鈍行
▼久遠の彼方へ
「おはよう、滝!」
「あ、七松先輩、おはようございます」
滝夜叉丸は走りながら自分へと声をかける小平太に頭を下げようとして――通り過ぎる彼を見送った。鍛錬の途中なのか、それともどこかへ急いでいるのか。その判断が滝夜叉丸には付かなかったが、ひとつだけ理解できたことがある。……彼の態度が全く変わらないことだ。
正直なところ、滝夜叉丸は小平太が彼女の秘密を知ったことにより態度を変えるのではと思っていた。小平太は基本的に後輩には甘い方だと思うが、更に滝夜叉丸には特別甘い。それは勿論直属の後輩であるということと、委員会では唯一小平太についていける貴重な存在である、ということも理由として挙げられよう。それゆえに彼は自分を〈守る〉対象として見ている節があり、過剰反応をするのではないかと危惧していたのだ。
しかし、それは杞憂に終わり、滝夜叉丸はいつもと同じように「いけいけどんどーん!」と叫びながら暴走する小平太の後ろを後輩たちを気にしながらついて回る毎日で、己の性別が露見するのではという悩みよりも、明日の委員会ではどのようなルートを取り、後輩たちはどこまで付いて来られるだろうか、ということばかり考えていた。それはそれでどうかと思ったが、今の滝夜叉丸には贅沢な悩みである。それゆえに彼女は有り難く何も考えることをせず、ゆったりとした日々を送っていた。
しかし、その穏やかな日常は一気に崩されることとなる。
「――授業参観?」
「そう、親を呼ぶんだって。居ない子も来ない子も居るだろうにねえ」
「…………そういう発言はいかがなものかと思うぞ、喜八郎」
自分たちに配られたプリントを眺める綾部 喜八郎に滝夜叉丸は苦々しく言った。事実ではあるものの、それでは余りにも身も蓋もなさすぎる。しかし、実際に自分たちはそういう部類の子どもに分けられるのだから仕方がない。別にそれを苦に思ってはいないし、肉親との縁が薄いのは元々だ。同じように親元に届けられたであろうプリントがどのような行く末を辿るかが容易に想像できて、滝夜叉丸は溜め息を吐いた。
「志摩あたりは来るかもな」
「来たがりそうだけど、どうかな。仕事は休めないだろうし。第一、あの人たちがわざわざ様子を見に来させるとは思えないよ。学園からもそれなりに報告は行ってるだろうし」
「まあ、な……」
滝夜叉丸はつまらなさそうに呟く喜八郎に同意した。一般家庭ならまだしも、滝夜叉丸はそれなりに有力な平氏の長子であり、更に〈隠れくの一〉として生活をしている。それゆえに他の生徒たちよりも優遇されている自覚はあった。表立っての助力は勿論ないが、裏では自分たちの正体を極力隠すための工作を学園側がしてくれていることを知っている。同時に、それだけの資金援助を平氏はしていることもあるのだが。
「ま、どちらにせよ、私たちには関係のない話でしょ。来るわけないんだから」
「そう、だな」
喜八郎の言葉に滝夜叉丸が頷く。しかし、不思議と彼女の胸を騒がせる予感めいたものが頭をよぎる。
――それが思い過ごしではなかったことを、彼女は後になって思い知るのだった。
「……どうして」
「あら、離れて暮らす我が子を思わぬ親は居りませぬわ、姫」
授業参観当日、突然に現れた二つの人影に滝夜叉丸は絶句した。後ろで同じく喜八郎も目を見開き、相手を――特に滝夜叉丸の父の傍らに立つ、側室を凝視している。二人の驚きを嘲うかのように、女は妖艶な笑みを浮かべた。
「おいでになるとは思いませんでした。それに……貴方までこのような場所にいらっしゃるとは」
