鈍行
▼こはし
「……すみません、今何と?」
滝夜叉は通いで食事を作りに来てくれているおばちゃんに対し、思わず聞き返していた。――それもそのはず、ずっと七宮邸の食事を世話してくれていた彼女が、暇乞いをしたのだから。顔を青くして自分を見つめる滝夜叉に、おばちゃんは申し訳なさそうな顔で続けた。
「いえね、申し訳ないとは思っているんですよ。けれど、ほら、私ももう歳だから。息子がね、家に来ないかって誘ってくれてるの。それでも宮様のお世話もあるし、と思って今まではやって来たんだけれど……今は平大夫さんがいらっしゃるから。初めは他の方みたいにまたすぐ辞めて行かれるのだろうって思ってましたけど、貴方はもう一月もこのお邸でお勤めですし、これならば私が居なくなっても平気かな、と思いましてね。――貴方に全てをお任せするなんて無理とは分かってますけれど、この機を逃したら多分もう私は息子たちと暮らせなくなりそうだし……」
おばちゃんの言う通り、滝夜叉は水が合ったのか、それとも他に女房が居ないということが良かったのか、既に一月ほど七宮邸に勤めていた。それは歴代の女房の中で既に最長であり、邸で働く人々からは尊敬と感動を集めている。金吾や四郎兵衛などは滝夜叉に懐きに懐いており、彼女としても慕われて悪い気はしない状況だ。しかし、対して仕事はかなり忙しく、彼女は毎日朝から晩までとんでもないほど行動派の七宮小平太に振り回され、屋敷の中を走り回る羽目になっていた。
それが、更に負担が増える。その事実に滝夜叉が眩暈を起こすのも当然と言えば当然と言えよう。思わずよろめき料理廓の柱に手をついた滝夜叉におばちゃんは済まなさそうな顔をしたが、彼女も確かにもう高齢であり、誰かに世話をされる側に回りたいという気持ちも理解できなくはない。滝夜叉は手を上げて彼女に応じ、何とか気持ちを立て直しておばちゃんに向き直った。
「その、おばちゃん。因みにそれはいつ頃のご予定ですか?」
「あと一月はこちらに通わせていただく予定で居ますよ。そんな、急に居なくなったりはしませんから、どうぞご安心なさって」
おばちゃんの言葉に滝夜叉は文字通りに胸を撫で下ろした。女房仕事は板に付いてきたとは言え、元々は姫身分の滝夜叉だ、料理など当然したことがない。それが突然料理をせよと言われても、できるわけがないのだから。けれど、一月時間があるのならば何とかなる、と彼女は己の能力を自負して顔を上げた。
「おばちゃん、ではそれまでの間、どうぞ宜しくお願いいたします。わたくしもこの一月でおばちゃんまではいかなくとも、きちんとした料理が作れるようになってみせますから」
「本当に平大夫さんには申し訳ないと思っていますよ」
「いいえ、おばちゃんがご子息とご一緒に暮らしたいと思うお気持ちももっともですから。――大丈夫です、わたくしはやろうと思えば何でもできる天賦の才を持っておりますもの。一月で完璧に料理できるようになってみせますよ」
間に挟まった一言さえなければ、とおばちゃんは思ったものの、口には出さずに同じく笑んだ。何事も出鼻を挫くようなことをしてはいけない。それが自分の進退に関わることならば、尚更。とは言え、自分が居なくなることで彼女の負担がどれだけ増えるかを考えると、何だかひどく罪悪感を感じるおばちゃんであった。
「……またか」
おばちゃんが帰った後にいつでも食事ができるよう支度をした後、滝夜叉は深い溜め息を吐いた。
滝夜叉がこの邸に勤めた一月の間に、小平太は忍び歩きをもう数えきれないほど繰り返した。別に遊び歩くのは良い。お付き合いしている女性が居るのも男なのだから普通である。だが、この人の少ない邸で無断外泊を繰り返すことが滝夜叉の悩みだった。
これが普通の屋敷ならば、家を守る人間が何人もいるのだから構わないだろう。しかし、この邸には滝の他には門衛二人と侍従がひとり、男おの童(御車添え他雑用)が二人居るきりなのだ。そのうち門衛は朝夕と交代制でその場からほとんど離れられないし、侍従は基本的に七宮の傍に常に付き従うのが仕事だ。男の童は牛飼い童や御車添えの役も兼任しているため、七宮が外出するならば当然ながらついて行く。――つまり、屋敷には滝夜叉ひとりになるのだ。眠ろうにも眠れないし、第一場合によっては朝帰りではなく、夜も更けた頃に何故か相手方に泊まらず戻ってくる場合がある。戻ってくる時間が分かれば仮眠も取れようが、戻ってくる時間が分からぬ以上、七宮が戻った際の出迎えやその世話をするためにも滝夜叉は起きていなければならないのだ。
(おばちゃんが作った夕食は、どうせ朝一緒に食べられるのだから無駄にはならないが……)
