鈍行
▼かにかくに
「……どういうことだ! と言うか、今までどうやって生活してきていたんだ!」
滝夜叉は本来ならばあちこちに居るはずの人間が全く居ないことに関して、悲鳴染みた声を上げた。それもそのはず、彼女が勤め始めた七宮邸には侍従がひとりと牛飼い童と下男を兼任した男の童が二人、更に門番が二人という全く生活するに必要な人員が揃っていなかったのである。どこからどう手をつけて良いのか、というよりも、何が自分の勤めに入るのか、滝夜叉は分からずに頭を抱えた。
「まあ、滝様。掃除や庭の剪定は僕たちがやっておりますし、料理は通いのおばちゃんが居るのです。滝様のお仕事は宮様のお世話で良いと思いますよ」
彼女を局に案内してくれた金吾、という男の童――下男と言うにはまだ歳が若すぎる――が頬を掻きながらそう告げた。どうも、彼自身も彼女の苦悩その他は分かるらしい。滝は溜め息を吐いて痛み出した頭を抑え、己の傍らへ立つ少年へと視線を向けた。
「金吾殿、だったか」
「はい。忌み名ですがお気になさらずお呼びください。僕の方が年下なんですし、殿とか敬語も要らないです。宮様もそれをお望みにはなられませんので」
「……では、金吾。――とりあえず、屋敷の中を案内してもらえるか? 何がどうなっているのか把握しなければ、仕事のしようもない」
何と世の理に反した屋敷だろう、と思いながらも、彼女は覚悟を決めて呟いた。どちらにせよ、この邸を追い出されれば後がないのだ。ならば、とにもかくにもやってみるしか術はない。幸い、人間関係以外の問題は滝夜叉にとってないも同然だ。もっとも、その人間関係こそが滝夜叉にとって一番の難問なのであるが、この邸では不思議とその心配もない気がする。――と言うのも、この邸で最も常識的な人間が自分である、という自負が芽生えてきたからだ。
(わたくしがしっかりしなければ……!)
何となく父親と暮らしていた時のことを思い出し、滝夜叉は己を奮起させた。この邸を立て直してみせる、と前からの住人たちにとっては全く問題にすらしていないことに関して意欲を燃やしつつ、滝夜叉は小さな背中に従って邸の中を見て回ったのであった。
「……意外に小さなお邸なのだな」
「そうですね。宮様のお宅としては特別小さな造りになっております。宮様のご意向で、皆でいつも顔を合わせられて、身の丈に合った邸が良いということでした」
本来ならば、一戸の邸宅を回るのにもっと時間が掛かる。しかし、この七宮邸は何度か簀すの子と渡殿などを行き来している間に全ての場所を見て回れていた。一応は寝殿造りの様相を呈しているものの、実際には粗末とすら言えるこの建物が天下を治める天皇すめらみことの第七子の邸宅である。そんなに生母の身分が低かっただろうか、と滝夜叉は余り詳しくない皇室の系図を思い出そうと務めた。
(確か、今の春宮様のお母君が一宮様のお室様だった。で、一宮様と七宮様はご兄弟でいらっしゃる。二宮様は確か既にご降嫁なさっていて、三宮様は臣籍に降下なさっていたはず。四宮様がよく分からなくて、五宮様は確か前中宮さきのちゅうぐう様のお子でいらしたはずだ。六宮様と、確か九宮様は女御様の御腹で、七宮様は……更衣。そうだ、更衣腹だったはずだ)
更衣と言えば女官としては高い身分ではないものの、決して低すぎる身分というわけでもないはずだ。第一、今上はただ在位が長いだけではなく、その御代に平安と繁栄をもたらした偉大なる現人神あらひとがみでもある。その偉大なる今上の皇子がこのような粗末な扱いを受けるとは信じられない(例え、御子の数がやたらと多くても、だ)。しかも、よくよく考えてみれば、立地も京の郊外で山の麓。これは仕事先を選ぶのに失敗したのではないか、と滝夜叉が青くなるのも無理はなかろう。しかし、そんな滝夜叉の思考を読んだように、金吾が柔らかく笑った。
「大丈夫ですよ、宮様は今上と仲良し・・・でいらっしゃいますから」
「え……?」
「宮様はこういう飾らない感じがお好きなのです」
「…………とりあえず、宮様のお世話はどうすれば良いのか尋ねても?」
滝夜叉は反論しようにも言葉が見当たらず、現実逃避に近い感覚で己の職務を全うしようと決めた。見たくないものは見るべきではない。それは、ここ最近の経験から滝夜叉が学んだひとつの処世術だった。それを金吾は知ってか知らずか、笑顔で滝夜叉を主の暮らす対へと案内する。その小さな背を追いながら、滝夜叉は今更ながらに自分が随分と遠く離れた場所へ来たことに気付いた。
(――ついこの間までは、貧しくとも傅かしずかれる側だったのだがな)
それが今では傅く側だ。自分の境遇を恥じるつもりも嘆くつもりも更々ないが、それでも自分を取り巻く環境が激変したことに滝夜叉は気付かれないように溜め息を吐いた。
「……とんでもないな」
「皆様、そう仰っていました」
「忌み名を明かすことを何とか承諾した女房も皆、この仕事にめげて辞めてくんだよな」
軽くかいつまんで説明された仕事の内容に、滝夜叉は頭を抑えた。――ほとんど邸の全てをひとりで任される羽目になるようだ。それを聞いただけで頭痛がひどくなった気がする。思わず漏らした呟きに幼い金吾が困ったように頷き、いつの間に現れたのか、三之助と呼ばれていた侍従がぼやいた。