「ふふ……滝様の御為なら遠出くらい何でもございませんわ。大切な殿のお子様なのですもの。それに……滝様が暮らす場所というのも、一度見ておきたかったのですわ。――はじめ、滝様が忍術学園に入学すると仰った時は驚きましたけれど……そこそこ設備は整っているのですね」
ねっとりと絡み付くような声音に滝夜叉丸は胸焼けするような気分に襲われた。幼い頃はこの声が聞こえただけで吐き気がしたものだが、離れたことによって大分改善されたらしい。半ば自棄で笑みを作る滝夜叉丸に、側室は赤い唇を歪ませて笑った。
しかし、その場の空気など全く関係ないように小さな頭が側室の影から飛び出す。それに気付いた滝夜叉丸がそちらへ視線を向け、目があった人物に驚いて声を上げた。
「次郎君!? どうしてこんな所へ……」
「義姉上あねうえ様に会えると聞いてやってまいりました!」
「これ、次郎君、義姉上様ではなく、滝様と仰い。――無礼ですよ」
滝夜叉丸の前に飛び出してきた小さな子どもに側室は不快そうに咎める。――どうしても自分と彼との血の繋がりを認めたくはないらしい。こういう時に身分差とは便利なものだ、と滝夜叉丸は胸中で吐き捨てた。しかし、自分に懐いてくる小さな子どもを前に事を荒立てる気にもならず、滝夜叉丸は曖昧な笑みを浮かべて、異母弟おとうとの前に膝をついた。
「お久しゅうございますね、次郎君。健やかにお過ごしですか?」
「はい、義姉――滝様もお元気そうで何よりです。今日は父上と母上が滝様の所に行かれると仰っていたので、ついてきました!」
「それはそれは、わたくしも嬉しゅうございますよ、次郎君。遠い所から折角いらしたのです、色々とご覧になると宜しいでしょう」
「はい、滝様!」
不思議と母親に似ず、素直で優しい心根の子どもである。更に、母の影響を受けずに何故か滝を慕う。彼と会うたびにそれを不思議に思いながらも、滝夜叉丸はそっと彼の頭を撫でた。それに次郎君は嬉しそうな顔で滝夜叉丸を見やり、ついで母を見上げた。
しかし、見上げた先にあるのは夜叉の顔。それに次郎君が怯えるよりも早く、側室は彼を自分の背中に隠して、話に割って入った。
「滝様は常に学年で一番の成績でいらっしゃるそうで、殿もわたくしも鼻が高くておりますのよ。本日も是非ご勇姿を見せてくださいませね」
「最善を尽くしましょう。――では、授業の準備がありますので、これで。喜八郎、行くぞ」
滝夜叉丸は己に絡み付く蜘蛛の糸のような女の声を振り払うかのように、ぐるりと踵を返して立ち去った。喜八郎は側室を睨み付けるように三人を眺めた後、形だけ頭を下げて滝の後ろへと続く。そんな二人の背中を見送りながら、側室は赤い唇に再び歪んだ笑みを浮かべた。
――わざわざこのような僻地にまで足を運んだのは、彼女がどのように無様な生活をしているかを目にしたいがためだ。成績は学年一位だと言うが、そんなものは平一門の威光が大きいに違いない。それに生活している場所が分かれば、もっと彼女を陥れやすくなる。そんなことを頭の中で考えながら、側室は我が子の手を強く握った。……この幼子を平の継嗣に就け、己が権勢を誇るためには滝夜叉丸が邪魔なのだ。
「……まさか、来るとは思わなかった」
「私もだよ。ちっ、何を企んでいるのやら」
校庭へと向かう滝夜叉丸の呟きに、喜八郎が小さく吐き捨てた。彼女も滝夜叉丸のとばっちりで幼いころから散々な目に遭わされているため、側室への反発は強い。自然と寄り添う形になりながら、二人はそっと溜め息を吐いた。しかし、その湿っぽい空気を散らすかのような大声が辺りへと響き渡る。それに振り返った二人は、廊下の端で自分たちに手を振る小平太の姿に気付いた。
「おーい、滝夜叉丸、喜八郎! 今日は参観日だな!」
