鈍行
▼花嵐一夜
その頃、二人の二年生はそれぞれ教員たちに告げられた五、六年の実習地へと向かっていた。五年の実習地は山を二つ越えた先の合戦場であり、六年の実習地は別の山を三つ越えた先にあるとある城である。二人はお互いに顔を見合わせた後、励まし合うように頷き交わし、互いに背中を向けて走り出す。
その二つの影を眺めている集団がふたつ。
「……伝令が行ったな。先に始末するか?」
「いや、泳がせよう。それぞれどうも別の場所へと実習に行っているらしいが、集まられると厄介だ。かと言って、事が終わる前に戻られても困る。――実習中に不運な事故に遭っていただこう」
ぼそぼそと言葉を交わすは数人の武士たち。しかし、殺気を抑えて茂みに隠れる様は、皮肉にも彼らが今から排斥しようとしている忍の様子によく似ていた。彼らは遠ざかって行く二つの背中をそっと眺めた後、二手に分かれて彼らを追う。そんなことなど露知らぬ少年たちは、ただ必死に助けを求めて駆けていた。
「――敵も集まって来たな」
「一体、どうしてこんな急に軍勢が攻めてきたんでしょうね……しかも、宣戦布告もなしに」
忍術学園正面の物見櫓へと登った滝夜叉丸に、同じく傍らに立っていた一年い組の彦四郎が呟いた。それにこくこく、と一年ろ組の怪士丸も頷く。それは滝夜叉丸も気になっていたことだったので、同じく溜め息を吐いた。
「分からん。……だが、先輩方がことごとくいらっしゃらない時を狙って攻めて来たことを考えると、どこかから情報が漏れたんだろうな。さて、今も情報が漏れ続けているかどうか、それが問題だが……」
しかし、それ以上は何も言わずに滝夜叉丸は不安そうに自分を見上げる下級生の頭を撫でた。少し強めに押し付けられるその手のひらに、彦四郎と怪士丸がそれぞれどこか安堵したように固くしていた表情を緩める。それに彼女はいつもの勝気な――と言うよりもどこか陶酔した――笑みを浮かべて、〈常の通り〉に唇を開いた。
「ま、この優秀な平 滝夜叉丸が居る限り、どんな敵が攻めて来ようとも負けるわけがないがな!」
滝夜叉丸の言葉に普段は余り親しくない下級生が顔を見合せた。その表情の渋さは全く先程の緊張を残すことはなく、滝夜叉丸は己の思惑通りに下級生を誘導したことに内心にやりと笑った。
「先輩、どのあたりに穴を?」
「穴じゃない、狼穽ろうせいか塹壕って言って」
「……狼穽と塹壕はどのあたりに?」
一方、忍術学園の裏側では作法委員会の先輩後輩が半ば漫才のようなことを繰り広げていた。どちらかと言うとへそ曲がりな喜八郎が真面目な藤内を一方的にからかっている、というのが正しいのではあるが。彼女は地図を持ちながら苦虫を噛み潰したような表情で自分を見やる後輩に、溜め息をひとつ吐くと指を持ち上げた。
「こことこことこことこことこことこことここ。それからこのあたりに狼穽。山の中はあちこちに作り過ぎて、もう印付ける方が大変だと思うけど」
「……貴方は一体どれだけ穴を掘って来たんですか、本当に! 偶には塹壕掘りぐらいに委員会活動にも熱心になってくださいよっ!」
悲鳴染みた声には積年の恨み辛みが籠っている。それに喜八郎は無表情のままで肩を竦め、その後に珍しく口の端を上げた。
「でも、今役に立ってるでしょ?」
しれっと告げる喜八郎に、藤内が珍しく激昂したのは言うまでもない。その光景に同じく裏側に詰めていた下級生たちの表情も緩む。図らずも緊張の緩衝材となった二人の遣り取りに、ただ日向だけが額に手を当てて溜め息を吐いていた。
「それで、どうするんですか?」
