声を上げた。
「もう駄目ですよ、小平太様。本当に厨へ行かなくては」
「ちえ」
「あなたも今日は出仕がございますでしょう? ちゃんと支度をしてください」
 単衣を着直し、てきぱきと支度をしていく妻の背中を見ながら、小平太はもう一度不満げな溜息をついた。出仕は大切な仕事だが、妻と戯れるのも小平太の大切な仕事なのだ。しかし、しゃんと伸びた小さな背中が彼女の今が充実していることを告げている。それに小平太は仕方ないなと笑って、己もまた大きく伸びをした。――今日と変わらぬ明日が来る幸せを噛みしめながら。



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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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