「七松先輩は、どなたかいらっしゃるんですか?」
上機嫌の小平太に滝夜叉丸もつられて自然に笑みを浮かべる。影の見えない小平太の笑みは見ていて清々しい。しかも、今日は参観日という〈非日常〉だ。お祭り好きの小平太としては浮かれる気持ちになるのだろう。
「ん? 家は親だな、親と兄弟。滝んトコは?」
その瞬間に滝夜叉丸の表情が一瞬強張り、傍らに控えていた喜八郎が射殺すほどの強さで小平太を睨み付けた。それに小平太はようやくそれが失言だったことに気付いて口元を押さえたが、それを彼が取り消すよりも早く滝夜叉丸が口を開いた。
「――父と……父の側室と、異母弟が。少し派手な装いをしているので、ご覧になればすぐお分かりになると思いますよ」
「そ、そっか。喜八郎の方は?」
「仕事があるので来ません」
完全に機嫌を損ねたらしく、喜八郎は小平太の問いに吐き捨てるように答えた。それに滝夜叉丸が彼女を咎めたが、彼女は表情を変えずに視線を逸らしている。それに小平太は苦笑し、滝夜叉丸は深々と頭を下げて彼に詫びた。
「いや、今のは俺が悪かったから。……滝も、ごめんな?」
「いえ……大したことではないですから。先輩もこれから授業でしょう? ご家族に良いところを見せる機会ですね。常のように暴走したりせずにいれば、きっと大丈夫ですよ」
明らかに先輩後輩の立場が逆転しているのだが、彼女たちは不思議と気付かない。いや、気付かないというよりも、この二人の間ではこれが当たり前すぎて違和感がないのだ。それを傍らで眺めていた喜八郎は、いつの間にか波立っていた滝夜叉丸の心が凪いでいることに気付いて、更にむすくれた。――役目を取られたようで、とても悔しかったのだ。
そんな彼女に声をかけるのは、偶然通りかかった五年生の中に居た久々知 兵助だ。彼もまた少し気持ちが浮き立っているようで、常以上ににこにことした表情で喜八郎の傍へと歩み寄った。
「何だか怖い顔をしているが……まさか緊張しているのか、喜八郎?」
「違います。不機嫌なだけです」
兵助の言葉を切り捨てる喜八郎に、彼は苦笑と共に頬を掻いた。その後ろに小平太と滝夜叉丸の姿を見つけ、彼はようやくそこで彼女の状態に合点が行った。仕方ないな、というように笑いながら、兵助は目の前の小さな頭を撫でる。
「淋しいのか」
「別に良いんですけどね」
「――大丈夫、滝夜叉丸の友人の中ではお前が一番だよ」
「そんなことは知ってます」
「お前な……」
それでも頭に置かれた手を振り払わない喜八郎に、兵助は可愛らしいものを感じる。更によしよし、と撫でていたところで、冷めた視線を感じた。後ろからと、前からと。先に視線を上げると、小平太との会話を止めた滝夜叉丸が自分をじっと見つめていた。敵意とは少し違う、しかし何か品定めするような視線である。それに思わず喜八郎の頭から手を外すと、今度は彼を待っていた竹谷 八左ヱ門が彼の首根っこを後ろへ引っ張った。
「いつまで話してるつもりだ、兵助! 遅れるぞ!」
「ああ、悪い! じゃ、喜八郎、またな」
「ええ、また。先輩も頑張ってくださいね」
再び団子になって去っていく五年生たちを見送る喜八郎を眺めていた滝夜叉丸に、小平太が悪戯っぽく囁いた。
「焼餅?」
「だ、誰が焼餅なんて……!」
「でも、喜八郎と兵助が話してた時、結構怖い顔してたぞー?」
「それは……! 喜八郎が心配だったからで、別に焼餅だとかそういう話では……!」
慌てて否定する滝夜叉丸を余所に、喜八郎は嬉しそうな様子でぐっと彼女の背中に抱きつく。いつの間にか普段通りの状態に戻った彼らは授業の時間が来たことに気付き、それぞれの授業場所に向かって再び別れた。
