鈍行
▼知らなければ良かった(知りたくなどなかった)
――七松 小平太が実習先から戻らない。
そんなことが囁かれ始めたのは、五年生が校外実習へ出向いて四日目の夜のことだった。
「――へえ、実習ですか」
「ああ、だからその間は体育委員会を頼むぞ、滝!」
「勿論です、この優秀な平 滝夜叉丸が華麗に下級生たちをまとめ上げてみせましょう」
平 滝夜叉丸は自分の頭を手荒く撫でながらそう告げる七松 小平太に胸を張ってそう告げた。特に五年生になってからは上級生が不在のために委員長代わりとして委員会を率いる小平太が、学園を長く留守にするような実習も増えている。その度に次の最高学年である滝夜叉丸が二年生である次屋 三之助と一年生の時友 四郎兵衛を率いて体育委員会の活動を行っているのだ。とはいえ、小平太が居ない委員会活動は実技の授業のためのルート作りや罠・障害物の作成など〈普通の委員会活動〉となるのだが。
それに滝夜叉丸も三年生とはいえ、普段から暴走しがちな小平太の手綱を取り、更に無自覚方向音痴の三之助やまだ体力のない四郎兵衛を捌きながら今まで委員会活動をこなしているのだ。それこそ、小平太が居ない分だけ気に掛ける事項が減って楽になるというものである。しかし、彼が居なければ「体育委員会」という雰囲気が起こらず、やはり体育委員会に小平太が必要な存在だと改めて思い知らされるのだ。
「五日が期限だって話だけど、サクッと終わらせて三日くらいで帰ってくるからなー!」
「またそんなことを仰って……。この前もそんな風に急いて事を仕損じたのではありませんか? 忍には精度というものも重要ですよ、先輩」
「何おう!? この、三年のくせに生意気なー!」
「ぎゃーっ、やめてください! 髪の毛が乱れるっ!」
先日の実習でも最後の最後で事を急いで評価を落としたということがあり、滝夜叉丸はそれを思い出して溜め息と共に彼へと呟く。それに小平太は怒るどころか笑いながら、滝夜叉丸の頭を両手で鷲掴みにしてぐちゃぐちゃにした。
――そんな風に、実習前の小平太は本当にいつも通りだったのだ。普段通りであるのならば、何らかのヘマをしても持ち前の身体能力で大抵のことは切り抜けてしまう。それゆえに滝夜叉丸たちは心配もせずに、また彼が数日後笑顔で戻ってくると信じて疑わなかったのだ。しかし、彼は同学年の五人が戻ってきた今も学園に戻らず、次第に学園内にも不安な空気が漂い始めた。
五年生で一番初めに帰ってきたのはい組の立花 仙蔵、続いて潮江 文次郎である。続いては組の食満 留三郎、ろ組の中在家 長次と続き、最後の善法寺 伊作は先程――四日目の夜にボロボロになって戻ってきた。但し、彼女の場合は実習云々というよりも持ち前の不運が作用してあのような状態になったのだろう。戻らないのは小平太だけ。それに不安が募るのは当然だったと言えよう。
「……小平太が……」
「あっちには誰が……」
「……迎えに行くべきか」
五年長屋の傍や職員室でこのような会話が交わされる。期限である五日目を迎えた滝夜叉丸は、その話を聞きながら強烈な不安に駆られた。しかし、それを表に出せるほど滝夜叉丸は素直な性格ではない。敢えて無表情を装い、彼女は常と同じく生活をした。
「……滝夜叉丸先輩、小平太先輩が……」
「大丈夫だ、四郎兵衛。あの七松先輩がどうにかなるわけないだろう。どうせまた、何か面白いものでも見つけて寄り道しているのだろうさ。――そのうちひょっこり戻ってくる。心配することはない」
「でも、学園が大好きな先輩がこっち戻ってくるのを忘れるほど面白いものなんて、実習先で見つかるんですかねえ」