「相手とやり合うって言ったって、数が違い過ぎますよー……」
自分の袴を小さく掴む下級生に滝夜叉丸は小さな溜め息を吐いた。やはり忍たまと言えども、最下級生である彼らは戦にも不慣れな子どもというわけだ。――もっとも、一年は組であれば反応はまた違ったかも知れないが。
そんなことを考えつつ、滝夜叉丸は彼らの不安を掻き消すように傲慢な態度で鼻を鳴らす。自慢の髪をさらりと払って、彼女はもう一度口を開いた。
「馬鹿タレ、誰が正面切って戦うと言った。――忍の極意は文字の通り、忍ぶことにある。精々、奴らには踊ってもらうさ」
「……それってつまり……そのう、あのう、闇討ちしたりとか、同志討ちさせたりとか、そういうことですか?」
彦四郎が少々渋い顔で呟く。その反対側で自分にしがみつく怪士丸も似たような表情だ。それに滝夜叉丸は彼らの素直さを感じると同時に、まだまだ忍としては未熟な下級生を導くように彼らの頭を小突いた。
「忍に卑怯もクソもあるか。我々に求められるのは常に結果であり、過程ではない。――目的のためには手段を選ばぬのが忍だ。お前たちも覚えておけ。忍は常に闇に生きるものだ、奇麗事が好きなら武士にでもなるが良い」
「滝夜叉丸の言う通りだ! そして今、正面切って奴らと戦えば、まず間違いなく負けるのは我々であることも忘れるな! 忍には忍の戦い方がある。……滝夜叉丸、裏側の用意が出来たようだ。こちらも準備を頼む」
唐突に背後に現れ、会話に割り込んだ厚着に下級生たちがことごとく魂を飛ばす。それを手慣れた仕草で捕まえながら、滝夜叉丸は厚着の問いに頷いた。
「ええ、私ならばいつでも準備は出来ております。――裏山から先の山々は全て体育委員会の庭のようなもの。裏道や猛獣の住処、罠の数に至るまで隅々まで把握しておりますよ」
「さすがだな、あの小平太について行くだけはある。もう一人付けるから、二人で敵を誘導してくれ」
「三之助ならお断りですよ、あれは方向音痴すぎて役に立ちませんから」
厚着の言葉に滝夜叉丸は思わず反論していた。彼の困った性癖については、多分同じ組である富松 作兵衛の次に滝夜叉丸が理解している。それを厚着も理解しているのか、苦笑しながら頷いた。
「二年の四郎兵衛が居たら迷わずあいつに頼むのだが、使いに出してしまったからな……。保健委員の三反田 数馬と川西 左近、方向音痴の神崎 左門と次屋 三之助を除くと……残るは伊賀崎 孫兵、富松 作兵衛、浦風 藤内、池田 三郎次か」
「ならば、孫兵を。彼の虫獣遁は山中でこそ役に立ちましょう」
滝夜叉丸は厚着が並べた人員から瞬時に連れて行く人間を決めた。その表情にも声にも迷いはない。強気な笑みを口元に刷き、顎に指を当てて既に謀を巡らせている。彼女の表情に厚着は頼もしげな笑みを浮かべながら、その袴にしがみついている彦四郎に孫兵を呼んでくるように告げた。
「お呼びと聞いて参りました」
「ああ、呼んだ。――お前には滝夜叉丸と共に山へ入り、敵を減らしてもらう」
「滝夜叉丸先輩と……?」
彦四郎に連れられてやって来た孫兵に、厚着が決定事項だけを告げる。それに孫兵は眉を上げ、訝しげにその傍らへ立つ滝夜叉丸へ視線を向けた。それに滝夜叉丸もまた同じく笑みを浮かべてから、孫兵へと向き直る。
「何だ、孫兵。従うのが私では不服か? この優秀な平 滝夜叉丸、全てにおいて他者より勝っておる。お前はただ私について来れば良い」
「誰もそんなことは言っていないでしょう。――ただ、山中に敵を誘い込むならば、体力が必須。それならば私より左門や三之助、作兵衛の方が適任と思ったまでです」
