鈍行


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「ごめん!」
 朝日の眩しさで目を覚ました滝夜叉が真っ先に視界へ入れたものは、自分の手を握りながらも頭を垂れる主――七宮小平太の姿だった。状況も上手く把握できず、目を瞬かせて彼の頭を見る滝夜叉に、小平太は言葉を挟む暇さえ与えず続ける。
「これからは夜歩きも考える、金吾と四郎兵衛たちにも無理させない! だから許してください!」
「え……あの?」
 何故自分の局に主が控えているのか、それ以前にどうして自分が寝ていたのかすらも思い出せない滝夜叉は、何度か瞬きを繰り返す間に昨日起こった出来事を思い出した。金吾と四郎兵衛が倒れたこと、自分が主に諫言するために突撃したこと。――しかし、その後の記憶が途切れていて、滝夜叉は思わず眉間にしわを寄せた。そう言えば、自分は眩暈を起こして倒れたのだったか。そこまで思い出して、滝は自分が主に抱きかかえられたことやその後の記憶がぷっつり切れていることに気付き、見事に血の気を引かせた。
(わ、わたくしはもしかして……宮様に抱えられたまま、寝てしまったのか……!?)
 人はそれを失神と呼ぶのだが、彼女はそう考えなかった。逆に慌てて頭を垂れて、同じく小平太へと平伏する。自分が夜着であることにも気付かず、彼女は上掛けを跳ね飛ばして姿勢を正した。
「大変ご無礼をいたしまして申しわけありません! み、宮様のお手を煩わせるなんて、女房失格です……!」
「いや、滝は悪くないから。うん、私が悪い。――具合悪かったのに、気付かなくって悪かったな」
 主従で頭を下げ合うなど滑稽な光景でしかないのだが、今の二人はそれに気付かない。けれど、「具合が悪い」という言葉で彼女は自分より先に倒れた子ども二人のことを思い出し、慌てて小平太の腕へ手を掛けて身を乗り出した。
「宮様! そんなことより、金吾と四郎兵衛は大丈夫なのですか!? 今は一体誰が傍に付いているのでしょう?」
「ああ、それなら三之助と――」
「三之助!? あの大雑把に病人の看病なんて繊細な行為ができるわけないじゃないですか! わたくしが参ります!」
 滝夜叉は小平太の言葉を遮って叫んだ。滝夜叉の知っている三之助という男は、感覚だけでなく情緒も大概方向知らずだった。何でも「大体」で済ませる男だと身を以て知っている――逆にそういう感性でなければ、方向感覚もあそこまでひどくなるはずがない、と彼女は思っている――ため、滝夜叉は慌てて立ち上がろうとする。けれど、身体がまだ本調子ではないため、足に力が入らずに身体が見事に傾いだ。
「あぶね!」
「あっ……!」
 小平太へ身を乗り出していたため、滝夜叉は見事に彼の胸へと転がり込む。それを危なげなく受け止めた小平太は、呆れたように滝夜叉を(しとね)へと押し戻した。弾き飛ばした上掛けを掛け直してやりながら、少しだけ怖い顔を作って今にも駆け出しそうな滝夜叉を睨み付ける。
「駄目だ、滝。お前だって本調子じゃないんだし、まだ寝てなきゃ。
 大丈夫だよ、仙ちゃん――六宮にお願いして人を回してもらったから。ほら、来た」
 何とか起き上がろうともがく滝夜叉を抑え付けながら、小平太は軽い衣擦れの音を立てながらやって来た女房に視線を上げた。彼女もつられるように小平太の視線を追って、()の子の方へと視線を動かす。こちらへと向かってきた女房は二人の体勢を見て固まり、次いで持っていた桶を小平太に投げ付けた。
「おおお!?」
「ちょっと、いくら貴方が宮様でも、病人に手出しするなんて許しませんよっ! 大体、この子をここまで追い込んだのは貴方でしょう! いい加減にしてくださいよ、この色情魔! 色も過ぎれば雅でなく野蛮です! ふざけたことをなさるようなら、潮江のお方様に言い付けますよっ!」
