鈍行


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▼人間ですから



「……先輩、実習ですか?」
「ん? おお、滝か! そう、これからちょっと一週間くらいな」
 ぞろぞろと門から出て行く集団に小平太を見つけて、滝夜叉丸は思わず声をかける。直前に何の知らせもなかったところを見ると、また学園長の突然の思い付きなのだろう。それで突如一週間もかかる実習を行ってしまうというのがこの学園の恐ろしいところだ。普段は穏やかで暢気な気風であるくせに、こういったところはとんでもない。とはいえ、その間の委員会は静かになるだろうと思い、滝夜叉丸は安堵半分で頷いた。
「お気を付けて。無事のお戻りを祈っております」
「おう! 滝夜叉丸も俺が居ない間、三之助のこと頼むぞ!」
「元より。では、いってらっしゃいませ」
 既に二年も後半、大部分が過ぎた。忍術学園の敷地には〈くの一教室〉のための施設が着々と竣工しており、大部分が完成している。くの一教室の敷地には塀をめぐらせて、一応は行き来禁止にする予定なのだそうだ。滝夜叉丸は遠目にその施設を眺めながら、小さく溜め息を吐いた。







 ――先日、とうとう学園長からくの一教室について話があった。隠れくの一たち全員を一室に集めての話で、滝夜叉丸や喜八郎は意外な人が同じ身の上だったのだと驚いたほどだ。それほどまでに彼女たちの擬態は素晴らしく、忍らしいものであったのだと知る。自分も見習わなければ、と思いながら、滝夜叉丸は学園長の話に耳を傾けた。
「えー、諸君らも既に噂で聞いたことがあるかもしれないが、今見ても分かるように我が学園にも女子の生徒がかなり増えた。それゆえに来年度からこの忍術学園にも〈くの一教室〉を開設することに決めたのじゃ。既にその施設も大部分が完成し、後は生徒を待つばかりとなっている。
 今まで〈忍たま〉として数々の苦労をしてきた諸君らには申し訳ないとも思うが、その不遇もこれで終わりにしたいと思う。ゆえに希望者はくの一教室上級生クラスへの編入を認めよう」
「あの、学園長先生。上級生クラスとは? それに、希望者って……」
 学園長の話に真っ先に手を上げたのは伊作である。彼女の困惑した表情に学園長は頷き、続ける。
「うむ。併設するにしても、どうしてもくの一志望者は男子に比べて絶対的に少ないからな。それゆえに基礎を知らぬ新入生たちを集めた新入生クラスと、基礎ができているお前たち上級生と受け入れた編入生たちを集めた編入生クラスの二クラスでしばらくはやっていこうと思っておるのじゃ。どうしてもクラス内で差は出ると思うが、それでもくの一としての修行は皆やったことがほとんどないからの。まあ、上級生は下級生を見守り、下級生は上級生を見習って上手くやっていくが良かろう。
 さて、伊作の質問に答えよう。先程の話に希望者、と付けたのはだな、――やはり上級生の中には何年も同じ仲間、それも生死を共にしてきた仲間と離れたくない、という人間もおるじゃろうし、今さら〈くの一〉としての腕を磨くよりも、男と同じく働きたいという人間もおるじゃろうからの。それゆえにくの一教室移動に関してはお前たちの任意とする。よく考えて決めよ。
 しかし、この場に居る生徒に限っては、くの一教室への途中編入も認めることとする。……忍にとって途中の翻意はご法度なのじゃがな、今まで苦労させてきたこともある、お前たちだけは特別じゃ」
 学園長の言葉に次第にざわめきが部屋中に広がる。隠れくの一の面々は傍に居る者とお互いに顔を見合せ、ひそひそと話し合った。しかし、滝夜叉丸と喜八郎はお互いに顔を見合わせるばかりで何も言葉が出てこない。もっと正確に言えば、喜八郎は何かを話しかけようとしているのだが、滝夜叉丸が険しい顔で黙りこくっているために会話の糸口が掴めないのである。喜八郎は結局この場で彼女と話し合いをするのを諦め、小さく溜め息を吐いた。