その言葉に滝夜叉丸は露骨に嫌そうな顔をする。孫兵の言葉に肩を竦めた後、彼女は問いの答を舌に載せた。
「―― 第一に左門と三之助だが、あの方向音痴どもを敵の誘い込む山中に放逐するなど正気の沙汰ではない。次に作兵衛だが、確かにアレも適任であるが、それ以上にお前の虫獣遁が今必要なのだ。分かるな? ――あちこちにある罠に毒虫を二、三仕掛けておくだけでも敵の減り方は違う。それに……」
そこで滝夜叉丸は一度言葉を切って、自分たちの許へ駆け寄ってくる下級生二人を迎えた。
「お前たち、持ってきてくれたか?」
「はいっ! 保健委員会特製の〈もっぱん〉と、霞扇の術のための薬です!」
「ふむ、確かに受け取った。新野先生と数馬に礼を言っておいてくれ。――これで分かったろう、孫兵?」
「……僕の獣たちにもっぱんや薬を運ばせる気ですか? 彼らが巻き込まれないとも限らないのに」
「非情と言われようとも、それが忍だ。――お前には辛いかもしれないが、な」
孫兵の呟きに滝夜叉丸は小さく吐き捨てた。今の状況で孫兵の心情まで慮おもんばかるほど余裕があるわけではない。第一、生物委員会で飼っている生物のほとんどは忍術に――遁術や伝達などに使う生き物だ。どんなに可愛がっても、いつかは己の勝手で殺さねばならぬ時も来る。半ば自分に言い訳しながら、滝夜叉丸は俯いている孫兵を促した。
「――なるべく減らさぬ努力はする。だが、確約はできない。だが、この使い方ができないのなら、お前は生物を使う忍には向かぬよ」
「……分かっています。分かっては、いるんです」
孫兵は震える声で滝夜叉丸に応じた。それでも辛そうに唇を噛む孫兵の肩を、厚着が叩く。
「孫兵、生き物を使えるようになることと、生き物を平気で殺せる――見殺しにできるようになるのとでは、訳が違う。いずれかは慣れてしまうやもしれないが、忍もまた人。三禁に溺れるのは良くないが、人であることを忘れてもいけない。私はそう思う」
「厚着先生……」
滝夜叉丸は自分にもまた視線を向ける厚着に頷くことで応じ、その身を翻した。孫兵に背を向けながらも、張りのある声で宣言する。
「我々の出立は小半刻(約三十分)後だ。――その間に全ての支度を済ませ、正面門前に集合!」
「……心得ました!」
孫兵の応答に滝夜叉丸は振り返らなかった。彼女はただその場から無言で辞し、己もまた支度を整えるために走って行く。その拳は固く握られ、下級生に我慢を強いる己の不甲斐なさに彼女は唇を噛み締めていた。
「……滝夜叉丸が行ったみたいだね」
綾部 喜八郎が小さく呟いた。先程の定時連絡で四年の平 滝夜叉丸と三年の伊賀崎 孫兵が先発して敵を裏山へ誘い、罠に誘き寄せて数を減らすという作戦が届いたばかりだ。それを聞いてからまだそう時間も経っていないのにどうしてそんなことが分かるのだろうか、と綾部の補佐をしていた浦風 藤内はちらりと喜八郎を見上げると、その視線には振り返らずに喜八郎がとある一点を指差した。
「ほら、ご覧よ。あの辺りに人が流れ込んでいる。――上手く引きつけたんだろう」
「あ……」
確かに、山の中へ数人の武士たちが駆け込んでいる。何かを追うように一目散に駆けて行くその姿に藤内は顔をしかめた。
「……孫兵も、あそこに居るんですよね」
「大丈夫。滝が居るからね。――あれで後輩思いだから」
それは嘘だ、と藤内は思わず胸中で反論した。本当に後輩思いならば、げんなりしている後輩を尻目に自慢をし続けるような真似などするはずない。しかし、それを口に出せるほど藤内は命知らずではなく(特に、喜八郎は何故か滝夜叉丸びいきと来ている)、ただ溜め息を吐いて己の同輩を案じるのだった。