せめて一言でも言い残してくれていたり、文をやってくれれば良いものを、と考えた後、滝夜叉は小さく溜め息を吐いて頭を横に振った。――普通ならば下男か何かにその役目を与えるのだろうが、当の七宮に付いている人間の数がまず少ない。更に侍従は方向音痴で伝令役など任せられないし、他の二人は子どもで牛車の世話もある。七宮ならば牛車など必要ないかもしれないが、女性の許へ忍ぶのに徒歩というのも恰好がつくまい。結局は自分がとばっちりを食らうしかないのだろう、と滝夜叉は諦めて溜め息を吐いた。
邸の中はがらんとして人気がまるでない。門衛たちは別の対で寝起きをしているし、代わりの利かない二交代制であるが故に一方が門番をしている間は必ず一方が休んでいる。つまり、今この邸に居るのは滝夜叉ただひとりなのだ。しんと静まった邸に、滝夜叉は目を細めた。
「――物があるのがせめてもの救いか」
小さく呟いたことは、己の邸を思い出したが故。
母が亡くなり、父が身体の調子をおかしくしてから、邸には少しずつ変化が訪れた。――人や物が少しずつ減り、次第に静まっていく邸内。父が病に伏したために収入が少しずつ減って行き、次第に生活に事欠くようになっていく。父が己を心配させまいと無理をして更に身体を壊したことも、そのことで更に人が減ったこともまだ生々しく滝夜叉の記憶に残っていた。姫君として傅かしずかれていた滝夜叉も、いつの間にか己で動くようになっていた。傍に居るのは乳母と父母が古くから召し抱えていた数人の使用人たちだけになり、最終的にその人々すらも召し抱えられなくなりそれぞれの道へと歩ませた。たったひとりで過ごす邸内の身に沁みるような暗さを、滝夜叉は知っている。
(――宮様が戻れば、騒がしいくらいなのに)
せめてもうひとりでも人が増えれば、と思うが、この邸の掟や仕事では人がまず定まらない。滝夜叉のように帰る場所がないような人間でなければ逃げ帰るのが普通だろう。維持費ばかり掛かる家も始末してしまった滝夜叉にとって、この邸は最後の寄る辺だった。だからこそ、この邸が静かであることが身に沁みて辛い。とは言え、主に忍び歩きを止めてくれとも言えるはずもなく、滝夜叉はもう一度深く溜め息を吐いた後に頭を切り替えた。
(どうせいつお戻りになるか分からないんだ。それならば待っている間、手の回らなかった仕事をする方が賢い)
仕事なら山ほどある。下手にうたた寝して変な夢を見るよりも、普段の仕事では手が回らない部分に手をつける方がよっぽど生産的だ。先日も山歩きをしていた七宮の装束を繕わねばならないし、金吾や四郎兵衛たちの着物とてあちこちが擦り切れていた。三之助の装束は獣道を歩く所為でボロボロになっていたから仕立て直さねばならないだろうし、邸のあちこちも手を入れなければならない。――そして、そういった細々とした仕事があることを滝夜叉は心から安堵した。
(仕事をしているうちは、余計なことを考えずに済む)
早くお帰りになれば良いのに、と重くなる頭を軽く振ってから、滝夜叉は己の対へと戻って行った。
「――おう、お早う」
「お帰りなさいませ、宮様」
結局、時折うとうととした以外には睡眠も碌に取っていないまま朝を迎えた滝夜叉は、対照的に爽やかな笑みを浮かべる小平太に頭を垂れた。今日は確か参内する日だったはずなので、整えた衣裳もそれに相応しい物を用意してある。彼も余り寝てはいないだろうに、自分より遥かに元気な様子に滝夜叉は楽しいことをしていれば寝ていなくても元気なのか、と思わず下世話なことを考えた。
小平太の着替えを手伝い、朝食を用意する。夜も忍んだ先でそれなりのものを食べているはずなのに、七宮はお構いなしに昨夜の夕食も所望した。初めこそ驚いたものの、一月も勤めれば慣れる。滝夜叉は悪くならないように置いてあった夕食も一緒に膳へ載せ、朝食として差し出した。
「んー! やっぱりおばちゃんのご飯は美味いな!」
「それは宜しゅうございました」
「滝は食べないの?」
「わたくしは後で頂きます」
貴人と食事を一緒にすることなどできるわけがないだろう、と怒鳴り付けたい気持ちを抑えて、滝夜叉は静かに頭を垂れた。睡眠を取っていない所為か、どうも気持ちがささくれ立っているらしい。溜め息を口の中で噛み殺して、滝夜叉は小平太が食事を終わらせるのを待った。食事が終わったら膳を下げ、参内に何か不足しているものはないかを遠目に確認、決して主が困らないように努める。――本来ならば数人があちこちで関わってそれとなく確認するのだが、この邸にその常識は通用しない。主に恥をかかせないことも良い従者の務めだ、と滝夜叉は己に言い聞かせながら小平太を盗み見た。
