鈍行
▼それぞれの思い
「これは……日記か?」
人様の日記を見るなんて趣味が悪いと思いつつも、何かこの状況を打開する手がかりがあるかもしれない、という思いから滝夜叉丸はぱらぱらとそれをめくる。白い表紙に紅い蝶があしらわれた和綴じのそれは、読み進めていくうちに三郎のものであることが分かった。
彼女の心を占めるのは、双子の姉である雷蔵のこと。身体が弱い彼女は、雷蔵がいつか自分を置いてどこかへ行ってしまうことをひどく恐れていた。〈儀式〉についても、彼女はさして忌避する様子もない。むしろ、姉とひとつになることを心待ちにしている風すらある。それに滝夜叉丸は少しだけ眉をひそめ、小さく溜息をついた。
「……愚かな」
置いていくわけがないのに。ずっと一緒だと、約束したのだから。双子として生まれ、ともに育ってきた己の半身。それをひとり苦しい場所に置いて、逃げ出せるわけがない。それが理解できていない三郎に、滝夜叉丸は何とも言いがたいやるせなさを感じた。
「……私が喜八郎を置いてはいけないように、雷蔵さんだって貴方のことを置いていけるはずがないんだ……」
脳裏を過ぎるのは、崖から落ちた己の半身。命に別状はなかったが、彼女の背中には大きな傷痕が残ってしまった。あのときからずっと、滝夜叉丸は喜八郎を守ると決めている。たとえ何があっても、ずっと一緒だと。――そう、こんな恐ろしい場所に入り込んでさえ。
「……今度こそ、二人で逃げてみせる」
小さく呟いた声は静寂に消える。あのときは彼女を助けることができなかったが、今は違う。自分はもう、無力な子どもじゃない。少なくとも、彼女を連れて逃げるだけの頭と足がある。
「ひとつになりたい、なんて私は思わない。……二人だから良いんだ」
ずっと一緒、なんて無理なことは分かっている。いつか自分たちも道を分かつときが来る。けれど、それでも自分たちはつながっていられると信じているから。だからこそ、こんなところで喜八郎を失うわけにはいかなかった。
「……行かなくては。喜八郎を連れて、ここから逃げるんだ」
滝夜叉丸は手に取った日記を元の場所に戻し、ゆっくりと踵を返した。ゆらりと揺れる灯が足下を照らす。けれど、それが逆に周囲の闇を際立たせていた。その闇がまるで自分を飲み込みそうに思えた滝夜叉丸は、胸に不安が迫るのを押し殺して再び消えた喜八郎を捜して歩き出した。
「ずっと一緒だって、約束したんだ。――だから、僕たちはずっと一緒にいる」
喜八郎は小さな呟きを口から零した。目の前には、白い死に装束を真っ赤に染めた女が立っている。不思議と恐ろしいとは思わなかった。むしろ、彼女に親近感すら覚えている。だから、喜八郎はその少女を慰めるように、その頬に手を伸ばした。
「……どうせ置いて行かれるのに? 私はずっと待っていたんだ。けれど、雷蔵は戻ってきてはくれなかった……」
「滝夜叉丸は必ず僕を迎えに来る」
「お前だって置いて行かれる。……それとも、雷蔵は戻ってきてくれるかな? 私を殺しに、戻ってきてくれるのかな」
伸ばした手が少女の身体に入り込む。質量のないその身体は、けれど喜八郎を飲み込むようにゆっくりと彼女へ近づいた。次第に身体が重なって、二人の身体がひとつになる。けれど、それに不快感はなかった。――二人の望みは一致していたのだから。
(……今は滝夜叉丸も僕を助けに来てくれる。けれど、そのあとは……いつかきっと、あの人のところへ行ってしまう)
喜八郎の胸に巣くうのは、己の半身がいずれ自分とは違う誰かを選ぶという恐怖だ。双子であっても同じ人間ではない以上、それは仕方のないことと分かっている。けれど、頭ではそれを理解していても、心までは納得できない。どうしても己の頭へ入りこむその恐怖に、喜八郎は身を竦ませた。
『なら、ひとつになれば良い。――そうしたら、ずっと一緒にいられる』
頭のなかで声がする。それはあまりにも甘い誘惑だった。
(別々の道を歩む前に)
『ひとつになってしまえば良い』
妹は蝶になり村を見守り、姉は現世で村を見守る。この村にしかない、二つのものがひとつになる儀式。
「……ねえ、滝夜叉丸。僕も、君とひとつになりたい」
思い出したのは、幼いあの日のこと。山道を先に行く滝夜叉丸の背中が次第に遠くなって、追いつけなくなるような気がしたあのとき。自分はどうした?
(わざと崖から落ちた)
滝夜叉丸を引き留めるためなら、怪我も――己の命すら省みなかった。ただ、滝夜叉丸が傍にいてくれるならそれで良かったのだ。それが結局、偽らざる自分の望み。
「ねえ、滝夜叉丸……僕を蝶にしてよ」
ずっとずっと彼女の傍で、決して離れることのない存在になる。それは喜八郎の頭にひどく甘美に響いた。そしてその願いが、喜八郎を別の存在と融け合わせていく。
『――ねえ、殺して』
その喉から漏れた言葉は、もはや彼女ひとりのものではなかった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