一年生の四郎兵衛は彼女とは違い、小平太をしきりに心配している。あれだけ振り回されているにも関わらず、不思議と体育委員の中に本気で七松 小平太を嫌っている人間は居なかった。それゆえに下級生たちは揃って小平太を心配している。特にいつの間にか上級生が居なくなった体育委員会にとって、小平太は唯一の高学年でもあるのだ。委員会を締める滝夜叉丸が居るとはいえ、下級生たちの不安は募るばかりなのである。
勿論、滝夜叉丸とて本音を言えば不安で仕方がない。けれど、下級生の手前、それを見せないのが上級生だ。彼女はただ胸を張り、すぐに戻ってくるの一点張りで下級生二人を宥め続ける。それに三之助の方が小さく溜め息を吐いた。
「あんたって、本当に意地っ張りっすね」
「先輩に向かって〈あんた〉とは何だ、三之助。第一、お前は人の心配などしている余裕などなかろう。そんなことをしている暇があるのならば、少しでもその壊滅的な方向音痴を直したらどうなのだ、ええ?」
滝夜叉丸はそんな三之助の後頭部を張り倒すと、普段よりずっと人間的な、しかしそれでも他の委員会とは比べ物にならないほどきつい委員会活動へと後輩二人を追い立てた。――そうしてその日も終わり、結局五日の期限を迎えても小平太は戻って来なかった。
「……まだ戻ってこないの?」
「ああ、一体どこで道草を食っているのやら」
「不味い草でも食べて、お腹壊してるんじゃない?」
「……否定しきれないのが辛いところだが、あの人の胃は丈夫だからな。多少の草では太刀打ちできまいよ」
長屋に戻ってきた滝夜叉丸に喜八郎が呟く。主語がなくとも誰を指しているのか分かった滝夜叉丸は、肩を竦めて返した。その滝夜叉丸の言葉を受けて、喜八郎は軽く笑う。それが自分を励まそうとしていることに気付いた滝夜叉丸は、溜め息を吐いた後にもう一度笑って肩を竦めた。何でもない振りをする滝夜叉丸に喜八郎は少しだけ眉をひそめたが、結局何も言わずにただ目を伏せて、厠へ向かう滝夜叉丸の背中を見送った。
「――滝夜叉丸先輩」
「四郎兵衛か。お前も厠か?」
「はい。あの……七松先輩はやっぱりまだ?」
「今のところ、私の許へはお戻りになったという情報は入って来ていないな」
「――やっぱり、何か」
四郎兵衛の小平太を案ずる声はそこで途切れた。滝夜叉丸が彼の唇に人差し指を乗せたためだ。驚いて固まる四郎兵衛に、滝夜叉丸はただ首を横に振った。
「それ以上は言うな、四郎兵衛。……言葉には力が宿る。滅多なことは口に出すものじゃない」
「先輩……」
「七松先輩は直にお戻りになる。分かるな?」
「……はい!」
滝夜叉丸の言葉に四郎兵衛が元気良く返事をした。それに彼女はにっこりと微笑み、彼と連れ立って厠へと向かう。厠の前では何故か寝間着姿の三之助がうろうろとしていて、滝夜叉丸と四郎兵衛は顔を見合わせた後に揃って溜め息を吐いた。
「……何をしている、三之助」
「あれ、滝夜叉丸に四郎兵衛? 二年長屋で何をしてるんだ?」
「先輩をつけろ、馬鹿者。――それにここは二年長屋ではなく、厠の前だ。四郎兵衛、先に使え。その間、私は三之助を捕まえておく。その後は……分かるな?」
「はい、僕が二年長屋までお送りします」
「そうだ、偉いぞ」
「えへへ」
滝夜叉丸は己の望む行為を察した四郎兵衛の頭を撫でる。そんな二人のやり取りを不審げに眺めながら、三之助は再びどこかへ歩き去ろうとした。明らかに別方向へ向かう三之助の襟首を掴み、滝夜叉丸は四郎兵衛に早く用を足すよう手を振る。それに彼は慌てて頷き、飛び込むように厠へと入った。
「放せよー!」
「阿呆、放したら今度はどこで発見されるか分からないじゃないか。四郎兵衛が戻ったらお前を二年長屋まで送り届けるから、それまで待ってろ」
猫の子を摘むように三之助を捕まえた滝夜叉丸に、彼は暴れる。しかし、滝夜叉丸はそれを片手で華麗に捌いて、おまけとばかりに三之助の頭を小突いた。それに彼は後頭部をさすりながら、滝夜叉丸を睨み付ける。
「何で下級生に自分の部屋まで送られなきゃならないんだよ」
