鈍行
▼病んだ心
「ほら、滝。今年も新入生がじょろじょろ入って来たよ」
「変な表現をするな、喜八郎。――しかし、もうそんな季節か。早いものだな、私たちも三年生だ」
教室の窓から下を見下ろしていた綾部 喜八郎の言葉に平 滝夜叉丸はくつりと笑った。彼女たちも既に三年に進級し、新しい教室を使用している。顔ぶれは見慣れている人間たちのものだが、そのうちのいくつかは消えていた。――退学したのだろう。去年も一昨年もあったことだ。忍術学園の授業に耐えかねたり、実家の都合で自主退学する人間が毎年出るのだ。そんな中で多分学年の誰よりも厳しい環境に居るであろう自分たちが、こうして今年も新しい教室で笑い合っているということに二人は何だか皮肉なものを感じて更に笑う。
「……今年はもっと厳しくなるだろうな」
「だろうねえ」
「……ああ、幸せな子どもたちが歩いて行くぞ」
ぽつりと校庭を指差した滝夜叉丸は、ひどく複雑な色を乗せた声で呟いた。細い指の先には新入生のくの一たちが歩いている姿があり、これから彼女たちがくの一として共同生活をする上で自分たちの味わった苦労など知らぬままに生活していく様が思い浮かんだ。それに滝夜叉丸は更に複雑な表情を浮かべ、喜八郎に向かって肩を竦めた。
「――後悔しているの?」
「後悔、と言うよりも、愚かだとは思う。――羨ましいと思う癖に後悔をせぬ自分を」
「ああ」
喜八郎は滝夜叉丸の言葉に軽く頷いた。同時に嬉しくも淋しくもなる。
今まで彼女の傍に居たのは自分だけだった。守りたいと感じられるのも、信頼できるのも喜八郎だけ。けれど、この学園に来て、体育委員会に入って彼女は変わった。明るく笑う七松 小平太に引き回されて外の世界を知り、自分が守らなければならないものを増やしたことも理由のひとつだが、それ以上に滝夜叉丸は考え方が広くなったようだ。今まではどこか堅いばかりだったのだが、最近は随分振り回されたこともあってか融通を利かせることを覚えた。それは滝夜叉丸が喜八郎の存在を必要としなくなるということであり、彼女は静かにいつか来る日を思う。――せめてその日が悲しくないと良いと。
「さて、我々もそろそろ行くぞ。どうせまたあの学園長先生のことだ、『新入生に顔見せじゃ!』とか何とか言って、我々を集めるのだろうからな」
「ああ、さっき廊下で松千代先生の声が聞こえてたよ。校庭に集合だって」
「何故それをもっと早く言わんのだ!? ほら、とっとと行くぞ!」
喜八郎の言葉に滝夜叉丸は彼女の腕を引っ掴んで駆け出した。どうやら何度か呼び声が掛かったらしく、彼女たち以外の生徒は既に校庭へと向かっているようだ。その集団の中に見慣れた背中を見つけて、滝夜叉丸は小さく顔をしかめた。
「あいつも残っているのか」
「抜けるとも思ってなかったくせに」
「……私と唯一張り合える奴だからな」
三木ヱ門は二人のそんな会話も知らずに級友と校庭へと去っていく。滝夜叉丸は少し背が伸びた彼の背中を見つめながら、自分が掴んでいる細い綾部の腕と自分の腕を見比べる。塹壕堀をしている所為か、彼女は割合筋肉が付いている。滝夜叉丸も勿論身体付きはがっしりとしてきたのだが、それでも身の幅はさほど大きくならなかった。これからまだ成長するとはいえ、彼女に許された伸びしろはきっと残り僅かだ。それにもやもやとした気持ちを抱えながら、滝夜叉丸は綾部を引きずるように校庭へと駆けて行った。
「今年からくの一教室が併設されんだよな」
「女の子が居るってやっぱ良いよなあ」
あちこちでそんな会話が交わされる中、滝夜叉丸は委員会に行くための準備をしていた。一年生のためのコース設営を頼まれているのだ。元より三年にもなれば体育委員としては一人前。更に滝夜叉丸は二つ上の問題児である七松 小平太を上手く支え、ひとつ下の問題児である次屋 三之助を上手く御した実績がある。体育委員会の平安は彼女が居てこそ保たれているのだ。
