鈍行
▼ただす
「――まさか、三日で元通りになるとは……」
「最近の若者は辛抱が足りませんねえ」
見事に人の居なくなった局で滝夜叉はぽつりと呟いた。六宮――潮江蔵人中将の北の方の推薦で女房を何人か雇い入れたばかりであるのに、既にその全員が暇乞いをしてきたのだ。余りにも早すぎる、と滝夜叉は茫然自失たる思いで居るのだが、三之助は慣れているのか溜め息ひとつで終わらせた。金吾と四郎兵衛もそれは同じのようで、顔を見合わせて溜め息を吐いている。先程「もうこちらではやっていけません!」と泣きながら去って行った女房の剣幕も記憶に新しいらしく、何故か滝の装束の裾を二人して握っている。
「何だ、二人とも」
「……滝様は居なくならないでくださいね?」
「僕たち、滝様が居なくなったら……」
年嵩の四郎兵衛が先に口を開き、金吾は滝が先程の女房のように出ていくことを想像したのか、じわりと涙すら浮かべている。滝夜叉はそれに苦笑して彼らを抱き締め、あやすようにその身体を叩いた。
「大丈夫だ、私はこのお邸にずっと居る。お前たちは何の心配もしなくて良いからな」
「滝様……!」
「滝様、滝様……!」
自分にしがみついてくる少年二人を見下ろしながら、滝夜叉はどこか柔らかい溜め息を吐いた。――彼らは幼い頃からこちらに出仕していると言うし、多分自分に母親を重ねているのだろう。こんなに大きな子どもの親になるにはまだ若すぎるのだが、慕われれば勿論悪い気はしない。甘えられるままに彼らを抱き締めると、背中の方から小さな溜め息が聞こえた。
「あんまり甘やかされると困るんですよねえ……。このちびどもがあんたを慕い過ぎると、宮様が拗ねるんで」
「馬鹿なことを言うな、三之助。宮様だってこの二人に十分慕われている。それに第一、わたくしに宮様が焼きもちを焼くとは思えないんだが」
「それが焼くんですよ」
常に人から愛されている自信がある――そうでなければ、あの傍若無人な態度は取れない――七宮小平太が、自分に嫉妬するなど有り得るのだろうか。滝夜叉は思わず首を傾げた。
確かに自分は常人よりも優れているし、容姿端麗、頭脳明晰と揃っていないものがない。今となっては女房としても完璧で、どこの仕事だってやってみせることができる。けれど、だからと言って小平太に敵うと思っているかと言うと、何となく難しい気持ちになるのだ。負けず劣らず、くらいならば思う。しかしながら、完璧に彼の上に立てるかと問われれば、否と答える以外にない。主云々ではなく、人として何となく負けている気がするのだ。
「……まあ、わたくしは何事にも完璧だからなあ。さて、お前たちもそろそろ仕事に戻れ。わたくしも人が減った分、また働かねばならんからな」
「滝様、あんまりご無理なさらないでくださいね!」
「また倒れたりしちゃったら……」
抱き締めていた子どもたちを放して立ち上がると、未だに裾に縋りついていた二人が一様に彼女に心配の目を向けた。それに彼女は軽く笑い、二人の頭を撫でる。
「大丈夫だ、最近は宮様の夜遊びが落ち着いたからな。どんな心境の変化かは知らないが、遅くなる時も外泊の時もちゃんと言い置いてくださるようにお願いしたら、ちゃんとわたくしに教えてくださるようになったし。お蔭でこっちは随分楽になった」
心配そうに己を見上げる幼子たちの頭をもう一度撫でてから、滝夜叉は歩き出した。人手がなくなった以上、結局やるべきことは全て自分の双肩にかかっているのだ。袿の袖をたすき掛けにして、滝夜叉は山積みとなった仕事を片付けに掛かった。
であるからして、彼女がその事実に気付くのが遅れた。――要するに、仕事が忙しすぎてそういったことまで気を配ることができなかったのである。それとは別に、一応は宮に仕えている人間がまさか、という思い込みもあったのだが。
