鈍行


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▼たすけ て



「七松、先輩」
 実習から七松 小平太が戻ったのは、期限を二日過ぎた七日目の昼のことだった。二人の教員に両脇から抱えられて学園へ戻ってきた彼の姿はボロボロで、明らかに危険な出来事に遭遇した様子だ。駆け寄っていく五年生たちと体育委員の下級生と一緒に滝夜叉丸もまた彼の許へ駆け寄ろうとして、その足がふと止まった。
(――忘れるのでは、なかったのか? 私は、もう自由の身では居られないのだから)
 ごくり、と喉が鳴った。駆け寄りたい気持ちと、それを抑える自分の理性が競り合う。彼を慕う〈後輩〉として素直に駆け寄ることもできず、滝夜叉丸は途方に暮れて立ち止まった。その彼女に気付くように、小平太が顔を上げる。その視線は真っ直ぐに足を止めている滝夜叉丸へと向けられ、正確に彼女を射抜いた。
「――っ、先輩……あの、お帰りなさい」
 堪らずに叫びだしたくなるのを抑え、滝夜叉丸は静かに言葉を紡いだ。しかし、ボロボロになって帰って来た小平太に何を言えば良いのか分からなくなる。――心配の言葉は同輩も後輩も既に言った。自分からの心配は要らないのではないかと変なことを考える。それに自分自身、彼の顔を見るたびに決意が揺らぐので、どう反応して良いのか分からないのだ。どうにも覚悟が決まらないまま滝夜叉丸が近付くと、小平太は少し複雑そうな顔で笑った。
「とりあえず、ただいま。心配掛けて悪かったな。ちゃんと委員会活動はしてたか?」
「あっ、当り前じゃないですか! 私を誰だと思ってるんですか、学年一優秀な平 滝夜叉丸ですよ!? 貴方が居ない間も体育委員会は正常に機能しておりました! だから、だから……今はゆっくり休んでください。私が居る限り、体育委員会は安泰だと思っていただいて構いませんよ」
「さすがは滝夜叉丸。……もうしばらく頼むぞ」
「承知いたしました」
 彼に群がる人々と同じく素直に心配できない自分に半ば嫌悪感を覚えながらも、滝夜叉丸は必死に彼へと胸を張った。平 滝夜叉丸は俯かない。――何があろうとも、平の棟梁は揺らいではならない。父のように、何があっても泰然としていなければ。
 小平太はそんな滝夜叉丸に少し困ったように笑ってから、常とは比べ物にならないほどゆっくりとした仕草で彼女の肩を叩いた。それを契機に再び周囲が動き出す。動けないでいる滝夜叉丸を置いて、彼らは小平太を保健室へと連れて行く。その一団を見送りながら、滝夜叉丸は結局それ以上一歩も動くことができなかった。



「――滝、どうだった?」
 人が引ききった保健室で、自分の世話のために残った善法寺 伊作に小平太は尋ねた。彼女はその質問の意味を正確に汲み取って、溜め息を吐く。
「ひどく、不安定だよ。……何でもないような振りはしていたけど、かなり来てるね。あの子は強くて、脆い。一体何があの子をあんなに追い詰めているのか分からないけど、元からあった悩みが小平太の不在で色々と考える時間ができて噴出したみたい」
「そっか」
 小平太はヘマをした自分にほとほと嫌気が差していた。教師から伝えられた情報とは状況が全く違い、驚いたことは確かだ。しかし、五年間の積み重ねがあればきちんと対処できたはずなのだ。それを失敗して追われる身となったのがいけなかった。自慢の足で何とか逃げ切っては来たものの、約束した期日を遥かに過ぎてしまったのだ。自分が振り回しているうちは無駄なことを考えないことは分かっていたのだから、自分がもっと早く戻ってくればあんな顔はさせなかったのに、と小平太は唇を噛んだ。
「でも……いつかはどうせ向き合わなくちゃならない問題なら、逆に今出て良かったんじゃない?」
「え?」