「……滝はどうするの?」
「そうだな……喜八郎は?」
 自室に戻ってきて、喜八郎は開口一番にそう尋ねた。それに滝夜叉丸はどこか遠い場所を見ながら応じ、代わりに質問を返した。喜八郎は自分を見ていない滝夜叉丸の方に視線を向ける。
「滝と一緒。滝がくの一教室に行くなら一緒に行くし、こちらに残るのなら残るよ」
「そのように主体性のないことでどうする。お前はもっと自分で考えろ」
「考えてるよ、失礼な。――考えた上で、滝と一緒が良いって言ってるの」
 滝夜叉丸はその言葉に小さく眉をひそめた。今度はしっかりと彼女の方へと向き直って、滝夜叉丸は姿勢を正す。それに喜八郎も姿勢を正して向き直り、お互いに正座で対面する形となった。
「お前は私と一緒が良いと言うが、今ここに居る限りは身分は関係ない。ゆえに私とお前も主従ではないのだ。だから、わざわざ私に合わせる必要はどこにもないんだぞ、喜八郎。――今ここに居るのは〈平 滝夜叉丸〉と〈綾部 喜八郎〉なのだから、お前はお前の道を行けば良いんだ。
 正直なところ、私はお前にあちらへ編入してもらいたいと思ってる。その方が今よりぐっと危険は減るし、行き来ができないならば安全になるからな。授業内容はまだ分からんが、それでも今よりずっと楽にはなるだろう。……わたくしは、お前がわたくしの所為で苦労をするのは見たくないのだ、分かっておくれ」
 滝夜叉丸の言葉に喜八郎はぐっと唇を噛んだ。――そんな言い方は卑怯だ、と強く思う。けれど、彼女は同時にその言葉に抗えない自分も知っていた。どうにかして反論したいと、必死で言葉を探す。そうして出た言葉は随分と短いものだった。
「それは滝だって一緒じゃない」
 その言葉に滝夜叉丸は淡く苦笑した。目を伏せて、小さく頷く。
「分かっている。だから、私も迷っているんだ」
 くの一教室が最初からあれば、迷わずそちらに入っていた。それは滝夜叉丸にも断言できる。――だが、今彼女は知ってしまった。この学園で生きるということを。学園の生活は厳しく楽しいもので、今まで御簾の奥に隠れているしかない滝夜叉丸にとっては新しい世界の始まりだった。同時にたくさんの人と会話をすること、顔を合わせること、自分の足で走ることなどを覚えた。そして、それは〈忍たま〉として過ごしてきたこの二年間に集約されているのだ。
 そこまで考えて滝夜叉丸は自嘲した。
(本当は違うだろう?)
 彼女の脳裏に映るのは、太陽のように笑う男の顔。入学して委員会活動が始まった時からずっと一緒に活動してきた。大抵は小平太の余りにも過剰な体力に引きずられ続けた滝夜叉丸だが、彼に助けられたことも何度もある。同時にあの苛烈な委員会活動をこなすことによって随分と体力的に身体能力的にも学年随一の実力を手に入れることができた。それは常に上を目指す滝夜叉丸にとっては願ってもないことで、彼について行けばそれが達成できる気がしていた。
 同時に心に芽生えたのは、憧憬に近い感情。何事も気にしないという点では大雑把とも言えるが、逆に全てを受け入れる度量が彼にはあるということ。人懐こい性格で人に嫌われる傾向の強い(もっとも、それは彼女がそう意識しているということも挙げられるのだが)滝夜叉丸にくっ付いて来て、いつの間にか彼のことを受け入れることが当たり前にしてしまった。小平太の人間としての大きさに滝夜叉丸は憧憬を覚え、そして女子として惹かれたのだ。