「……お前たち、読み書きができないのか?」
「あ、その…………ハイ」
「でも、あの、一応絵とかがあれば何書いてあるかは分かるんですよ!」
それは当たり前だ、という言葉を飲み込んで、滝夜叉は深い溜め息を吐いた。三之助はすらすらと何かを書き付けていたのを見たことがあるから、問題はないのだろう。勿論、宮として最上級の教育を受けている小平太も言わずもがな。――しかし、身分の低い下男であるこの二人は、幼い頃からこの邸に仕えているが故に教育される時間もなかったのだろう。多分、この邸の誰もそこまで頭が回っていなかったに違いない。こめかみを押さえた滝夜叉は、しかしすぐに体勢を立て直した。
「……分かった。とりあえず、二人ともここで少し待っていなさい。すぐに戻るから」
滝夜叉は不思議そうに自分を見送る子ども二人を置いて、珍しく行儀が悪くも駆けた。己の局へ取って返し、文机の上に片付けてあった文箱をさらって戻る。再び幼子たちの許へと駆け付けた滝夜叉は、少し肩で息をしながら二人の子どもを彼らの部屋へと追い立てた。
「――ほら、今から見本を作ってやる。これを真似して練習しなさい」
滝夜叉はそう言いながら、文箱を広げてまだ使っていない陸奥紙を一枚取り出した。そこに丁寧にいろはを書き出すと、二人の前へと差し出す。感動の表情で滝夜叉のいろはを見る二人に、彼女はゆっくりと口を開いた。
「これは『いろは歌』と言って、まあ、手習い歌だな。この歌の中にいろは仮名四十七文字が全て含まれているんだ。ほら、よく見てみろ。この歌の中に同じ文字はひとつもないだろう? だから、文字を覚える一番最初に使うのがこの歌になる。
これを、お前たちにやる。反故もいくつかやるから、これで二人でいろはを勉強しなさい。まずはこの歌を空で覚えて、今度は文字を追っていく。音と文字が一致すれば、少なくとも女手は読めるようになるからな。お前たちは男なのだし、読み書きはできた方が絶対に良い。何か分からないことがあったら、わたくしか三之助に聞きなさい。分かったな?」
「滝様……これ、本当に頂いてしまっても良いのですか? だって、陸奥紙なんて、しかも使ってないものなんて、物凄く良いものなのに……」
「二人で一枚だし、見本にするのに反故も嫌だろう? ただし、その一枚しかないのだから、大切に使うんだぞ。――分かったら、筆を出しておいで。書けないと言えど、文箱ぐらいは持っているだろう」
しかし、その言葉にも二人は困った顔を見合わせた。それにはさすがの滝も唖然とし、溜息と共に己の文箱からいくつか筆を見繕って出してやった。
「――私の父が使っていたものだから、お前たちには少し大きいかも知れないが……」
滝夜叉の父が亡くなった時に遺品として文箱に納めていたものである。それを二人にそれぞれ手渡すと、彼らは恐縮しきって彼女を見上げた。それに滝夜叉はもう一度彼らの頭を撫でて笑う。
「わたくしは自分の筆があるから使わないんだ。筆とて文箱にずっと入っているよりも、きちんと使われた方が嬉しいだろう。――大切に使うんだぞ」
「「はいっ!」」
二人は滝夜叉の言葉に大きく返事をし、滝夜叉がいくつか手渡した反故紙に思い思いにいろはを書き付け始める。滝夜叉はそれをしばらく眺めた後、一転して真面目な顔になってその場を離れた。
「――宮様、少し宜しいですか?」
「何だ?」
静かに己を見詰める滝夜叉に、小平太は少しだけ背筋が冷えるのを感じた。何か目が据わっている。それに気付いて小平太は慌てて姿勢を正した。
「四郎兵衛と金吾についてなのですが」
滝夜叉から発せられる空気が重く感じる。小平太は彼ら二人に何か理不尽なことを強いたかと己が身を振りかえるが、全く身に覚えがない。困って彼女の顔をちらりと見遣ると、滝夜叉はじとりと小平太を睨み付けていた。
