鈍行
▼つねのこと
「……またそんなにお汚しになって……誰がそのお衣装を綺麗にすると思っていらっしゃるんでしょうね?」
汚れに汚れて帰って来た主――七宮の小平太を滝夜叉は呆れて見下ろした。彼の宮は常に玄関から入るということをしない。今でさえ、どこからどう戻って来たのやら、簀の子こに立つ滝夜叉の傍ら――つまり庭に立っている。普通に帰って来たのならば門衛である厚木と日向が気付くはずであるので、多分汚れきった姿を見られたくなくて別の場所からこっそり入り込んだのだろう。自宅に帰ってくるのに忍び込む必要がどこにあると問い詰めたいところだが、怒られたくなかったのだと言われるだけだと知っている滝夜叉は何も言わずに彼へそこで待つよう伝えると、急いで手拭いと着替えを取りに行った。
彼の衣料と泥を洗い落とした後に拭うための布を、滝夜叉は大人しく庭で待つ小平太に差し出した。それを笑顔で受け取る小平太は全く反省の色がない。自分たちが最終的に彼を許してしまうことが原因なのだろうが、それでもこんな風に笑顔を見せられてしまっては許さざるを得なくなる。この見解自体がまず主従のものではないのだが、この七宮の邸宅では不思議とそれがまかり通っていた。それもこれも全て、彼の性格の所為だろう。
七宮の小平太という人間はとにかく元気な男である。明るいというよりもほとんど落ち込むことがなく、常に「いけいけどんどん!」と邸宅の傍にある山や野原を駆け回る毎日。宮でありながらまるで下人のような振る舞いばかりの小平太に滝夜叉は驚き呆れたが、いつの間にかそれが当たり前となっている自分に気付く。
これには宮でありながらも小平太が既に政治権力の外にあることにも原因があるのだろう。彼の父は今上であり、御歳幾許になられたか、もう長い間位に就いて政治を取り仕切っている。しかし、母は更衣の位こそ持っていたものの後ろ盾の力は弱く、また既に兄である一宮の伝蔵が一子、利吉が東宮位を継いでいたため、彼に皇位が巡ってくる確率は非常に少ない。その上、七宮ということから分かるように、彼には上に六人――そのうちの二人が女性で既に嫁いでおり、残りの四人のうち二人は彼と同じく生母の位が低いために政治権力の外側へと弾き出されているが――兄姉が居るのだ。しかも、東宮も健在で既に生母の位は低いけれども男児が存在し、このまま何もなければ正妻の養子となるであろうその東宮の子どもが次の東宮位を継ぎ、そのうち帝へと即位するはずだ。……要するに、七宮とは皇族ではあっても尊ばれるのはその身に流れる高貴な血筋だけ、というわけなのである。
その所為なのか何なのか、小平太は全く宮らしくない。本来ならば臣籍降下したりすることもあるのだろうが、彼は機会を逸したのかそれすらもしていない状態だ。官位こそはあるものの、ほとんど出仕らしい出仕もせずに遊び暮らすことがほとんど。滝夜叉が知る限り、彼以外にも奔放な宮は居るには居るのだが、それでも彼ほど自由気ままに生きている宮も居ないだろう。そうして、そのとばっちりを受けるのが常に自分であることに彼女は深い溜め息を吐いた。
小平太の邸には人がほとんどいない。元より傅かしずかれて生活することを嫌う――しかも、それは心苦しいからではなく、ただ単に人に囲まれて生活するのが煩わしいだけという理由だ――小平太の性格もあるのだが、それ以上に彼の破天荒な行動に世話をする人間の方が参ってしまうためである。それもそのはず、常に戻ってくる時は泥だらけ、時には何か得体の知れない生物すら連れ帰ってくる主に誰が平静で仕えることができようか。滝夜叉がこの邸に出仕する前にも十数人の女房が入れ替わり立ち替わり辞めて行ったそうである。現に今も、滝夜叉以外の女房はこの邸におらず、彼女が全てを取り仕切り実行するという有様だ。それゆえに彼女は優秀な自分以外にこんなことは誰もできまいと内心自画自賛しつつも、今日も今日とて忙しく立ち働いているのだ。
「滝〜」
「……貴方は一体何度バタバタと足音を立ててお走りになるのはお止めください、と申し上げれば宜しいのでしょうか」
綺麗に泥を落として着替えてきたらしい小平太が足音高く滝の許へ戻ってくる。それを彼女はしかめっ面で窘たしなめた後、自分の前で少しだけ唇を尖らせた小平太へと向き直った。
「きちんと泥を落とされました? それに、金吾や四郎兵衛たちは?」
「滝はいつもそればっかりだな。大丈夫、私だってちゃんと分かってるぞ! 金吾も四郎兵衛も、それから三之助もちゃんと連れて戻って来たし、あいつらは今井戸で泥を落としている。私は先にやって戻ってきたんだ」
自慢げに告げる彼に苦笑しつつ、滝は彼の首に下げられた布を引いた。泥をちまちまと落とすのが面倒で井戸の水をかぶったのだろうか、小平太の髪はしっとりと濡れている。きちんと水を拭えていない彼の髪を、滝夜叉はそっと手を伸ばして拭った。
「お風邪を召されますよ、きちんと拭ってください。さあ、頭を少し下げていただけますか?」
子どもにするように頭を拭かれても小平太は怒ることがない。それどころか、むしろ嬉しそうに滝夜叉へと身を寄せてくる。その安心しきった姿にくすぐったいものを感じながら、滝夜叉はそっと小平太の髪を優しく拭った。