「もし、このまま何もないままにいっていたら……小平太の卒業した後にその問題が浮き彫りになったわけでしょ? そうなったら、僕らは――いや、小平太は何もできない。だから、そうなる前にこういう機会が持てて、逆に良かったんじゃないかな」
「そう、かな」
「さあ。僕には分からない。滝夜叉丸の問題には、僕は関われないから」
 伊作はそう呟いてから、濡れた手拭いで小平太の額を冷やした。傷の所為で熱が出始めているのだ。次第に言葉が途切れてきたのは、先程飲ませた薬湯に混ぜておいた催眠効果のある薬が効いて来たのだろう。伊作はそのまま小平太が眠るに任せ、彼を治療する際に散らかした様々なものを片付けに彼の傍を離れた。
 一方、滝夜叉丸はあちこちから耳に入る小平太の〈事情〉に唇をかんだ。――噂によれば、教師が調べてきた時よりも実習地の状況が急激に悪化し、忍務を遂行するにあたり様々な障害が起こったのだという。それでも忍務を遂行しようとした小平太はその間で敵兵及び忍に発見され、追われる立場となったのだと。
 小平太で良かったという声もちらほら聞こえた。もし彼でない人間がその場にいたら、きっと逃げ切れなかっただろうと。そんな話を聞きながら、滝夜叉丸は長屋で再び唇を噛み締めた。そうでなければ、誰彼構わず怒鳴り散らしていただろう。不機嫌に黙り込む滝夜叉丸に、在室していた喜八郎が呟いた。
「……行かなくて良いの、お見舞い?」
「行っても邪魔になるだけだろう」
「行っておいでよ。――無事な姿を眺めて、安心してくれば良い。本当はずっと心配してたんだから」
「それは……っ!」
 喜八郎の言葉に滝夜叉丸は返す言葉を途切れさせた。何もかもがその通りなのだから、反論のしようがない。けれど、行ってしまえば自分の中で何かが変わってしまう気がして、どうしても一歩が踏み出せなかった。そんな彼女を喜八郎が部屋の外へ押し出す。驚く滝夜叉丸に、喜八郎は静かな声で告げた。
「――滝、変わるのは怖いかもしれないけど、悪いことではないはずだよ。だって、滝はこの学園に来たんだから。自分を変える(・・・・・・)ために」
 滝夜叉丸は自分を静かに見つめる侍従に驚きの眼差しを向ける。いつの間にか自分たちはこんなにも離れていたのだと、滝夜叉丸はそこで初めて自覚した。いつまでも変わらないままでは居られないことを突き付けられ、滝夜叉丸は小さく震える息を吐いた。
「……お前も随分変わったな」
「かも知れない。でも、先に変わったのは、滝だったんだよ。……これは本当」
「そうか」
「うん。――だから、行っておいで。そうしたらきっと、ちゃんと分かるよ」
 喜八郎は更に滝夜叉丸の背中を押して、障子を閉めた。締め出される形となった滝夜叉丸はしばらく部屋の前に立っていたものの、しばらくすると彼女は意を決して歩き始めた。――喜八郎の言う通り、結局は会いに行かなければ答えは出ないのだ。ならば、行こう。
 滝夜叉丸が保健室を訪れると、伊作が包帯の巻き直しをしているところだった。滝夜叉丸の姿を見ると彼女は微笑み、口元で人差し指を立てる。
「薬で眠ってるんだ。顔を見るのは構わないけど、まだ寝かせておいてね」
「分かりました」
 伊作は何も聞かずに全て分かった様子で彼女を通した。それに何だかざわざわとした気持ちを感じながら、滝夜叉丸は衝立の向こうで眠っている小平太の傍へと腰を下ろした。小平太はよく眠っている様子で、伊作の言う通りに薬が効いていることを教えている。そうでなければ、こんなに傍に寄っても起きないなどということは有り得ない。どんなに抜けて見えようとも、彼は五年生なのだから。
『――七松、先輩』
 唇だけで小平太を呼ぶ。勿論、小平太が目を覚ますことはない。それに滝夜叉丸は半ば安堵し、半ば残念に思った。そうして、残念に思った自分に再び唇を噛み締める。何度も自分を戒めようと、想いは留まることを忘れたように溢れてくる。それに恐ろしさすら感じて、滝夜叉丸は小さく溜め息を吐いた。――何かに求めたって、この想いから逃れることはできないのに。