「それは二年長屋に居たはずのお前が自分の部屋どころか二年長屋すらも外れて、厠の前に居ることで分かるだろう?」
「別に厠に来たかったわけじゃ……」
「だから、四郎兵衛に送らせるんだ。大体、どこに行こうとして長屋を出たんだ、お前は」
「作兵衛の部屋に寄ろうとしただけっすよ」
「…………組長屋は一所にまとまっていると思っていたがな。お前は隣近所の部屋にすら行けんのか……」
滝夜叉丸は後輩の余りの事態に深い溜め息を吐いた。一年の頃から方向音痴であったが、年々その度合いは増しているように思われる。これで高学年になったら、ひとりの実習でどうするつもりなのだろう、と滝夜叉丸は思わず不安になった。――自覚している分だけ、まだ会計の左門の方がましだ。無自覚だからこそ、知らぬうちにひとりで敵地の奥深くまで入り込みそうで怖い。その背中に未だ戻らぬ人物の背中が重なって、滝夜叉丸は小さく息を吐いた。
「…………早く、戻ってくると良いんですけどね。あの人が居ないと、どうも締まらねえ」
「お前が引き締まっていた日を見たことがない気がするのは私だけか?」
「失礼な」
「お待たせしました〜」
滝夜叉丸の小さな吐息に反応した三之助の呟きを、彼女は茶化すことで応じた。二人とも、思うのは同じこと。空に掛かった月が、表情の曇った二人の顔を照らしていた。
そこに戻ってきたのは厠で用を足してきた四郎兵衛である。体育委員の先輩二人が傍に居るのが嬉しいのか、にこにことした顔で二人へと駆け寄ってくる。滝夜叉丸はそんな彼に「慌てる子どもは廊下で転ぶ」と標語を呟いてから、掴んでいた三之助を四郎兵衛の前へ差し出した。彼も心得たもので、三之助の手をしっかりと握って滝夜叉丸に笑いかける。
「さあ、もう遅い。お前たちはもう寝るんだぞ。――きっと、明日には心配事もなくなるさ」
「そうですね! さ、先輩、行きましょ! 僕、二年長屋へお送りしますね!」
滝夜叉丸もそれに応えるように、彼ら二人の背中を押しながら笑った。言葉に力が宿るなら、この言葉が本当になるようにと願いを込めて。
二人の背中が廊下の角に消えるのを見送ってから、滝夜叉丸はようやく厠へと足を運ぶ。個室へと入った後、そこでようやく彼女は息を吐いた。――堪え切れない涙が、一滴、二滴と零れ落ちていく。
(……ああ、こんな想いは知りたくなどなかった)
心が震えて、千切れそうになる痛みを感じるものなど知らなければ良かった。滝夜叉丸は涙を堪え切れずにそう思う。
本当は小平太が実習や危険なお使いに出る度に思っていたのだ。けれど、小平太はいつも彼女が案じていることを知っているように、予定より早く戻ってくることが常だったから。だから、彼女はこんな気持ちを知らないで――見ない振りをしていられた。けれど、こうなってしまえば、もう駄目だ。
「――こんなことではいけないのに」
自分はいずれ平を率いていく身。棟梁がたったひとりの人間に執着するのは、罪だ。自分を信じてついてくる郎党や部下たちを裏切る行為である。もし、その人物が失われた時に、きっと自分は冷静な判断などできなくなって、彼らを無駄死にさせてしまう。滝夜叉丸はそれではいけないのだ。切り離さなければ、己からこの想いを。
用を足して厠から出た滝は、大きく息を吸い込んだ。それでも思うことは、早く戻って来て欲しいと思うことばかり。――生きていることさえ分かっていれば、きっといつかは忘れられる。どうしても小平太のことを考えてしまう自分にそう言い訳しながら、彼女は暗い足取りで長屋へと戻るのだった。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『知らなければ良かった(知りたくなどなかった)』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