滝夜叉丸と喜八郎は一度顔を見合わせた後に各々の変化に気付き、苦笑し合って肩を竦める。今出逢った人々のお蔭で二人は肩の力が抜けた状態で授業へと臨むことができ、気負うこともなく無事に授業を終わらせたのだった。
「素晴らしかったですわ、滝様」
「有り難うございます」
昼食の時間となり、滝夜叉丸は長屋の自室でおばちゃん特製の弁当をつつきながら、側室の言葉に応じた。今回は全学園生徒の関係者が集まるということで、食堂以外でも昼食を許されている。食事は全ておばちゃんの作った弁当で、各々好みに応じた場所で舌鼓を打っているというわけだ。但し、滝夜叉丸の場合は贅沢に慣れた親族たちが野外や教室、ましてや混雑する場所で食事などできないだろうという考慮から自室へと案内した。
側室は言葉こそ耳触りの良いものを選んでいるが、実際には授業中に何ひとつヘマをしなかった彼女に苛々としているようだ。期待外れだった、とちらちらと滝夜叉丸を睨み付ける側室に、彼女はこっそりと溜め息を吐いた。次郎君は綺麗に整頓されている二人の部屋が気になるらしく、食事中もきょろきょろと辺りを見回している。父親はと言えば、彼女たちのやり取りになど目もくれず、黙々と弁当をつついていた。
(――そう言えば、父上と一回も話していないな)
不思議と父親は自分に向かって口を開かない。滝夜叉丸もまた父に何も話すことがないため、自然と会話が起こらなかったのだ。しかし、気付いたところで何を話せば良いのかも分からず、滝夜叉丸は再び弁当を平らげる作業へと戻った。
普段親元から離れている生徒たちの感情を考慮して、午後からは授業が免除となっている。半日だけ家族水入らずで過ごすようにという学園側からの配慮だった。
「午後はいかがなさるおつもりです? もうお帰りになりますか?」
「ええー!? もう帰らなくちゃ駄目なのですか? 私、滝様ともっとお話ししたいです!」
「これ、次郎君。滝様はお忙しい身、お邪魔をしてはいけませんよ」
「せっかく久しぶりにお会いできたのに……」
次郎君は戻ろうとする母に悲しそうな顔で呟いた。継子には情け容赦なく攻撃してくる側室も、実子には弱いらしい。食べ終えた後を片付けながら、滝夜叉丸は人数分の湯呑とお茶を用意して配った。いつの間にかこういったことが板についたのは、平の長子としてはどうかと思う。しかし、こうして働いている方が余計なことを考えずに済んで良かった。
「――わあ、滝様、有り難うございます」
「ああ、次郎君、お顔にご飯が付いてますよ」
お茶に手を伸ばした次郎君の顔を無理やり手拭いで拭く側室に、滝夜叉丸は小さく溜め息を吐いた。自分の手元にある湯呑を引き寄せ、それを口に含む。喜八郎も同じくお茶に手を伸ばして口を付けており、お互いに溜め息と共に視線を交わした。――自分の行いはいつか自分に返る、と言うが、父と異母弟の目の前でそのような振る舞いなど起こすはずもないのに。滝夜叉丸はもう一口お茶をすすりながら、自分を警戒する側室へと冷めた視線を寄越した。
「でも、どうせ洛中で一泊するのでしょう? ならば、もう少し居たって……」
「次郎君、余り我儘を仰ってはいけませんよ」
「でも……」
母親の手から逃れるように身体を捻りながら駄々を捏ねる次郎君に、側室が苛立った調子で声をかけようとした。が、その前に聞き覚えのない声が割って入る。それは今まで沈黙を守っていた父の声であり、滝夜叉丸はハッと自分が一体どれほど長い時間彼の声を聞いていなかったのかに思い至った。
「お前は先に洛中へ戻っていなさい。私は学園長先生とお話ししたいことがある。次郎君は滝に任せておけば良い」
「殿、しかし……!」