 桶に張った水を勢い良く被った挙句に桶まで当たった小平太は、更に己へまくしたてる女房に沈黙した。正確には下に居た滝夜叉を水や桶から守るので精一杯であり、矢継ぎ早にまくし立てられた言葉に口を挟む隙がなかったのであるが。
 呆然とする小平太と滝夜叉を余所に、桶を飛ばした女房は小平太の下に居る滝夜叉を引っこ抜いてその胸に抱き締めた。その様子はまさしく子どもを守ろうとする母親のような様子で、滝夜叉は水浸しになって沈黙する小平太と勘違いではあるものの自分を守ろうとしてくれている女房をおろおろと交互に見遣った。そこに騒ぎを聞きつけたのか、ひとりの男が現れる。彼は水浸しの小平太と滝夜叉を抱き締める女房を眺め、溜息と共に口を開いた。
「……何をやってんだ、また不運か?」
「あっ、殿! 違うんだよ! 七宮様が倒れた女房殿に不埒な真似を……!」
「……あの、されておりませんから……」
 小平太は珍しく驚いたのか何なのか、沈黙を守っている。故に滝夜叉は自ら口火を切って、彼女の暴走を止めるしかなかった。
 その言葉に女房――いさの方は目を瞬かせる。大きな瞳で己を見下ろす彼女に対し、滝夜叉は気まずい様子でもう一度首を横に振り、彼女の勘違いであることを告げた。



「……本当に申し訳ございませんでした……!」
「我が妻がご無礼をいたしまして、申し訳ございませんでした」
 勘違いが解けた後、いさの方と彼女の夫である食満 留三郎は揃って小平太へ額ずいた。小平太はと言えば、固まったいさの方が持っていた手拭いで滝夜叉に濡れた髪や顔を拭われており、病み上がりの身体で慌てて滝夜叉が取り出してきた新しい衣裳に着替えた姿で胡坐を掻いている。夜着の上からかろうじて(うちき)だけ引っ掛けた滝夜叉は、裸同然の格好に恥ずかしさを隠せないようでさり気なく小平太の後ろに回って人目を避けていた。それに気付いた小平太が、滝夜叉の手から手拭いを取って己へ平伏するいさの方へと声を掛ける。
「謝るのは後で良いからさ、滝の方を診てやってよ。ほら滝、几帳動かすからどいて」
「え、あ、いえ、あの、そんな宮様のお手を煩わせるようなことは……」
「良いから。ほら、邪魔」
 小平太の言葉に慌てて自分で動こうとする滝夜叉を遮り、小平太は邪魔にならぬよう壁際に寄せられていた几帳を中央へと据える。それに滝夜叉が恐縮しきって己に頭を垂れたが、小平太はその身体を子どもにするように脇を抱えて几帳の中へと放り込んだ。真っ赤な顔で困惑した表情を見せる滝夜叉を余所に、自分は几帳の外へ出ることで小平太はいさの方を呼び寄せる。体調の悪さも相まって状況へ対応しきれない滝夜叉を置いて、小平太は邪魔にならないように食満を連れて滝夜叉の局を退出した。







「……これからどうするおつもりなんです? この邸をあの女房ひとりで回すのは荷が重いでしょう。誰か回してもらうのですか?」
「あんまり気が進まないんだけどなあ……まあ、でも……でもなあ」
 本来ならば邸に女房がひとりしか居ないという方がおかしいのだが、そのひとりの女房が倒れてもなお小平太は新しい女房を受け入れることにためらいを見せている。その様子に食満はただ溜め息を吐き、同時に小平太のためらいも分からないでもないと思った。
 小平太の相談役として彼がひとり立ちした頃から傍に居る食満は、彼の邸に一月どころか一週間もひとりの女房が勤められたことがないことを知っている。それは勿論彼が女房――それどころか家に勤める全ての人間に対して――に突き付ける条件のひどさが原因なのだが、それ以上に小平太が傍に居る人間を鋭い基準で選り分けていることにも気付いていた。