 ふと視線を下げれば、彼の手が蒲団からはみ出ていることに気付く。それはひどくらしく(・・・)感じて、滝夜叉丸はそっとその手を掴んだ――布団の中に入れようとして。けれど、その手の温かさに、気付けば彼女は祈るようにその手のひらを両手で掴んで額に押し当てていた。
「ご無事で良かった……」
 吐息と共に言葉が零れた。零れたものが言葉だけではなかったことに気付かないほどに、滝夜叉丸はその事実に感謝していた。パタパタ、と音を立てて畳に滴が零れる。そこでようやく、彼女は自分が泣いているのだということに気付いた。
「……ゆっくりとお休みください、先輩」
 滝夜叉丸はそう小さく囁くと、祈るように掴んでいた小平太の腕を布団の中に戻す。乱れのないように布団を直してから、彼女は自分の袖で涙を拭った。一度、二度深呼吸をして感情を整える。今度こそ本当に、こんな想いは終わりにしようと滝夜叉丸はしっかりと心に決めた。どうせ想ったところで彼女が救われることも、報われることもないのだから。







 小平太が滝夜叉丸の異変に気付いたのは、そう遅いことではなかった。彼が怪我を癒して体育委員会に復帰した直後には、もう違和感を感じていた。けれども、それを決定的にしたのは、彼女との距離がはっきりと分かった瞬間だ。――物理的にも、精神的にも、彼女はひどく小平太を遠ざけていたから。
 はじめは気の所為かとも思った。けれど、疑念と共に彼女の行動を観察すれば、確実に自分と距離を取っている。気付かれないように慎重に、けれど確実に。小平太ですら、はじめは気付かなかったほどだ。彼女自身もかなり綿密に計算しているのだろう。しかし、その理由を考えても小平太にはさっぱり分からず、彼は大きく首を傾げた。
(態度が変わったのはつい最近。少なくとも数週間以内。――少なくとも実習に行く前までは普通だった、はず。うん、思い出しても普通だった。実習が終わって戻ってきた後、から? でも、いつから? 戻ってきて、滝と会った時は――)
 そこまで考えて小平太はハッと気付く。戻って来たあの時から、既に滝夜叉丸はどこかおかしかった。彼自身も重傷を負っていたために意識が朦朧(もうろう)としていたのでその時は気付かなかったが、思い返してみればあの時既に滝夜叉丸は自分と距離を置いていたのだ。まるで行き場を失くした幼い子どものようにぽつねんと、彼女はひとり自分を囲む人の輪から外れて自分を眺めていた。もし顔を上げた自分と目が合わなかったら、きっと彼女は自分の許へは来なかっただろう。その意味を考えて、小平太は苦い気持ちを舌に感じる。
(自分が嫌われたか、それとも自分が居ない間に何かがあったか)
 小平太は前者を否定したくて、後者について考える。というよりも、自分が嫌われる原因が何か思いつかない。今まで散々委員会活動やら何やらで振り回してきたこともあり、最終的に彼女が小平太を何となく許してくれるというのは分かっている。それに甘えていたということは否定しないが、それでも急にそのスタンスを変えるとなれば何かきっかけがあるはずだ。そのきっかけは必ず自分が不在の時にあったはずであり、それが彼女の不安定さに拍車をかけていることは分かっていた。
「ね、滝」
「何でしょう?」
「私が居ない間に何かあった?」
「体育委員会は正常に活動していましたと申し上げたはずですが……? 先輩とて、私の能力を疑うことはありませんでしょう?」
「うん、そうなんだけど……」
「他に何か気になることでも?」
 直接滝夜叉丸に聞こうとしても、気付いてはぐらかしているのか、それとも本当に気付いていないのか(小平太には後者に思えてならない)、彼女は全く小平太の望む答えを返してくれない。逆に訝しげな顔で問いかけられて、小平太は返答に詰まってしまった。曖昧にごまかしてその場を濁したものの、小平太は他にどうやったらこの疑問を解決できるか、普段は使わない頭を一生懸命回転させてある人物に思い至る。その人物の協力を得られるかどうかは甚だ不安だったが、他に手段が見つからないこともあり、小平太は滝が居ない隙を狙って四年長屋へと訪れた。