少しごわごわとした彼の髪は手入れを怠っているために少し絡む。常々手入れをさせてくれろと滝夜叉が申し入れても、彼は面倒の一点張りで一向に改善しようとしない。身なりにこだわらない辺りにまた宮らしくなさを感じて、滝夜叉は呆れ半分に息を吐いた。――その後にまるでその溜め息を飲み込むように、小平太の唇が彼女の唇に重なる。
「!?」
「隙あり」
「……もう! 突然何をなさるんですか! しかも、このような場所で……誰に見られるかも分からないのに」
してやったりと言わんばかりの小平太に滝は顔を真っ赤に染め上げて叱り付けた。しかし、小平太は一向に反省した様子もなく、むしろ彼女をしっかりと抱きよせながらその首筋に顔を埋める。艶やかな黒髪に小平太の鼻先が押し付けられ、首元に吐息がかかった。
「誰が見てるって言っても、金吾か四郎兵衛か三之助かぐらいだろ。後は太逸と墨男くらい? 別に見られて困る人間は居ないだろう?」
「恥ずかしいじゃないですか! 大体、そういうことは往来でするものではなく、二人きりの時にするものでしょう?」
「だって、滝はいつも忙しいから、中々二人きりになれないじゃないか」
「そう思われるのなら、人員をもう少し増やしましょう。少なくとも女房を後二人ほど」
「増やしてもまた辞めちゃうなら一緒だろ?」
「……誰のせいで女房が逃げて行くと思っているのですか、貴方は!」
自分の行動を棚に上げての発言に思わず滝夜叉はいきり立った。彼女がどんなに捕まえておこうと頑張っても、やはり彼の破天荒な言動故に逃げて行く。――第一、忌み名を明かせなどと言う時点で、きちんとした家の子女である大体の人間が逃げて行くのも当たり前だろう。
「……せめて女房名をお許しくだされば、もう少しは……」
「それは駄目だ。名前は呼ばれるためにあるのに、何でわざわざ秘さねばならない?」
「忌み名の意味をご存じで?」
「それは知ってる。でも、それとこれとは話が別だ。それに第一、滝は忌み名を明かしてるじゃないか」
――それは貴方が強要したからでしょうが! という言葉を滝夜叉は飲み込んだ。彼女とて「平大夫へいのたいふ」という女房名がある。しかし、小平太はそれを名乗ることを一切許さず、結局彼女に忌み名を告げさせた。勿論、彼女も好き好んで明かしたわけではない。そうする以外に仕方がなかっただけの話だ。
「わたくしの場合はここより他に行き場がなかったために、腹を括っただけに過ぎません。他の方と一緒にお考えでは困ります」
「でも、それくらい根性がないと、どちらにせよここではやっていけないよ。――現に残ったのは滝だけだもんなあ。しかも、家の何から何まで把握して、金吾と四郎兵衛と三之助の面倒も見てくれて、炊事洗濯掃除に庭の手入れ、何でもやってくれるもんな。ああ、良い嫁さんもらった!」
皮肉った調子で返す滝夜叉とは対照的に、小平太は笑顔で彼女にそう告げる。まさに不意打ちの攻撃に、滝夜叉は顔を真っ赤に染め上げた。
「……貴方のそういうところが嫌なんですよ……」
「でも、好きだろ? ――今日の夜、部屋に行くからね」
火照った顔を手で押さえる滝夜叉に、小平太は囁く。それに彼女が更に頬を赤らめたのに対し、小平太はにやりと口の端を上げた。
――いつになってもこの扱いには慣れない。……本当に、身分違いの恋だったのだ。焦がれるよりも先に押し込めた想いを、彼は無理やり掬い上げた。そして、他の反対を押し切って彼は滝夜叉と正式に婚姻を結んだ。その割に彼女が未だに女房仕事をしているのは、ただ単に習い性と人手不足の所為に過ぎない。
「さて、と。じゃあ、夕飯まで私は三之助たちと遊んでいるから、後は頼むな」
「はい、畏まりました。後で金吾と四郎兵衛をお寄越しくださいね」
「分かった」
滝夜叉は自慢の黒髪を指で梳いてから話を切り上げる小平太に頷いた。同時に夕餉を運ぶ手伝いのために二人の子どもを指名する。三之助が除外されたのは、夕餉を運ぶ以前にどこか違う場所へ入り込んでしまうからだ。滝夜叉の指図する意図を正確に汲み取った小平太は、いつまでも変わらないどころか年々酷くなっていく自分の侍従の悪癖を考えながら、まだ赤みの残る妻の頬にもう一度だけ口付けを落とした。
「……貴方という方は……」
「良いじゃないか。夫婦仲は円満な方が」
「時と場所と状況を是非お考えくださいまし」
頬を抑えて困った顔をする滝夜叉に小平太は笑いかけた。――半分くらい、この状況に彼が邸の人間を増やさないことの理由がある。何せ、人が増えれば増えるほど自分も〈宮〉であるという立場を考えなければならないし、このようにひっそりと二人で交わす会話も持てなくなるのだ。それならば妻にこそ負担はかけるが、今のままである方がずっと良い。
小平太の中にこんな打算が眠っていることを、目の前で可愛らしく頬を染めて微笑んでいる妻は全く知らない。知らせるつもりも全くないし、もし本当に人が必要になった時にまた考えようと思っているほどだ。それもこれも全て、退屈だった彼の生活に単身飛び込んできた今や手放せぬ愛しい愛しい少女の存在ゆえ。滝夜叉が知ったらば烈火の如く怒りそうなその考えを、小平太はひっそりと心の奥底にしまい込んで仕事へ戻る妻のために自室へと引き取った。
――今でこそこのように一際仲の良い夫婦であるが、この形に至るまでには実に様々な紆余曲折が二人にはあった。それは、滝夜叉がこの屋敷に女房として仕え始めたことから始まる長い物語である。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