「……あの二人が、読み書きができないということをご存じで?」
「え? 嘘、そうなの?」
「宮様……貴方はあの二人が本当に幼い時からこちらに雇っていらっしゃるんですよね? 当然、礼儀作法も全て宮様がお教えになったものだと思っておりましたが」
次第に笑顔を見せ始める滝夜叉に、小平太は思わず冷汗が背中を伝うのを感じた。自分が言ったことだから当然なのだが、最近は本当に彼女も遠慮がなくなって来ている。こちらの方が立場は強いはずなのに、どうしてこうも蛇に睨まれた蛙のような心地がするのだろうか。
「……まあ、宮様もお忙しくていらしたんでしょうし、三之助がそんなことに気付くわけもなく。厚着と日向は多分あの二人がどんな教育を受けているのかすら知らないでしょうから、仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが……。
とりあえず、差し出たことかと思いましたけれど、あの二人にいろはで手習いを始めさせました。女手も読めないようでは、この先男子としてやってはいけませんでしょう。庶民ならともかく、あの子たちは宮様の従者なのですから貴人と接する機会も多い。あの子たちに恥をかかせるわけにはまいりませんから」
「おお、さすがは滝」
「ですが、問題はその後です。やはり、できるならば男手も習わせてやりたいのですが……わたくしも一応、基本的に習う漢籍などは一通り修めましたけれども、漢籍ともなればつきっきりで教えてやらなければなりませんでしょう? さすがにわたくしも、ましてや宮様もそんな時間はございませんから、いかがしたものかと」
小平太は頬に手を当てて考え込む滝夜叉の言葉に、驚きで目を見張った。彼女は考え事をしていてその表情には気付かないが、小平太が滝夜叉を見る目が少し変化する。まるで試すような調子で、小平太はするりと口を開いた。
「――豈あに衣七つ無しと曰いわんや
子の衣の
安く且つ吉よきに如かず」
小平太に続きを視線で促され、滝夜叉は状況が分からぬままに口を開く。
「豈衣六つ無しと曰わんや
子の衣の
安く且つ燠あたたかきに如かず」
「この詩からうたの題を答えよ」
「詩経の無衣ぶい、でございます」
この時点で滝夜叉は己が試されていることに気付き、少しだけ腹を立てながら答えた。それに小平太は気付いたのだろう、くつくつと悪びれもせずに笑う。
「良くできました。――いやあ、女子の詩ではいかほどのものかと思ったんだけど、詩経も読んでるなら充分だ」
「宮様、今はわたくしの教養を問題にしているのではございません。金吾と四郎兵衛の話をしているのですが」
教養を疑われたことも腹立たしく、滝夜叉は常より幾分低い声で小平太に返した。さすがに小平太も彼女の機嫌が急降下したことに気付いたのか、再び居住いを正して滝夜叉へと向き直る。滝夜叉は主のその様子を眺めながら、もう一度論点を元に戻した。
「――金吾と四郎兵衛は男子なのですから、教養はないよりある方が良いに決まっています。できればあの二人に読み書き以外のことも覚えさせてやりたいのですが、何か良いお考えはございませんか?」
既にこの時点で一女房の権限は軽く飛び越えているのだが、二人とも不思議とそれには気付かない。お互いに顔を突き合わせてうんうんと唸るばかりである。しかし、小平太が突然手を打ち合わせて立ち上がった。
「先生が居るじゃん!」
「せ、先生……ですか?」
「うん、私の異母兄あにの三宮。滝は知らないかな、臣籍降下した土井 半助殿を」
「ええと……確か今、大学頭だいがくのかみでいらっしゃる?」
滝夜叉は頭に詰め込んだ公達らの情報をひっくり返して答える。それに小平太は大きく頷く。