 ――傍に居たい、離れたくない、そう強く思う。そうして、それが余りにも無謀で愚かであることを滝夜叉丸は自覚していた。愚かな一時の気の迷いに過ぎないかもしれない恋情で、己を滅ぼそうと言うのか。くの一教室に行くのが利口で、常識だ。けれど、どうしても踏ん切りがつかない。そこまで考えて滝夜叉丸は瞳を伏せた。
「……まあ、まだ時間はある。お互いにゆっくり考えよう。幸い、途中編入もありだって話だしな」
 喜八郎にも告げられぬ想いを隠して、滝夜叉丸は淡く笑いながら呟いた。喜八郎もそれに渋々ながらも頷き、再びお互いに考え事に没頭していく。二人で居ながら沈黙する空間は珍しくない。しかし、滝夜叉丸に甘えるようにすり寄ってくる喜八郎に、彼女もまた様々な不安を抱えているのだと滝夜叉丸は気付いた。







「――七松先輩が居ないと静かですねえ」
「まあ、あの方あっての体育委員会だからな」
 委員会活動も常の活動に覇気がない。不運組の人間は小平太をある程度満足させるために組んでいる活動内容がないために喜んでいるようだが、根っからの体育委員となってしまった滝夜叉丸と三之助にとってはそれではどこか物足りない。どこか元気のない三之助の頭を小突いて、滝夜叉丸は彼に言う。
「だからと言ってだらけていては後で七松先輩に怒られるぞ。あの方が居ない間に少しでも体力を落としてみろ、後が地獄になるからな」
「うへえ……」
「そうなりたくなければ、少なくとも通常の活動内容はこなさなければならない。ほら、縄持て。裏々山までマラソンするぞ。それが終わったら明日三年の実習で使う塹壕や狼穽(ろうせい)を掘らなければ。分かったら行くぞ」
 滝夜叉丸は三之助に淡々と一日でこなさなければならない仕事を示してみせる。普段は体力が無尽蔵とも思える小平太を満足させるべくあちこち遊び回る(?)ことの方が多いが、それ以外にもやることはたくさんあるのだ。傍から見れば活動内容が意味不明だと思われている節のある体育委員会だが、実際には実習時の罠の設置などの手伝いもその活動の一環なのである。――もっとも、小平太の場合はバレーでもマラソンでも勿論塹壕堀でも遊びに近いものがあるのだが。
「七松先輩が居なければだらけている委員会だとは思われたくないだろう。三之助、しっかり縄を持ったな? では先輩、参りましょう」
 滝夜叉丸は甲斐甲斐しく三之助の世話をしつつも、自分たちを待っている上級生たちに声をかけた。それに彼らは一様に頷き、走り出す。滝夜叉丸もそれに続いて縄を引きながら走り出した。勿論、その縄は三之助が迷子にならないようにするために苦肉の策で考え出したものである。
「七松先輩、早く帰ってきたら良いのに」
「……実習なんだ、仕方あるまいよ。――ほら、お前は余所に意識をやっていられるほどじゃないだろ。飛ばすぞ」
「へーい」
「返事は『はい』だ、馬鹿タレ」
 三之助の呟きに思わず同意しそうになった滝夜叉丸であるが、その言葉を飲み込んで彼を諭しにかかる。その違和感に三之助は気付かなかったようで、気の抜けた返事をした。それに彼女はいつものごとくに叱責を飛ばした後、それ以上その話題が出ないように少しだけ速度を上げた。



「――今日は泥だらけじゃないんだ」
「七松先輩がいらっしゃらなければ、活動は平穏なものだからな」
 部屋に戻ってきた滝夜叉丸に喜八郎が声をかける。それに滝夜叉丸は髪を払って胸を張るが、その後にがっくりと溜め息を吐いた。――何せ、泥だらけじゃないのか、と尋ねた喜八郎こそが泥だらけの装束を持っていたからだ。これから洗濯に行くらしく、別の装束に着替えている彼女を滝夜叉丸は呆れた様子で眺める。
「そういう喜八郎こそ、また穴掘りか。塹壕か落とし穴かは知らんが、程々にしておけよ。時折保健委員から――というか、伊作先輩から苦情が来るからな」
