鈍行


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▼つる



「……ここが、三宮様――いや、土井大学頭(だいがくのかみ)のお邸、か」
 滝夜叉は被きを少しだけ持ち上げて、こじんまりとした邸を見上げた。門構えも邸の大きさも七宮の邸とはそう変わらず、何だか親近感を感じさせる。己の傍らで同じく邸を見上げている二人の子どもを促しながら、滝夜叉は門番へと近付いた。



 普段は邸を出ることがない滝夜叉がこのように外出をしたのは訳がある。
 先だって小平太に御車添えとして使っている(正確にはもっと幅広い仕事もしているのだが)金吾と四郎兵衛の二人に関して、教育を受けさせるべきではないかと談判したところ、小平太の異母兄(あに)であり、今は臣籍に降下して土井と名乗っている三宮半助が二人の教育を受け持ってくれる、ということになったのだ。
 それからあれよあれよと言う間に話がまとまり、本日から二人は京の郊外にある半助の邸へと足を運ぶことになった。しかし、本来二人を連れて行くべき存在である小平太は外出していて不在であり、二人だけで行かせるのも問題であろう、と保護者として滝夜叉がついて行くことにしたのだ。
「良いですか、平大夫(へいのたいふ)。余り長居はせず、明るいうちに人通りの多い道を通ってお戻りなさい。この邸から土井大学頭のお邸まではかなり距離がありますし、もし帰る途中に暗くなりそうな時間までお邸においでなら、そのまま金吾と四郎兵衛の勉強が終わるまで待ってからお戻りになることです」
「しかし、それでは夕飯の支度や宮様のお世話が……」
「それは私と日向と次屋でやっておきますから。良いですか、絶対にそうしてくださいよ」
 門衛の厚着からくどいほどに言い含められつつ、滝夜叉は二人を連れて出発した。被きに杖を持ち、片手は金吾の手を引く。反対側には四郎兵衛が被きの裾を捕まえていて、傍から見ればその様子は仲睦まじい親子のようである。しかし、そんなことには全く気付かぬままに滝夜叉は二人を従えて歩き出した。
 ――そうして、冒頭に戻るのである。