「先生はご生母の身分が低くていらしたから、要らぬ争いの種にならぬよう、と一宮がまだお若い頃にご自分から臣籍にお降りになった方なんだ。でも、物凄く頭も良くて、私も長次――五宮も六宮も先生に色々教わったんだ。今はもう都の中央を離れて山の近くにおひとりでお住まいのはずだけど、確か子どもを集めてやっぱり先生をしているらしい」
「しかし、そんな身分のお高い方が、金吾や四郎兵衛の勉強を見てくださるのですか?」
この時代、身分というものは強固に互いを縛っている。この邸では比較的緩いものであるが、家によっては身分の低いものは貴人に対して口も利けない。もし三宮がそういう考えの持ち主であれば、門前払いを食らうか、七宮の推しで何とか教わったとしてもいじめられるのではないかと滝夜叉は危惧していた。しかし、対する小平太は全く気にしない様子で笑っている。
「大丈夫、大丈夫。先生は子ども大好きだし。そういや、最近親なしの子どもをひとり拾ったって言ってたっけ」
「親なしの子どもを拾うって……地下人の子どもを、ですか?」
「うん。何でも市で銭を掏すられかけたところを捕まえて、色々あった後に、これも縁だろうと拾ったそうだよ」
その話を聞いた時点で、滝夜叉は何となく彼と件くだんの三宮に血縁を感じた。――この少し何かを超越しているところは、間違いなくこの人と血が繋がっている。思わずがくり、と手をついた滝夜叉に小平太は不思議そうな顔で彼女を見遣った。
「どうしたんだ、滝?」
「いえ、大丈夫です。……しかし、突然その方にお願いをしても、差し支えはございませんのでしょうか? それに、金吾と四郎兵衛は宮様のお伴もございますし」
「まあ、その辺は何とかするから。とりあえず、先生に連絡取ってみる」
「では、宜しくお願いいたします」
滝夜叉は最終的に何とかまとまった話に胸を撫で下ろしつつ、小平太に頭を垂れた。そのまま仕事に戻ろうと退出していく滝夜叉の背中に、小平太は声を掛けた。
「滝」
「はい、何か?」
「金吾と四郎兵衛のこと、気付いてくれて有難うな」
「……わたくしは優秀な女房ですから」
小平太の言葉に滝夜叉はゆったりと笑った。その笑みにはこの邸を自分が回しているという自負が感じられ、小平太はその頼もしさに笑う。
今まで、この邸で小平太とこのように話をする人間は居なかった。三之助も金吾も四郎兵衛も自分が半分育てたようなものであるし、食満は臣下の線を逸脱することはない。滝夜叉だけが彼の目の前に飛び込んできて、真っ直ぐに視線を投げる。その強い視線が小平太には面白かった。
そんな視線を己に向けるのは、兄弟姉妹か父である主上おかみくらいのものである。けれど、滝夜叉は自分より幾分も身分の低い立場でありながら、まるでそんなこと関係ないかのように己を射抜いてくるのだ。本人にその自覚はないのだろうが(事実、振る舞いに関してはきちんと躾を受けたことがきちんと分かる)、その瞳はまるで真実を見抜こうとするかのように相手へと向けられる。滝夜叉が主から煙たがられた原因はその性格だけでなく、この瞳もあるのだろうと小平太は思った。
「ま、どうでも良いか。――それよりも先生に文を出さなきゃなあ」
小平太は物思いを一瞬にして断ち切り、己の文箱を取り出した。大して紙を吟味することもなく、手近にあった紙にさらさらと近況と依頼を書き付ける。さて、それを出そうと立ち上がり、小平太は少しだけ首を傾げた。
(――ま、良いか)
道順を知っている方が良いだろう、と思い直し、小平太は金吾と四郎兵衛を呼び出す。二人にその文を託すと、彼は相変わらずの勤勉さで駆けてゆく二人の子どもの背中を見送り、一仕事終わったと大きく息を吐いた。
BACK << ▲LIST >> NEXT
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