鈍行
▼あらぶ
「じゃ、行ってくるから」
「……はい、いってらっしゃいませ」
いつものごとくに元気良く出かけていく小平太を見送って、滝夜叉は溜め息を吐いた。身体のだるさは日を増すごとに重くなり、まともな思考回路すら働かなくなってきている。少し青い顔をしてふらつきながら牛を操る二人の子どもを案じつつも眺め、滝夜叉は深い溜め息を吐いた。
お姫様育ちと言えども生来の頭の良さから要領も良く、仕事が早い滝夜叉であるが、食事の支度から家の管理まで全てを一手に引き受けていては、さしもの彼女も限界だ。既に身体が覚えている仕事は無意識に行っているようだが、ふと気付くと柱に寄りかかって座り込んでいたりする。滝夜叉はさすがに自分の行動に危機感を覚えていたが、それでも仕事を別の人間が代わってくれるわけではない、仕方がなしに悲鳴をあげる身体を無視して再び仕事に戻るのだった。
――身体と心に溜まった疲れは出口を求めて蠢いており、静かに降り積もったそれは噴き出す時を待ち望んでいた。そして、その時は彼女が思っているよりも早く訪れたのである。
小平太の連日連夜の忍び歩きに、まず潰れたのは一番の幼少である金吾だった。
彼は夜歩きの朝に牛車を戻した後、気が緩んだのかぱったりと倒れ、滝夜叉たちの肝を冷やした。更に四郎兵衛も金吾が潰れたことで緊張が切れてしまったのか、発熱してしまう。そして、その二人を慌てて介抱する滝夜叉も、子どもたちの疲れきり、熱で真っ赤に染まった顔を見て何かが切れた。
「…………宮様!」
常にはないほど荒々しい足音を立てて彼女は主の対に訪れ、滝夜叉は怒りで頬に朱を上らせながら主を呼んだ。訪れた主が二人の子どもとは対照的に元気そうな様子も、彼女の怒りを増長させる。小平太の隣で呆れたように何かを言っていたらしい三之助も、突然に現れた滝夜叉の勢いに飲まれて口をつぐんでしまう。しかし、当の滝夜叉はそんな彼の様子にも気付かぬままに勢いのまま口を開いた。
「貴方は、いい加減になさいませ!」
「な、なんだ、何の話だ?」
「自覚すらないのですか!? 貴方はそれでも人の上に立つ人間ですかっ! 毎晩毎晩忍び歩きをして……いえ、貴方が女性の許に通われることに関しては何も申し上げる気はございません。
ですが! 金吾や四郎兵衛のことも考えてください! あの二人はまだ子どもなのですよ!? 毎晩毎晩、日中も仕事は色々とありますのに、夜も休めないのでは倒れるのも当たり前ですっ! 貴方は一体何を考えていらっしゃるのですか!? そこに居る三之助だってまだ子どもに毛の生えたようなものですし、いい加減連日連夜考えなしに連れ回すのはお止めください! 貴方がお忍びになる分には一向に構いませんが、それに付き合わされる人間の身にもなってくださいませ! もし毎日お出かけになりたいのなら、それこそ人をお増やしになれば宜しいかと!」
「……言うなあ」
「ええ、申し上げますとも! わたくしはともかくとしても、子どもにあのような無理を強いるなど間違っています!」
熱に染まった頭の中で、冷えた芯が「こんなことを言ってはいけない」と囁いている。こんなことを言えば、自分は間違いなく解雇されるであろう、と。けれど、その囁きを捩じ伏せるほどに、今の滝夜叉は怒っていた。
自分を慕う小さな子どもたちが素直に可愛いと思う。彼女自身も未だ無自覚だが、滝夜叉は誰かの世話を焼くのが性に合っているようだ。それ故に、己を慕う子どもが辛い思いをしているのに我慢がならなかったのである。
しかし、更に何か言ってやろうと大きく息を吸った瞬間、彼女は眩暈を感じて身体を傾がせた。ふっと一瞬視界が暗転し、気付けば床に膝をついている。咄嗟に手をついたのか、ひんやりとした床の感触が手のひらに感じられた。遠くに何かが聞こえる。それが何だか分かるより早く、滝夜叉は肩を掴まれて顔を覗き込まれていた。