それゆえに彼女は三年生でありながら、多分委員会内外において体育委員会の誰よりも信頼されている。特に教員からは実技・教科共に主席ということもあって信頼は一入だ。だからこそ、一年生や二年生など下級生用のコース設営は滝夜叉丸に任されることが多い。――もっとも、それは小平太だとやり過ぎてしまい、三之助はまだそこまで体育委員として育っていないためなのだが。
「滝、行くの?」
「ああ、新入生歓迎用のコースを作らねば。そんなに難しいものを作る気はないし、すぐ戻れると思う」
「分かった。穴掘りが必要になったら呼んで」
「お前に頼むと塹壕が深くなるから遠慮しておく。一年生を穴ぼこに閉じ込めるわけにはいかんからな。――じゃあ、一年の担任と打ち合わせに行ってくるから。ああ、それと。喜八郎、くれぐれも校庭に穴を掘るなよ? 掘るとしたら裏山にしておけ。何なら七松先輩を連れて行ってくれて構わない。邪魔されるよりそちらの方がよっぽど安心だ」
滝夜叉丸の畳みかけるような注意に喜八郎は少しうんざりした顔をした。しかし、彼女がくどくどと繰り言を言う理由を喜八郎は知っている。――知り過ぎるほどに知っているから、何も言い返さずにただ頷くに留めるのだ。そうすれば彼女が安心することを知っているし、何より自分も己の立ち位置を思い出すのだから。
長い髪がゆらりと流れて消えていくのを見送りながら、喜八郎は自分の髪を一房指に絡めた。邸に居た頃はもっと長かったこの髪は、今は男子に見えるギリギリの位置まで切っている。それでも忍たまの中では長い方で、時折物に絡んだりしてうっとうしい思いをしているのだ。滝夜叉丸の指通りの良い髪とは違って、喜八郎の髪は少し癖がある。いっそ切ってしまいたいと思うのだが、それは滝夜叉丸が許さなかった。
――彼女は知っている。いつか自分たちが〈女〉に戻らねばならぬその時が来ることを。どんなに男子の振りをしたところで、彼女たちの性別が女子であることは自分たちが一番よく分かっている。喜八郎は既に女になってしまったし、これからどんどん身体付きもふくよかになっていくことだろう。喜八郎はそれを面倒だとは思っても、嫌悪したことはない。けれど、彼女の主は――。
そこまで考えて、喜八郎は軽く息を吐いた。考えても詮のないことだ。結局、受け入れるしかないのだから。喜八郎は傍らに置いていた鋤を手に取って、大きく伸びをした。滝夜叉丸の言う通り、小平太を誘って塹壕堀にでも行こう。その方が滝夜叉丸も安心するし、コース設営を邪魔されない方が彼女は早く長屋に帰ってくる。次第に女性的な美しさを増していく滝夜叉丸を、喜八郎もまた心配しているのだから。
「……で、喜八郎を潰した挙句に貴方はこちらに来たわけですか?」
「大丈夫だって! 喜八郎は四年の久々知に預けてきたし!」
ひとりで一年生用の落とし穴を掘っていた滝夜叉丸は、聞き慣れた掛け声と共に駆けて来た男に冷ややかな声を向ける。小平太の話は行ったり来たりと聞き取りづらいが、そこは二年と少し傍に居た実績がある、彼女はさっさと言いたいことを把握した。――曰く、一緒に塹壕堀をしていた喜八郎を底抜けの体力で潰した後、通り掛かったひとつ上の久々知 兵助に預け、自分は他の獲物を求めてここにやって来た、と。
「まあ、久々知先輩なら無茶なことはなさらないでしょうが……貴方はもう少し後輩のことを考えるとか、そういうことを覚えた方が宜しいかと」
「んー? いや、だってそれは滝夜叉丸がやってくれるだろ? だから俺には必要ない」
「いや、それは確かにそうですけど……って、違ーう! 全く、貴方という方は……! そうじゃないでしょう! もう五年生なんですから、そろそろ率先して後輩の世話をですね」
思わず納得しかけた滝夜叉丸であるが、慌てて腕を振って否定した。自分が必要とされるのは嬉しいが、滝夜叉丸としては小平太にもっとしっかりとしてもらいたい。そうすれば自分はもっと心おきなく他のことにも目が行くのに。
(――本当に?)