「おやまあ。滝なら居ませんよ」
「それは知ってる。今日は喜八郎に話があって来たんだ」
「おや」
 小平太の言葉に喜八郎は目を丸くした。表情が少ない割にそういった表現を彼女はよくする。小平太はそんな喜八郎に少しのおかしさを感じながら、招き入れられるがままに部屋に入ってその片隅に腰を下ろした。
「話というのは他でもない。滝夜叉丸のことだ。お前なら何か知ってるんじゃないかと思ってな」
 他者が聞けばまったく理解できないだろうほどに話を簡略化して話す小平太に、喜八郎は肩を竦める。しかし、彼の懸念材料に関しては喜八郎も重々承知だったため、揚げ足取りに質問したりせず、彼女は静かにその話を受けた。
「滝は、怖いんです。変わることが、とても」
「変わることが怖い?」
「……私たちは、常に狭い世界で生きてきた。二人きりで、他は総て敵で、そういう世界で生きてきたんです。私たちにとって、〈外〉は恐ろしいものでした。自分に害なすもの、少しでも外に出れば傷つくことは分かっていたから。けれど、〈内〉に居てももう生きられないから、私たちは〈外〉に出たのです。
 けれど、私たちは〈外〉で様々なものを知りました。滝は変わり始めて、新しい世界を知った。けれど、滝は自由には生きられない。だから、自由を味わうことが怖いのです。知ってしまったら、もう後戻りはできないから。――知ってましたか、先輩。滝にとって貴方は〈外〉の象徴みたいなものだったんですよ」
「――それは、私も怖いということか?」
 苦々しげに呟いた小平太に喜八郎は首を傾げた。少し考える素振りをした後、彼女は続ける。
「少し違います。滝にとって貴方は、〈外〉にある自由の象徴。けれど、滝は自由になれない。だから、自由が欲しくても触れない。触って味わってしまったら、戻る時に辛くなるから。滝は、そういう意味ではとても憶病なんです」
「あの……よく分からないんだが」
「滝は今、必死なんです。とても。――自分の殻に閉じこもろうとして、頑張っているんです。受け入れてしまえば楽になれるのに、受け入れることができなくてもがいてる。
 私は滝みたいに雁字搦めではなかったから、変わることに対して怯えはあっても受け入れてさえもらえれば苦労はなかった。けれど、滝は違う。多分、貴方みたいに踏み込んでくれる人が必要なんだと思います。とても、とても悔しいけれど」
 小平太の問いかけるような視線に、喜八郎は肩を竦めて溜め息を吐いた。
「貴方が滝に外の世界さえ見せなければ、滝の一番はずっと私だったのに」
「……歪んでるぞ、喜八郎」
「承知の上です。分かったら、とっとと行ってください。滝はひとりになれる場所に居るはずですから」
 仮にも先輩相手でありながら、喜八郎はしっし、とまるで犬でも追い払うかのように小平太を追い払った。その仕草にはありありと彼女が小平太を不満に思っている様子が透けて見えて、彼は苦笑して立ち上がる。結局、滝夜叉丸が小平太と距離を置くよく分からなかったが、ひとつだけ分かったことがる。滝夜叉丸は今も苦しんでいるということだ。
 いつの間にか小平太は「知りたい」という気持ちよりも、「助けになりたい」という気持ちで滝夜叉丸を探していた。足は慣れた道を辿り、自分たちしか知らない場所へと踏み入れる。その奥には小さな背中が蹲っており、小平太はそれに向かって足を踏み出した。
「――何かご用ですか?」
「うん」
「何でしょう。私、今ちょっと手が離せないんですが」
「――滝、私は滝が好きだよ。お前が例え俺を怖かったり、苦手だったりしても、俺はお前が好きだから」
 小平太の言葉に滝夜叉丸はびくりと身体を竦ませた。振り返りそうになった身体は一拍後に固まり、それ以上こちらへ向けられることはない。それどころか頑なに小平太を見ないようにして、滝夜叉丸は俯いた。