「良いな、滝」
「……承りました」
有無を言わさぬ父の言葉に、滝夜叉丸はただ頭を下げた。武家としても貴族としても衰退を始めていた滝夜叉丸の家を一代で建て直した手腕の持ち主であるが、その考えはいくつになっても理解できない。滝にできることは常に彼の言葉に頭を垂れることだけで、自分の意向を押し通したのは忍術学園に入学するというただそれだけだ。――もっとも、忍術学園への入学に彼の強硬な反対があったわけではないので、押し通したというのも少し違うのだが。
父の言葉に顔色を無くした側室とは別に、次郎君は諸手を上げて喜んだ。滝夜叉丸だけでなく、喜八郎もまた主の意向が理解できずに彼をうかがうように視線を向ける。しかし、父はそれだけ言うと再び視線を弁当へと戻し、それ以降は側室の悲鳴じみた問いかけに生返事で答える以外は何も言わなかった。
滝夜叉丸はそれに小さく溜め息を吐くと、喜八郎に目配せをする。二人は無言で部屋を片付けると金切り声を上げる側室を余所に、食事を食べ終わって既に期待で胸を膨らませている次郎君の手を引いて部屋を出た。勿論、側室が彼女たちの部屋に何かを仕掛ける可能性を考えないことはなかったが、彼女たちも既に三年忍たまとして修業をしている身だ。素人の罠くらいは見破る自信があった。
「ねえ、滝様。これから何をするのですか?」
「何をしましょうか、次郎君。何か行きたい場所や、見たいものはありますか? 見せられない場所もありますが、それ以外ならどこでも連れて行って差し上げますよ」
「ええ、本当ですか!? やったあ、えっと、えっと、じゃあ……」
明るい声ではしゃぎ回る次郎君に滝夜叉丸は微笑んだ。子どもは決して嫌いではないし、彼があの女のこどもであっても、滝夜叉丸は何となく次郎君が憎めないでいた。それは自分を一心に慕う子どもだからかもしれないし、肉親に縁薄い彼女にとっては唯一親しくできる血縁だったからかもしれない。
そんな滝夜叉丸を喜八郎は少々不安げに眺めたが、結局は何も言わずに済ませた。次郎君に関してはいつ自分と敵対するか分からないというのは滝夜叉丸が一番よく分かっているだろうし、それも覚悟の上だろう。その上で滝は次郎君を可愛がるのだ。それに別の思惑がなく、滝夜叉丸の性格や母性から来るものだと喜八郎はよく分かっていたが、滝夜叉丸を全く理解しようとしていない側室がそれを脅威に思っていることも知っていた。
「滝……あんまり無理をしないでね」
「大丈夫だ、喜八郎。――あ」
喜八郎の言葉にあちこち走り出そうとする次郎君の手を引き戻していた滝夜叉丸が微笑んだ。しかし、続けて何かを言おうとする前に、見慣れた姿を目に留めて滝夜叉丸は言葉を切る。相手もまた彼女の姿を認め、彼は笑顔で滝夜叉丸たちの許へと駆け寄った。
「滝、よお!」
「七松先輩」
「あれ? その子……もしかして」
小平太は闖入者ちんにゅうしゃに怯えて滝の背中に隠れる幼い子供を見て、思わず呟く。それに滝夜叉丸は微笑み、自分の後ろに隠れた次郎君を引っ張り出した。
「ほら、次郎君。何を隠れているのですか、男子のくせにだらしがない。こちらはわたくしの先輩で七松 小平太さんと仰る。――七松先輩、私の弟の次郎君です。ほら、次郎君、隠れていないで挨拶を。失礼ですよ」
「あはは、滝と違って弟は人見知りなんだな! 私は滝の先輩で、五年の七松 小平太だ! お前は?」
「……義姉上、この方は無礼です」
「次郎君、この学園内では身分はあってなきもの。今は貴方もわたくしも、身分が高くてもそれは関係がないのです。――それゆえに、今無礼なのは貴方の方ですよ。七松先輩はご挨拶してくださったでしょう? 名乗り返すのが礼儀です」