 七宮小平太という存在は、実はとても厄介で扱いにくいのである。
 普段は人懐っこく明るい性格の彼であるが、一度その心の奥底へ踏み込もうとすれば全力で拒絶されることを食満は知っている。彼は小平太の境界線を踏み抜くような愚行は起こさなかったが、小平太の気安さからそれを行い、全力で彼に排除された人間を何人も見てきた。男も女も小平太には関係がない。己を不快にするような人間は全て彼の傍から消し去られるだけである。
 そうやって排除され続けて、残った人間はわずか数名。小平太に幼い頃から仕えている三之助と、ひとり立ちした後に彼に育てられるも同然で雇い入れられた金吾と四郎兵衛、更に門衛として与えられた厚着と日向の五名である。女房も居ないと困るので初めは補充をしていたようだが、最終的に小平太のお眼鏡に適った人間は誰ひとりとして居なかった。――二月前に雇い入れられた、滝夜叉以外には。
 女房勤めの経験が余りなかったことが功を奏したのだろう、彼女はほぼ真っ白な状態からこの屋敷に入ったが故にこの家の流儀に他の流儀を持ち込まなかった。更に持ち前の頭の良さで小平太の望むものを常に差し出し続け、小平太の領域に踏み込むことがない。もっとも、踏み込む余裕もないほど仕事が忙しかったということもあるのだろうが。
 食満は滝夜叉がどういう氏素性の人間なのかは知らない。けれど、小平太と彼女はひどく相性が良かったのだろう、と思う。だからこそ、小平太はこの空間を壊したくないのだ。滝夜叉の負担を考えてもう数人女房を迎え入れれば、今のような空気が壊れてしまうかもしれない。人を振り回しておいて他人に振り回されるのは嫌だ、というのは我儘の極みだと思うが、小平太にはそのような子どもっぽいところがある。そして、それを保てるだけの力と財力が備わっているのだ。
「結局は、どちらを取るかでしょう。――貴方が以前のように遊びを控えて邸を見るようにするか、人を増やして楽しみを優先するか」
「それはもう決めてる。遊ぶの止める。まあ、家に居てもあいつらが居れば退屈はしないし、女の所も通うと面倒が多いから」
 自分の使っている対へと足を踏み入れながら、小平太はあっさりと食満に告げた。食満は小平太がどれだけ遊び歩いていたかを知っているが故に、余りにも簡単にその答えを口にしたことに目を見張った。それに小平太はくつりと笑い、食満を振り返る。
「昨日から考えていたんだ。ま、滝をあんなにしておいて、自分だけ遊んでいるわけにもいかないだろ。元々私の家のことだしね」
「貴方がそんな風に仰るとは思っていませんでしたよ」
「ひどいな、これでも色々考えてはいるんだぞ?」
「普段からもっとお考えいただけると、私も楽なんですが」
 小平太の傍に常に控えるのは三之助だが、相談役として彼の行動を監視したり制御したりするのは食満の役目なのだ。彼の行動に常に振り回されている身であれば、思わず愚痴が零れるのも仕方がないだろう。そんな食満を小平太は笑い飛ばし、己の部屋の隅で少し蓋がずれた葛籠(つづら)へと近付いた。先程の騒ぎで滝夜叉が小平太の着替えを取った時に、慌てていたからちゃんと蓋を閉め忘れたのだろう。小平太は人前であるにも関わらず、袿一枚で駆け出した少女を思い出して口元を緩める。
「だって、あの娘には負けたからね。普段は見栄っ張りで自慢しいで弱みなんて絶対見せない癖にさあ、いざとなれば格好なんて関係なしにお役目大事で動くんだもの。それであの娘を無下にしたら、私は皆から怒られてしまうよ」
 皆滝の方が好きなんだもの、と少しだけ拗ねたように呟く小平太に、食満は目を瞬かせた。小平太が浮かべる表情は優しく、まるで妹でも慈しむかのようだ。普段は人を振り回してばかりの小平太にも、こうして目下を可愛がる心があったのかと食満は失礼なことを考えた。