「もし、すみません。――わたくしたちは兵部宮(ひょうぶのみや)が家人でございます。本日より土井大学頭様のお邸にて勉学を学ばせていただくことになっておりまして参上いたしました。どうぞお取り次ぎくださいませ」
 滝夜叉は二人の子どもを傍に置き、静かに口上を述べる。それに人の良さそうな顔をした男がにこりと笑い返し、頷いて門を開いた。
「お聞きしております。どうぞこちらへ。中に取り次ぎの女房がおりますから、その者に案内はお任せください」
「有難うございます。――ああ、申し遅れました。本日よりお世話になる皆本 金吾と時友 四郎兵衛でございます。以後お見知りおきを」
「君たちには先日も会ったね。中にはこの前と同じで北石大尉(きたいしのだいじょう)が居るはずだから、後は彼女に」
 門衛の男――突庵 望太は金吾と四郎兵衛に優しく笑いかけ、二人の背中を押して門を潜らせた。面識があるのか、と滝夜叉が二人を見下ろすと、彼らは揃って嬉しそうに笑った。
「前にこちらの宮様――土井大学頭様にお文を届けに来たことがあるのです」
「その時も突庵さんが大変優しくしてくださいました」
 既に閉じられた門を見やりながら、滝夜叉はそうか、と頷く。あの門衛は子ども好きなのだろう。それだけで何となく主の人柄も見えた気がして、滝夜叉は少し胸を撫で下ろす。しずしずと更に進んでいくと、(きざはし)の上にひとりの女房が立っていた。
「ようこそおいでくださいました。わたくしはこの邸の女房で北石大尉と申します。主の許へご案内いたしますので、どうぞおいでくださいまし」
「お手数をおかけいたします。わたくしは兵部宮が女房、平大夫でございます。こちらが本日よりお世話になります皆本 金吾と時友 四郎兵衛でございます。以後、どうぞ宜しくお願いいたします」
 滝夜叉は次に現れた凛とした顔の女房に先程と同じく頭を下げた。それに彼女は軽く頷き、笑う。
「そのように畏まらないでくださいまし。わたくしと貴方は同じ女房ですし、彼らは皆主の生徒。これから仲良くやってゆきましょう」
「そう仰っていただけると心が晴れますわ。何かと至らぬところがあるやもしれませぬが、どうぞこの二人にもよしなにしてくださいまし」
 歩き姿を一度整え、滝夜叉は導かれるがままに二人を連れて邸の中へと入ってゆく。七宮邸よりも人が多いためだろう、同じくらいの邸もこちらの方が手が行き届いているように見えた。それに内心溜め息を吐きつつ、滝夜叉はひとつの対へと促される。案内のままにその対へと足を踏み入れ、滝夜叉はそこで控えていた若い男に頭を垂れた。
「やあ、よく来ましたね。ま、そう畏まらずに楽にしてください。北石大尉、彼女たちに白湯を」
「畏まりまして」
 北石大尉はするすると退出し、平伏する滝夜叉と金吾、四郎兵衛が残される。それに邸の主――大学頭土井半助は苦笑してもう一度楽にしろ、と告げた。声に促されるままに滝夜叉らが顔を上げると、穏やかな笑みと視線が合う。主の面影がどこにも見えないことに少しだけ驚きながら、滝夜叉は口を開いた。
「この度はこの二人をお引き受けくださいまして、誠に有難うございました。本来ならば我が家で教育すべきところを、このようにお手数をおかけして申し訳ございません。――本日より、どうぞ宜しくお願いいたします」
「まあ、小平太――七宮のところじゃ無理がありましょうよ。それに私は元々人に何かを教えるのが好きみたいなんです。だから、そんなに気にしないでください。金吾と四郎兵衛の他にも、例えば……そうだなあ、私の異母妹(いもうと)の夫である潮江蔵人中将殿の異母弟(おとうと)君である団蔵や、八宮の侍従である庄左ヱ門などもこの邸に通っているんですよ。友だちが居れば勉強も楽しくなるでしょう。――だから、二人も気楽に通ってくると良い」
 しっかりとした口上を述べた滝夜叉に半助は己が異母弟を思い出して苦笑した。これが彼だったらそうはいかないだろう。最近になってようやく女房を持てた、という噂は聞いていたが、あの異母弟にはこれくらいしっかりした女房でなければ逆に駄目なのかもしれない。しかし、当の彼女は別のことに気を取られたらしく、瞬きを繰り返している。
「団蔵もこちらへ……?」
「おや、団蔵をご存じで?」
「あ、ええ、あの……古い友人の弟なものですから。わたくしも幼い頃から彼を見知っております」
「へえ、左三位(ひだりのさんみ)と! あの方もしっかりした方だからなあ。そうか、ではちょうど良い、折角ですから団蔵と会って行ってください。今呼びますから」
 半助は滝夜叉が止めるよりも早く団蔵を呼び、その声に聞き覚えのある明るい声が返る。彼女が二つ瞬きをするより早く、団蔵はばたばたと彼らの許へ現れた。
「こら、団蔵。あんまり足音をばたばたさせて走るんじゃない。――ほら、お前のお知り合いがいらしているぞ」
「ええー? 誰ですか……って、あれ……まさか、滝姉様?」
「団蔵……今のわたくしは平大夫だ。しかし、元気そうで何より。土井大学頭様、お心遣い誠に感謝いたします」
 最後に見た時よりずっとしっかりした顔立ちとなっている団蔵に苦笑を返し、滝夜叉は半助に再び頭を垂れた。それに半助はただ柔らかく笑い、金吾と四郎兵衛を連れて教室にしている別の対へと退出していく。二人きりで積もる話をという心遣いなのだろう、と滝夜叉は頭を垂れたままに彼を見送り、その後に団蔵へと向き直った。
「――随分と大きくなったな、見違えたぞ」
「滝姉様……とと、平大夫様は相変わらずで。最近体調を崩されたとお聞きしましたが、その後お加減はいかがですか?」
「ああ、六宮様――お前の異母兄上(あにうえ)の北のお方が随分と助力してくださったお蔭でな。もしお話をする機会に恵まれたなら、是非団蔵からもお礼を申し上げてくれ」
 くしゃり、と懐かしい頭を撫でれば、団蔵は少しくすぐったそうに笑った。昔からこの少年はこうして頭を撫でてやると嬉しそうにする。それが癖になっているのか、滝夜叉は団蔵と会うと何故か必ず一回以上彼の頭を撫でたものである。団蔵は団蔵で滝夜叉を己の姉とはまた別に慕ってくれているらしく、子どもの時分にはよく幼馴染である綾部 喜八郎、田村 三木、団蔵の四人で野山を駆け巡った。今はもう遠い、懐かしい思い出である。
