鈍行
▼そっと口付けました
小平太はいつ声をかければ良いか、機を計りかねて固まっていた。少女の頬にはどんどん涙の筋が増え、夕陽で赤く染まった雫が煌いていく。その余りの美しさに小平太は半ば魅入られながら、何とかこの状況を打開しようと一歩足を踏み出した。――しかし、それよりも先に滝夜叉丸の声が響く。
「いつまでそこに居るおつもりです? 私はまだしばらくこの場に留まる予定ですから、どうぞお好きにお戻りください。もうそろそろ夕食の時間では?」
「――気付いていたのか」
「気付かないと思いますか? これでも私は〈忍たま〉ですよ? ――それも、学年一優秀な、ね」
滝夜叉丸は振り向かない。それは彼女が泣き顔を見せたくないからだろうと小平太とて気付いた。よくよく聞けば声も鼻声で、言葉と言葉の間に洟をすする音が混ざる。そこで初めて小平太は彼女が自分と年の近い子どもであったことを思い出し、慌てて懐から手ぬぐいを出して彼女に差し出した。
「これ使え」
「……いえ、自分のがありますので遠慮しておきます」
滝夜叉丸のすげない拒否に、小平太はがっくりくる。しかし、しっかりと自分の手の中に納まっている手ぬぐいを見てから納得した。――端々は泥が付き、何度も使ったためか色が変わっている部分がある。適当に懐に突っ込んだためにぐちゃぐちゃになっており、顔を拭うには少々抵抗のある様相である。咄嗟に笑ってごまかしながら、小平太はそれを再び懐に突っ込む。そうやって無頓着にしまうことこそが手ぬぐいをその状態にしているのだが、彼にそこまで気が回るはずがなかった。
小平太のその様子を滝夜叉丸は溜め息と共に流し、自分の懐から出した綺麗に畳まれた手ぬぐいで顔を拭う。少し強めに顔をこすって、彼女は涙の跡を消そうと努めた。それでも残る跡は諦め、滝夜叉丸はようやく小平太の方へと振り返る。美しい顔かんばせが愁いにけぶり、更に涙の所為で潤んだ瞳と湿った長い睫毛がその容貌を高めていた。
その様子が余りにも儚く、小平太は何だか胸が締め付けられるような気持ちになる。――小平太は滝夜叉丸の笑った顔が好きなのだ。それゆえにどうしたら彼女が再びいつもの笑みを取り戻すか、彼は必死に頭を巡らせた。しかし、何を言えば彼女が笑うのか、今の小平太には皆目見当もつかない。結局彼は頭を掻きむしった後、直球で彼女へと問いかけた。
「どうしたら笑う? 俺は滝が泣いているのは嫌だ」
「……どう、と仰られても。お気遣い有り難うございます。明日には元に戻りますから、ご安心を」
「そういう意味じゃないんだよ! 今! 今元気にしないと駄目なの! ――明日になったら元に戻るって、結局我慢してるだけじゃないか。そんなのは辛いだけだろう。私は、滝に我慢なんかして欲しくないよ。今までずっと我慢してきたなら――いや、してきたからこそ、忍術学園に居る間だけでも自分のやりたいことや好きなことをして欲しいと思ってる」
小平太はまとまらない考えをそのまま口に出しながらも、必死に滝夜叉丸の心を慰めようと努力する。けれど、結局良い考えは浮かばず、小平太は再び頭を掻きむしる。それを見ていた滝夜叉丸は、どこか「仕方がないな」というような表情で吹き出した。
「……本当に貴方という方は……」
その拍子に滝夜叉丸の目尻から溜まった涙がもう一度零れ落ちる。それを彼女が指で拭う前に、小平太は自分の手のひらでそれを拭った。少し乱暴な手つきで自分の頬をこする手に滝夜叉丸は抵抗するかのように手を伸ばす。しかし、結局その手を振り払うこと引き離すこともないままに、彼女は自分の頬に触れる大きな手を受け入れた。
「――俺は、滝が女で良かったな」
「え?」
「だって、そうでしょ? もし滝が男だったら、今頃きっと家の嫡子として色々勉強したり、準備したりしなくちゃならなかったわけだろ? そうなったら忍術学園になんて来ないじゃないか。そうしたら、今ここに滝は居なかった。――滝は、女に生まれたこと、嫌だと思っているんだろうけど、俺はお前が女で良かったと思ってるよ。
だって、滝が居なかったらできなかった楽しい思い出がたくさんあるもの。滝が男だったらこの学園には来なかったかも知れないのなら、俺は滝が女で良かったと思うよ」
滝夜叉丸は予想外の言葉にぽかんと口を開けた。同時に箍たがが外れたように大粒の涙を零し始める。もうみっともないだとか、泣き顔を見られたくないという思考は働かなかった。ただただ、涙が溢れた。
