鈍行
▼あふこと
「……到着いたしましたよ」
先程顔を合わせたばかりの車添えが外から声をかけた。それに滝夜叉は囁きで返事をし、持っていた扇で顔を隠して牛車から降りる。女房勤めをする以上、今更姫様を気取ったところで仕様もない気はするのだが、彼女生来の性格と矜持の高さ、更に習い性が地下人に顔をさらすことを許さなかった。なるべく顔をさらさないように礼を述べると、彼女は目の前に佇む貴人が住むには余りにも小さく粗末な――もっとも、それでも滝夜叉が今まで暮らしていた家よりずっと大きかったのだが――邸を見つめる。
(……ここが、七宮様のご邸宅……)
今日からここで働くのだ、と思うと、柄にもなく緊張する。思わず立ち止まった滝夜叉を促すように、先程彼女に声をかけた男が足を進めた。車添えでありながらもするすると邸宅に入って行く後姿を見ると、もしかしたら地下人などではなく、彼女にこの仕事を世話した潮江家の中でも位の高い使用人なのかも知れない。そうであっても彼女の態度は余り変わらないのだが、何となく道理を知っている人間がこの場に居ると思うだけで心強く思えた。
「――では、一姫様……いえ、平大夫こちらへ」
「はい」
一姫様、というのは滝夜叉の呼称のひとつである。忌み名を口に載せることをはばかるゆえに、彼らは皆字あざなや別の呼び名を使う。滝夜叉の場合は平家の第一子であり唯一の姫ということで「一姫」と呼ばれるのが普通だった。しかし、女房となる以上は「一姫」では居られない。それゆえに滝夜叉は自分の名字と父の官職から「平大夫」と女房名を付けられた。これからはずっとその名前で呼ばれるのだ、と思うと、少しだけ皮肉な感じがする。――その名を彼女に与える理由となった人物はもう存在しないのだから。
「……新しい女房だって?」
「はい、今度の方こそお気に召すかと」
上座の男が口を開いた。その調子は自分になどまるで関心がないようで、畏まって頭を垂れている滝夜叉は少しだけ胸が重くなる。床に置いた指を握り締めかけ、慌てて力を入れて床に押し付けた。大体、「お気に召すかと」などという会話では、まるで彼女が側そくに入るかのようだ。純粋に女房勤めをするために邸へと入った滝夜叉としては気分が悪くなる話だ。とはいえ、女房勤めをする以上、主に伽を求められれば応えなければならないのだろうか。今まで一度も男性に仕える立場となったことのない滝夜叉には何もかもが分からないことだらけだった。
「まあ、良いや。とりあえず、有り難う。仙――六宮には礼を。後はこちらでやるから」
「は、承りました。――では……平大夫、私はこれで失礼いたします。後は貴方次第、頑張ってくださいませ」
「はい、有り難うございました」
礼を述べたものの、滝夜叉は置いて行かれることに猛烈な不安を感じた。しかし、それを表に出せるほど彼女は自分の立場を知らぬわけではなかったし、高すぎる矜持もまた彼女に取り乱すことを許さない。まさしく八方塞がりの滝夜叉であるが、彼女は唇を噛み締めるとしずしずと下がっていく男の背中を見送った。
「じゃ、まずは自己紹介すべきかな。――私は七宮小平太という。今回もいつまで続くか分からないけど、まあ宜しくな」
「……平大夫と申します」
何とか平静を装って名乗り返した滝夜叉であるが、内心はどうして良いか分からないほど動揺していた。
それは勿論、貴人である小平太――しかも、皇族という豊葦原最高の血を持つ人間が忌み名を自ら明かしたからである。普通、忌み名というものは親か主など自分より目上の、心を預ける相手にしか教えることはないのだ。忌み名を誰かに知られるということはその相手に命を握られたと一緒であり、それゆえに人々は皆忌み名を秘す。その大切な名が白日の下にさらされている。滝も今度は堪え切れずに拳を握った。
しかし、彼女の平静など嘲笑うかのように小平太は次の動揺の種を蒔いて行く。続いて小平太は彼の傍らにちょこんと座っている子どもたち――ひとりは年長で滝夜叉とそう変わらぬようであったが――を示した。