「でも、滝姉様――あっ、違う、平大夫様が」
「もう良い。団蔵、滝姉様のままで良いから。いちいち訂正される方がうっとうしくなってきた」
「ごめんなさい。――で、滝姉様がもう長いこと七宮様の女房をやってるって聞いて、俺凄く驚いたんですよ」
「ほう? それはどういう意味で、だ?」
「えっと……」
 他愛無い話はいくらでも続く。気付いた時には、外の日が次第に傾き始める頃合いだった。まだ夕暮れには大分早いと言えど、滝夜叉にとっては大きな時間の損失である。しまった、と慌てて暇乞いをし、滝夜叉は半助の邸を飛び出した。――勿論、その頭に厚着の忠告など残っているはずもない。京に戻る頃には空が赤く染まり始めており、滝夜叉は急ぎ足で市へと駆け込む。既に大分人も閑散としており、滝夜叉は思わず溜め息を吐く。当初の予定ではなるべく早く戻って市で買い物をして帰ろうと思っていたのに、これでは買い物をしても金吾たちの戻りと同じくらいになってしまう。仕方なしに買い物は諦め、滝夜叉は帰路を急いだ。
 しかし、急ぎ足に市を抜ける滝夜叉の前を塞ぐ人間が居る。急いでいるのに誰だ、と思いながらその傍をすり抜けようとすると、彼女の腕をその男が取った。
「そこ行くお嬢さん、お急ぎでどちらまで?」
「申し訳ありませんが急いでおりますので」
 急いでいるのが分かっているなら声を掛けるな、と滝夜叉は怒鳴りつけたかったが、人目もあるためにぐっと堪える。手を振り払って家路を急ごうとしたが、男は何故か腕を放さない。元々さほど気の長い方ではない滝夜叉はギリ、と相手を睨み付けたが、男は全く彼女の不機嫌など気にした様子もなく滝夜叉の腕を引いた。
「ちょっと、困ります!」
「まあまあ」
 何とかその場に留まろうと足を踏ん張るものの、男の力には到底敵わずに引きずられていく。このままではどこかに連れ込まれてしまう、と滝夜叉が危惧を感じた瞬間、その身体がふわりと後ろに抱き寄せられた。
「!?」
 今度は何だと振り返れば、そこには見慣れた男の姿。どうしてこの場に居るのかはさっぱりと理解できないが、彼女の主である小平太が彼女の身体を片腕で引き寄せていた。
「み、宮様、どうしてこんな場所に」
「滝が遅いから迎えに来たんじゃない。――で、我が家の女房に何の用だ?」
 明らかに己よりも良い身なりをした小平太に男は気圧されたらしく、滝夜叉の腕を放して不満顔をも露わに逃げ出した。
 滝夜叉はそれに思わず胸を撫で下ろしながら小平太を見上げると、明らかに怒りのこもった視線で見下ろされて身体を竦ませる。何故そんな視線を向けられるのか分からずに目を瞬かせると、小平太は低い声で滝夜叉へ問うた。
「厚着に遅くなるようならひとりで帰るなと言われたんじゃないの?」
「それは……でも、こんなに遅くなるとは思っていなかったんです。予想ではもう少し早く着くはずだったんですが」
「大体、女が独り歩きする方がおかしいんだよ。滝、自覚あるの?」
「は?」
 小平太の言葉に滝夜叉は困惑して目を瞬かせた。その様子に小平太は滝夜叉が全く現状を理解していないことに気付き、溜め息を吐く。先程、男に腕を取られたせいで外れかけた被きをきちんと掛け直してから、小平太は噛んで含めるように滝夜叉へと告げた。
「あのねえ、市ってのは男女の出会いの場でもあるの。つまり、女がひとりで歩くだなんて、襲ってください、誘ってくださいって言ってるようなものだよ? だから、女房は出かける時は大抵複数なんだよ。今だって襲われかけて……滝、お前本当は何にも知らないんじゃないの?」
「そ、そんなことありませんっ! 確かにひとりで歩いたのは軽率かもしれませんが、でも、他の方にご迷惑をおかけするわけにもいきませんし、第一、我が邸にはそもそも複数で出歩けるだけの女房が居ないじゃありませんか! それに……その、わたくしがこれまで暮らしていた土地では、この時間はまだひとりで歩いても平気な時間でしたもので」
 滝夜叉の言葉に先程とは逆に、今度は小平太が目を瞬かせた。小平太は滝夜叉がこれまでどう暮らしてきたかなど全く興味がなかったために、仙子が彼女の話を持って来た時もほとんど話半分に聞いていたのだ。しかし、今この瞬間にちゃんと聞いておけば良かった、と彼は生まれて初めて後悔を覚える。しかし、彼とて普段あれだけしっかりとした――常識も礼儀作法も本人の宣言通り完璧である――滝夜叉が、こういう次元で抜けているとは思ってもいなかったのだ。
「……まあいいや、これはまた後でしっかり話すから。とりあえず、今日は帰ろう」
「え、あ、はい。……あの、宮様」
 小平太は滝夜叉の肩を抱いたまま歩き出した。距離の近さに滝夜叉は少し戸惑っていたようであるが、先程のこともある所為か、離れようとは思わないようで抱えられたままに歩き出す。普段は凛とした表情を少し崩した滝夜叉は、己を守るように抱える小平太の装束を少しだけ引っ張って顔を上げた。
「――その、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「滝、そういう時はさあ、私はこう言うべきだと思う」
「え?」
「――迎えに来てくれて有難う、って」
 次第に赤く染まる周囲に、小平太も染まる。見上げた小平太の顔は逆光でよく見えないが、それでも笑っているのだろうということは触れ合った部分から伝わった。それに滝夜叉は釣られるように少しだけ笑みを向け、彼に向かって口を開く。
「宮様、お迎えに来てくださって、有難うございます」
「うん」
 滝夜叉は抱えられた肩に触れる手の温かさを何だか意識してしまって、それ以上は小平太を見上げることができなかった。ただ、小平太が迎えに来てくれた、という事実が彼女の心を浮き立たせる。何だか己の顔が熱い気がしたが、それは夕日が被きの中へと差し込んでくる所為だと思った。
 ――その感情の名を、彼女はまだ知らなかったので。



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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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