「ちょ、滝!? ああ、泣かせたくて言ったわけじゃないんだぞ!? ああ、もう、泣くな泣くな、ほら、良い子だから!」
突然にまた泣き出した滝夜叉丸に小平太は慌てる。しかし、彼女の嗚咽は止まることなく激しくなるばかりだ。対処に困った小平太は小さな子どもにするように彼女を抱き寄せ、その背をあやすように叩く。それに滝夜叉丸は小平太の装束にしがみついて泣き出し、彼は尚更に彼女をきつく抱き締めた。
震える身体としがみついてくる腕の強さ、そして何より身体の温かさが愛しかった。小平太は彼女が静かになるまでずっと飽きることなく彼女の背中を叩き、抱き締め続けた。
どれほどの時間が経ったのだろうか、小平太は腕の中で静かになった滝夜叉丸をそっと覗き込んだ。次第に体重が自分へと掛かってきており、嗚咽がいつの間にか消えている。そっと自分の腕を緩めると、泣き疲れたのか自分にもたれかかって寝ている滝夜叉丸の姿がそこにあった。
「……滝?」
本当に寝ているのかと確認するために名前を呼んでみる。滝夜叉丸は小平太の声にうるさそうに顔をしかめた後、甘えるようにその身体にすり寄った。その仕草で本格的に寝ていることを知り、小平太は思わず笑みを零す。立ったまま寝るとは器用なことだが、今はそんなことも気にならない。ただ、自分に全てを委ねて安心しきっているその姿が嬉しかった。
「――明日から、また頑張ろうな」
小平太は涙の残る睫毛にそっと口付けを落として、滝夜叉丸の身体を大切そうに抱え上げた。
「……どうしたんですか、それ?」
小平太が泣き疲れて眠った滝を部屋へと運ぶと、既に在室した綾部 喜八郎が冷え冷えをした目で小平太を眺めた。今まで散々滝夜叉丸へ執着に近い言動を繰り返してきた綾部が大人しいのが小平太には意外であり、同時に怒りと憎悪にも近い視線で見られる覚えがないために思わずドキマギと彼女を見つめた。それに綾部は溜め息を吐くと、肩を竦めてから呟いた。
「――しばらく抱いておいてください。今布団を敷きますから」
「あ、悪いな。頼む」
「別に貴方のためではありません。滝のためです」
言葉の端々に含まれる刺に小平太は苦笑する。ここまで敵意を抱かれるような振る舞いをした覚えはないのだが、何やら随分と恨まれているようだ。やはり滝夜叉丸関連だろうかと思いながら、小平太は小さく溜め息を吐いて自分の腕の中に居る滝夜叉丸を抱え直した。三年生とはいえ、やはり女子であるからだろうか、その体躯は軽い。しっかりと筋肉が付いているはずなのだが、その割に小平太の抱える身体は柔らかかった。
「ここにどうぞ」
「有り難う。服は……」
「私が着替えさせますから結構です」
装束のままで布団に下ろした後、これでは寝苦しいのではないかと気付いて小平太が声を上げると、すぐにピシャリと打つような返事が戻る。それに小平太は苦笑して、仕方なしに滝夜叉丸を寝かせた後にとりあえずで掛け布団を彼女に掛けた。――しかし、あることに気付いてハッと我に返る。しかし、それを彼女に言うのははばかられて、小平太は視線を泳がせた。
「貴方と違って、女同士ですから問題はありません」
「そうか、それなら……って、ええ!? ああ、でもそっか!」
「大きな声を出さないでください。滝が起きます」
さらりと重要な発言をした喜八郎に、小平太は一瞬流した後で驚く。それに更に不機嫌そうに喜八郎が吐き捨て、滝夜叉丸と小平太の間に割って入るように小平太に迫った。
「何なら確認しますか?」
「いや、良いよ、分かるし。そうか、だから滝夜叉丸はあんなにお前を心配していたんだな」
「それもあります。でも、一番は私が好きだからです。そこをお間違えのないよう」
明らかに不機嫌な喜八郎はふんと鼻息も荒く吐き捨てた。それに小平太はようやく彼女の不機嫌の理由に気付く。――要するに、妬いているのだ。滝夜叉丸が人前で眠ることはほとんどない。寝顔を見せるという行為を嫌悪していることもあるのだろうが、それ以上にそこまで他者を信用していないのだろう。それゆえに寝ている滝夜叉丸の傍に居た(しかも、彼女を運んできた)小平太が、喜八郎はとても気に入らないのである。
「……そこまで毛嫌いしなくとも」
「嫌いですよ、私から滝を取って行く人は皆嫌いです」
「取るってお前なあ……」