「おい、滝! 大丈夫か!?」
「――え、あ、宮様……? あ、いえ、だいじょうぶ、です」
ようやく戻って来た音と視界に滝夜叉は驚いた。いつの間にか自分は床に座り込み、目の前にはひどく焦った顔の小平太と三之助が居る。思わず目を瞬かせて固まる滝夜叉に、小平太の手が伸びる。血の気が下がって冷え切った頬に、熱いくらいの手のひらが触れた。それはひどく優しい手付きで、滝夜叉は何かを思い出す。しかし、それが何かを捉えるよりも早く、小平太の手は離れていった。
「これが大丈夫な顔色か! ――三之助、一緒に来い」
何が起こったのか、滝夜叉は初め分からなかった。ただ、己の身体が何か温かいものに触れたことだけが理解できた。続いて身体がふわりと宙に持ち上げられた時点で、己に何が起こったのか初めて把握する。抱きかかえられたのだ、と気付いた時には滝夜叉は逞しい小平太の腕に運ばれていた。
「み、宮様!? な、何を……お放しください! 自分で歩けますから……っ!」
「馬鹿言うな、黙ってろ」
大声を出したのが悪かったのか、再び滝夜叉を眩暈が襲う。結局青い顔を小平太の胸に預けることになった滝夜叉は、どうして良いか分からずに口を閉ざすしかなかった。自分が体調を崩したことも情けなかったが、それ以上に諫言をした相手に助けられたという状況が彼女の矜持を刺激する。思わず瞳を閉じると、以前から溜まりに溜まっていた疲れが彼女を捕まえ、滝夜叉はいつの間にか眠りの海へと沈んでいった。
滝夜叉はふ、と覚醒する。
辺りは薄暗く、身体はだるくて苦しい。自分は一体どうしたんだったか、と考えた時に、滝夜叉は自分が褥で横になっていて、己の手が誰かに握られていることに気付いた。
(――ああ、体調を崩してしまったんだな)
母が亡くなってから、彼女は強くなった。昔から余り体調を崩さぬ子どもではあったが、それ以上に最愛の女性を亡くして失意の淵に居る父をこれ以上気落ちさせてはならない、と強く思い、体調管理を徹底したのだ。それでも時折無理をしてしまい、こうして体調を崩すと、心配性の父親は一晩中馬鹿みたいに隣に居て、自分の手を握っていてくれた。不思議と父が死んだという記憶は思い起こされない。ただ、薄暗がりで自分を心配そうに覗き込む父親の影に向かって、滝夜叉はふっと笑みを向けた。
「……ちちうえ、だいじょうぶですから。わたくしは、すぐにげんきになります。しんぱいしないで、おやすみくださいね」
「――うん」
それは父の声にしては幾分若く聞こえたが、意識が混濁している滝夜叉にはその違いが分からなかった。ただ少しだけ強く握られた手に、疲れきって重い心身がふと軽くなる。ゆるりと手を握り返すと、滝夜叉はもう一度だけ笑う。
(――大丈夫だから、心配しないで)
父は病で妻を亡くした。それ故に、ちょっとした体調不良でも彼はひどく敏感に反応する。場合によってはめそめそと泣き出してしまうほどだ。我が父ながら情けない、と滝夜叉は思うけれども、そこまで自分を愛してくれる父が彼女は大好きだった。だから、早く良くなろう、といつも思う。その思いを込めてもう一度だけ手のひらに力を入れると、滝夜叉はもう一度深い眠りに落ちていった。
「……寝たか」
自分を父親と勘違いしたまま眠りに就いた少女を見下ろし、小平太は溜め息を吐いた。握った手は温かく、月明かりに薄く照らされる寝顔も倒れた時と比べて格段に良くなっている。随分無理をさせていたのだと、さすがの小平太も己の考えなしに反省をしたのだった。