「……上手く掛かりましたね」
「当たり前だ、私が仕掛けたのだぞ」
一方、山中を駆ける滝夜叉丸と孫兵は上手く罠を避けながら敵を山深くまで誘い込んでいた。近道も回り道も、日常的に裏山を駆けている忍たまである彼女たちは知り尽くしている。更に普通の忍たまたちよりも裏山を活動場所にすることの多い体育委員と生物委員の二人だ。視線を交わし合うだけで次の罠を定め、二人は走る速度に緩急を付けながら敵を誘い出した。
「うぎゃあああっ!?」
「お、落とし穴だあああ!」
男たちの醜い悲鳴が響き渡る。滝夜叉丸はそれを尻目にくつりと笑った。
「あの穴は喜八郎が丹精込めて掘った揚句、竹槍を仕込んだ特製のものだ。――味はさぞかし良かろうよ」
「貴方は時折、ひどく意地が悪くなりますね」
「意地が悪いとは人聞きの悪い。――忍として謀を巡らすは当たり前のこと。お前にも、そのうち分かるさ」
孫兵は美しい顔を歪めて笑う滝夜叉丸に顔をしかめた。後ろを振り返れば、荒々しい、いかにも下卑た兵士たちが己らを嬲り殺しにしようと駆けている。しかし、そのうちの半分以上は既に滝夜叉丸たちの仕掛けた計略にはまり、あちらこちらで戦闘不能になっていた。
「次の穴に仕掛けはない。もっぱんでも投げ込んでおくか」
「……風向きに気を付けていただかないと、我々にも被害が及びますよ」
「私がぬかると思うか?」
「言ってみただけです」
この一年だけ上の先輩が孫兵は苦手だった。尊大で騒々しく、己の才をひけらかす。自分が慕う二つ上の先輩とは大違いだ。けれど、今だけは確かに頼りになる、と思う。既に彼女の企てによって外で屯たむろしていた有象無象の四分の一ほどを始末できた。五、六年がいつ戻るか分からぬ今、とにかく敵を減らすことが急務なのだ。
「案ずるな、孫兵。――四郎兵衛も久作も必ず役目を果たす。先輩方も直戻られよう」
「そんな心配をしているわけでは」
「お前は案外甘ったれだからな、竹谷先輩がいらっしゃらないと不安で仕方がないのだろう。普段は澄ましていても、やはり子どもということか」
「何を……! 僕と貴方とではひとつしか違わないではありませんか!」
「だが、お前とて二年を子供扱いしておろう? ――さて、そろそろ良いか。これ以上進めば学園に戻るのが遅くなる。ここまで入り込めばどう転んでも罠があるからな。あやつらには精々苦しんでもらうとするか」
しかし、孫兵の抗議も全く意に介さず、滝夜叉丸はちらりと一度だけ背後を振り返った。既に追手は自分たちを血眼になって追っている。彼らにとっては幼いとしか見えない子どもに翻弄されたのが腹立たしくて仕方がないのだろう。熱くなればなるほどにこちらの思う壺なのだから、滝夜叉丸は敢えて己を追う男どもに笑みを向けた。――まるで婀娜あだな遊女のような、ひどく甘い笑みを。
「…………貴方という人は」
「孫兵、覚えておけよ。忍者ならば使えるものは何でも使う。――生まれ持ったこの美貌、使わずしてどうする。さぞや頭に血が上ったことだろうよ」
孫兵より少し先んじて走り、滝夜叉丸は学園へと戻る道を辿る。その速度たるやさすがは体育委員と言うべきか、先程までの駆け足は準備運動でしかないことを教えていた。孫兵は自分がついていける限界を走る滝夜叉丸の背を追いながら、一年の差はかくも深いものなのか、と唇を噛み締めたのだった。
先発して敵を山へと誘い込んだ滝夜叉丸、孫兵の二名が戻ったと聞き、三木ヱ門は手筈通りに腰を上げた。