心の中で疑問が浮かぶ。それに滝夜叉丸は自嘲した。――いいや。
こうして彼が破天荒であればあるほど、自分はそちらに目を向けなければならなくなる。それは同時に自分が抱えている悩みを見なくても済むということ。それは滝夜叉丸の中で余りにも好都合で、同時に他者にとっても有益である。お互いに持ちつ持たれつではないか。
「滝、大丈夫?」
「へっ?」
「いや、ぼーっとしているから。そんなに途方に暮れんでも、ちゃんと手伝うぞ?」
自分の顔を覗き込む小平太に滝夜叉丸は少しだけ心拍数を早くした。しかし、彼はそんな彼女のことなど全く気付いていないようで、滝夜叉丸が鋤で掘っていた塹壕をさくさくとまるで砂を掘るかのように簡単に掘り始める。――しかも苦無で。一瞬呆気にとられた滝夜叉丸であるが、すぐに彼が掘り過ぎていることに気付いて小平太を止めた。
「やめてください、一年生用なんですからそんなに深い穴は要らないんです!」
「ええー? それちょっと優しくない? 俺の時はもっとこう、深い穴が……」
「それは多分貴方の身の丈が小さかったからだと思います。――ああ……ほら、もうやめてください。それ以上深かったら一年生が怪我をしてしまいます」
こうなるから手伝いは不要だったのに、と滝夜叉丸は思いながら腹をさすった。ここ二、三日、どうも痛みがあるのだ。大した痛みではないので放っているのだが、どうにも具合が悪い。早く治れと思いながら、滝夜叉丸はふとこの痛みは心痛から来ているのではないかと思った。まだ若い教科担当の教師であり、火薬委員会の顧問でもある土井 半助が確か似たような感じで腹をさすっていた気がする。鋤を地面に刺してその上に腕を置きながら、滝夜叉丸はまた考え事にふけった。
その足元では小平太が渋々穴を少し埋めて、狼穽ろうせいの底をならしている。穴から顔を出した小平太は、ふと至近距離にある袴の股間が赤く染まっていることに気付いた。
「滝、血っ!」
「え?」
「怪我してるって! しかも大事なところを!」
「ええ!? いえ、してませんよ、怪我なんて。痛くないし……――っ!」
小平太に指を差されて滝夜叉丸は袴をつまんで確認した。確かに血が出ているようだ。袴が赤く染まり、血が太ももの方まで垂れている。そこまで考えて滝夜叉丸はあるひとつの可能性に気付いた。それと同時に顔から血の気が引いて行く。悲鳴じみた吐息が彼女の喉から漏れた。
「――あ……!」
「滝……? だ、大丈夫か? い、今保健室連れてくからな! 気を確かに持って、落ち着くんだぞ!」
滝夜叉丸の青い顔をどう勘違いしたのか、小平太自身も何故か真っ青になって彼女を抱え上げた。そのまま小平太は猛ダッシュで保健室へと彼女を連れ込み、ほぼそこに常駐している同学年の保健委員、善法寺 伊作へと滝夜叉丸を差し出した。
「伊作、大変なんだ! 滝夜叉丸の大切なところから血が……! どうしよう、使えなくなったら!」
「小平太、落ち着いて。とりあえず滝夜叉丸は下ろしてね。……滝夜叉丸、とりあえず衝立の奥へ。袴貸すからそこで一度着替えて。大丈夫、ちゃんと手当の仕方を教えるからね。でも、ここでは人がいつ来るか分からないから、僕の部屋に行こう。大丈夫だからね」
真っ白な顔をした滝夜叉丸を突き出された伊作は苦笑しながら彼女を下すように指示する。普段動揺らしい動揺を見せない二人には珍しい光景だ。それだけお互いに衝撃を隠しきれないのだろう、特に小平太は抱えた滝夜叉丸を守るように逆に抱き寄せて首を振った。
「何がどうなってるんだ!? 滝夜叉丸は大丈夫なんだろうな! ちゃんと先生に見せた方が良いんじゃないのか?」
「――いえ、大丈夫です。平気ですから、放してください。伊作先輩、すみませんが袴をお借りします」
小平太が抱き寄せた際に腕に力を込めたため、その痛みで滝夜叉丸が我に返った。まだ血の気の上らぬ顔のまま、彼女はそっと小平太の胸を手で押す。それに小平太がおろおろと滝夜叉丸と伊作を交互に見、滝夜叉丸の瞳が少し落ち着いたことを確認してから渋々と言った様子で腕を解いた。小平太の腕が緩んだところで滝夜叉丸はふらふらしながら衝立の奥へと歩いていき、そこで気力が尽きてへたり込む。その背中を見た小平太が思わず彼女を追おうとしたが、それを伊作が制した。