――滝夜叉が倒れたあの後、小平太はすぐに六宮仙子へと連絡をした。宮と言ってもさほどの力もなく、また家人も居らぬ小平太にできることは少ない。故に彼は同年の異母姉である仙子へと連絡し、人と医者の手配をしたのだった。
現れたのは仙子のお気に入りの女房である善大副ぜんのたゆう――いさの方である。医学の心得もある彼女は病人が居ると聞いて真っ先にやって来て、青い顔をして局に寝かされている滝夜叉を診察した。幸い、悪い病気ではなくただの過労ということで小平太は胸を撫で下ろしたのだが、自分の女房ですらないいさ・・の方にこってり絞られることになった。
「大体、この邸に女房がひとりという時点でおかしいんです! いくら貴族の家にしては小さいお邸であっても、ひとりで切り盛りするのは相当の負担なんですよ!? しかも、身の回りの世話だけならばまだしも、料理に洗濯、掃除までやらせていては倒れて当然です! むしろ、この一月二月よく保ったと申し上げましょう。――これに懲りたら少しは人員を増やして、彼女を楽させてあげることですね」
何故自分が怒られているのだろう、と思いながらも、小平太ははい、はい、と素直に頭を下げた。確かに、全ては小平太に非がある。
滝夜叉が邸に来る前は、小平太の忍び歩きも然程ひどくはなかった。それは彼がきちんと見ていないと邸が回らなくなるからで、その点は彼も一応邸の主としての務めを果たしていたことになる。けれど、滝夜叉が勤め出してからというもの、彼女が細かいところまでひとりできちんと目を配ってくれるため、小平太は邸を気にする必要がなくなったのだ。故に安心して遊び歩いていたのだが、その結果がこれである。まだ小さな己の従者たちにも随分無理をさせたらしい、と青い顔で寝込んでいる滝夜叉の顔を眺めながら小平太は溜め息を吐いた。
先に倒れた金吾と四郎兵衛は熱に浮かされながらも、滝夜叉が倒れたという話を聞いて飛び起きた。慌てて寝床へ戻そうとする小平太と三之助に対し、彼らはそれぞれ熱に感情を昂ぶらせ、珍しく涙ながらに小平太へと口を開く。その内容は小平太にとって初めて聞くことばかりで、彼は己がいかに彼女の存在に安心しきっていたかを思い知らされることとなった。
「……滝様は、あんまり寝てないんです。僕たちが外へ出かけている間、いつ宮様がお戻りになるか分からないからって、お戻りの際に夜着でお出迎えするわけにはいかないからって。それなのに昼もお仕事で、寝る時間がなくて……それでも滝様は僕たちの心配ばっかりなさるんです。滝様に何かあったら、ぼく、ぼく、宮様を嫌いになりますからねっ!」
「滝様がお辞めにならないよう、宮様引き留めてくださいね。僕、滝様がいらっしゃらなくなったら嫌ですよう」
金吾は初めこそしょんぼりした様子で話していたものの、途中から段々熱で怒りも湧いてきたらしく、最終的には不思議な言葉を吐き捨てて幼子のように小平太から顔を背けた。もう一方の四郎兵衛はこちらも熱で感情が高ぶっているのだろう、金吾よりもずっと言葉少なだったが、ほろほろと涙を零して小平太に囁く。更に二人の介抱をしていた三之助までもが続ける。
「あの人が居なくなると凄い困るんで、ちゃんとしてくださいよ。後、そろそろ俺も休みが欲しいんで、夜歩き自重してくださいね」
小平太の脳裏に「四面楚歌」という唐土もろこしの故事が思い浮かぶ。滝夜叉よりもこの三人の方がずっと小平太と長い付き合いであるというのに、誰ひとりとして彼の味方をしてくれない。そのことに一抹の悲しさを感じながらも、小平太は同時にいつの間にかあのしっかり者で気の強い少女が随分とこの邸に馴染んでいたことを知る。同時に彼女がこの邸を辞めてしまったら、一番困るのは自分だということに初めて気付いた。
「……まだ勤めて二月くらいなのに、滝は我が家に必要な人間になっていたんだなあ」