滝夜叉丸は宣言通り、敵の四分の一を減らしてくれたようだ。――大言壮語だと思っていても、その凛と伸びた背に頼もしさを感じるのが不愉快である。けれど、その不愉快を飲み込んで、三木ヱ門は己の任務を果たすために愛しい石火矢たちの標準を合わせた。
「――標的は巽たつみ、蹴散らすぞ!」
「了解しました!」
自分の補佐として入っている下級生たちがそれぞれに声を上げる。その士気の高さに三木ヱ門はニヤリと口の端を上げ、少しこの勢いに飲まれているタカ丸へと声を掛けた。
「タカ丸さん、貴方の出番ですよ! ――これから我々は敵への砲撃を開始します。火薬を切らさぬよう、三郎次と二人で手分けして火薬壺を運んでください。但し、ここは火気も多くなります。暴発しないように細心の注意を払ってくださいね!」
「わ、分かった」
緊張した顔で頷くタカ丸に、三木ヱ門は意識して笑みを向けた。強気なその笑みは、常に彼が湛えているもの。大丈夫ですよ、と唇に乗せれば、タカ丸も下級生たちも目に見えて少しの安堵に表情を緩ませた。
(――ああ、こういうことか)
上の人間の表情が重要だ、という滝夜叉丸の言葉を三木ヱ門は身に沁みて理解した。緊張すればするほど、失敗も多くなる。そうならないために上の人間は鷹揚に構え、彼らが動きやすい雰囲気を作らなくてはならない。
「ちっ、癪に障るな」
誰よりも先にい組がそれを知っていたことに、三木ヱ門は置いて行かれたような気持ちになって小さく漏らした。しかしすぐに頭を切り替え、彼もまた戦いの中へと身を投じる。――傍の石火矢が合図と共に火を噴き、眼前に蠢く敵兵たちを吹き飛ばした。
「……三木ヱ門たちの砲撃が始まったか」
「お疲れ、滝。はい、お水」
「ああ、すまんな。――孫兵、どれだけ毒蝶を放った?」
裏山から戻って来た滝夜叉丸と孫兵を出迎えたのは、裏を守っていた喜八郎だ。彼女は持っていた竹筒を滝夜叉丸に放り、滝夜叉丸はそれを受け取りながら同じく藤内に水を手渡されている孫兵を振り返った。孫兵は滝夜叉丸の問いに少し渋い表情をしながら、溜め息と共に口を開いた。
「飼育小屋に居た子たちは全て出してあります。――どれだけ戻ってくるのやら」
「仕方がなかろう、それが虫遁というものだ。喜八郎、今度の定期連絡で裏山にはもう近付けぬことを回しておいてくれ。毒蝶の鱗粉は微量だが、長期で吸えば効くからな。――さて、しっかり吸いこんでくれると良いのだが」
裏山に放った蝶たちの動きは孫兵に任せてある。虫は人の意思がほとんど通用しない生き物だが、その生態を逆手にとって従わせれば良い。そして、その手の術に長けた孫兵は滝夜叉丸にとって格好の手駒だった。
「私はこのまま表に戻る。孫兵、お前はこのままここで虫たちの動向と、場合によっては他の生物の投入を。時期や量、種類に関してはお前に任せる。――憐れんで道を違えるなよ」
「……分かっています」
釘を刺されたことにむっとしながらも、孫兵は渋々頷いた。心配そうに己を見る藤内に大丈夫だと目で伝え、彼女は既に己から背を向けている滝夜叉丸を見詰めた。
「――嫌な人だ」
彼女の働きを見ていては、嫌だなどとは言えないのだから。
自分以上に汚い手を使って武士もののふたちを陥れ、誰よりも汚れ仕事を厭わない先輩。その背中の大きさはまるで己が慕う二つ上の先輩と同じようで、彼女は己の中に燻ぶる把握しづらい不快に唇を噛み締めた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