「だから、俺はお前が嫌がってても後を追うし、困ってたり、辛かったりするなら力になりたいと思う」
「やめてください! ……そういうの、やめてください。私は学年一優秀な平 滝夜叉丸なんです。誰の力も必要じゃありません」
「それは知ってる。でも、お節介焼きたくなるんだ。好きだから」
「だから……!」
 滝夜叉丸は苛立った声で思わず振り返った。しかし、自分のすぐ傍にある足に驚いて言葉を途切れさせる。気配を消して近づいていたらしく、小平太は予想以上に滝夜叉丸の傍に存在していた。それに思わず距離を置こうと滝夜叉丸が身体を動かす前に、小平太が彼女の両腕を掴んだ。逃げようとする滝夜叉丸をしっかりと押さえつけて、その場に留まらせる。
「放してください……!」
「放したら逃げるだろうが! だから駄目だ!」
 未だにもがいて逃げようとする滝夜叉丸を小平太はしっかりと捕まえ直す。力だけなら勿論男であり、年上である小平太の方が上だ。けれども、彼女はそんなことを考える様子もなく暴れて叫んだ。
「だから貴方は嫌なんだ! どうして私の中に入って来ようとするんです!? 放っておいてください! 貴方が傍に居るだけで心が掻き乱されるのに、貴方が居なくなったらもっとひどくなった。貴方と出会ってから私は弱くなってしまったんです! だから、放っておいてください! 元の私に戻らなければ、家なんて継げない! 誰のことも守れない!」
 小平太は一瞬彼女の言葉が理解できずに腕の力を緩めそうになった。けれど、腕から逃れそうになる滝夜叉丸を咄嗟に抱き込んで、その細い身体を今度こそしっかりと捕まえる。勿論、滝夜叉丸は小平太を引き剥がそうと暴れに暴れたが、小平太はその痛みを堪えて滝夜叉丸を抱き締め続けた。
「――何だかよく分からないけど、滝は決して弱くない。何故、弱くなったと思うんだ? お前はこんなにも細い身体をしているのに、俺を支えてくれるほど強いじゃないか」
「嘘だ! 貴方と出会う前は、人前で涙なんて流さなかった! 人に流されたりなんてしなかったし、誰よりも完璧で居られたのに……!」
 小平太は錯乱して自分を攻撃している滝夜叉丸が、愛しくて堪らなかった。――彼女は自覚しても居ない。その悲痛な叫びも何もかも全て、全身全霊で小平太を好きだと言っている事実に。小平太は彼女が愛しくて愛しくて、腕に包んだ細い体躯をぐっと抱き締める。それに暴れる力が強くなったが、小平太は決してその腕を緩めなかった。
 滝夜叉丸は延々暴れ続けたが、いくら体育委員とはいえども体力が無尽蔵にあるわけではない。次第に疲れたらしく、ぐったりと身体の力が抜けた。せめてもの抵抗で小平太の装束を掴んで泣いている。その細い背中や美しい黒髪を撫でながら、小平太は優しく諭すように彼女に囁く。
「滝、俺は泣くことが弱いことだなんて思わないよ。泣かないことは決して強いことじゃない。だって、そうだろう? 悲しいのをなかったことにしたって、変わらないんだから。それに俺は、そんな風に滝に我慢してほしくないよ」
 小平太の言葉に滝夜叉丸はびくりと身体を震わせた。彼女は顔を上げないまま、ぼそりと呟く。
「そんなに心配してくださらなくっても良いのに、先輩。……私はただ(・・)の後輩なんですから」
「俺はそんな風に一度も思ったことないぞ」
「え?」
 滝夜叉丸が初めて顔を上げた。涙でぼろぼろのその顔はみっともないはずなのに、小平太にはとても可愛らしく映る。普段は真っ直ぐに自分を見上げる瞳が、涙で潤んでひどく揺らいでいた。
「言ったじゃないか、好きだって。――男だと思っていた時から、滝夜叉丸が好きだった。最初は俺だって可愛い後輩だと思ってたさ。でも、いつも俺について来てくれて、何があっても支えてくれて、俺が何かしたら叱って、後輩なのにお前の方がしっかりしてて。普段の自慢だって、いつも陰でこっそり練習している実力があってこそだと知ってる。