「一番年長で私の侍従でもある次屋 三之助、その隣が牛飼い童というか車添えというか、まあその辺の仕事をする時友 四郎兵衛。それで一番端に居るのが四郎兵衛と同じく牛車の世話なんかを中心に仕事する皆本 金吾だ」
……どうして全員の忌み名を私に明かす。初対面の人間に自分だけでなく、仕える者の忌み名まで明かすなどとはどういうことだろう。思わず下げていた頭をちらりと上げて滝は彼らの顔を見てみたが、従者三人は一向に平気な顔だ。自分の常識が試されているような気分になり、滝は思わず口を開いた。
「……あの、畏れながら申し上げます」
「お、何だ?」
「――わたくしごときが口を挟むことも差し出がましいと思われますが、初対面のわたくしに忌み名を明かすのはいかがなものかと思いますけれど……その、本当に信のおける者以外にそのような軽々しい真似はなさらぬ方が……」
「おお、さすがは仙ちゃんの紹介だなあ。しっかりしてる」
しかし、おずおずと滝夜叉が述べた意見は主(予定)の人間が膝を打つだけに終わった。……どうやら、一応危険性を自覚していたことだけは理解する。どうして良いか分からずに固まる滝夜叉に小平太は続けた。
「名前というものは呼ばれるためにある。――字があるって言ったって、実際の名前は使われないんじゃ可哀想だ。だから、ウチでは皆忌み名を呼び合うようにしてるんだ。な、金吾、四郎兵衛、三之助」
「「はい!」」
「……俺はやめた方が良いって言ってるんですけどねえ」
明るく返事をする幼子と、ひとりぼやく青年に滝夜叉は今度こそ度肝を抜かれる。――それはつまり、もしかして。
「お前にも名を明かしてもらうぞ? ウチで働くならそれは必須だ」
「それでウチに来た女房が何人も怒って帰ってったじゃないですか。そろそろ学習しましょうよ」
滝夜叉の嫌な予感は当たった。その衝撃が大き過ぎて、目の前で侍従が主に対して先程からとんでもない態度を取っていることも目に入らない。カチン、と固まった滝夜叉は自分の嫌な予感が当たったことに冷や汗を感じた。
「……それは、どういう……?」
「お前の名を聞きたい」
「で、ですが……忌み名というものはその、親か主、伴侶などにしか教えてはならない大切なものですので、その……」
「そうだね。でも、ほら、私はお前の主になるわけだし」
滝夜叉は何が何でも忌み名を言わせようとする男に血の気を引かせた。何せ腐っても鯛、官位こそ落ちれど辿れば目の前の男と同じく天皇すめらみことにつながる血筋を持つ滝夜叉である。当然、どんなに零落しようとも行いだけは、と様々な教育を受けてきた。それゆえの倫理観が彼女をしっかりと包み込み、小平太の望む答えなど到底返せそうになかったのである。
「けれど……」
「名が明かせないなら、残念だがウチでは働けないな」
「! そんな……!」
実を言えば、この家が彼女の女房口の三軒目なのである。お姫様育ちの滝夜叉は周囲の人間と上手く連携を取ることもできなかったり、なまじっか頭が良いばかりに聡すぎると主に嫌われたりで次々に首になった。それゆえに呆れた彼女と多少縁のある六宮が、これで上手くいかなければもう仕事を紹介しないとまで言ってきたのだ。――他に伝手はあっても、ここまで条件の良い仕事はそうない。滝夜叉にとってはこの七宮邸が最後の仕事口なのである。そのことを考えた瞬間、滝夜叉は思わず呟いていた。
「――です」
「え?」
「平、滝夜叉です!」
滝夜叉は顔を真っ赤にして悲鳴のような声を上げる。自分の名前を吐き出した後は床に手をつき、肩で息をする。その行為で今の行動が彼女にとってどれだけ負担をかけたかがよく分かった。しかし、小平太はそんな彼女のことなど気にも留めず、上座から立ち上がると彼女の元まで歩み寄り、その肩を叩いた。
「そうか、じゃあお前は滝だな。――宜しく、滝!」
「……宜しくお願い申し上げます……!」
明るい笑顔を見せる小平太に深く平伏した滝夜叉であるが、その胸中が大荒れなのは言うまでもない。しかし、とにもかくにも、こうして彼女の七宮邸における女房勤めは始まったのである。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