自分の袴にしがみ付く異母弟を滝夜叉丸は静かに諭した。それに次郎君は泣きそうな顔をして彼女を見上げたが、静かに見返す滝夜叉丸に彼はこっくりと頷くと一歩前へ進み出た。
「私の名は平 次郎、です」
「そうか、だから次郎君か。宜しくな、次郎君」
「……はい」
小平太の勢いに飲まれるような形で次郎君は頷く。しかし、やはりそれ以上は無理だったのか、小平太の手が頭に伸びるより早く再び滝夜叉丸の背中へと隠れてしまった。それを喜八郎が呆れた視線で眺めたが、滝夜叉丸はそれ以上は何も言わずにただ彼の頭を撫でた。
「すみません、箱入りの所為で随分と人見知りしてしまって……お恥ずかしい限りです」
「そうだな、滝とはちょっと違うな。滝は最初っからガンガン話してたし」
「……何だか語弊がある気がしないでもないですが、私は基本的に人が怖いわけではないので。では、私たちはこれで」
滝夜叉丸が再び次郎君を促して立ち去ろうとすると、突如小平太の後ろからけたたましい声が聞こえた。その音は小平太を文字通りに直撃し、目を丸くする滝夜叉丸たちを余所に小平太をよろめかせる。珍しく顔をしかめた小平太が振り返った背中に、小さな子どもが数人貼り付いていた。
「お前らなあ……」
「兄ちゃん、遊んで遊んで!」
「中々帰って来ないんだからさあ!」
小さな子どもたちがわらわらと小平太にたかり、滝夜叉丸はその光景に吹き出した。小平太にまとわり付く子どもたちは彼の弟なのだろう、顔がよく似ている。その様子に小平太の家がどのような家庭か何となく理解できて、滝夜叉丸は微笑ましそうにその光景を眺めた。
「あー滝、驚かしてすまなかったな。こいつらは俺の弟。ほれ、挨拶しろ」
「はーい!」
元気の良い返事が何重に重なり、ひとりずつ彼らは手を挙げて名乗りを上げた。その様子がまた昔に見た小平太の様子とよく似ていて、滝夜叉丸は思わず込み上げてくる笑いを噛み殺す。それに小平太が珍しく半眼で彼女を見遣ったため、滝夜叉丸は慌てて表情を改めなければならなかった。
「はい、初めまして。私はお兄さんの後輩で平 滝夜叉丸と言います。こちらは異母弟の次郎。お兄さんにはいつもお世話になってます」
「お世話してますの間違いじゃない?」
「喜八郎!」
「あはは、違いない!」
ぼそりと呟いた喜八郎の言葉に滝夜叉丸が怒鳴り付けるも、当の本人は全く知らぬ顔だ。どう収拾を付けたら良いのか、と滝夜叉丸がこめかみに指を当てると、小平太の背中に貼り付いていた子どもたちが彼女の周りに集まっていた。滝夜叉丸と次郎君を興味深そうに眺める彼らに、滝夜叉丸は思わず瞬きをする。喜八郎がさっと滝の傍に寄ると同時に、子どもたちが一斉に声を上げた。
「うっひゃー! きっれーい! 兄ちゃん、こんな美人といつも一緒なのかよ、羨ましいなあ! 男でも良いからこんな綺麗な兄ちゃんと一緒に居てえなあ!」
「だな! もー、家なんてむさくるしいばっかりでつまんねえぜ!」
何ともこまっしゃくれた物言いに滝夜叉丸でなく、喜八郎も度肝を抜かれた。きょとんと視線を交わし合う二人の周囲を子どもたちがぐるぐると巡る。次郎君はその勢いに怯えて更に滝夜叉丸の袴を強く握りしめたが、彼女が何を言うよりも早く子どもたちが次郎君を取り囲んで、その腕を引っ張った。
「お前、次郎って言うのか?」
「なあなあ、俺たちと一緒に探検しようぜ」
「え、ええ!? わ、私は……」
次郎君は救いを求めるように滝夜叉丸を見上げる。それに滝夜叉丸はにっこりと微笑み返し、彼の背中を押した。
「行っていらっしゃい。貴方は少し人に慣れるべきですよ」
「そんな、ああっ、引っ張らないでください!」