「きちんと目印置いてるのだけれど」
「置いていてもはまってしまうのが保健委員なのだろうよ。それに前々から口を酸っぱくして言っている通り、お前は狙われやすいんだから気を付けなければ。何かあった時にすぐ私が駆けつけられるとは限らんのだぞ」
「大丈夫、私だってもう二年生だよ。さすがに逃げるくらいならひとりで大丈夫。それにね、最近は助けてくれる人が増えたから」
 喜八郎の言葉に滝夜叉丸は軽く眉を上げる。基本的に人と関わり合いになりたがらない喜八郎なので、自分から知り合いを増やしたというのは驚きだった。
「へえ、誰だ?」
「一学年上の不破 雷蔵先輩と鉢屋 三郎先輩、それから久々知 兵助先輩に竹谷 八左ヱ門先輩」
「不破先輩と鉢屋先輩は何となくわかるが……久々知先輩と竹谷先輩は一体……?」
 滝夜叉丸の疑問に喜八郎はこっくりと頷いてから答えた。
「前に火薬庫の前で掘っていた時に絡まれたんだけど、その時に助けてもらったの。それ以来、火薬庫付近で掘っているとよくお会いしてね、時々お菓子をくれたり、お話したりするんだ。竹谷先輩は久々知先輩のご友人でね、偶々絡まれてるところを久々知先輩と一緒に助けてくれて、それから何かと助けてくれるの」
 喜八郎の言葉に滝夜叉丸は額に手を当てて沈黙した。――ほぼ絡まれてるんじゃないか、という突っ込みがしたいのを懸命に堪えて、彼女はそうか、とだけ呟く。それに喜八郎は少しだけ表情を緩めて頷き、腕に抱えた装束を洗ってくると部屋を出ていこうとした。
「待て、喜八郎。私も行く」
「そう?」
「ああ、洗いたいものがある」
 滝夜叉丸は手ぬぐいを二、三枚取り出してくると、自分を待つ喜八郎の後へと続く。喜八郎をひとりで水場までやることに危機感を感じているのは勿論のこと、今はひとりになりたくなかった。
 井戸の近くは既に人気がなく、時間がかかる洗濯を誰にも気兼ねせずにするには幸いだ。二人はそれぞれ(たらい)を取り出して水を汲み、喜八郎は泥だらけになった装束を、滝夜叉丸は手ぬぐいを浸した。灰汁(あく)を使って足で踏んだり、手でこすったりして汚れを落としていく。二人とも本来なら洗濯をするような身分ではないので初めは苦労したが、今では他の生徒と同じようにこなすことができるようになっていた。
「あれ、喜八郎? 何やってるんだ?」
「久々知先輩」
 薄暗い井戸端でえっちらおっちら洗濯をする二人にかかったのは明るい声。振り向けば一級上の兵助が不思議そうな顔で二人を眺めている。久々知の声に先に反応したのは喜八郎の方で、彼女は足踏みをしたまま「洗濯です」と告げた。それに兵助が少しだけ固まった後に、どこかぎこちない様子で頷き、二人の傍へとやって来た。
「そうか、あれだけ汚れれば洗わなきゃまずいよな。そこまで気付かなくて悪かったなあ」
「いえ、別に」
 二人の会話の意味が分からない滝夜叉丸が首を傾げると、喜八郎がぐるりと振り返って言う。
「今日も塹壕を掘っている時にお会いしたの。泥まみれで擬態してたところにお会いして、叱られた」
「泥まみれで擬態って……何をしているんだ、お前は」
「絡まれたくなくて、穴の底で泥をかぶったんだよ。じっとしているのって嫌いではないけど、土の中では楽しくないね」
「当り前だろうが! ……何もなかったんだな?」
「なかったよ。その後に久々知先輩とお会いして、驚かれた」
 喜八郎の淡々とした物言いに一瞬流しそうになった滝夜叉丸であるが、その内容に気付いて慌てて怒鳴りつける。探るように彼女の無事を尋ねると、喜八郎は同じく淡々とした様子でこっくりと頷いた。更にその後に続いた言葉には呆れ返ったが。
「そりゃ驚くさ。穴の中で泥だらけなんだから。いくら土遁とはいえ、あんな土の乗せ方じゃ窒息する可能性だってあったんだぞ。気を付けないと」