決して悪くはない主だと思う。多少勝手をしても全く怒ることはないし、滝夜叉が何か粗相をしたとしても(もっとも、彼女がしくじることは己の威信をかけてもほとんどないのだが)咎めることはない。行動が突飛なことと周囲に人を置きたがらないことを除けば、七宮は仕えやすい主と言えた。
「――滝、ご馳走様」
「はい、では膳をお下げいたしますね」
ちらりちらりと小平太の身だしなみを確認しながら、滝夜叉は小平太の前から膳を下げる。相変わらず彼の食欲は素晴らしく、朝食には明らかに多いであろう量もぺろりと平らげてしまっていた。夜遊びもしてこれだけ元気ならば怖いものはないな、と滝夜叉は膳を下げながら溜め息と共に思った。
普段ならば何とも思わないことが引っかかるのはやはり睡眠不足だからだろう。主を見送ったら朝の仕事を済ませて、少し仮眠を取るべきだ。滝夜叉は膳を適当な場所へ置いた後、急いで引き返して牛車で御所へ向かう小平太を見送りに出る。彼らが門を過ぎるまで邸の入口で見送った後、滝夜叉は再び取って返すのだ。
見えないように置いておいた膳を拾って料理廓へと戻り、その膳を綺麗に直してから小平太の寝具や寝間着を片付ける。小平太が戻って来た時にすぐに使えるように部屋を整えた後、今度は邸のあちこちを奔走しつつ仕事をこなす。昼頃に仮眠を少しだけ取り、その後はまた働き始める。夕方にはおばちゃんが食事を作りにやって来るので、傍に控えて料理を覚えるのが最近の滝夜叉に課せられた使命だ。もし彼女に料理ができなければ、この邸でまともな食事が食べられなくなると言うことなのだから。
仮眠を取っても頭は重く、身体もだるい。今日は普通に戻ってきてくれれば良いのだが、と思いながら、滝夜叉はおばちゃんの指導の下に包丁を握る。野菜の皮を剥くのにも今は慣れた。それでも時折手が滑って、ついこの間までは白魚のようだった彼女の手は今では傷だらけだ。尋常でない女房仕事をしている時点で手が荒れるのは覚悟したが、まさか切り傷まで作る羽目になろうとは。それでも滝夜叉は不思議とこの邸を辞めようという気にはならなかった。
――ここが今彼女に許された唯一の居場所。例えどんなに苛まれようと、もう寄る辺のない身には戻れなかった。
「――え? おばちゃん、辞めるの?」
「は? いえ、あの……一月も前に宮様にお伝えしたと、おばちゃんも仰っていましたが」
おばちゃんが辞める最後の日、挨拶に訪れたおばちゃんを前にして小平太はそうのたまった。滝夜叉が思わず言葉を挟むと、小平太は「そうだっけー?」と何とも頼りない言葉を呟いている。傍に控えていた三之助たちも覚えていなかったようで、困った表情で滝夜叉とおばちゃんを眺めている。しかし、当のおばちゃん自身がその不安を吹き飛ばすように笑った。
「大丈夫ですよ! 今宮様がお召し上がりになっているお食事も、ほとんど平大夫さんがお作りになったものですから」
それに小平太は一瞬驚いた顔をして、その後に首を傾げた。
「平大夫って?」
「……わたくしの女房名です」
滝、滝、とまるで犬か猫でも呼ぶかのように己を呼ぶ主に、滝夜叉はほとんど使われることのない自分の女房名を再び告げる。初めて顔を合わせた時にも告げたはずなのに、と溜め息を吐くと、小平太がぷうっと頬を膨らませた。
「名前をちゃんと使えって言ったじゃん!」
「このお邸では構いませんが、外の方には外の流儀に合わせなければ相手がお困りになりますから」
小平太の言葉を軽くかわして、滝夜叉は軽く頭を垂れた。それが小平太は気に入らないのか、膨れ面のままで滝夜叉を軽く睨む。けれど、すぐにその表情を改めておばちゃんへと向き直った。
「今まで大変世話になった。礼を言う。――これからもつつがなきよう」
「有り難いお言葉に存じます」
先程の幼い様子とは一変して、おばちゃんに礼を述べる様はさすがに宮、と言ったところか。傍に控えながらも、滝夜叉は彼の態度に驚いていた。普段もこんな風だったら楽なのだが、と溜め息を噛み殺しながら、滝夜叉は同じく平伏するおばちゃんをちらりと見遣る。
――とにもかくにも、これでこの邸の家事は全て自分の双肩に掛かることになった。もうここ数日はほとんど滝夜叉が料理までやっていたので、疲労も並々ならぬものがある。しかも、小平太の忍び歩きが連日で続いているので尚更だ。見てみればその忍び歩きに付き合っている子どもたち二人も、揃って時折舟を漕いでいる。何度か諫言をしようかとも思ったが、差し出た真似かと思うとそれも難しい。
(わたくしも頑固な方だとは思うが……あの方よりはマシだ)
普段ならば自分のことなど棚に上げる滝夜叉だが、この時ばかりは小平太のやりように己の短所もまだまだまともだったと疲労に満ちた溜め息を吐いたのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