滝夜叉丸に押し出された次郎君を子どもたちが引っ張っていく。その背中を視線で追いながら、滝夜叉丸は二人を残した父のことを考える。――不思議とこういう予感だけはよく当たった。多分、彼女にとっては良いことであり、良くないことでもある。
「滝、大丈夫か?」
「え?」
「ちょっと顔色悪いぞ」
そんな滝夜叉丸の頬を小平太が撫でる。その仕草に喜八郎が柳眉を跳ね上げたが、二人の視界には入っていなかった。それに気付いた喜八郎はうんざりと溜め息を吐くと、二人を残して次郎君を追って歩き出す。そんな喜八郎の仕草にも気付かず、滝夜叉丸は吐息を漏らして苦笑を浮かべた。
「……久々に家族に会って、少し疲れてしまったものですから」
「そっか。でも、異母弟は良い子じゃないか」
「ええ。……とても。優しくて、わたくしのこともよく慕ってくれます」
「仲良さそうだったもんな」
「多分。七松先輩のお家のように、遠慮なしにはなれませんが」
滝夜叉丸はそう呟いてから、前髪を掻き上げた。くるりと上げた前髪が指を通って行く。その視界には、校庭でくるくると駆け回る子どもたちが映っていた。
「――子どもは良いですね。無邪気で、夢がある」
「お前だって子どもだろ」
「そのはずなんですけれどねえ……」
滝夜叉丸の言葉に小平太は笑う。けれど、彼が予想していた反応とは大きく異なり、滝夜叉丸は静かに笑っただけだった。それに小平太が戸惑う様子を見せるも、彼女はそれ以上何も説明しようとはせず、自分もまた子どもたちを追って歩き出す。ひとり残される形となった小平太は、慌てて彼女の細い背中を追った。
「――滝!」
「何ですか?」
「大丈夫だ、きっと!」
唐突に投げられた言葉に滝夜叉丸は困惑して相手を見遣る。小平太はそんな彼女の頭を撫でながら、穏やかで明るい笑顔を浮かべて続けた。
「大丈夫だ、だってお前は平 滝夜叉丸だもの! 常に学年で一番で、委員会の花形である体育委員会でもいつも中心的存在だ。そんな滝なら、どんなに困ったことがあっても乗り切れるさ! もし、俺に何かできることがあればいつだって頼ってくれて良いしな!」
「――それは頼もしいお言葉ですね。有り難うございます、先輩」
滝夜叉丸は小平太の言葉に一度目を見張り、その後にどこか困ったように、けれどくすぐったそうな様子で笑った。――この人のこういうところが好きで、嫌いだ。滝夜叉丸はそう思う。何も言わないのにこうして全てを見透かして、彼女が一番欲しい言葉をくれるのだ。それゆえに滝夜叉丸はどんどん小平太に頼りきりになってしまう。――いつかは別れなければならないのに、ずっと傍に居て欲しくなってしまうのだ。
自分を抜かして先に行き、子どもたちと混ざって遊び始めた小平太を眺めながら、滝夜叉丸は縁側で子どもたちを見張っていた喜八郎の隣に腰を下ろす。喜八郎の問いたげな表情に苦笑を向け、滝夜叉丸は小さく溜め息を吐いた。
「――喜八郎、多分これからしばらく荒れるぞ」
「じゃあ、殿のお考えはやはり……」
「多分、な。――卒業までは居させてもらえると良いのだが」
滝夜叉丸の言葉に喜八郎は息を飲む。それに滝夜叉丸はそっと人差し指を立てて唇に当て、静かに静かに遊び回る小平太たちを見つめた。その瞳には一言ではとても言い表せない複雑な感情が乗せられていて、喜八郎は余りにも上手くいかない物事に苛立って小さく息を吐き捨てた。せめて自分だけは傍に居ると主張したくて、滝夜叉丸の袖を掴む。彼女はそんな喜八郎にもう一度微笑み返すと、ゆっくりと高く澄んだ空を見上げた。
「――滝。いや、滝夜叉丸」
「はい」