 久々知も同じく呆れながら、喜八郎の頭を小突く。それに喜八郎は嫌がる様子もなくなすがままになっているのに驚き、滝夜叉丸は少しだけ目を見張った。そんな滝夜叉丸に久々知が気付き、少しだけ困った顔を浮かべた。滝夜叉丸も一瞬どうすべきか困惑したが、しかしすぐに口を開いた。
「どうも先輩に喜八郎がお世話になったようですね。コレを助けていただいて有り難うございます」
「ん、うん、いや、別にお礼を言われるほどのことをしたわけじゃないから……。先輩として後輩を助けるのは当然だろ?」
「――それでも、お礼を言わないこととは関係ありませんよ。何より、喜八郎はどうも絡まれやすくって。久々知先輩のお蔭で何事もなかったようで、私としても安堵いたしました」
 滝夜叉丸の言葉に久々知は少しばかり戸惑った顔を浮かべたが、軽く手を上げて困ったように笑って応じる。喜八郎はそんな二人のやり取りを意に介さずに、じゃぶじゃぶと足踏みで洗濯を続けていた。滝夜叉丸はそんな喜八郎の頭を軽く小突き、眉間にしわを寄せて彼女を睨み付ける。
「こら、先輩の前で無礼だろう。ちゃんとお礼は申し上げたのか? もう二年になるのだからきちんとしろ」
「言ったよ。ねえ、久々知先輩」
「え? あ、ああ、聞いた。喜八郎はお前が思っているよりもしゃんとしているから、滝夜叉丸もあんまり目くじら立てるなよ。――じゃ、俺はそろそろ行くから。お前たちも急がないと夕飯がなくなるぞ」
 久々知が話を切り上げて去っていく背中を見つめる喜八郎に、滝夜叉丸は少しだけ違和感を覚えた。しかし、それが何だか分からない間に喜八郎は再び洗濯へと戻ってしまい、滝夜叉丸も自分の中でもやもやとした気分を抱えながら洗濯へと戻る。
 その感情が何か、彼女は既に気付いていた。――嫉妬だ。滝夜叉丸は小平太ともう何日も会っていないのに、喜八郎の傍には可愛がってくれる先輩が居る。それが余りに理不尽な嫉妬だと分かっていたために滝夜叉丸はその感情を心の奥底に押し込めて、抑え切れずに零れてしまった鬱憤は手ぬぐいへと向けた。その背中を喜八郎は足踏みしながらじっと眺め、その後に制服をすすぐべく新しい水を汲んだ。



(……まだ実習から戻られるまで後一日なのに、こんなにも待ち遠しい)
 風呂から上がった滝夜叉丸は文机に向かいながら溜め息を吐いた。――実習で離れるというだけでこんなに耐えがたい苦しみがあるのに、自分がくの一教室へと編入して傍に居られなくなったのなら、その苦しみはいかほどになるのだろうか。滝夜叉丸は目を伏せてからもう一度溜息を吐く。そこに布団を敷いていた喜八郎の声がかかった。
「滝、寝ないの?」
「いや、私ももう寝る」
 滝夜叉丸は文机の上に置いていた勉強道具を片付けて、同じく布団を敷くべく立ち上がった。喜八郎の布団の隣に布団を敷き、寝具を整える。いつも通りに入口に簡単な鳴子と罠を仕掛けた後、既に寝ころんでいる喜八郎と同じく布団へと入った。
「……ね、滝。結局どうするつもりなの?」
「どうするつもり、とは……?」
「編入」
 滝夜叉丸は先程までの考え事を見透かされたような気がして、心臓がドキリと跳ね上がった。喜八郎は薄暗がりの中で滝夜叉丸へと手を伸ばし、彼女の手を握った。繋いだ手に嘘は通用しない。喜八郎が逃げるな、と目で訴えるのに、滝夜叉丸は深い息を吐いた。
「……常識で考えるならば、編入すべきだと分かっているんだ。その方が利口で、己の身の安全を図るには最適だと。けれど……」
 滝夜叉丸はそこで言葉を止めた。目を伏せれば思い浮かぶのは明るい笑顔。――想いを伝えられなくても良い。ただ傍に居られるだけで幸せなのだ。
「――七松先輩のこと?」