「じゃあ、あの娘を大切にしてやることですね」
「そうだなあ、大事にしないとなあ」
 その調子が何だかひどく長閑に聞こえ、食満は滝夜叉の存在が小平太に良い影響を与えるかもしれない、と思う。――今までふらふらと腰が落ち着かなかった小平太が、人のことを考えて己の行動を抑制しようと考えている。これが良い方向へ向けば、彼女の存在が小平太の腰を落ち着けるかもしれない。一度重心が定まれば、今度は家族を持つことも考えるようになるかもしれない、と食満は想像する。
 これまで人妻や未亡人にばかり通っている――それも、決まった恋人としてではなく遊びとして、だ――小平太であるが、重心が定まりさえすれば、本当は愛情深い性質の持ち主である、当然ながら決まった対象に愛情を注ぐこともできるようになるだろう。
 まるで小平太の父親のような心配をしながら、食満はいつか来て欲しい将来を想像して小さく息を吐いた。







「調子はどうですか? 気持ち悪いとか、だるいとかございませんか?」
「あの……貴方は?」
 小平太が退出した後に残された滝夜叉は、自分の顔を捉えて持ち上げるいさの方に戸惑いを隠さずに尋ねた。先程小平太へと行った暴挙も相まって、少々怯えすら見える。それにいさの方はくすりと笑って、小平太に命じられた通りに彼女の衣裳を用意した。
「申し遅れました。わたくし、六宮様――いえ、蔵人中将様の北の方にお仕えしております善大副(ぜんのたゆう)と申します。医学の心得が少しございまして、これからしばらく女房殿のお世話をさせていただきます。以後、宜しくお見知りおきを」
「まあ、それは……。名乗りもせずに失礼をいたしました。わたくし、この邸に勤めております平 滝夜叉――いえ、平大夫(へいのたいふ)と申します。この度はご迷惑をおかけして申し訳ございません。わたくしは大したことございませんので、どうかお気遣いなきよう」
 お互いに深く頭を垂れ合い、彼女たちは挨拶を交わす。しかし、まだ病み上がりの青い顔をしている滝夜叉を(おもんばか)って、いさの方が彼女に少し横になるように告げた。
「ですが、わたくしばかり休ませていただくなど」
「貴方はご病気なのですから当然ですわ。疲れも立派な病気です、こじらせれば大変なことになります。さ、お休みになってください。大丈夫、この家のことは我が主が呼び出した人間が全て請け負っております。あの従者殿お二人も心配は要りませんよ」
「そうだ! 金吾と四郎兵衛の様子はどうなっているのですか!? 熱は下がったのでしょうか……!」
 いさの方の言葉に滝夜叉は金吾と四郎兵衛の存在を思い出し、慌てて立ち上がりかけた。が、やはり先程と同じく眩暈でうずくまってしまい、いさの方に褥へ戻される結果となる。先程も同じことをしたな、と頭の隅で冷静に考えながら、滝夜叉はさすがに大人しく横になる。その枕元に衣裳を整えてくれたいさの方を見上げながら、滝夜叉は深い溜め息を吐いた。
「大丈夫、あの二人は順調に回復していますよ。さすがに子どもですね、治るのも早い。貴方が倒れたと聞いて、とても心配していましたよ。だから、貴方も今は養生して、早く良くなりましょうね」
「……お恥ずかしい限りです。宮様にも、蔵人中将様の北のお方にも、善大副様にもご迷惑をおかけしてしまいました」
「あんな状況では体調を崩して当り前です、貴方はよく頑張られましたよ。むしろ、二月もこの状態でよくお働きになりましたとも!」
 力強く言われ、滝夜叉は困惑した表情を浮かべた。確かに自分の仕事は大変だと思っているが、他者にこうも力強く肯定されると何だか気恥ずかしい気持ちになる。しかも、結局己がきちんとしていない所為でこうして周囲に迷惑を掛けているのだから、尚更。