「お前がこの学園を卒業してすぐ、元服の儀を行う。――お前が平の棟梁として、一族を率いていくのだ」
「待ってください。わたくしは女子ですよ。夫を迎えるのではなく、わたくしが元服をするのですか? それに……次郎君に関しては?」
滝夜叉丸は父の言葉に驚きを隠せず、思わず矢継ぎ早に問いかけた。同時に無視される形となった異母弟のことを尋ねる。次郎君は未だに小平太たちと遊んでいてこの場にはいないのだが、滝夜叉丸は思わず見えぬ幼子の姿を障子越しに振り返った。
そんな滝夜叉丸とは裏腹に、父の声はどこまでも淡々としている。彼もまた静かに滝夜叉丸と同じ方を眺めながら、続きを口に上らせた。
「あれは駄目だ。武家に近くなった我が家を率いていくには、余りにも甘すぎる。お前があの年頃の時とは全く違う」
「それは別の人間だからですよ、父上。――けれど、わたくしが女子であることは皆が既に承知のことです。しかも、次郎君が居るのに理を曲げてわたくしを継嗣に就けなさったとしても、周囲が黙ってはいないでしょう。……あの方も。
それに、婚姻や継嗣はどうなさるおつもりですか? わたくしでは妻を娶っても子はできませぬよ」
「そんなことはとうに承知だ。周囲に関しては私が黙らせる。婚姻や跡継に関してはお前の良きようにするが良い。私が手を出しても良いことはなかろう」
「……場合によっては、嫡子に平の血が一滴も流れていないことになりまするが」
「それもひとつの結果だろう。平が続けばそれで良い。できるな?」
「――できません、とは申し上げられないのでしょう? そのように覚悟をしておきます。……卒業まで待っていただけるだけでも有り難いのでしょうから」
滝夜叉丸は父に向かって頭を垂れながら、最後に小さく呟いた。それを聞いていたのかいないのか、父はただ軽く頷くだけだ。その父を見返しながら、滝夜叉丸は小さく溜め息を吐く。
――これで安穏は彼方に消えた。どこか、心の隅で親に忘れられたまま、ここを卒業して自分の腕ひとつで生きていく自分を想像していた滝夜叉丸だが、こうなってはもう自由はない。卒業すれば家に戻り、家を継がねばならなくなった。ふと脳裏に小平太の笑顔が想い浮かんで、滝夜叉丸は小さく溜め息を吐く。
(こればかりは貴方に助けてもらうわけにもいきませんね)
脳裏の小平太に滝夜叉丸は小さく返し、立ち上がって部屋を出ていく父へもう一度頭を垂れた。相変わらず無駄のない人だと思う。多分、このまま遊んでいる次郎君を連れて洛中へと戻るのだろう。――結局、一度も自分の体調や成績のことを尋ねたりはしなかった。尋ねられたいとも思わないが、本当に冷え冷えとした親子関係である。母が生きている時からその様子だったのだから、今さら期待したりもしないのだが。
「……やはり荒れそうだぞ、喜八郎」
いつ、このことが側室の耳に入るかはまだ分からない。今すぐに、ということはいくら父でもなかろう。きっと頃合いを見計らって、周囲に明かすつもりなのだ。その後にあの女性がどういう行動に出るのか、滝夜叉丸には予想ができなかった。すんなり諦めるとは思えないため、また泥試合のような状況になるのだろう。
更に、滝が姫であることは大人なら誰でも知っている事実なので、そのことに関しても様々に物議を醸すはずである。滝夜叉丸は女子として婿を迎え、自分の家を継ぐよりもずっと大きな重責が己の肩に圧し掛かるのを感じて、深い深い溜め息を吐いたのだった。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『久遠の彼方へ』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