「!?」
 喜八郎の一言に滝夜叉丸は息を飲む。それに喜八郎はくつりと笑って、滝夜叉丸の手を握る力を強めた。
「分かるよ、そりゃ。だって、先輩と居る時の滝の顔は全然違うもの」
「全然違う……とは?」
「とっても楽しそう。家に居た時はあんな笑顔ほとんどしなかった。――好きなんだね、七松先輩が」
 喜八郎の穏やかな言葉に滝夜叉丸はもう片方の腕で目元を覆った。深く深呼吸をしても、泣きそうな気持になる。それを悟られたくなくて、滝夜叉丸はしばらく黙っていた。
「一時の感情で決めてはいけないと分かっている。いくら編入ができると言ったって、一度決めてしまえばきっと決意を翻すのは難しくなるのだから。こういった感情で己の進退を決めるなどは愚かの極みで、お前を道連れにすると分かっているのだから尚更そうだ。だが、だが……お傍に居られるだけで良いんだ。他には何も望まないから、ただお傍に居たいんだ。こんな気持ちになるなんて、知らなかった。知りたくはなかった。私の意志で物事が決められないなんて、恥ずべきことだ」
「そうかな」
 どこか震えている滝夜叉丸の声に、喜八郎は穏やかに繋いだ手を揺すった。その宥めるような振動が滝夜叉丸に伝わり、彼女もまた喜八郎の手を握り返す。喜八郎はそれに寝返りを打って、両手で彼女の手を握った。
「私はそれで決めても良いと思うよ。――だって、私もまだ行きたくないんだもの」
「喜八郎……?」
「知りたい人が居る。知りたいものがある。――そして、それはこの場所でしかできないことだから」
 滝夜叉丸は寝返りを打って喜八郎へと向き直る。既に闇に慣れた瞳は、隣で自分を真っ直ぐ見詰めている綺麗な瞳を捉えた。同じく滝夜叉丸ももう一方の手を喜八郎の両手に添える。
「……ひとつだけ、とんでもない愚かな我儘を言っても良いだろうか?」
「どうぞ」
「――ここ(・・)に残りたい。せめて、あの方が卒業するまで」
「うん、私も残る。やりたいことがあるから。――滝に付き合うんじゃないよ、自分の意思で残るんだ。それなら問題ないでしょ?」
「……私もお前も大馬鹿だ」
「知ってるよ。でも、やりたいことをやらないで我慢したら、またあの屋敷に居る時と一緒じゃない。今は屋敷に居るんでもなくて、身分も関係ない所に居るのだもの。こういう時ぐらい好きにしたって良いんじゃない? 私たちは今道具じゃない。人間なんだもの。それくらいは許されるよ」
「……そうだな。喜八郎の言う通りだ」
 滝夜叉丸は喜八郎の言葉に頷いて、ギュッとその手を握り返した。喜八郎も同じく滝夜叉丸の手を握り返し、二人はそのままの体勢で眠りに就いた。



「――滝夜叉丸と喜八郎は残留、じゃな?」
「ええ」
「はい」
 翌日二人で出しに行った進路希望書に目を通し、学園長は探るような視線で二人に尋ねた。それに二人は揃ってはっきりと返事をし、強気な笑みを浮かべた。
「一応は理由を聞いておこうか」
「いくらくの一教室が併設されるとはいえ、編入なんて余りにも今更過ぎます。既に私は〈忍たま〉として二年近く生活してきているのです。この間に様々なことがありました。やろうと思っていたことも、やり残したことも多すぎる。これでは編入などできようはずがありません。私でしかできない役目もありますしね。――ですから、私はこちらに残留いたします」
「私は滝と一緒じゃないと駄目なんです」
 胸を張って滝夜叉丸は建前を答えた。本音と建前の使い分けなら幼い頃から慣れている。更に半分以上は本音であるために、その理由は尚更にそれらしく聞こえた。それに追随するように喜八郎が彼女の腕にしがみ付き、学園長に向かってそのガラス玉のような瞳を向ける。二人の様子を確かめた学園長は重々しく頷き、二人の提出した書類に一筆署名を入れて認可した。