「しばらくは我々がこの邸にお邪魔させていただきますので、仕事のことはご心配なさらずにどうぞごゆっくりお休みくださいませ。これは七宮様のご意向でもございますから、平大夫様はただお身体を治すことを第一に考えてくださいませ」
「……ご厚意に感謝いたします」
 丁寧に言われてしまえば、滝夜叉としても我を通すことは難しい。元より身体が参っていたこともあり、滝夜叉は有り難く彼女の――そして主の――厚意を受け入れることにしたのだった。



「……しかし、眠れんな」
 子の刻もとうに過ぎた夜更けに、滝夜叉はひとり呟いた。身体は疲れているはずなのに、どうしてか眼が冴えて眠れない。邸のあちこちに人の気配があるせいだろうか、と頭の隅で考えながら、滝夜叉は寝返りを打った。今日は月が明るく、御簾越しに月光が差し込んでくる。これも眠れない原因だろうかと思いながら、滝夜叉は起き上がった。傍に置いてあった袿を羽織り、暗闇に几帳を探す。光を遮れば少しは眠れるかもしれない、という気持ちから、滝夜叉は几帳に手を掛けた。
「あれ、寝てなきゃ駄目じゃん」
「宮様……!?」
 しかし、さあ几帳を動かそうというところで声が掛かる。うっかり几帳を倒し掛け、小平太と二人で慌てて几帳を抑える羽目になった。
「ど、どうして宮様がこちらへ? もうお休みの時間でしょう」
「うん、そうなんだけど。寝る前に一回滝の様子見てから、と思って。そしたら起きてるんだもん、びっくりした」
「わたくしの方が驚きました」
 几帳を両側から押さえながら、何とも間抜けな会話が続く。月明かりに照らされた滝夜叉の顔は青く、小平太はそれに思わず手を伸ばした。
「――少しは顔色良くなったのかな。頬は温かくなったけど」
「み、宮様……!」
「几帳どうするつもりだったの? どかすの?」
 小平太に頬を撫でられ、滝夜叉は思わず後退りした。そう言えば、寝起きで化粧もしていない。しかも、夜着に袿が一枚と先程と同じく裸同然の姿だ。思わず袿の前を掻き合わせた滝夜叉に、小平太はそんなことを一向に気にした様子もなく声を掛けた。
「あ、いえ、あの、月明かりが眩しかったので、遮ろうかと……」
「そうか」
 それでも尋ねられたことに律儀に答え、滝夜叉は困ったように周囲を見回した。誰か通りがかってくれないものか、と思うものの、世の中そう上手くは運ばない。主に見苦しい姿を見せている、という事実に滝夜叉は堪らない気持ちになって、小平太が早く退出してくれることを願ってみる。が、小平太にその気は全くないようで、褥を月光から遮るように几帳を移動させると、彼は滝夜叉の褥の傍らに腰を下ろした。
「滝、早く寝ろ。私がついててやる」
「いえ、あの、宮様……大変有り難いお話なのですが、宮様の前で休むわけにはまいりませんから」
「良いから寝る。――じゃなきゃ、無理矢理寝かしつけるぞ」
 滝夜叉は山と反論したいことがあったが、結局は何も言わずに褥へと座り込んだ。上掛けを下半身に掛けたものの、どうしても横になることができずにちらりと小平太を見遣る。困惑した滝夜叉の様子に小平太は溜め息を吐き、とんと彼女の肩を押して褥へと押し倒した。驚いて起き上がろうとする滝夜叉の身体に上掛けを被せ、子どもにするようにその上から軽く叩く。その実、上から覗き込むように身を乗り出しているため、滝夜叉は起き上がることすら叶わずに溜め息を吐いた。
「もう休みますから、宮様ももうお休みくださいませ。明日は出仕の日でございましょう」
「うん。でも、滝に話したいことがあって来た」
「話したいこと、ですか?」