 俺が我儘を言っても、仕方ないなって笑って許してくれる。ねえ、滝。それに俺がどれだけ嬉しかったか知ってる? どんなにお前が愛しかったか分かる? 女の子だと分かってからは、もっともっと好きになった。滝が嫌がるだろうから女の子扱いできなかったけど、本当はお前をたくさん甘やかして、誰にも傷つけられないように守ってやりたかった」
「私は! 貴方に守っていただかなくては生きていけないほど弱くありません!」
「うん、知ってる。――それでも、想うことは自由だろう?」
 いつだったか、自分が自分に言い聞かせた言葉を滝夜叉丸は聞いた。呆然と顔を上げれば、ひどく優しい目をした小平太が自分を見下ろしている。両手でぐしゃりと頭を挟まれて、額に口づけが落ちた。驚いて、動くこともできない。そんな滝夜叉丸の背中を小平太は優しく撫でてから、笑う。
「俺は、お前が俺から離れていくのは我慢ならない。他の人間を特別にして、笑っているのを見るのも嫌だ。だから言うんだ。――好きだって」
「……私は、誰も特別にしたりなんかしません」
「でも、人を好きになる気持ちは理性で抑えられないものだろう? それに、滝夜叉丸は少なくとも俺が嫌いではないはずだ。だって、そうでなければ何年も一緒に体育委員やってくれるわけないし、俺のことなんて心配してくれないはずだからな」
「そんなの、当たり前でしょう!」
「うん、だから俺にしておきな。良いじゃないか、ほら、愛するよりも愛されろって誰かが言ってたし。滝は俺に愛されちゃえば良いじゃん。大丈夫、長く一緒にいればきっと情が移るって!」
 滝夜叉丸は小平太の言葉に呆気に取られた後、脱力して笑った。指先で溜まった涙を拭って、溜め息を吐く。
「貴方という人は、どこまでも突飛なんですから……」
「それで滝が俺の傍に来るのなら、俺は何でも良いんだよ」
「――お気持ちは大変嬉しいですし、わたくしもできるならば受け入れたい。けれど、それはできないんです」
 小平太の胸を張る仕草に、滝夜叉丸は彼の身体からしっかりと身を起こして笑った。その笑みは儚く、同時に強い。一瞬にして雰囲気が変わった滝夜叉丸に、小平太もまた自然と姿勢を正していた。彼女は一度目を伏せた後、続ける。
「わたくしは卒業後はすぐに実家へ戻り、男子として家督を継ぐことが決められています。貴方のお傍に居られるのは、貴方がこの学園に居る残り一年とちょっとだけ。……わたくしは、どんなに望んでも貴方を追うことはできない。それならば、幸せな思い出などない方が良いんです。だって、そうすれば離れても辛くないでしょう? 知らないことはどんなに考えても、所詮想像でしかないのですから」
 滝は小平太に乱された髪の毛を後ろに払って続ける。
「貴方のお気持ちは大変嬉しく思っております。けれど、わたくしはそれを受け入れることはできませんの。――これ以上、辛い思いをするのは御免ですからね」
 しかし、小平太はそんな滝の両手をしっかりと掴んで笑った。その笑みは何か悪戯を思いついた子どものような印象で、彼女は思わず身を引く。しかし、小平太はそんな滝をしっかりと捕まえてから口を開いた。
「そんなのは理由にならないぞ、滝!」
「は?」
「――まずひとつ。お前は家督を継がなきゃならないそうだけど、まだ弟が居るじゃないか。弟を差し置いてお前に家督が譲られるとなったのにはきっと何か理由があるんだろうが、そんなのその時が来なきゃ分からないだろう? 未来は誰にも予想できないんだから、またもしかしたら滝じゃなくて弟に家督が行くこともあるかも知れない。
 そして、二つ。滝がどうしても実家に戻らなきゃならないっていうのなら、それは仕方がないと思う。でも、それが何で離れ離れになることが前提なんだ? ――滝が俺についてくる必要はないじゃないか。滝が駄目なら、俺が滝について行くって手もある。平の棟梁直属の忍なんて格好良いと思わないか? 凄腕っぽくて。滝が卒業するまで二年あるから、その間俺はフリーで修業を積んでおくこともできるし。