「駄目だよ、小平太。心配なのは分かるけど、今滝夜叉丸は自分を人に見られたくないはずだ。本当に大丈夫だから大人しくしてて」
「けど、伊作……!」
「大丈夫。――僕が言ってるんだから間違いないよ。それとも、小平太は僕のことが信用できないの?」
「そりゃ信用はしてるけど……! でも、でもさあ!」
「大丈夫。――滝夜叉丸、四年生の袴がそこの箪笥の中に入ってるはず。自分の身体に合うものを選んで。で、下帯の中に手ぬぐいを置いて血が漏れないようにして、それから袴を穿いて。大丈夫、手拭いがあればそう簡単には漏れないから」
伊作は小平太を手振りで抑えると、衝立の向こうに居る滝夜叉丸に声をかけた。幸いにも今は伊作と小平太以外に人は居ない。じきに新野が戻ってくるはずなので、それまでは留守番に小平太を置いておこうと伊作は勝手に段取りを付けた。――滝夜叉丸の顔を見ても、多分その方が良いだろう。
伊作は衝立の奥で静かに衣擦れの音を立てている滝夜叉丸の心情を思いながら、小さく溜め息を吐いた。――これは隠れくの一たちが皆一度は通る道だ。自分も初めて迎えた時は気が動転するどころか失神しかけた。幸いにも同室の食満 留三郎に上の姉が居て、そういったことに慣れていたから無様に正体を晒すことは避けられたのだが……。
そこまで考えたところで衝立の後ろが静かになったことに気付く。伊作はじりじりと自分を見上げる小平太を視線で黙らせ、衝立の奥へと声をかけた。
「着替え終わったかな?」
「……はい」
「じゃあ行こうか。汚れた袴は洗わなきゃならないから、血が見えないように上手く畳んで持って。――小平太、悪いけどもう少ししたら新野先生が帰ってくると思うから、それまで医務室に居てくれる? 多少の怪我なら手当てできるでしょ? ひどい症状の時はひとっ走り僕を呼びに来て。まあ、本当にすぐ先生が戻ってくると思うから、その必要はないと思うけどね」
「俺も行く!」
伊作の言葉に小平太が顔色を変えた。衝立から出て来た今だ顔色の戻らない滝夜叉丸から離れられないと感じているようで、彼女を再び抱き寄せようとする。しかし、伊作が二人の間に割って入って、小平太と対峙した。余り身体の大きくない伊作であるが、こういう時ばかりは誰よりも強い。じっと小平太の目を見つめ、言葉もなく彼を屈服させた。
「……滝、本当に俺が居なくても大丈夫か?」
「――大丈夫ですよ、先輩。大したことはないんです。少し驚いただけで、理由ももう分かっていますから。後は伊作先輩にお願いすれば大丈夫ですから、ご心配なさらず。ここまで連れてきてくださって有り難うございました」
初めて、小平太は滝夜叉丸に拒絶された。いつもなら伊作の場所には小平太が居て、何かと絡まれる滝夜叉丸をその背中に隠すことが常なのだ。それが今はどうだ? ――小平太こそが彼女に距離を求められている。それが小平太にとってはひどく衝撃的な事実だった。
「……滝」
まるで親に置いて行かれた子どものような声が喉から漏れた。それに滝夜叉丸が目を見開く。彼女はするりと伊作の背中から滑り出ると、小平太の眼の前までやってきた。片腕に袴を抱えたその姿は細い。それなのに、小平太は何故か彼女に縋りつきたい気持ちになった。
「大丈夫です。――心配しないで、待っていてください。伊作先輩に手当てをしていただいたら、すぐ戻ります。まだコース設営も終わっていませんしね。だから、そんな顔しないでくださいよ」
頬に伸ばされた手は冷たい。小平太は頬に触れた滝夜叉丸の手を温めるように両手で掴んで、ギュッと握った。その背後に足音が近付く。ハッと小平太が後ろを振り返ると、保健室の扉が開いた。そこには伊作に留守を預けていた新野の姿が。咄嗟に伊作を見遣った小平太に、伊作は溜め息を吐いた。