「うん。――なあ、滝。私はさ、人からも常識知らずだとよく言われる。だから、滝のこと振り回してしまう。滝以外にも、だけどさ」
 小平太の言葉に滝夜叉はどう反応して良いか分からなかった。自覚があるのかないのかもよく分からない。その言葉の意味を捉え兼ねて、滝夜叉は困惑したように小平太を見上げる。月明かりに青白く照らされた小平太は普段より真剣な顔に見えて、滝夜叉はどうして良いか分からなくなった。
「だから、私が何かおかしいことをしたら、今日みたいに怒ってかまわないんだからな」
「え?」
「今日、って言うか、もう昨日に近いけれど、あんな風に私に怒って構わない。むしろ、言ってもらわなきゃ私は分からないから。滝が遠慮して我慢して、こんな風に体調崩される方が余程嫌だし。――だから、遠慮なんてしないで良いんだからな」
 滝夜叉は小平太の言葉に今度こそ露骨に困惑した表情を浮かべた。けれど、彼が自分を案じてくれているのは分かる。どう反応したら良いものか、と滝夜叉は考え考えしながら口を開いた。
「……無茶を仰る。わたくしが貴方に気安いお言葉を掛けられるような立場にないことは、貴方が一番よく分かっていらっしゃるでしょうに」
「立場なんて関係ない。だって、滝だってもう立派に我が家の一員なんだから。――むしろ、私よりあいつらに好かれてるぞ。
 金吾も四郎兵衛も三之助も、滝が倒れた瞬間にすぐさま私のこと責めたし。一応私は主なのに、私の心配なんて誰ひとりしてくれなくて、滝が辞めたら私の所為だと……」
 それはそうだろう、と滝夜叉丸も思ったが、それを舌に乗せることはやめておいた。追い打ちを掛けるべきではないし、他三人の気遣いが嬉しかったからだ。笑えば良いのか困れば良いのか、表情を決めかねる滝夜叉に小平太は続けた。
「辞められたら、私も困るし。――だから、我慢しないでちゃんと言って欲しいんだ」
「……わたくしは辞めたりいたしませんよ。だって、わたくし以外に誰がお邸の全てを取り仕切れると言うのです? この有能なわたくしでなければ、お邸の炊事から掃除まで全てこなすことなど不可能でしょう。……ですから、わたくしは辞めません。辞めたり、いたしません」
 滝夜叉は身体を少しだけ起こして、小平太に告げた。見上げた小平太の顔が少しだけ不安そうに見えて、滝夜叉は思わず微笑む。亡くした父が落ち込んだ時は、よくこうして笑って元気付けたのだ。すると、上掛けから覗いた滝夜叉の細い手を、小平太が握った。
「……うん」
「ええ。だから、宮様はご心配なさらないでくださいませ。すぐに元気になって、いつも通りにいたしますから。それまでは何かとご不便もあるかと思いますが、蔵人中将様のお邸から人がいらしているそうですし、その方々にだけはどうぞ無茶を仰らないようにお願いしますね」
 いつの間にか小言に近い言葉を吐いていて、滝夜叉は少しだけ出過ぎたことを言ったかと小平太を見遣る。しかし、彼は滝夜叉の言葉に嬉しそうに笑って、それから首肯した。それが何だか幼く思えて、滝夜叉は困惑する。けれど、その様子が何だか愛しく思えて、滝夜叉は握られた手を握り返し、もう一度だけ辞めたりしませんよ、と呟いた。
 繋いだ手のひらの温かさが、不思議と眠気を誘う。あれだけ眼が冴えていたのに、今は(まぶた)が重くて仕方がなかった。主の前で眠るなんて、と思いながら、滝夜叉は襲う眠気に勝てずに瞼を落とした。



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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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