「そりゃそうでしょう。あの人くらいですよ、女房名使わずに働いてくれて、女房の仕事の範囲外な炊事洗濯掃除まで全部やってくれる人は。料理もおばちゃんがいなくなった最初は偶に失敗したりしてましたけど、今はおばちゃんと味変わんないくらいですし。帰りが遅くてもいつも起きて待っててくれるし、朝どんなに早くてもきちんと仕事してくれるし、実は何かと好みがうるさい貴方の身の回りの世話まで完璧なんですからねえ。……あんな性格でさえなければ、本当に完璧な人なんでしょうけど」
三之助が溜息とともに付け足した言葉に小平太は笑う。
――彼女は確かに性格が少しだけ余人とは違う。基本的に物事は曖昧にぼかし、例え得意なことがあれども謙虚に己を下げるのが美徳とする風潮の中で、彼女はひとり自分を誇り、語るのである。我が我がと前に出る性格では、他の場所で出仕するには余りにもそぐわなかろう、と同じく少し変わっている(と兄弟姉妹から言われる)小平太ですら思う。特に女性社会である女房仕事では、確かに仕事が続かなかったのも頷ける。
けれども、この邸で働くのは水に合ったらしい。小平太自身も少ない言葉で全てを汲み取ってくれる女房を得て生活がしやすくなったし、他の従者たちに掛かっていた負担が格段に減ったことも知っていた。故に遊び歩く余裕もできたのだが、それは逆を考えればその負担が彼女の細い肩に掛かっていたということである。そこに思い至らなかったことに小平太は反省し、今も緩く握られている手の中の細い指を手繰った。
(――けど、主に向かって堂々と文句言うんだもんなあ)
気が強い、と言うよりも、庇護欲が強いと言うべきか。自分が辛いことなど微塵も匂わせなかったくせに、金吾と四郎兵衛が倒れた瞬間に小平太の許へと駆け込んできた。その心根の強さと、奥に秘められて普段は見えない優しさに小平太は自然に口の端を引き上げた。
「……早く良くなって、私たちを助けてくれなきゃ困るよ。あいつら、私よりお前を必要としてるんだもの」
元々人が少ない邸内では、従者たちの結束も固い。その中でいつの間にか要となっていた少女を小平太は優しく見下ろした。自分よりも大切にされている少女に少し嫉妬心が起こらないでもないし、誰も自分を庇ってくれないことや主に対して楯突かれたことに対しては多少の怒りも感じている。けれども、それを許してしまえるだけの実績を、彼女は既に小平太にさえ積み上げていたのだ。
滝の手を握った手とは別の手で、小平太は滝夜叉の髪を撫でる。その髪は柔らかく、丁寧に手入れされたものであることを物語っていた。身なりには人一倍気を遣っていた滝夜叉であるからこそ、小平太は彼女の負担にも中々気付かなかったのだ。けれど、指通りの良いその髪を梳いているといつの間にか心が落ち着いて、ささくれ立っていた心の奥も静まってゆく。最終的に自分が悪いと結論付けた小平太は、今は穏やかな寝顔を見せている女房へと小さく囁いた。
「仕方がないから、お前にだけは負けてやる」
今まで入れ替わり立ち替わり雇い入れた女房の誰も、小平太に諫言しようなどとはしなかった。それが当たり前であるし、第一、七番目と言えど親王の小平太である。迂闊に発言すれば職を失うだけでは済まない。けれども、滝夜叉はそれを全て飛び越えて小平太を真っ直ぐに睨み付けた。その瞳の強さを思い出して、小平太は笑う。
どこか退屈だった生活にとって一種の刺激に近い彼女の存在を認識した小平太は、己の領域に彼女が踏み込むことを無意識に許していた。それに気付かぬまま、小平太は滝夜叉の髪をいじる。――けれども、この時から確かに二人の関係は変わり始めていたのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