「――宜しい。では、その通りに」
「「有り難うございます」」
 二人は揃って学園長へと頭を下げ、お互いに顔を見合わせる。その笑顔は晴れやかなもので、明るい様子で部屋を辞する様子を学園長は笑みと共に見送った。
「……雷蔵に続いて滝夜叉丸と喜八郎も残留か。孫兵もどうやら残留のようじゃし、他にも何人か出てきそうじゃのお……。自ら茨の道を行かんでも良いとは思うがしかし……いざという時にはやはり女子の方が強いものじゃな」
 学園長は二つある文箱の一方に雷蔵の進路希望書に続けて、二人の希望書をその上に丁寧に重ねてしまい込む。――彼女たちの前途は編入を決めた隠れくの一たちよりもずっと険しいものになるだろう。けれど、不思議と今までと同じように笑顔で越えていってしまいそうな強さが彼女たちの芯にはある。それを学園長は感じ取り、いずれ彼女たちが卒業する頃には男たちよりもずっと頼もしい忍になっているかもしれない、と考えて笑った。
 空は青く晴れ渡っている。――そろそろ実習に行っていた四年生が戻ってくる頃だと学園長は高い空に視線を投げた。



「おー、滝に喜八郎! たっだいまー!」
「七松先輩! お帰りなさい、今お戻りですか」
「そう、今お戻りなのよー! 元気だったかー?」
「それはこちらの台詞ですよ、お元気そうで何よりです」
 滝夜叉丸たちが学園長の部屋から学園の庭へと戻ってくると、大声で名前を呼ばれた。振り返ると砂ぼこりにまみれながらも笑顔の小平太が二人に向かって手を振っている。滝夜叉丸はそれに笑顔を浮かべて、彼の許へと駆け寄った。小平太はと言えば滝夜叉丸の頭をぐしゃぐしゃと撫で、常と変わらぬ明るい笑顔を浮かべる。
「俺が居ない間、委員会をさぼったりはしてなかっただろうな?」
「当然です。先輩方としっかり活動いたしましたとも! この優秀な滝夜叉丸を甘く見ていただいては困ります」
「あはは、そっかそっか! よしよし、良い子だ!」
 小平太の問いに胸を張る滝夜叉丸の頭を彼は尚更に掻き混ぜた。頭巾越しとはいえぐちゃぐちゃになる髪の毛にさすがにその手から逃げ出した滝夜叉丸だが、小平太はその滝夜叉丸の頭を抱き込んで更に掻き混ぜた。
「それでこそ滝夜叉丸だ! うむ、さすがは花形委員会期待の星!」
「そうでしょう、そうでしょう! やっぱり体育委員会には私が居ないと駄目なんですよねえ!」
 ぐちゃぐちゃにされながらもどこか嬉しそうな滝夜叉丸に喜八郎は少しだけ唇を尖らせる。それに小平太が気付いて、彼女もまた引き寄せてその頭を撫でた。
「喜八郎も塹壕をたくさん掘ったらしいな! よし、えらいえらい!」
「やめてください、髪が乱れます」
 小平太の魔の手から喜八郎はさっと逃げる。それにも小平太は機嫌を悪くすることはなく、からからと笑っていた。その笑い声を聞きながら、滝夜叉丸はようやく自分の日常が戻ってきたことを知る。それに誰にも気付かれないように少しだけ笑みを浮かべた後、彼女は小平太の腕から抜け出して常と同じく強気で晴れやかな笑みで笑った。
「――さあ、また明日から大変だ」



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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『人間ですから』
お題提供:それでも僕らは今日もまた 己の生を紡ぎ 歩いていく



鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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