「……仕方ないな、部屋まではついて来て良いよ。但し、中には絶対入れないからね。――留さんに頼んどこ」
伊作は小平太に睨みを利かせながら呟く。それを見ていた滝夜叉丸はただ目を伏せて、小平太に伸ばしていた手を自分の許に戻そうと引く。それを小平太は引き留めようと手に力を込めたが、すり抜けるように滝夜叉丸の指は手の中から消えてしまった。
「先生。――滝夜叉丸が初花を迎えました」
一方、伊作は新野にそっと歩み寄り、小声で彼に耳打ちする。その言葉を偶然耳に入れた小平太は首を傾げて目の前に居る滝夜叉丸を見下ろす。しかし、滝夜叉丸はどこか泣きそうな顔で目を伏せ、顔を赤くしていた。その様子に小平太は初花の意味を聞くこともできず、困ったようにその疑問を胸にしまった。
「……いさ、どうした?」
「うん、ちょっと。悪いんだけど、小平太連れてしばらくどっか行っててくれない?」
「あー……分かった」
滝夜叉丸と小平太を連れて長屋へ戻った伊作がまず行ったことは、同室の留三郎を部屋から追い出すことだった。普通ならば一方的に出て行けと言われれば怒ってもおかしくはないのだが、留三郎にその様子はない。それどころかちらりと滝夜叉丸を見ると二つ返事で頷き、抵抗する小平太を羽交い締めにしつつ、彼は長屋を去って行った。
その背中を見送った滝夜叉丸は、伊作と留三郎が阿吽あうんの呼吸であることに少しだけ驚く。しかし、自分もまた同室の喜八郎とは(もっとも、彼女と付き合った年数が彼らとは違うのだが)同じような調子であることに気付き、伊作にとっての留三郎が気心知れた相手なのだと知る。男女の垣根を越えても肩を並べて付き合える人間が居るということに、滝夜叉丸は少しだけ慰められた気がした。
「――留さんが気になる? 大丈夫、きっと上手くやってくれるよ」
「それは上手くごまかしてくれるということですか? それとも……」
滝夜叉丸は伊作の部屋に招き入れられながら、囁くように返した。その切り返しは痛烈で、伊作は思わず苦笑を浮かべる。けれど、自分を見る滝夜叉丸の瞳が余りに暗く沈んでいたため、茶化すことはしないで彼女の手を取った。
「それは小平太の出方次第。ただ、小平太は既にたくさんの〈欠片〉を得ているから、自分で答えに辿り着いてしまうかもしれない。その時にどうするかは滝夜叉丸次第だよ。――でも、僕は……小平太はきっと、君を助けてくれると思うよ。だって、可愛い後輩なんだもの」
正直に言えば、伊作は小平太が既に可愛い後輩に向ける以上の感情を無意識でも何でも滝夜叉丸に注いでいることを知っている。けれど、それを伝えるべきは自分ではないし、同時に彼女自身が小平太に向ける感情を明らかにするのも自分ではない。それゆえに核心をつかぬままに伊作は滝夜叉丸の言葉を流した。
「――大丈夫、案外何とかなるものだよ。これ、僕が忍術学園ここで暮らして思ったことだけど」
「そうですか」
「信じてないねえ。本当だよ。悩んだって仕方無いって開き直っちゃっただけかもしれないけど」
伊作は自分の言葉を全く受け入れようとしない滝夜叉丸にくつりと笑った。――自分も昔はあんな頑なな子どもだった。それを解いてくれたのは傍に居てくれた仲間たちだ。だからこそ、滝夜叉丸にもいつかきっと分かる日が来る。そして、それを分からせる人間を伊作はたったひとりしか思い浮かばなかった。
「じゃあ、手当の仕方を教えるね」
そんなことを思いながら、伊作は滝夜叉丸に必要なものを取り出してみせる。ゆっくりと手順を追いながら、手当の仕方を披露してゆく。窓から射し込む光が伊作の手元を照らし、その行為がひどく尊いもののように思わせる。それが滝夜叉丸には堪らなく嫌で、できることならば見たくないと気付かれないように長い睫毛をそっと伏せた。――青く澄んだ高い空とは裏腹に、彼女の心はひどく歪んで沈んでいく。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『病んだ心』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