 それに三つ。幸せな思い出があったら辛いだなんて、ひどいじゃないか。確かに離れてしまう結末になってしまうかもしれない。でも、俺は滝と過ごした時間をただ辛いだけの思い出にする気なんてないぞ。勿論、全力で思い出にしないようにするし、万一どうしようもなかったとしても、滝と過ごした時間を支えに俺は生きて行くよ。――だって、愛されない記憶があるより、愛された記憶がある方がずっと幸せだからな。どうだ、参ったか!」
 小平太の言葉に滝は今度こそ目を瞬かせた。そして、どうして良いか分からなくなる。――どうしていつもこの男は、自分の物思い全てをどこか遠くへ吹き飛ばしてしまうのだろう。笑えば良いのか泣けば良いのか、滝はどっちつかずで顔を歪めた。小平太はそんな彼女の指に唇を寄せ、今まで彼女が扱ってきた様々な武器で細かく付いた傷跡に口付けた。驚いて固まる滝を余所に小平太は笑う。
「滝、戦輪が上手く扱えるようになるまでどれだけ時間がかかった?」
「へ? いえ、私は天才ですからそう長くは掛からなかったですが」
「じゃあ、もう少ししたら二人で一緒にずっと居られる方法も見つかるかもよ? だって、人間って成長する生き物なんだから。俺も直に裏々々々々々々山くらいまで制覇できるようになると思うし」
「それは成長じゃないと思います」
 明らかにピントのずれた小平太に、滝は思わず突っ込みを入れる。けれど、そこでようやく肩の力が抜けて、彼女は今度こそ力なく、けれどちゃんとした笑みを浮かべた。
「――本当に、貴方には敵いませんね」
「おう。何と言っても委員会の花形、体育委員を率いる七松 小平太だからな!」
「それは理由になっていません」
「良いんだ、何だって。滝が傍に居てくれるなら」
「……本当に、おかしな方だ。私を望む人間の方が少ないのに」
「そいつらは全員見る目がないってことだな。私が一等見る目がある! ま、見る目があってももう滝は誰にも渡さないけど」
 ぎゅっと滝を抱きしめて、小平太は笑った。彼女も今度は抵抗せず、されるがままになっている。――流されてみようか、と滝は思う。小平太が言うように未来は不確定なのだから。それに、誰もああなった小平太には敵わないのだ。どうせ最後には頷かされてしまうのならば、無駄な抵抗をしない方が賢いはず。
 そんな風に自分に言い訳をしながらも、滝はそっと小平太の背中に腕を伸ばした。更に強く抱き締められて、滝夜叉丸はようやく今度こそ全身の力が抜ける気がした。今までガチガチに固まっていた心が解けて、彼女が最も求めていた安寧が訪れる。それに初めて喜八郎の言っていた言葉の意味が分かった気がして、彼女は小さく口の中で呟いた。
「確かに変わるのも悪くないかもしれないな」
「ん?」
「何でもありません、先輩」
 滝は自分を温かい目で見下ろす小平太にふわりと笑って、手拭いで涙を拭った。その後に残ったのは少しはにかんだ笑み。小平太はそんな滝をもう一度強く抱きしめてから、その美しい黒髪に口付けを落とした。祈るように、誓うように。
 ――そうして、この二人はお互いの想いをようやく認め合ったのだった。



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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『たすけ て』
お題提供:それでも僕らは今日もまた 己の生を紡ぎ 歩いていく



鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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