小平太は少し唇を尖らせる喜八郎に頬を掻いた。それに喜八郎は溜め息と共に呟いた。
「今まで、私たちの世界には私たち以外に居なかった。二人で寄り添って生きてきて、どんな苦難も供に乗り越えてきた。――あの女の策略で変な男が私たちを取りに来た時も、食事に毒が入っていてほとんど絶食状態だった時も、ずっと。
それなのに、今まで私しか信用しなかった滝が誰かを信用し始めた。世界がある程度広がるのは良いことだけれど、置いて行かれるのは嫌。私は滝と一緒が良いのに、滝はどんどんひとりでどこかへ行ってしまう。滝はいつもそうだ。私は共に行きたいのに、滝はひとり先に行ってしまう」
「そんなこと、ないと思うけどなあ」
「嘘吐き」
「何で。――だって滝夜叉丸は、ずっとお前のこと心配しているじゃないか。何か危険なことが起こっていないか、悲しいことがないか、苦しいことがないか、いつだって心配している。置いていく人間にそんな心配しないだろう。先に行くことだってそうだ。
滝はお前が危なくないように、先に行って危険を取り除いておきたいんだろう。委員会でもそうだ。三之助や四郎兵衛に聞いた話だけれど、二人が何か変な場所を見つけた時は、まず滝が先に行くそうだ。そうして安全が確認できてから、後輩を呼ぶ。滝はそういう奴だ。それは喜八郎、お前が一番よく分かっているはずだろう?」
「……当たり前じゃないですか。滝はいつもそう。私を守って先に行く。私は守られたくなんてないのに。――滝と一緒に行きたいのに。私が滝に逆らえないことを知っていて、滝はいつも私を置いていく」
小平太は喜八郎が苦しげに呟いた言葉を聞いて、そっと彼女の頭を撫でた。小さな頭をわしわしと頭巾越しに撫で、小さくぽんと叩く。それに険しい目線を向けた喜八郎に、小平太は穏やかに告げた。
「そう思ってくれることが、きっと滝には嬉しいんじゃないかな。そして、そういう行動がきっと滝を救うんだ。喜八郎の存在がどれだけ滝を救っているかは私には分からない。けれど、分からないほど大きい存在だと私は知っている。それじゃ駄目なのか?」
(駄目ではない。――けれど、私の存在よりももっと価値のある存在が、滝の中でできてしまった)
喜八郎はその返答を心の奥底に沈めた。その〈存在〉に自分の価値がどれだけのものかを知らしめるなど、冗談ではない。そして、それ以上にまだ何も知らないであろう男に少しでも自覚を与えるような真似は避けたかった。少しでも長く、今の状態で居るために。
(もうすぐ、その日が来てしまうけれど。それでも、少しでも長く)
喜八郎は目を伏せて、そっと願う。しかし、すぐに目を上げると目の前の男をぐるりと無理やり回れ右させた。
「お、何だ何だ?」
「――滝を着替えさせますので出て行ってください。滝を部屋まで連れてきてくださって有り難うございました。後は私がきちんとやりますから、どうぞお任せを」
「分かった分かった。分かったから押すなって、ひどいな。――滝が起きたら、明日も委員会活動があるから、ちゃんと準備しておくように! って言っておいて」
「……まだしごくつもりですか?」
「滝が望むのはそういうことだろう? 女扱いは嫌なんじゃないかな」
(――これだから、この男は)
無意識なのか、それとも意識的なのか。とにかく滝の大切な部分をこの男は決して外さない。それがまた喜八郎の癇に障るのだが、それを相手にぶつけても優越を与えそうな気がして、彼女はぐっと言葉を飲み込んだ。部屋の外まで小平太を押し出すと、すぐさまに障子をギリギリまで閉めて顔だけを出した。
「どうもお世話さまでした」
「はいはい、滝に宜しく」
小平太の返事が終わるか終らないかで喜八郎は障子を閉める。その勢いたるや凄まじいもので、小平太は自分がどれだけ彼女に毛嫌いされているかに苦笑した。
(――あれだけ一緒に塹壕堀したのになあ)
どうやら、一緒に穴を掘るだけでは心を通わせることは難しいらしい。小平太は後輩二人のとんでもない秘密を知ったことよりも、彼女たちの新たな一面を見たことに驚きを感動を覚えながら、大きく伸びをして自室の方へと歩き始めたのであった。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『苦悩する君の横顔』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