「うわ、いつの間に……!」
「あれえ、三之助さん。また迷われたんですか?」
「何を言うか、金吾。毎回道が変わるこの珍妙な邸に苦労させられている俺の身にもなれよ」
金吾の言葉に呆れた返事をした三之助に滝夜叉は目を丸くする。それに金吾が苦笑して、こっそりと彼女に「三之助さんは無自覚な方向音痴なんです」と耳打ちした。その事実に滝夜叉はそんなことあるのだろうか、と半信半疑で三之助を見遣ったが、彼が「今から宮様の許へ行かなきゃならないんだ」と、当の主が使っているはずの対から出て行こうとしているのを見て納得した。同時に彼の厄介さも理解し、深く溜め息を吐く金吾に同情の視線を向ける。それに金吾は遣る瀬無い笑みを浮かべ、どこかへ消えようとしている三之助の腕をそっと取って引き戻した。
「三之助さん、これから私たちも宮様の許へ参ります。折角ですからご一緒いたしましょう」
「そうなの? じゃ、そうするか」
滝夜叉は己の喉から迸りかけた声を口を抑えることで無理矢理に飲み込んだ。――それもそのはず、彼女が本日より仕えることになった主が泥まみれで立っていたのだから。
どこに行ったのか、彼の見事な装束はあちこち泥にまみれて汚れ、袖や裾がよくよく見ればほつれかけている。床も調度も見事に汚れ、一体何をどうすればこんな風になるのか、と滝夜叉は我が目を疑った。
「またですか、小平太様。あんた、それ誰が掃除するか分かってるんですか? 勘弁してくださいよ、もう……」
「あー……また山の中を走り回ったんですね」
しかし、この主においては日常茶飯事なのか、二人の従者は全く驚いた様子がない。揃ってうんざりとした表情で彼を囲み、パタパタと軽く泥を落としていた。
「ちょ、ま、待ってください! 今、拭くものと新しいご衣裳をお持ちします!」
その様子に青くなったのが滝夜叉だ。慌てて彼女は取って返し、先程案内された主の葛籠が置いてある部屋へと飛び込んだ。細々と見て揃える余裕もなく、とりあえず見苦しくない装束を選んで引き出す。ついでに傍にあった布を引っ掴み、彼女は再び主たちの待つ間へと駆け込む。
「金吾、すまぬが水を汲んで来てくれ。そちらの……」
「三之助、次屋 三之助」
「では、次屋殿はこの床を拭うものを持って来てください」
泥に汚れていない場所に着替えを置いた滝夜叉は手で泥を落とすという暴挙に出ていた男二人に指示を飛ばす。いくら貴族の姫君だった滝夜叉と言えど、零落した家では自分の身の回りは自分で済ませる癖が付いている。故に装束の手入れなどにも一応の知識はあるのだ。その彼女からしてみても酷い扱いの装束に、滝夜叉は頭痛が更に酷くなった気がした。
そんな彼女を眺めながら、小平太は首を傾げて滝夜叉の言う通りに対を出て行こうとする三之助の首根っこを捕まえる。三之助がそれにぼやく前に、小平太は滝夜叉へと口を開いた。
「滝、三之助に用を言い付ける時は注意してくれ。――こいつはとんでもない方向音痴で、一度出たら場合によっては丸一日、ひどい時は三日ぐらい戻ってこないから」
「は……?」
「失礼なこと言わないでくださいよ、小平太様。誰が方向音痴ですか」
「お前だ、お前。――ああ、金吾が戻って来たな」
そう言えば先程もそんなことを言われたな、と遠い目をする滝夜叉を余所に、水を汲んで戻って来た金吾が現れる。その水を受け取り、滝夜叉は未だ三之助の襟元を捕まえたままの小平太を隣の間へと促した。
「宮様、どうぞあちらでお召し替えを。――次屋殿、そちらに置いてあるご衣裳をお持ちになってください」
移動を伴う用事は三之助に申し付けられないらしい。それだけをまず把握した滝夜叉は三之助を使うのを諦め、抱えた水を隣室へと運びながらせめてそれくらいはできるだろう、と傍らに置いたままの小平太の着替えを運んでくれるよう声を掛ける。しかし、滝夜叉の傍らにあるはずの着替えを取ろうとして正反対の方向へ向かう三之助の姿を見て、彼女は初めて「とんでもない方向音痴」という意味を正確に理解した。――確かにこれではうっかり用事も言い付けられないはずである。
「……金吾、すまないがそのご衣裳を宮様の許へ。こちらは私が何とかしておくから、金吾は宮様のお召し替えを頼む」
すぐに頭を切り替え、泥を落とそうと新しく水を汲みに行こうとしていた金吾を彼女は呼び留めた。金吾はそれに頷くと、今度は正確に小平太の着替えを持ち上げ、隣の間へと駆け込んで行った。いつの間にか三之助の姿は消えていて、滝夜叉は柄にもなく途方に暮れた気持ちになる。しかし、動かなければ泥は落ちないし、事態も進まない。
(――随分、あれこれと変わった場所に来たものだ)
滝夜叉は初日から既に気苦労でぐったりしつつも、己の職務にせめて忠実であろうと先程案内された水場の場所を思い出して小平太の対にくるりと踵を返したのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